夏の雨は粒が大きく、地面を叩く音も鋭い。特にコンクリートに落ちると、水滴が砕ける音は一際大きくなる。そんな自然と人工物が紡ぐ音楽を大きなガラス窓越しに聞きながら、道化師は憂鬱に浸っていた。
(やっぱり、もうすぐ霧が出るな。有里君も今日からこっちに来るって言うし)
ジュネスのエレベーターホールで雨を避けながら、足立はスマートフォンで天気予報を確認していた。それによれば、今日に続いて明日9日も一日中雨。そして明後日、10日の未明に霧が出ると予報されている。有里はそれに合わせて、今晩稲羽に来る予定である。そして明日の24時に集合するようにと、足立たちに連絡している。もっとも集合が明日の夜ならば、有里が来るのは明日の昼間でもよいのだが、万が一予報が外れて明日の朝に霧が出たりするとまずい。だから念の為に一日早く来ることにしているのだ。
ともあれ、先月5日に続いて二度目となるシャドウワーカー稲羽支部の戦いが近づいてきた。副支部長である足立は当然作戦に参加しなければならない。どれだけ気乗りしなくても、立場上やらないわけにはいかない。日常の刑事の仕事は面倒に思っているが、非日常の特殊部隊員としての仕事はその上を行っている。
(今度は何が起きるんだろう?)
憂鬱になるのを止められない。先月は銃を好きなだけ撃てる仕事を面白く感じたものだったが、今はそんな気になれない。報酬が破格であることも関係ない。なぜなら──
「足立さん、こんにちは」
「あれ? あー……小西君か」
先月から稲羽支部に新加入した、この少年がいるからだ。偶然か必然か、それとも神様か何かの皮肉なのか。足立の憂鬱の原因となっている悲劇の少年本人が、憂鬱の最中にやって来た。
二ヶ月ほど前に足立はここで悠に会っている。片田舎の八十稲羽では、ジュネスは単なる商業施設の枠を超えて、一種のテーマパークのようなものである。地域随一の集客力を誇っているのだ。ただそこにあるだけで人を呼び寄せる。だからここにいれば知り合いと出会ってしまうことに、何の不思議もない。
「サボりですか?」
だが尚紀は悠より手厳しい。造作が全体的に細い顔を、生意気な皮肉っぽい形にする。
「あー、イタタ……」
足立は寝癖で髪があちこち跳ねた頭を、音が立つように大袈裟に掻いた。普通の高校生相手ならともかく、尚紀には『仕事中だよ』と言っても通用しない。痛いところを突かれたと、苦笑して『見せる』しかない。だが尚紀はまた笑う。ただし今度は皮肉を抜いて。
「いいんじゃないんですか? 霧が出てなきゃ、しょうがないですし」
山野と早紀の死は殺人ではなく獣害事件である。よって普通の警察が行う捜査には、もはや意味がない。意味があるのは、被害者をこれ以上増やさないようにする為の霧の日のパトロールである──
シャドウの存在を知らない世間と違って、尚紀はそう認識している。だから足立が普段の仕事をサボっていようと、何とも思わない。むしろ当然と考える。もっとも刑事の仕事は殺人のような重大事件だけではないので、霧が出ていない日にやることが全くないわけではないのだが、尚紀はそこまで警察の業務に詳しくない。
(生意気なガキだ……)
しかしそんな少年の稚気を足立は咎めない。得意の仮面で憂鬱を隠して、世間話を始めた。
「君は買い物かい?」
「いえ、下見です。集合場所、ここですよね?」
先月5日の未明、三人の大人のペルソナ使いが集合したのは、ここジュネスの駐車場だった。そして明日の夜、三人の大人と一人の高校生の集合を予定している場所も同じだ。
「初めてなんですよ。ここ来るの」
尚紀はエレベーターホールを見回しながら歩いた。リノリウムの床は靴が触れるたびに音を鳴らす。行き交う人の数は、寂れた商店街とは対照的にいつも多い。二基あるエレベーターは繰り返し上に昇っては下に降りてくる。
「そうなの?」
やがて尚紀は窓を背にして立ち止まった。窓と足立の間に挟まる形になる。
「親がうるさいもんで。姉ちゃん、ここでバイト始めてから、よく親父と揉めてました」
