有里とアイギスの関係が変わったのは、昨年の2月である。もちろんそれ以前から転機は何度もあった。しかし決定的に進展した、と言うか一線を越えたのは、最後の決戦を終えた後だった。
2010年2月1日。十年分積み重なった影時間を『破壊』し、タルタロスを消滅させ、当時の『契約』を果たした翌日のこと。有里の仲間たちは影時間やペルソナに関する記憶を失った。だが有里とアイギスの二人だけは失わなかった。そしてそれは予期し得たことだった。
朝が来て、昼が来て、夜が来る。2月の最初の日は至って平和なもので、何事もなく通り過ぎようとしていた。そして日付が変わる数分前の深夜の時間、有里は寮の三階を訪れた。足音を殺して密かに階段を上り、男子禁制のフロアに忍び込んだ。
「湊さん……どうされたのです?」
目的の部屋のドアをノックすると、目的の人はすぐに白い顔を見せてきた。夜の更けた時間帯だが、開かれたドアから覗く部屋の灯りは点いている。
「影時間が来ないか、一緒に確認しようと思ってな」
有里はそう言うものの、来るかもしれないなどとは思っていない。宇宙の力を手に入れた者として、確信があるのだ。つまりこれは深夜の訪問の口実に過ぎない。嘘を吐かないと心掛けている有里にすれば、自分に許せる限界ギリギリの極めて際どいセリフである。
「……どうぞ、入ってください」
突然の来訪者を咎めるでもなく、アイギスは自室に男を迎え入れた。部屋の中央には巨大な円筒型の装置が置かれている。正面の扉は開いていて、中に設置されたリクライニング型の椅子が外からも見える。対シャドウ特別制圧兵装と称される機械の専用メンテナンス装置だ。
アイギスは昨日までそこで眠っていた。しかしもうこれを使うことはない。装置は椅子に人を座らせても、もう一人くらいなら何とか中に入れそうなほどに大きなものだが、そこへ有里を入れるようなことはしない。部屋の隅に置かれたベッドに、二人並んで腰掛けた。
この部屋にはベッドがあるのだ。昨年の7月下旬、アイギスがこの部屋で暮らすようになってから運び込まれたものだ。しかしそれからすぐ後にメンテナンス装置が運び込まれた為、これまでベッドが使われたことはない。
「……」
初めての使用者を迎えた人間用の寝具は、二人分の体重によって沈み込んだ。そうして深夜に同じ部屋にいる若い男女は、同じ方を向いたまま0時になるのをしばらく待った。
「……」
数分後、有里は上着から携帯電話を取り出して待受画面を確認した。表示されている日付は2月2日に変わっている。時刻は0時1分だ。何事もないまま、明日が来た。何もせず、ただ待っているだけで来た。
「来なかったな」
影時間は来なかった。代わりに未来が来た。有里は携帯電話を上着に戻し、アイギスの側へ顔を向けた。
「ええ」
アイギスも有里の側へ顔を向けた。聖なる時間によって別たれず、自然に日付を跨いだ自然の夜の中で、二人の視線が出会う。
「……」
女の左の肩に男は右手を置いた。男の手は剣と銃を握り慣れて皮膚が硬くなっている。それとは対照的に、女の肩は柔らかい。荒事など一度も経験したことのない深窓の令嬢のように、生まれたばかりの赤子のように柔らかい。先月末まで連日戦い続けた日々の痕跡は、ネジの一本も残さずに失われている。金属の装甲で全身を覆い体内に兵器を隠した機械仕掛けの人形は、人間の女へと変わったのだ。
その女の顔に、男は顔を近づけた。
「今何をしたか……知ってるかい?」
顔を一度離してから、男は尋ねた。
「はい、知っています。人間が親愛の情を表す為にする行為です」
「じゃあこれは?」
男は女の両の肩に手を置き、ベッドに押し倒した。特に力を入れたわけではないが、女は抵抗せず、すんなりと倒れた。覆いかぶさってくる男を、女は瞬きもせずに受け入れる。
「はい、知っています」
「随分と悪趣味だな……」
「それほどでも」
有里は砂漠のような虚無の大地で、深いため息を吐いた。首や背中から力が抜けて、まさしく糸の切れた人形よろしく顎が胸につきそうになる。マーガレットは同じ砂を踏みながら、嫣然と微笑んでいる。しかし有里は視線を足下に落としているので、美しすぎる魔女の顔は見えない。
今日は2011年7月8日。時刻は夜だ。4月末から数えて三度目となる、稲羽への出張の最中である。そして『契約』に従い時の狭間らしき異空間を訪れ、再び過去の情景を見せられたのだ。内容は昨年の2月、妻と初めて関係を持った時の映像だった。覗きと言うか盗撮と言うか、とにかく趣味が悪い。
(まさかとは思うが……寮の監視カメラにマジで記録されていて、そいつを引っ張り出してきたんじゃないだろうな?)
