ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

43 / 180
第2章 省みる賢者
災害救助(2011/7/10)


 数日降り続いた雨がようやく上がった、蒸し暑い夏の夜。二台の車と四人の男が一ヶ所に集まった。闇の深い八十稲羽にあって、最も光が多い施設であるジュネス。その駐車場である。昼間は町中で最も人の集まる場所でもあるのだが、ちょうど日付が変わったばかりのこの時間には四人の男たち以外の姿はない。ごく少数の人間だけの秘密の集まりである。

 

 そんな彼らの間にある雰囲気は、暑いはずなのにそれを忘れさせる寒気を催す緊迫感に満ちていた。知らない人間が見れば、厳格な体育会系クラブの特別夜間練習か何かだと思うかもしれない。

 

「初めに言っておく。こいつは遊びじゃない。命懸けの仕事だ」

 

 四人の中で最も年長の男が、最も若い男を睨みつけている。泣く子を黙らせるどころか、更に泣かせる鬼が仁王立ちしている。稲羽署の刑事である堂島だ。だが今日は刑事ではなくシャドウワーカー稲羽支部の支部長としてここにいる。季節は夏だが、スーツの上着をしっかり着込んでいる。

 

「もし少しでも遊び気分や躊躇う気持ちがあるのなら……今すぐ家に帰るんだ。そして全て忘れろ。化物に襲われたことも、ポートアイランドで聞いたことも、全部な」

 

 親子ほども年の離れた堂島と向き合っているのは尚紀だ。高校生の身で、鬼の双眸を瞬きもせずに受け止めている。服装は高校の制服だ。やはり季節を無視するように、上着を着込んでいる。

 

「帰っても臆病だとか無責任だとかは誰も言わないし、言わせない。お前は警官でも何でもないんだ。逃げてまずいことなんかない」

 

「俺はやります」

 

 昼間に地上に注がれた熱気は、雲に遮られて地上から去っていない。7月の熱帯夜に身を置きながら、尚紀は暑さに由来する汗は一筋も浮かべていない。堂島の凄味に対しても、冷や汗の一滴さえ浮かべない。

 

「なぜだ?」

 

「この町を守る為です」

 

「そうか……」

 

 堂島は周囲を見回した。そこにいるのは、裏の仕事も表と変わらず飄然とこなす部下で相棒の足立。そして場慣れしているが、腹に一物ありそうな男。シャドウワーカー本部から現場指揮官兼アドバイザーとして来た有里だ。仕事としてこの場にいる二人の顔を見てから、再び視線を尚紀に戻す。姉を殺され、その感情を持っていく先も失い、そのままで戦いに身を投じようとしている少年へ。

 

(嘘だな……)

 

 刑事として長年犯罪者と渡り合ってきた堂島は、人の嘘を見抜くことを得意としている。ただし嘘吐きの中にも、分かりやすい者と分かりにくい者がいる。尚紀は年こそ若いが、かなり分かりにくい部類に属している。だが今は分かる。いかにも生意気そうなこの少年は、故郷の町とそこに住む人々を守ることを目的としてシャドウと戦おうとしているのではない──

 

 堂島はそう直感した。しかし尚紀に遊び気分は伺えない。躊躇ってもいない。そしてこういうタイプの人間は、警察組織にも少なからずいる。自分の能力に自信を持っていて、それを活かす場所として警察を仕事に選んだ者たちだ。いわゆるキャリア組の若い警察官に多い。

 

(高校生を使いたくはない。だが……もはややむを得ない。やるしかないんだ)

 

 堂島は目を閉じた。迷いを見せない尚紀とは対照的に、堂島には未だ逡巡がある。だが特殊部隊の支部長として、任務を全うするには情報系ペルソナ使いが必要であることは分かっている。尚紀がいなければ、町も家族も守れない。ならばどうするか?