ジュネスの進出以来、商店街の他の店と同様にコニシ酒店の経営状態は悪化した。だが早紀はここでアルバイトとして働いていて、父親と対立していた。それは『殺人事件』の捜査関係者なら誰もが知っている。
「お姉さんが……そっか」
「ええ。ここって何でもあって、まるで一つの国みたいだって、姉ちゃん言ってました」
「何でもはないよ」
「ですよね。国って言ったらポートアイランドとか、ああいうのですよね。姉ちゃん、大袈裟だったな……」
そう言う尚紀の顔には微笑みさえ浮かんでいる。死んだ身内の思い出を話しているのだが、それで心や体のどこかを痛めている様子はない。まるで最近に見た、映画やドラマの話でもしているかのようである。完全に世間話をしているという風情だ。4月に慌てふためいて稲羽署に電話してきた、生田目とは対照的に。
被害者遺族にこんなふうに振る舞われると、むしろ足立の方がやりにくさを感じてしまう。
「……」
足立は早紀について、これまで特に考えたことがない。何しろ思い入れが一つもない相手なのだ。酷い話だが、最悪なまでに酷い話なのだが、そうなのである。この町に来て以来、何度かテレビで見ただけの山野の方が、まだ思い入れがある。すると──
「ねえ、聞いていいかな」
「何ですか?」
「お姉さんを殺した犯人が憎い?」
こんなことを聞いてしまった。なぜ聞いたのか、足立自身もよく分からない。表情や言動を自在に操れる道化師のくせに、意図しない言葉が口から出てきた。しかも答えは予想できているのに。意味のない問いと意味のない答えから、何かを探そうとするように。
「……」
世間話をしていた尚紀の顔から、さすがに笑みが消えた。しかしそれに代わる怒りや悲しみも、少年の中からは出てこない。マスコミや近所の住人、そして学校の同級生などに何度も聞かれてきた問いを、思いがけない相手から思いがけない時に繰り返されて、少年はただ困惑してしまった。
(足立さん……そんなの……)
眼前の刑事は、自分を助けてくれた大人の男は、一体何を言わんとしているのか。自分に何を言わせようとしているのか。『犯人』などそもそもこの世に存在しないことを、ペルソナ使いである足立は知っているはずなのに、なぜこんなことを聞くのか──
「いいえ」
足立の心は尚紀にも分からない。『目』の超能力の持ち主にも、本に書かれた文字を読むように人の心が読めるわけではないのだ。しかし理解できない質問の意図を、足立に問い返しはしなかった。ただ首を横に振って、先月に早紀の死の『真相』を知って以来、自分の中で結論付けた事件への気持ちを口にした。
「だって憎みようがないじゃないですか。相手は言葉も喋れない化物なんですから。そんなのに襲われるなんて、雷に撃たれて死ぬみたいなもんです。天災と一緒ですよ」
「そう……」
足立が思わず聞いてしまった問いに対する、尚紀の答えは普通のものだった。猛獣に襲われて、または天災に巻き込まれて、もしくは伝染病にかかって。とにかく予期しない時に予期しない原因で、誰を恨むこともできない形で身内を奪われた者は、その多くがこう答える。こうとしか答えられない。ごく普通の、ありふれた答えだ。聞く前から予想していた通りだった。
尚紀は足立を苦しめるつもりなどない。だから足立は自ら探した。尚紀の言葉の中から、自分を突き刺す何かを。無から有を探した。
(雷か……僕は使えるな)
足立のペルソナは雷を操れる。4月に堂島を助けた時も、6月に尚紀を助けた時も、マガツイザナギは電撃を放った。その色は赤だった。血の赤色だ。悠がテレビの中で使う、青い稲妻とは違っている。なぜか違っている。
(言葉は……どうだろう? そういや僕って、早紀さんとはまともに話してなかったな)
目を閉じて、崖から落ちた4月14日を思い出す。事情聴取の続きと偽って早紀を署に呼びつけた。生田目に言い寄ったの言い寄られたのと、言いがかりをつけた。情欲など感じていなかったのに、相手の顔さえろくに見ていなかったのに、言い寄る振りをした。頭にあったのは硬いレンコンだった。傍目には早紀と話しているようでいて、自分自身とだけ話していた。