そんなはずはないと思いつつも、不安を止められない。地元に帰ったら桐条グループのサーバーを徹底的に洗い直して、不審な映像がないか検証してやりたいくらいである。もっとも有里自身はコンピューター技術の専門家ではないし、他人に頼むわけにもいかないので、実際に調べるのは無理だろうが。
「彼女は貴方が人間にした……と言うより、人間の体を与えたと言った方が正しいかしら?」
項垂れる有里とは対照的に、盗撮犯、もといマーガレットは悪びれもしない。先月にポートアイランド・インパクトの情景を見せた時と同様、『真実』を容赦なく暴き出す。
「世界を変えることもできる奇跡の力を、貴方はたった一人の為に使った……。そうした理由は、貴方は彼女を愛していたから……。その愛の真実は、彼女は幼い貴方を守ってくれた人……いわば母親のような人だからかしら。客観的に見れば、彼女は貴方を守ったと言うより運命を狂わせたのだけれど」
「……」
有里は足下の砂を見つめたまま黙っている。肯定も否定もせず、暴かれる真実をただ受け止める。嘘を吐かない人間は、辛い真実に対しては沈黙するしかない。だがマーガレットは甘くない。
「でも恨みや憎しみは永続しない……そう言う貴方に聞きたい。人外の存在を、どうして愛せるのかしら?」
(この女は……)
有里は先月にこの場所で、マーガレットに一つの答えを与えた。ならばとばかりに、マーガレットは論点をずらしてきた。恨んでもおかしくない相手を愛するのは良いとして、では『人外』をなぜ愛せるのかと来た。
「今は人間だから……とは言わないでね。彼女が機械だった頃から、貴方は彼女を愛していたはず。それこそ貴方が送ってきた戦いの日々の、最初の一年の頃からずっと」
マーガレットに隠し事はできない。かつての戦いの、その全ての経緯を知っている。知った上で更なる真実を抉り出そうとする。有里は顔を上げ、天を仰いだ。自然の天と違って空も太陽もない、真っ白な虚無を見つめる。そして思う。
(こうなったらもう……深刻に考えるのはよそう。アイギスに知られたら、その時はその時だ)
暴露大会はこれで二度目だ。そして今後、何度あるのかも分からない。ならばとばかりに有里は覚悟を決めた。どれだけ言いにくいことでも、目を背けたいことでも言ってやろうと腹を括った。たとえマーガレットとの『契約』をアイギスに知られたとしても、夫婦の秘密を漏らす羽目になったとしても、もはや構うまいと開き直ることにした。
(大丈夫だ。少しは……いや、猛烈に怒られるかもしれないが、それで夫婦仲が破綻したりはしないさ)
有里のアイギスへの気持ちは単純ではない。その愛も、認識も、行動も。様々なものが複雑に絡まり合い、その結果として現在の関係に至ったのだ。だが過去がどれだけ複雑であろうと、真実は万人に誇れるようなものではなかろうと、有里は現在の自分の気持ちを真実のものと見なしている。そこさえ間違えなければ、優しい妻はきっと許してくれる──
「自然の生命と人工の生命に差はない」
そんな一種の楽観を抱いて、有里はまた一つの答えを示した。
「そう……なるほどね」
答えを受け取ったマーガレットは、元より笑みの浮かんでいた人外の美貌に更なる艶を加えた。
「でもそれが正しいのなら……私と貴方の生命にも差はないことになるわね」
(勘弁してくれ……)
有里は覚悟を決めた。しかしその僅か数秒後に撤回したくなってしまった。この『契約』のルールとして、マーガレットの質問に答える言葉は一度に一言ずつだけだ。そのたった一言を言うごとに、深みにはまっていく気がする。
『ファンのみんな~! 来てくれて、ありがと~ぉ!』
日付が7月9日に変わった瞬間、約一ヶ月に一度の恒例となっている深夜の特撮ヒーロー番組が開始された。今晩のキャッチフレーズは『マルキュン真夏の夢特番! 丸ごと一本、りせちー特出しSP!』だ。古い温泉街によくあるストリップ劇場を模したダンジョンに、水着姿の女子高生が登場した。思いきり鼻にかけた甘ったるい声と、わざとらしい媚態を添えて。