 

(責任は……俺が取る)

 

 重い逡巡を飲み込んで、目を開けた。鬼の視線は、僅かも揺らいでいない高校生の視線と再び出会った。

 

「お前は俺たちが必ず守る」

 

 かくして尚紀は稲羽支部に迎えられた。もちろん正式には、先月ポートアイランドを訪れて加入の意思を示した時点で、特殊部隊員となっている。だが直上の上司となる堂島には、今この瞬間から認められたのだった。

 

「堂島さん、彼にこれを」

 

 頃合いを見計らうように、有里はアタッシュケースを堂島に差し出した。堂島は黙って受け取り、その場で開いて中身を取り出した。合成樹脂製の紐状のものだ。ショルダーホルスターである。両肩に引っ掛けて体に固定するように作られていて、拳銃を収めて携行することができる。

 

「上着を脱いで、これをつけろ」

 

「はい」

 

 尚紀は制服の上着のボタンを外し、一旦脱いだ。そして手渡されたホルスターのストラップに両腕を通して肩にかけ、バックルを締めて固定する。次いで堂島はアタッシュケースから、もう一つのものを取り出した。

 

「お前の召喚器だ。受け取れ」

 

 自動式拳銃の形をしたそれを、堂島は銃身を握って差し出した。もちろんこれは射撃には使えないものだが、それでも『銃』である。警察官として働いてきた堂島にすれば、こんなものを高校生に手渡す日が来るとは夢にも思わなかった。だがそんな感傷に浸る時期はもう過ぎている。

 

「はい」

 

『特別』の証明を尚紀は受け取り、左の脇に収めた。そして足元に置いていた上着を拾って、ホルスターの上から羽織った。これで外からは、銃器を持っているようには見えなくなる。稲羽支部は町中でシャドウ対策を行うという任務の性質上、召喚器を隠匿する必要がある。よって任務中はどんなに暑くても上着を脱いではいけない決まりにしており、足立と有里も上着を着ている。

 

「堂島さん、出てきましたよ」

 

 足立が声をかけてきた。見上げてみれば、駐車場の電灯が滲み始めている。予報通り霧が出てきたのだ。今夜も町のどこかでシャドウが出ると、散らされた光が予告している。

 

「これが最後だ」

 

 堂島はアタッシュケースから最後のひと品を取り出した。フルリムのブロウ型の眼鏡である。フレームの色は白だ。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 尚紀は眼鏡を受け取ると、細面の顔に早速かけた。そして電灯を見上げ、光が滲まなくなったことを確認する。確認である。眼鏡で霧を見通せることはポートアイランドに行った時から聞いているので、今さら驚きはしない。

 

「では、探査を開始しましょう。小西君、召喚して」

 

「分かりました」

 

 有里に促されて尚紀は懐に右手を差し込み、召喚器を取り出した。実銃と同じ重量のあるそれを両手で持つ。銃口を額に当て、引き金に親指をかける。堂島と足立、昨年までの有里はこめかみに銃口を当てるが、他の場所を撃っても召喚は可能である。額でも眉間でも、顎でも良いのだ。要は自分の頭を撃つようにやりさえすれば、ペルソナは顕現する。

 

「……」

 

 拳銃自殺の姿勢を取る尚紀は目を閉じて、細い呼吸を繰り返す。その表情は硬い。堂島の睨みには一歩も引かなかった尚紀であるが、今はさすがに緊張する。部活の大会に初めて出場するような、実戦を前にした緊張というものである。そうして時間にして数秒程度、四人は沈黙した。その間に霧は足下まで忍び寄ってきた。寒気も霧と一緒になってやって来た。

 

(引き金を引いて……撃つ……)

 

 撃つこと自体に恐れはない。たとえ実銃でロシアンルーレットをするとなっても、自分はやる──

 

「シロウサギ」

 

 ──

 

 湧き出す霧にガラスが割れる音が響き渡った。それと同時に、二本足で立つ兎の姿をしたペルソナが顕現した。小柄な尚紀よりも更に小さなペルソナだ。体長は使用者の腰くらいまでの高さしかない。白い体によく映える、つややかな黒の燕尾服を着ていて、ある種の古典的な高級感を漂わせている。しかしよくよく見てみれば、袖や襟に継ぎはぎの跡がある。仮面は目と鼻のみを覆うタイプで、棒状の取っ手がついている。動物のペルソナは仮面から伸びる棒を右手、と言うより前足で器用に持っていた。