あの日、稲羽署の保護室で早紀に言ったことは全てが嘘だった。事情聴取するつもりは初めからなかったし、言い寄る言葉も全て嘘だ。早紀の言葉にも耳を貸さなかった。つまり足立に言葉は通じない。シャドウも言葉は通じない。どちらも同じ『怪物』だ。シャドウとペルソナは本質的に同じものだとは、よく言ったものである。
それは即ち──
(そっか……早紀さんは僕が殺したんだ)
足立は尚紀の言葉から、自らを抉るナイフを見つけ出した。
早紀を殺したのはシャドウだ。現実の霧に蠢くものではなくテレビの中で現れるものだが、それはこの際関係ない。犯人はシャドウ。即ち言葉の通じない怪物。即ち足立透。この事件はやはり『獣害事件』だった──
「足立さん……? 大丈夫ですか?」
瞑目して沈黙を続ける刑事を不審に思って、少年は声をかけた。言葉をかけると、足立は我に返った。
「ん? ああ……大丈夫だよ」
足立は瞼の裏の闇から現実に戻ってきた。すると世界には色があった。ブロックチェック模様の床は白と黒で、エレベーターの扉は赤色だ。食料品売り場の入り口には、オレンジ色の果物の写真のパネルがかけられている。壁のクロスはベージュ色で、窓の向こうでは雨に濡れた街路樹が、緑の息吹を放っている。そして眼前の少年は色白だ。
この子を守らねばならない──
虚無の中から湧いて出てくるものがあった。唐突に。青天の霹靂か、もしくは雨天を切り裂くヤコブの梯子か。
世界を嘲笑う道化師。イゴールにそう評された足立は、『なぜか』尚紀を守らねばならないと思った。理由は分からない。早紀が死んで三ヶ月近くも過ぎた今になって、どうしてそう思うのかも分からない。ただそうせねばならないと、なぜか思ってしまった。差し当たっては──
「尚紀君、言葉には注意して」
悲劇の少年に一歩近づいて、小声で話しかけた。自分の顔から、普段着用しているお調子者の仮面が剥がれるのを感じながら。感じながら、構わなかった。それに代わってどんな顔が出てくるか、それにも構わなかった。ここに鏡がないのが幸いだった。
「化物なんて言ったら変な人だと思われるよ? 僕や堂島さんに言うのは、もちろんいいよ。でも外にいる時は周りに気を付けて」
「あ、そうですね……」
言わせたのは足立なのだが、尚紀はそこを突っ込みはしない。慌てて周囲に視線を巡らせる。近頃は無視していた世間というものが、急に気になりだした。
「それから例のスマホ、持ってるでしょ」
「ええ……」
尚紀はワイシャツの胸ポケットに右手を当てた。シャドウワーカーの情報端末はそこに入っている。足立と堂島もそうだが、ポートアイランドで貰って以来、尚紀はこれを常に持ち歩いている。
「普通に電話したり、ネット見たりするのはいつやってもいいよ。でも例の資料とかは外で開いちゃ駄目だよ。そういうこと、今までしてない?」
「……済みません。やってました」
痛い指摘に、尚紀は思わず頭を下げた。実際の話、一度ならずやっていた。例えば先月23日、マル久豆腐店で盗撮騒動が起きた日、尚紀は惣菜大学で買い食いをしながらシャドウワーカーの資料を読んでいた。道行く人に覗かれはしなかったはずだが、特に周囲に気を配ってもいなかった。
「僕らの仕事は、他人には絶対に知られちゃいけないんだ。情報漏洩の謝罪会見とか開いて、それで済むような話じゃないんだよ? そこんとこ、しっかり覚えておいて」
「はい、気を付けます」
この時、足立と尚紀は互いを真っ直ぐ見つめた。社会で長年揉まれてきた大人が、何も知らない少年にものの道理や、生きていく心構えを教えるように。これから共に戦う仲間でありつつも、はっきりした上下の関係があり、互いにそれを受け入れているように。歴戦の勇士と、それに学ぼうとする少年兵のように。今の二人を見て殺人事件の加害者と被害者遺族であるなどとは、誰にも思えないだろう。
そんな二人の間に割って入る声があった。
「足立さんと……小西?」
「あれ? ああ、君か」
「鳴上さん」
エレベーターホールから見て店の奥にある食料品売り場から、ビニール袋を手に下げた悠がやって来た。街路の少ない八十稲羽では、通りを歩いているだけで誰か知り合いにぶつかる。まして最も人が集まりやすいジュネスでは、二人が三人になっても何の不思議もない。そうして三人の男が一つの場所に、『自然に』集まった。