それと対峙するのは、高校の制服を着た男女五人と着ぐるみ一匹だ。季節は夏だが、高校生は全員が上着を着ている。まるで暑苦しい毛皮の着ぐるみに付き合うように。
『お、俺もあんな風だったんか……? うお……こらキツいぜ……』
今日の放送からヒーロー戦隊、もといバラエティ番組のレギュラー、でもなくて自称特別捜査隊に加わった巽完二は、眼鏡をかけた顔を引きつらせた。ちなみに完二の眼鏡は他の四人と違い、サングラスである。黒のオーバルレンズがはめ込まれたメタルフレームタイプだ。元々不良然とした風貌であることと相まってなかなかの面構えだが、あんまりな番組の演出に冷や汗が浮かんでいる。
(うわ……回を重ねるごとに、どんどん酷くなってるな)
自宅のベッドに腰掛けている足立は顔を伏せ、右手で目を覆った。
足立は決して女が嫌いなわけではない。青春と呼ぶべき時代は過ぎ去ったが、未だ二十代の身なのだからまだまだ枯れてはいない。年下の女が嫌いなわけでもない。だがこれはいただけない。清楚なタイプが好きな男にとってみれば、今のマヨナカテレビは面白いどころか、むしろ腹立たしい。
世の大半の男は、服装や発言が過激な女を見れば、何も感じずにはいられない。心の在り処は頭や心臓だけではないのだ。反応してしまうことはしてしまう。だが女を見て情欲を感じることと、その女に惹かれるかどうかは別の話だ。滾り立つものがありつつも、心はむしろ冷めてしまって、女に軽蔑さえ感じる男もいる。今の足立の心境はちょうどそんなところだった。
(アイドルに夢見る奴って、馬鹿だな……)
なお、有里はこの時間には天城屋旅館で既に眠りの国へと旅立っている。同衾する人のいない、一人旅の夜は早いから。だがもし起きていたら、そしてこの番組を見ていたら、足立以上に腹立たしい思いを抱いたことだろう。つい数時間前に、自分自身が主演の大人の映像を見せられたばかりだったから。旅館の有料放送めいた番組に八つ当たりして、テレビに向けて五十口径のマグナム弾を撃ち放っていたかもしれない。
『じゃあファンのみんな! チャンネルはそのまま! ホントの私……よ~く見て! マルキュン!』
「はあ……チャプタースキップ」
足立は目を覆ったまま声を出した。マヨナカテレビは見る人によって見え方が変わる。そればかりか、シーンを選んで見ることもできる。まさに普通のテレビ番組を普通にビデオ録画したように。先月に放映された完二の救出作戦の回で、足立はそれに気付いた。その場で早送りも実践した。そこで今日もやってみた。
『行け! スズカゴンゲン!』
『来て! アマテラス!』
アイドルの狂態をスキップした次のシーンは、特捜隊が有象無象のシャドウと戦う場面だった。高校生ヒーローのアクションに興味のない足立はもう一度スキップしようかと思ったが、聞き慣れないペルソナ呼称によって引き留められた。
画面を見てみれば、千枝は黒地のトラックスーツに白の草摺を纏い、両端に刃を備えた長柄を抱えたペルソナを召喚している。雪子のペルソナは、銀色に輝く羽根飾りで覆われたショールを掲げ、手には細い刀を持っている。4月と6月のマヨナカテレビで見たものは、黄色のトラックスーツと桜色のショールだったはずだ。
(あれ……この子たちのペルソナ、前と違うぞ? 坊やみたいに複数使えるようになったのか?)
悠が複数のペルソナを使うところは、足立はこれまでのマヨナカテレビで見ている。だが特捜隊の他の者たちは、各々一つずつしか使えなかったはずだ。ついでに言うと、シャドウワーカーでは足立や堂島は一つだけで、有里は複数使える。これをワイルドの能力と呼び、上手に使いこなせば他のペルソナ使いとは一線を画した戦力を有し得る。千枝と雪子もそうなったのかと、一瞬思ったが──
『どおりゃあー!』
千枝のペルソナは使用者の掛け声に乗って、シャドウの群れに突撃していった。女武者は長柄をバトンのように激しく振り回し、二本の細長い紐で人型を形作っているシャドウたちを、当たるを幸い薙ぎ倒していく。元よりテレビの中の戦いは一方的になるのが定番だが、これはまさに鎧袖一触だ。
(でも戦い方は変わんないな……あ、もしかして?)