 

 ペルソナ呼称は『イナバノシロウサギ』である。だが長いので、口に出す時は略している。

 

「何つーか……可愛いね」

 

 尚紀のペルソナを初めて見た足立は、思わず呟いた。真っ白な毛並みと言い、長く伸びた耳と言い。頭をちょっとくらい撫でてやりたくなる代物だ。もし稲羽支部のポスターでも制作するなら、このペルソナはマスコットとして絵の中央に配置したいところだ。

 

「いらんこと言ってんな!」

 

「す、済みません……」

 

「始めます」

 

 尚紀は召喚器を額から離して左手一本で体の脇に下げ、目を閉じた。すると兎のペルソナは二本足でスキップをして、尚紀の周囲をぴょこぴょこと跳び回り始めた。普通のペルソナは一つ動くとすぐ消えるが、情報系ペルソナは探査中はずっと顕現し続ける。あまり無茶な使い方をしない限り、使用者にかかる負担も少ない。

 

「……」

 

 ペルソナが刻むリズムに乗って、尚紀の五感以外の感覚は霧の中を広がっていく。身を置いているジュネスを一足飛びに越えて、地域全体にまで広がる。影時間に酷似した白い闇は常人から認識を容易く奪うが、情報系ペルソナ能力は奪われない。夜の闇も霧のノイズも容易く乗り越え、昼間と変わらないほど明晰な姿を尚紀の脳裏に描き出す。

 

 やがて尚紀は目を開き、右手を再び懐に差し込んだ。ワイシャツの胸ポケットからスマートフォンを取り出して、インストールされたアプリケーションを起動する。すると画面に稲羽市の地図が映し出された。地図全体が緑色の光に覆われていて、その上をバーが回転している。

 

「出ました」

 

 高校生の報告に応えて、三人の大人もスマホを取り出して画面を見た。すると足立が声を上げた。

 

「凄い、町全体が表示されてる」

 

 尚紀は自分のペルソナから得た情報を、先月のパトロールでも使用した桐条グループの特別製のバンに搭載された、シャドウの探知機にフィードバックしたのだ。探査が届いている領域を地図情報と結び付けて、画面上に表示するシステムである。シャドウが出現すれば、その位置が即座に地図上に反映される仕組みになっている。

 

 そして尚紀が行った探査は稲羽市の全域を一気に覆った。先月に探知機のみで行った時と比べて、範囲は数倍も広い。

 

「むう……」

 

 堂島も画面を見て唸った。先月は車を走らせながら、その周辺のみを探る形でパトロールを行った。そのやり方では、いつかどこかで漏れが出る可能性が高かった。だがこうして市内の全域を一望できるなら、シャドウを見落とす危険性は格段に下がる。住民に犠牲者を出さない為には、稲羽支部に尚紀の力は欠かせないのだと、改めて思い知らされたわけである。

 

(だが……部下にも犠牲は出せん)

 

 犠牲者を出せないのは、住民も部下も同じだ。その為には、責任者である自分がしっかりせねばならない──

 

 高校生の部下の初仕事を確認しながら、堂島は決意を新たにした。

 

 

 

 

 4月以来、五度目の霧が八十稲羽を覆い尽くした頃。八十神高校二年生の一条康は自宅で夜更かしをしていた。明日、日付が変わっているので正しくは今日は、日曜日なので学校はない。それが遅くまで起きていることの助けになっていた。早く寝ろと言ってくる家族がいないのは、いつものことである。

 

 一条に家族はいない──

 

 これは天涯孤独という意味ではない。一条は高校生の身でワンルームのアパートで一人暮らしをしているが、実家はすぐ近くにある。週に一度は帰っているし、そこには両親や祖母、そして妹がいる。だがある意味においては、やはり『家族はいない』のだ。十年ほど前に今の両親に引き取られる前は、孤児院で暮らしていた。

 

「……つまんね」

 