「足立さん……小西と知り合いだったんですか?」
「うん。事件関係でね」
「なるほど……そうですね」
自然な回答である。足立と尚紀は殺人事件を担当する刑事と被害者遺族なのだから、知り合いなのはむしろ当然だ。仕事から仕事以外の付き合いにまで発展したとしても、特に不自然ではない。
「鳴上さんこそ、足立さんを知ってるんですか?」
「叔父が足立さんの相棒なんだ。うちに来たこともあるし」
「相棒って……もしかして堂島さんですか?」
悠の答えは尚紀にとっては意外だった。林間学校と街角で突き放した先輩が、これから共に戦うペルソナ使いの身内だったとは、意外な繋がりに思えた。もっとも血縁は持って生まれるものだから、他人には意外に思えても全く不自然ではない。
「ああ、叔父さんも知ってるのか」
「君たちこそ、どういう知り合いなの」
「高校の先輩ですから」
「なるほど、そうだったね」
愚者と道化師、そして刑死者。三人のペルソナ使いは三人なりに、互いが互いを知っている事情を簡単に話した。そして三人とも三つの繋がりのいずれにも、特別な不自然さを覚えなかった。そうしてエレベーターホールの壁際に、三人は固まって立った。二人だった時の緊張感は去り、普通の雑談が始まった。
「君は買い物かい?」
「ええ、今晩の夕食です」
5月13日にここで会った時もそうだったが、悠が手にしているビニール袋からは食材が覗いている。近頃は作る機会が増え、ついでに腕も上げてきていると、堂島から足立も聞いている。春以来、心労が多くなってしまった堂島にすれば、悠は安心材料だろう。今のところは。
そうやって再び『世間話』をしているうちに、足立は普段の仮面が戻ってきたのを感じた。
「感心だねえ? 僕とか一人暮らしだからさ。夕飯とか面倒なんだよね」
「いつも食べないんですか?」
「全く食べないわけじゃないけど。カップ麺とか適当にね」
一人暮らしの男にはありがちだが、足立の食生活は荒んだものだ。惣菜ばかりだった以前の堂島家と比べても、より良くない。これはそっとしておいてはいけないのではと、悠が感じ出した時──
「あら、透ちゃん!」
降りてきたエレベーターから、誰もそっとしておかない人がやって来た。
「うっわ、見つかった!」
足立は顔を引きつらせた。来たのは透という名前の息子がいるらしい、煮物のお婆さんだ。さすがは地域の住民なら、誰が来ても不思議ではないジュネスである。当初は二人で始まった集まりは三人になり、そしてあっという間に四人に増えた。
「お仕事どう? 頑張ってる? 夕飯は済んだ? また煮物持っていってあげようか?」
「えーっと……」
これまでキャッチボールが成立していたこの場の話は、一方的なものになった。言葉を洪水にしてしまっては相手を溺れさせるのみだ。悠は諸岡の洪水は泳げるようになったが、足立はまだだ。独身の若い男と世話好きな年長者の間に、会話は成立していない。
そして受け止められなかった濁流は、あらぬ方向へと向かうものだ。
「あら、貴方……小西さんとこの息子さんじゃないの?」
「え? ええ……」
流れは尚紀へと向いてしまった。この二人は面識はないのだが、殺人事件の遺族は学校の枠を飛び越えて、町中に顔が売れている。
「こんな所で油売ってちゃ駄目よ。お家、大変なんじゃないの?」
「……」
尚紀は4月以来、主に近所の住人から、つまりは世間と呼ばれるものから、このように絡まれることが多かった。だが先月に転機を経て以降は、世間は眼中になくなった。『真実』を知らない人など、どうでもよくなったのだ。片言も分からない外国語や動物の鳴き声を聞くようなもので、何を言われようと右から左に流していた。その場から立ち去るなりして一方的に話を打ち切ることにも、抵抗を感じなくなっていた。
しかし今は抵抗を感じていた。と言うのも、人の配置が良くないのだ。尚紀は足立と悠とお婆さん、そして窓に四方を囲まれてしまっている。この状況から立ち去るには、三人の誰かを押しのけなければならない。そこまでするには、さすがに勇気が足りていなかった。