足立はポケットからスマートフォンを取り出した。そして保存されているリンクを辿り、シャドウワーカーの資料の一つを表示させた。内容はペルソナの進化や変容と呼ばれる現象について、過去の実例を元に記されたものだ。それが起きる要因は──
(本人の強い決意、性格を変えるほどの衝撃……)
更には他のペルソナと融合するなど、ちょっと想像がつかない方法についても記されている。だが要因が何であれ、ある時からペルソナが名前や姿形を変え、戦力もそれ以前から大きく強化されることがある。ただしその場合、能力の種類は元と変わらないケースが大半。資料にはそう記されている。
ではこの二人の少女の身に何があったのか。スマホからテレビ画面に視線を戻すと、悠の横顔がそこに映し出されていた。端正なその顔を見ると足立の頭に閃くものがあった。いわゆる刑事の勘という奴だ。
(この子ら、坊やと寝たのか?)
ペルソナ使いが身近にいると覚醒が促される。尚紀が覚醒した際に有里はそんなことを言っていたし、後でシャドウワーカーの資料にも同じ趣旨のことが書かれているのを確認した。だがそれだけではないと足立は思っていた。覚醒するだけでなく、強化もされるのだと。その根拠は、昨日の午後にジュネスで悠と話してから、外に出て雨に触れた際に感じたものだ。
あの時、足立は自分自身の力が上がった感覚を得たのだ。あれから現在まで足立はペルソナを召喚していないが、それでも分かる。自分自身のことなのだから、探知や解析の能力を持っていなくても分かるものはある。力が上がったことそれ自体だけでなく、その要因も分かる。5月に頭の中に響いた声が告げた、道化師の絆なるものの効果によって『足立の』ペルソナが強化されたのだ。
自分が強化された事実。資料で確認した、何らかの要因によってペルソナの姿形が変わるという現象。そしてそれが起きたと思しき二人の少女、里中千枝と天城雪子。これら全てを考え合わせると、千枝と雪子のペルソナの変容は悠に要因があると足立には察せられた。しかも単にお話ししたとかではなく、仲が決定的に進展したのだと直感した。直感しつつ、呆れた。
(いや、若いんだから好きにやればいいけど……二人同時はまずいでしょ、お兄さん)
相手がどちらか一人なら特に問題はない。現代日本では恋愛は自由だ。青少年保護条例というものもあるが、事を行ったのが青少年同士で互いの同意もあれば、罰則が適用される事例は稀である。しかし二人同時はまずい。色々とまずい。
これはいずれ機会を見て、悠に忠告してやらねばなるまいと足立は思った。別に馬鹿な子供が火傷しようが知ったことではないが、堂島宅にあの二人が乗り込んできて、修羅場を通り越した刃傷沙汰でも起きたら、さすがに放っておけない。堂島の心労を増やすのは本意ではないし、菜々子の教育上もよろしくない。
『焼き払え!』
ちょうどその時、テレビから雪子の掛け声が聞こえてきた。雪子のペルソナは刀を掲げ、ショールをたなびかせて舞い踊り、炎の壁を立ち上がらせた。炎はそれ自体が意志を持つように、岩石めいた体に仮面をつけたシャドウたちへと突き進んでいく。そしてあっという間に岩は焼け崩れていく。
(特にこっち、天城屋の娘さん。これは怖いタイプだぞ)
足立は雪子と直接話したことはほとんどないが、雪子のシャドウは4月のマヨナカテレビで見た。そしてシャドウは本体の『偽物』ではない。シャドウと同じ言動を本体がしたところで、何の不思議もない。
(シャドウとペルソナは同じもの……それってつまり、この子とあのお姫様はニアイコールってことでしょ? いや……ニアでさえないんでしょ?)