 一条はシングルベッドに寝転びながら、アメリカのプロバスケットボールの試合を見ていた。ただしテレビではなく、インターネットの動画である。一条のアパートにテレビはなく、ノートパソコンで代用している。モニターには選手たちがコートを縦横無尽に躍動し、華麗にパスを回すシーンが映し出されている。

 

『Yes! He makes a slam dunk!』

 

 そして最後のパスを受けた身長が二メートル以上ある黒人選手が、豪快なシュートを決めた。実況のアナウンサーと観客の興奮した声が、パソコンの音声デバイスを通して日本の片田舎にまで届けられてくる。歓声は一条の耳にも入っているのだが、頭には入ってこなかった。

 

「はあ……」

 

 マウスに手を伸ばし、ろくに見ていないブラウザを閉じた。そして電源を落とし、ベッドに仰向けに寝転んだ。枕元のナイトテーブルに置かれたノートパソコンはやがて光を失い、黒い画面が沈黙しながら、ただそこにある状態になった。

 

 最近になって、一条はバスケに興味が持てなくなっていた。好きで始めたつもりだったが、そうとばかりは思えなくなってきたのだ。おかげで近頃は部活も休みがちだ。今年はせっかく同学年の新入部員が入って、それなりに親しくなれてもいるのに。小学校以来の腐れ縁の少年にも心配をかけている。

 

 自分の近況は良くないと、自分でも分かっている。しかし何かの行動を起こす気にはなれない。今日に関して言えば、ベッドから起き上がる気力も湧いてこない。これを俗に、無気力症と言う。ただし昨年初めまで社会問題になっていた本物の無気力症と比べれば、症状はずっと軽いが。

 

(駄目だなあ……俺)

 

 天井を見つめていた一条は、やがて目を閉じた。部屋の電気は点けたままだが、スイッチまで歩いていくのも億劫だった。このまま朝まで眠ることになっても構うまい。どうせ光熱費を含めた生活費は、全て実家から出ているのだから。初めてこの町に来た日、夕日を浴びて光る鮫川を見てそれまでの自分は死んだと思ったのも、今は遠い日の思い出でしかない──

 

 そんなことを思いながら眠ろうとした。

 

 ──

 

 しかし眠ることはできなかった。唐突に『何か』が聞こえたのだ。

 

「ん?」

 

 寝転がったまま目を開けて、周囲を見回した。しかし部屋には自分以外に誰もいない。狭いアパートに同居人はいない。友人を招くことはあるが、今日は一人だ。パソコンは消したつもりだったが、勝手に再起動したのかと思って枕元に目をやった。しかし電源ランプは消えている。モニターは黒いままだ。画像や映像は何も映し出されていない。

 

 もちろん砂嵐の中で朧な人物の姿が映し出されたりしないし、女子高生のストリップだの特撮ヒーロー番組だのが映し出されてもいない。そんな『番組』があることを一条はそもそも知らないし、知っていたところでパソコンのモニターでは見られないのだ。

 

 物言わぬパソコンに代わって、『声』は外から届けられてきた。

 

『コウ……』

 

「え……誰?」

 

 一条はベッドから身を起こして、耳を澄ませた。

 

 一条を下の名前で呼ぶ者は大勢いる。例えば学校の女子たちとか、実家の使用人とかだ。しかし呼び捨てにする者は、そう多くない。祖母を始めとする一条家の人間のうち、一条自身よりも年長の者だけだ。だが今呼びかけてきた、正確にはそのように感じさせた声は、聞き慣れた親族のそれではなかった。

 

 一条は自分の名前を気に入っていない。その理由はいくつかある。字面や響きが好みでないことや、『様』や『ちゃん』などの接尾語をつけると、より締まりがなくなることが主な理由だ。だが本当は──

 

『康……』

 

 この名前は今の両親がつけてくれたものではない。一条家に引き取られる前にいたはずの、本当の両親が与えてくれた唯一のものだ。写真の一枚はおろか、記憶の一片さえも残してくれなかった両親が。

 

「……」

 