「お姉ちゃんの分まで、立派に生きなきゃね」
「はあ……」
久しぶりに受ける世間のお節介攻撃は、少年の神経を苛立たせる。表情や声にそれが出ている。少年自身もそれを自覚しているが、相手は気に留めていない。
(もう止めた方がよさそうだな……)
収まる気配のない言葉の大群に、傍から聞いているだけの悠もさすがに辟易してきた。悠と尚紀の付き合いはまだ浅い。そればかりか、刑死者のコミュニティが築かれた時には背筋が寒くなったものだ。だが絆が結ばれている以上、そっとしておくのは良くないと思えた。しかし──
「お婆さん、その辺にしてくれませんか」
悠より先に、足立が割って入った。その声は冷たく、顔には表情がない。
足立はその場から動いていない。尚紀とお婆さんの間に、体を割り込ませたりはしない。しないのだが、言葉は体以上の効果を発揮した。地の底から湧いてきた突然の堤防に、濁流はせき止められた。『母親』は瞬きをしながら『息子』の側を振り返った。
「彼は見世物小屋の珍獣じゃないんです。好奇心で見るのはよしてください」
「そんな、好奇心だなんて……透ちゃん、酷いこと言わないでよ。お母さん、悲しいわ」
本音が漏れた。だがそれでも足立の表情は動かない。
「透ちゃんもよしてください。僕は足立透です」
尚紀の言葉のナイフは足立が自ら進んで探し出した。だが足立のナイフは探すまでもないものだった。目を背けることも聞かない振りもできないように、明白な形で人を刺す。そして心臓を刺される痛みを無視できる人間など、この世にいない。
「僕は同じ名前の、貴女の息子さんじゃありません」
お調子者の仮面を外した足立に躊躇はない。慈悲もない。『息子』であることを拒絶する決定的な一言でもって、容赦なく『母親』の急所を撃ち抜く。シャドウを殺戮する正確無比な射撃のように、誤りなく。
「とお……」
お節介の濁流はせき止められただけでなく、源流から枯らされた。老女は刺殺や射殺を通り越して、真っ二つに両断されてしまった。口を小刻みに震わせるだけで、息子と同じ名前を最後まで呼ぶこともできなくなった。
「……」
名前を呼べないくらいだから、もちろん文句の一言も言えない。『透』の母親は、元より曲がった腰を更に深く折り曲げて、ふらつく足取りでその場から去った。何とも哀れな姿だが、三人の男は誰も追わない。
「ありがとうございます。助かりました」
哀れな老女が視界から消えてから、尚紀は礼を言った。叩き切られた相手への同情はない。
「ちょっと言い過ぎなんじゃ……」
尚紀とは対照的に、悠は少なからず驚いていた。悠はこれまで足立の軽いところしか見てこなかったから。4月12日に初めて顔を見た時は、胃の中身を戻した挙句に堂島に叱られて、その後も似たような姿を何度も見た。だから『お調子者で気弱そうな若い刑事』という印象しか持っていなかったのだ。だが今の姿は、それとはまるで違っていた。
人は一つの性格だけで生きているものではないと、悠は諸岡から教わっている。だがそれにしても、今の足立はこれまでの印象と違いすぎた。堂島が鬼なら、足立は冷酷なペルソナを持っていたとでも言うべきか。
「んー……ひょっとしたら署にクレームの一つくらい、来るかもしれないね」
言いながら、足立はところどころ跳ねた髪の間に手を入れた。その顔には、いつもの軽い印象が戻っている。
「まあでも、しょうがないよ。僕は結局、あの人の息子さんじゃないんだからさ……」
しかし顔と違って、言葉は軽くない。それでいて、言っていること自体は正しい。
名前が同じなだけで他人になれるのなら、こんなに簡単なことはない。よれたスーツを着替えるように、どんな過去でも容易く脱ぎ捨てられる。だがもちろん現実はそんなに甘くない。たとえ同姓同名の人間とでも、入れ替わることはできないのだ。過去は変えられない。
「そうですね。あのお婆さん、要は寂しいだけなんでしょうけど……」
戸惑う悠とは対照的に、尚紀にそういう素振りはない。