本質的には、『本体と影』という区分け自体が意味をなさない。人間存在に対して希望や幻想を持たない足立はそう考えている。そして雪子のシャドウはなかなかに強烈だった。あれは悠たちに叩きのめされた挙句、雪子のペルソナになったが、シャドウとしての性情が消滅したわけではない。いつでも普段の雪子を凌駕して、再び表に出てくることが可能なはずだった。テレビの中に初めて入った時のように分離するのではなく、体を乗っ取るように。雪子自身にそれを意識させることもなしに。そしていざ表に出てきたら、どうなるか。
(『私と千枝、どっちが好きなの!』とかかな……)
今時テレビドラマの脚本家でも躊躇うありがちなセリフを叫びながら、刃物を振りかざす少女。そんなベタベタなシーンが、ありありと想像できた。ただしその刃物は、ドラマでよくある普通の包丁とかではなく、骨付き肉でも断ち切れそうな大型の牛刀とかだ。もちろん新品ではなく、実家の旅館から持ち出した使用済みのものだ。脂が染み付いて切れ味が落ちていて、それだけに猛烈に痛そうな、なまくらの刃が壮絶なリアリティを演出するのだ。たとえ脚本がベタでも殺傷力と残忍性において並のドラマを遥かに超越した、映像倫理的に放送不可能なシーンが立ち現われそうだ。
そしてもちろん千枝のシャドウも相当に恐ろしい。陽介や完二、さらには喋る着ぐるみをウォーミングアップと称して八つ当たりで叩きのめし、積み上げられた哀れな男どもの死体の上に腰掛けて、ドスの効いた声で悠を問い詰めるのだ。『白黒つけてもらおうじゃないの』とか何とか。
『千枝、行くよ!』
『オッケー、雪子!』
テレビの中では新たなアクションがお披露目されていた。炎に巻かれたシャドウたちが怯んだ瞬間、少女二人は互いに駆け寄り、背中を合わせた。そして雪子は扇子を掲げ、千枝は横蹴りで各々の眼前に浮かんだカードを砕く。タイミングを合わせて召喚された二体のペルソナは、シャドウの群れに更なる追撃を加える。
だが足立はもうろくに見てもいない。ベッドから立ち上がり、ハンガーにかけてあったスーツに手を伸ばした。
「世の中クソだな……マジで」
上着の内ポケットから煙草の箱とライターを取り出した。稲羽に赴任してきて以来、自宅で煙草を吸ったことはないが、今日は吸いたくなった。
足立は悠に呆れつつも、心配もする。しかし実際のところは、この心配は的外れである。事実として、悠は千枝と雪子のいずれとも一線を越えていない。求められはしたが、悠は二人の好意から身をかわしたのだ。あの霧の中でも爛々と光る、金の瞳に怖気づいたのだ。臆病にも。見方によっては賢明にも。
そしてそうした明白な事実の奥にある、『真実』は更にまた異なっている。足立の心配は的外れ以前に、そもそも杞憂なのである。たとえ悠が千枝と雪子で二股をかけようとも、二人は悠を刺したりしない。愛想を尽かしたりもしない。なぜなら彼女たちは、悠を嫌うことはもはや『できない』のだ。悠が与えられた使命、言い方を変えると『役』を終えるか、自ら降りない限り。シャドウワーカーの前身の時代において、有里とその周囲の女たちがまさにそうであったように。
その不条理に、もしくは道理に、当事者である悠たちは気付いていない。客観的に観察できる立場にある足立も気付いていない。気付くのは、もうしばらく後の話だ。
『やめて……貴女なんて、私じゃない!』
部屋の隅で煙草に火を点け、アパートの天井に向けて紫煙を吐き出した足立は、お馴染みのセリフで振り返った。
(おや、もうここまで来たのか)
足立は煙草を吸う間、スキップと声を出しはしなかった。しかし『視聴者』が席を外したことで、マヨナカテレビは一気に今夜のクライマックスまで早送りされたようだ。電源の入っていない画面を見てみれば、赤紫のライトに照らされたステージが映っている。本物のストリップ劇場よろしく中央にポールが立てられ、水着を着た金の瞳のりせがしなだれかかっていた。そしてステージの端で座り込んでいる三角巾をかぶったりせが、霧の鏡に映った像に向けて禁句を言い放った。