 この夜、一条は眠ろうとしていたところを起こされた。だが実は、起こされたのとは少し違っていたのかもしれない。部屋の電気を点けたまま浅い眠りに落ちて、夢を見て。そして目を開けても、心は夢の続きを見ていたのかもしれない。それでいて体は動いた。心は夢を、体は現実を歩いた。現実で向かう先はアパートのドアだ。そしてその先は、夢のような霧が漂う外だ。

 

 一条はドアを開け、共用の廊下に出た。部屋は二階にあり、同じような部屋が左右に並んでいる。廊下の手すりの向こうにあるはずの外の様子は見えない。最近になってよく出るようになった異様に濃い霧が立ち込めていた。ドアを開けたままの自室から漏れてくる光と、廊下の小さな電灯に照らされた白い闇には何も見えない。見えない中で、ただ『声』だけが聞こえてくる。

 

「お父さん? お母さん?」

 

 廊下から外付けの階段へ向かった。もしや孤児院に自分を預けた本当の両親が、今になってやって来たのだろうか。妹が産まれて、バスケでもバイクでも好きにやればいいと言われて、一条家での役割を終えようとしている自分を迎えに──

 

 夢うつつの状態のまま、一条は階段を下りた。とうの昔にいなくなったはずの、親しい人の『声』に誘われて。先月に尚紀が姉に誘われたように、4月の終わりに堂島が妻に誘われたように。一条も実の両親に誘われたのだ。

 

 そうして一条はアパートの建屋から、道路に続く玄関まで出た。だがもちろんそこに両親はいなかった。尚紀と堂島の時もいなかったように。

 

 

 

 

 稲羽支部の面々はジュネスを出て、八人乗りのバンで国道を疾走していた。運転しているのはアドバイザーの有里だ。デジタル式のスピードメーターには、法定速度の二倍を超える数値が表示されている。眼鏡がなければ何も見えない霧の中では、他の車や歩行者はいない。だから有里は赤信号さえ顧みない。

 

「……」

 

 そうやって交差点を越える度に、助手席に座る堂島は渋い顔をする。普段は交通ルールを遵守する堂島にすれば一言くらい言ってやりたい運転だが、事態が事態なので黙っている。カーナビの画面にシャドウ反応を表す光点が表示されているのだ。映しているのは後部座席に座る尚紀だ。

 

 尚紀の膝の上には、燕尾服を着た兎のペルソナが乗っている。ペルソナは使用者の上で己の足、と言うか後ろ足を、リズムよくバタつかせている。影時間に非常に近い状態をもたらす稲羽の霧を貫きながら、イナバノシロウサギは情報を入手し続けている。シャドウに近づくごとに、その詳細な位置や数を尚紀に知らせてくるのだ。

 

「……」

 

 だが一見すると楽しげなペルソナと違って、尚紀自身は目を閉じて奥歯を噛み締めている。押し寄せる情報の波に耐えているのだ。

 

 何事もやってみなければ、その真価は分からないと言う。尚紀にとって初めてのシャドウ対策の現場における実地のペルソナ運用は、なかなか骨の折れる仕事だった。シャドウの探知や解析は、かなりの集中力を要する。と言うより、集中すればするほど情報量が増えるのだ。集中しなければ情報を分析できないが、分析の為に集中するとまた情報が増える。車が走ってシャドウに近づくに連れて、更にまた増える。やればやるほど、泥沼にはまり込んでいくような感覚があるのだ。

 

「尚紀君、落ち着いて」

 

 隣に座る足立が声をかけてきた。目を開けてそちらを振り返ると、眼鏡をかけた足立の顔があった。霧を見通すレンズの向こうには、優しい形をした黒い目がある。

 

「大丈夫、僕らが必ず守るから。大船に乗ったつもりでいて」

 

「はい……」

 

 尚紀は頷いた。そして再び目を閉じ、集中する。

 

 

 やがて車はスピード違反と信号無視を続けながら、現場近くまで辿り着いた。昔ながらの一軒家が並ぶ中に小さなアパートもある、八十稲羽の住宅街だ。

 

「小西君、シャドウの数は?」

 

「三匹です! アルカナは剛毅、耐性は特になし! 全部同じタイプです!」

 