「まあ、気にしなくていいんじゃないですか? きっとまた誰か別の、息子さんの代わりになる人を見つけるでしょうから」
名前が同じなだけでは、何も同じでないのと変わらない。目を背けても現実は変わらない。しかし人が目を背けることを尚紀は気にしない。自分に迷惑をかけない限りは。
「でも……食事はいいんですか?」
「ん?」
「失礼ですけど、あまりいいものを食べてないみたいですから。さっきのお婆さん、煮物とか言ってましたけど……実は助かってたんじゃないんですか?」
独身で一人暮らしの若い男の食生活に、貴重な彩りを与えてくれていたのではないのか。だが足立はそれを尚紀の為に犠牲にしてしまった。悠はそんなふうに思ったのだ。
「ははは、大丈夫だって。煮物食べなくたって生きていけるって。何せ今の世の中、惣菜とかいっぱいあるしね」
足立はジュネスの食料品売り場を横目に見ながら、朗らかに笑った。その顔はもう完全に普段の調子に戻っていた。家庭料理と縁を切った酷薄さは、探しても見つからない。だがそれは単に世間から隠しているだけなのかもしれない。山野の遺体発見現場で出会ってから三ヶ月で、初めて見た足立の別の一面が、別の一面が存在することそれ自体が、悠をもう一歩踏み込ませた。
「何なら、作りましょうか?」
お婆さんに絡まれる尚紀をそっとしておく道を、悠は選んだつもりはなかった。だが足立に先を越されて、結果的には選んだのと同じになってしまった。その代わりと言っては何だが、足立をそっとしておきたくはない。そんな気持ちになった。
「君が僕の家に来て、とか? はは、それ面白いね。でもできれば、女の子がいいなあ……気持ちだけいただくよ」
しかしそんな悠の気遣いを足立は受け入れなかった。いつにも増して冗談っぽく笑いながら。実年齢より若く見えるくらいの、いっそ人懐っこい笑顔を浮かべながら、十歳年下の少年の申し出を辞退した。
「さてと……僕はそろそろ署に戻るよ。君たちも、早いとこ帰んなさいね」
そうして足立は外へ向けて歩き出した。縁を切った人の姿は、とうに見えなくなっている。去った人を追うのでもなく、誘ってきた人に後ろ髪を引かれるのでもなく、極めて自然な足取りでエレベーターホールから去った。田舎町に築かれた喧騒の施設から大人は去り、高校生の少年二人が残された。
「鳴上さんも寂しいんですか?」
そして残された一人は、もう一人に話しかけた。
「え?」
「足立さんに構ってほしいのかなって」
「……違うさ」
「はは……済みません」
高校生たちを置いて、足立は雨が降り続く外に出た。店先の傘立てからビニール傘を取り出し、現代の商業施設と田畑を別つ歩道へ向けて歩き出した。歩きながら傘を開く。しかし開いた傘を頭上に持っていくよりも、ジュネスの庇から出る方が一歩早かった。鈍色の天から下される雨が、跳ねた髪に当たる──
(ん……? 何だ?)
雨に触れた足立は、冷たさ以外の何かを感じた。自分の胃の辺りで何かが動いたのだ。4月の終わりに、霧の中で初めてペルソナを召喚した時と似た感覚だ。しかしあの時の、どうにも耐え難い凄まじい吐き気に比べれば、ごくささやかなものだった。左手を腹に当てるだけで簡単に抑えられる。
出てきたばかりのジュネスを振り返ると、エレベーターホールの窓越しに中の様子が見えた。そこでは尚紀と悠がまだ話していた。一見すると仲が良さげな、しかしよくよく見れば年下の方が年上の方をからかっているようだった。そんな二人の姿を目にした途端、脳裏に閃くものがあった。
(あの坊やか)
これは刑事の勘というものに近いが、厳密には別のものだ。内側から生じた直感ではなく、外から感覚に訴えかけてくるものだ。ただし通常の五感ではなく、ペルソナの感覚に。
(道化師の絆……って奴か)
開いた傘の取っ手を少し強く握ってみた。霧はまだ出ていないが、腕から湧き出る力の強さは何となく普段と違うような気がした。これはつまり、消化に悪い硬いレンコンと縁を切った途端、他のものが胃に凝ったというわけだ。
(ふん……まあいいか)
足立は再び振り返り、ジュネスから離れた。