『うふふ……ふふ、あはは、オーホホホホッ! きたきたきたぁ!』
『チッ……来るぞ!』
金の瞳の鏡像の周囲に黒い影が集まって、派手な怪獣が出現する。そして悠たち特捜隊は、金色でない方を守って怪獣と戦う。毎度お馴染みのシーンである。そしてこの後の展開はまさにお約束だ。怪獣はヒーロー戦隊によって袋叩きの刑に処され、二人は一人になる。4月以来、何度も見ている足立にとっては、もはや見るまでもないと言うものだ。
(はいはい、もう分かったから。さっさと片付けてちょうだい)
足立は目を閉じ、煙草をもう一息吸い込んだ。これを吐き出した時には、決着がついているだろうと予想しながら。しかし──
『あんたたちのことは全てお見通し……キャハハッ!』
『何なの、あいつ!? 全然こっちのが当たんないじゃん……』
『くそっ、攻撃が全部読まれてるみたいだ……』
目を開けると、悪態を吐く千枝と陽介の姿が映し出されていた。そして画面はズームアウトし、現場の全体像が画面に表示された。今晩の怪獣はテレビアンテナのような仮面で顔を隠した、目が眩むような極彩色の人間の女の姿だった。それがステージのポールに片足を引っ掛けて、逆さ吊りの状態でふらふらと揺らめいている。
対する特捜隊の五人の高校生は、ステージの外まで投げ出されている。しかも全員が腰を床につけたり、膝をついたりしている。無事なのは五人の後ろで震えている青い着ぐるみだけだ。どう見てもヒーローが不利な状況である。
(あれま……ピンチになることもあるんだ)
今晩のマヨナカテレビは前例に倣わなかったようだ。足立は意外な展開に驚きつつ、煙草を咥えたままベッドに戻って再び腰を下ろした。右手には煙草の箱とライターを、左手には携帯灰皿を持っている。
(まあ、こいつは録画だし? 全員助かってるようだから勝てたんだろうけど……こっからどうやって逆転したんだ?)
これまでの失踪者と同様に、りせも捜索願が出されていたが、今はもう家に戻っている。そして特捜隊の他の面々も、死んだとか怪我をして入院したとかの話は聞いていない。だからこの戦いは特捜隊の勝利に終わったことは、初めから分かっている。そんなものだったから、これまで足立はマヨナカテレビのアクションシーンを特に注意して見てこなかった。しかし意外な映像によって、足立は初めて戦いの経過に興味を持った。
煙草の箱をベッドに置いて、煙を吸い込みながらテレビ画面を注視した。ちょうどその時、悠の顔が正面からアップで映り、足立の視線はそこに吸い込まれた。
人は事物に対して集中力を高めると、対象そのものに『入り込む』ことがある。優れた僧侶や修験者は、祈りや瞑想によって神仏やそれを象徴するものと、一体化したような感覚を得ることがある。もちろん足立は僧侶ではないし、瞑想など試したこともないのだが。
(く……ここまで、なのか)
劇場の床に腰をつけて極彩色のシャドウを見上げながら、悠は焦っていた。りせの影との戦いは、当初は特捜隊が圧倒していた。しかしある時から急に攻撃が当たらなくなったのだ。ペルソナを突撃させようが、炎の弾丸を放とうが、ポールにぶら下がる影は全て身軽にかわしてしまう。もちろん本体が刀や短剣で斬りつけても結果は同じだった。逆に影の反撃を食らって、全員がステージから叩き出されてしまった。
りせの影は、膂力や魔力が特別優れているわけではない。単純な戦力で比較するならば、5月の完二の影や、4月の雪子の影の方が上だったくらいだ。攻撃の種類は火炎、氷結、疾風と多彩だが、一つ一つの威力は低い。だから悠たちも簡単にやられはしない。しかし防御だけで勝てる戦いなどない。攻撃の手段がなければ、いずれ力尽きるのはこちらだ。
「はあーい、解析完了!」
これまでに戦った大物のシャドウは四体。その辺をうろつく小物はどれだけ相手にしたのか、もう数えてもいない。悠はその全てに勝利してきた。しかし遂にここで敗北するのか──
(そんな……そんなはずがない! 俺が負けるわけないんだ!)