「よし……停車します!」

 

 有里が声を上げ、車は急停止した。フロントガラスから外を見れば、ヘッドライトに照らされた黒い泥濘がアスファルトを這い回っているのが、もう目視でも確認できる。

 

「全員降りてください!」

 

 有里の指示の下、堂島が最初に助手席から飛び降りた。次いで足立が降りて、尚紀がそれに続く。有里は最後だ。ハンドルの傍につけられたボタンを押し、車の屋根にいくつも備え付けられた照明を起動してから外に出た。

 

 その直後、車の最も近くにいた泥のシャドウが立ち上がった。見上げるような高さになるが──

 

「ふん!」

 

 すかさず堂島が警棒を振りかざした。そして気合と共に、シャドウの仮面に向けて横薙ぎに叩き付けた。インパクトの瞬間、腰を捻って更なる力を伝える。普通の人間相手にやれば、肋骨の一本くらいは軽く折れる技だ。そこへ剛力を誇る堂島のペルソナに由来する力が加わって、敵の仮面を叩き割った。

 

「さあて……始めますか」

 

 足立はスーツで隠したホルスターから実銃を抜き、二匹目のシャドウに狙いをつけた。拳銃射撃の基本は両手撃ちだが、右手一本で銃を構える。霧を貫くレンズを通した目は照門と照星、そして十メートルほど離れた標的が一直線に並ぶポイントを瞬時に見出した。必ず当たる──

 

 確信を抱きながら、足立は引き金を絞った。先ほど車内で少年に声をかけた時のように、優しげに指を動かす。

 

 ──

 

 正確無比な足立の射撃は、今日も狙いを誤らない。シャドウは一発で撃ち抜かれた。簡単なものである。そしてもう一匹は──

 

「う、うわああ!」

 

 若い男の悲鳴が霧に響き渡った。ペルソナ使いの四人のものではない。

 

「人間!? シャドウに呼ばれたのか!」

 

 堂島が叫んだ通り、車が停車した位置から二十メートルほど離れた場所に一人の少年がいた。二階建てのアパートの門前で、地面に尻餅をついている。そのすぐ傍で、立ち上がった泥のシャドウが少年を見下ろしている。

 

(しまった……!)

 

 尚紀は歯噛みした。ジュネスでペルソナを召喚してから、尚紀はシャドウだけを探してきた。そうしてこの区画に出現したのを見つけて、車で移動している間もシャドウだけを見つめていた。敵性存在の詳細な位置、数、特性。そういうことだけを探り、分析してきた。だがそれが仇になった。

 

 シャドウは『声』で人間を誘い出す。ならばシャドウだけでなく、霧の中に迷い出てくる人間がいないかと、注意しておかねばならなかったのだ。先月の自分自身が、まさにそれだったのに。デビュー戦の緊張のせいで頭から抜け落ちていて、探査の網から人間を抜かしていた。今になってそれに気付いた。

 

「やれやれ」

 

 即座に足立が反応した。最初の敵よりずっと遠い的に、実銃の銃口を向ける。照準を合わせるのに要する時間は一秒もない。引き金を絞るのは、もっと速い。

 

 ──

 

 甲高い悲鳴を掻き消す重い銃声が響いてから、四人の男は駆け出した。

 

「あ、あああ……」

 

「落ち着け、警察だ!」

 

 堂島が最も速く、悲鳴の主の下まで辿り着いた。膝を地面につけて、相手の背中に手を当てる。しかし相手の方は堂島の顔も見えているかどうか。真夜中の霧の中では、至近距離でも人の顔を見分けることさえ難しい。だが眼鏡をかけていれば、街灯と建物の灯り、それとシャドウ対策用の特別車両に積まれた照明だけで、そこにいる相手が誰なのかくらいは分かる。

 

「一条さん!?」

 

 だから尚紀は今晩の被害者が誰なのか、見てすぐに分かった。実家が客商売をやっている関係で、尚紀は人の顔と名前を覚えるのが得意だ。三週間ほど前に学校の行事で初めて会って、それ以来会っていない程度の縁しかない人でも分かる。

 