悠は歯を食いしばって弱気を振り払い、片膝を起こした。刀を体の前で構え、防御の型を取る。
4月15日に陽介の影と戦って以来、悠は自分が『守られている』という印象を持っていた。根拠を示せと言われると困るところだが、とにかくそう思っていた。そして戦いを重ね、被害者を救助する実績を重ねるたびに、その思いは強固になっていった。霧の向こうにいる愛に満ちた誰かが、自分を気にかけてくれている。その誰かがいる限り、敗北はあり得ない。神は乗り越えられる試練しか与えない──
「今度こそさよなら……永遠にね!」
眼鏡の下の両目を力の限りに見開いて、今まさに光を放とうとする影を見据えた。倒す方法は必ずあると確信を抱きながら。何しろ実力では格段に勝っているはずなのだ。何かきっかけがあれば行ける。例えば敵が攻撃するその瞬間を狙って、カウンターを取るとか。しかし──
「ダ、ダメクマ! さよならとか絶対ダメクマよ!」
きっかけは予期せぬところからやって来た。ジッパーで区切られた青と赤の丸い塊が、刀を挟んで悠の目の前に立ちはだかった。クマの背中だ。
特捜隊におけるクマの役割は、霧に隠れたシャドウや人間の居場所を感知すること。つまり情報担当だ。被害者の救助活動をする特捜隊においては、決して欠かすことのできない役である。だがその代わり戦う力はない。シャドウはおろか、ペルソナを持たない普通の人間にさえ勝てない。最も欠かせない人材でありながら、最も弱い者なのだ。
りせの影は特殊な能力を持っているが、戦力は低い。弱いと言ってもよい。だがクマはもっと弱い。しかし弱いからこそ、思いは強い。戦力では特捜隊で最も高い悠とは対照的に。
「クマは……センセイに約束してもらったクマ! メチャクチャになってくこの世界を、昔みたいにキレイにしてくれるって!」
そう。クマの望みは、連続殺人事件の犯人を捕まえること『だけ』ではない。陽介が悠に頼んだのはそこまでだが、クマは違う。今はテレビの窓から入れるこの世界は、かつてはもっと美しい場所だった。この世界の住人であるクマの為に、いつかも分からない遠い昔の姿に戻すこと。それが『契約』だ。
「クマだって、センセイの為に戦うクマ!」
「馬鹿!」
だが悠はリーダーとして、クマの無謀な特攻を見過ごさない。慌てて立ち上がって刀を床に刺し、着ぐるみの上に覆いかぶさった。柔らかい毛の感触がシャツ越しに伝わってくる。しかし暖かいとか気持ちいいとか、そんなことを思う暇はなかった。
「ぶへっ!」
悠の体格は細い方だが、中身のないクマよりはずっと重い。空っぽの着ぐるみでは高校生の体重はとても支えきれない。一秒と持ちこたえられずに、着ぐるみは押し潰された。
「センセーイ! おたわむれをー!」
「いいから、大人しくしてろ!」
悠は先月に完二のサウナを攻略した時から、テレビの中では上着のボタンを全て外している。サウナは暑いからそうしたのだが、外す習慣だけはその後も残った。詰襟はボタンを閉じていると動きにくいからだ。何も外した方が格好良いとかセクシーとか、そんなことは思っていない。多分。ちなみにそうして前をはだけていた為に、完二の影と戦った時は酷い目に遭ったのだが、それは記憶から抹消している。
「せっかく特出しだってのに、何してんのよ、あんたたち……まさかそっち? そっちなの?」
「そ、そっちって、どっちクマー!?」
クマは悠の胸の下で短い手足をばたつかせた。しかし中身がない、よって筋肉もないクマの力では、いくら暴れようと悠を跳ねのけることはできない。雛を庇う親鳥の翼のように広がった、悠の制服の内側を叩くだけだ。
「む……むほっ!?」
そうしているうちに、制服から一枚の紙片が零れ落ちた。
「え?」
紙片は悠には見覚えのあるものだ。これは5月20日に辰姫神社でマリーに貰ったものである。何とも言いようのない、独特なセンスの詩を綴った便箋──
ではなくて、何か意味の分からない漢字の羅列が書かれていたものだ。マリーがそうしろと言うから、貰って以来ずっと上着の内ポケットに入れていた。それが暴れるクマの手で弾かれて、外に出てきたのだ。いかに力のないクマでも、紙切れ一枚くらいは動かせる。すると──
「それ、ひたたけたるものすでにこりて、けはひかたちいまだあらはれず」
言葉が生み出された。一見すると唐突に。知らなければ脈絡なく。
「何?」
生み出しているのはクマだ。胸の下で暴れるのをやめて、言葉を発している。だが意味は分からない。
「なもなくしわざもなければ、たれかそのかたちをしらむ」
「
いつも下手なダジャレや冗談ばかり言って皆を笑わせているクマが(傾向としては、呆れられるか無視されるのが大半だが)、何か不思議な呪文めいたものを唱えている。
唱えているのだ。魔術や呪術で用いられる呪文は、由来を辿れば神への賛歌や経典からの引用である。その意味で、クマはまさに呪文を詠唱している。
「クマ! どうしたんだ!」
しかしクマが何を言っているのか、悠には分からない。諸岡から神道についての個人教授は受けているが、神典を読んでいない悠には言葉の意味や由来は分からない。
「
「カム、カム、ミラクール!」
──
クマが一際大きな声を挙げると、ガラスが割れる音が響き渡った。その出どころは、制服から取り出された便箋だ。一枚の紙だったものは裂け、無数の破片となって四方へ散った。そして次の瞬間、破片は姿を変えた。
「な……!?」
白の洪水が出現した。読まれると同時に裂けた便箋は霧と化したのだ。眼鏡をかけていると見えないので忘れそうになるが、テレビの世界は常に白い霧で覆われている。元よりある優しき霧を、更なる霧が飲み込んだ。
それはいわば、究極の白。クマの眼鏡でも見通せない、圧倒的な白。原初の混沌。気配も現象もないので、誰もその形を知らないもの。あらゆる認識を受け付けず、存在ごと飲み込んでしまう混迷の霧──
「な、何!? 何なのこれ!」
それまで強者の余裕を見せ付けていた、りせの影は霧に巻かれ、慌てて炎を放った。だが床に伏せている特捜隊には当たらない。頭のずっと上の空間を虚しく飛んでいった。
「な、何が起こってるの!?」
「霧……? 眼鏡が効かなくなったの!?」
動揺は特捜隊も襲っていた。千枝と雪子は床に腰をつけたまま左右を見回している。二人は隣にいる互いの姿くらいは見えているが、それより遠くは見えないでいる。
「あんたら、どこ行った! どこに隠れたぁ!?」
「こ、こいつ……俺らが見えてねえのか!?」
完二の頭上を一陣の突風が通り過ぎた。その直後、氷の弾丸が放たれる。何度も何度も、様々な種類の魔法が繰り返しステージから飛んでくる。しかし当たらない。ただ床に伏せてじっとしているだけの、特捜隊の誰にも当たらない。目標を見失った魔力は、ひたすら明後日の方向へ飛んでいくだけだ。
そしてその間、ステージと観客席を覆い尽くす霧の偉容はまるで変わらなかった。いくら払っても一向に消えず、僅かも薄くならない。人間がどれだけ手足を振るっても山は崩せないし、海も割れないように。
「あたしが、あたしが見通せないなんて、そんな……!」
全てを見抜き、全てを己の掌に乗せ、全能感に浸っていた影は混乱を極めた。まるで神の威を借る巫女が、実はただの人間に過ぎない祭司が、真の全能者の顕現を目の当たりにしたように──
「セ、センセイ! シャドウはあっちクマ! 今がチャンスクマ!」
腹ばいのままでいる悠の下から、クマの腕が伸びてきた。青い毛に覆われた短い指で前方を指し示す。それで見えた。白の洪水によってシャドウは何も見えなくなっているが、クマに示された悠にはシャドウが見えた。霧のベールを通すと極彩色は色を失うが、朧ながらも形は見える。白い逆さ吊りの人型が手で顔を覆って慄いている、その様が悠には見えた。
「よし……!」
お膳立ては整えられた。悠は床に両手をついて立ち上がり、右手を中空に掲げた。
「ネコショウグン!」
中国風の甲冑を着込んで軍配を持った、二本足で立つ黒猫のペルソナを召喚した。マーガレットに依頼されて作った、道教に伝わる予言の神だ。りせの捜索を開始した時、クマとの間に築かれた星のコミュニティの恩恵を受けている。今の悠が使える中で、最大の実力を持つペルソナでもある。
猫のペルソナは軍配を掲げ、影へと向けて一筋の青い稲妻を落とした。それと同時に霧が晴れた。
「あ、相棒! チャンスだぜ!」
陽介が声を上げた。眼鏡を通した目で改めて見れば、色を取り戻したりせの影はポールの根元でうずくまっていた。電撃は影の弱点ではないはずだが、霧の向こうからの不意打ちによって体勢を崩している。今なら一斉に攻撃できる。
「全員、総攻撃だ!」
悠は床に刺した刀を抜き、切先を影へと向けた。リーダーの命令に応えて、特捜隊は我先にと舞台へ駆け上がった。
オリジナルアイテム『マリーの便箋』を出しました。効果は特殊スキル『混迷の霧』の発動です。(敵の攻撃を完全回避。味方が攻撃すると解除される)