「何だ、知り合いか!?」

 

「高校の一年先輩の、一条さんです!」

 

「う、ううう……!」

 

 一条は地面に腰をつけたまま、目をきつく閉じて頭を両手で抱えた。顔も知らなければ声も知らないはずの、本当の両親を装ったシャドウの声を聞いた。視界のまるでない霧の中で、見たこともない異形の怪物を見た。その挙句に、怪物が目の前で吹き飛んだ。これだけ訳の分からない出来事が連続して起きれば、誰でも混乱する。

 

 まして稲羽の霧はペルソナを苦労なく召喚できる環境だ。つまり影時間に極めて近い状態になる。桐条グループの研究によれば、影時間を初めて体験した人間は強烈な混乱状態に陥ることが多いとされる。たとえペルソナ使いになる素養があっても記憶障害を起こすほどだ。混乱が少なくて済んだ堂島や尚紀は、むしろ例外的なケースである。

 

「足立、こいつを家の中に運ぶぞ!」

 

「はい! えっと、部屋は何号室だ!?」

 

 足立は玄関口のすぐ近くにある、集合ポストへと走った。尚紀の申告で名前は分かったので、住んでいる部屋の番号はそれで分かると思われた。しかし──

 

「待ってください。今日のシャドウは、彼を狙って現れた可能性が高いです」

 

 有里が刑事たちを制止した。そして眼鏡を通した視線を上下させ、建物の構造を確認する。

 

「このアパートでは、部屋に入れればかえって保護が難しい……」

 

 二階建ての木造のアパートだ。見上げてみれば、階段を上がった二階から光が漏れている。一条が外に出た際、ドアは閉められずに開け放たれたままなのだと察せられる。つまり一条の部屋は二階だ。そこに運べば、狭い共用廊下でシャドウを防がなければならない。そして反対側の窓から侵入される危険も考慮して、建物を挟んだ二ヶ所を防衛しなければならなくなる。最悪の場合、既に室内にシャドウが侵入している可能性も考えられる。

 

「上から新手が現れました!」

 

 有里が善後策を考えていると、尚紀が声を上げた。同時にアパートの階段から泥濘のシャドウが姿を見せてきた。仮面を乗せた泥が、びしゃりと液体のような音を立てて階段を一段下りた。

 

 ──

 

 有里はジャケットから拳銃を抜き、撃ち放った。最強のペルソナ使いが放った銃弾は足立のそれを大きく超える威力を発揮し、シャドウを一発で蒸発させた。それを見届けてから有里は振り返った。

 

「僕らの車に乗せましょう。そこが一番安全です」

 

「やむを得ませんな……。おい、立てるか!? って、無理か……」

 

 一条の苦悶は続いている。堂島は被害者を立たせることを早々に諦め、高校生にしては細身な体を抱え上げた。ペルソナの力の恩恵を堂島自身も受けているので、人一人を抱えて歩くくらいは軽いものだ。

 

「足立さん、先導してください。小西君は足立さんから離れずについて行って。僕は殿で行きます」

 

「了解っす! 尚紀君、行くよ」

 

 実銃を構えた足立が、警戒しながら道路を早足で歩く。そのすぐ後ろで、足立の陰に隠れるように尚紀が続く。その後ろを一条を抱えた堂島が歩く。有里は最後尾だ。

 

「シャドウが集まってきてます……」

 

 尚紀は歩きながら周囲を探る。ペルソナを召喚しなくても、ある程度の敵の気配は五感以外の感覚に伝わってくるのだ。そして現実の耳には、すぐ後ろで繰り返されるうわ言が届けられてくる。

 

「う、うう……お父さん、お母さん……」

 

「大丈夫だ、俺たちが守ってやる!」

 

 堂島は目を閉じたままの一条を励ましながら、早足で歩く。聞こえていないかもしれないが、それでも励ます。まるで災害救助である。

 

 そうしているうちに、車道の中央に違法駐車したバンの前まで辿り着いた。先頭の足立がスライド式のドアを開け、堂島が後部座席に一条を寝かせる。そしてドアをしっかりと閉めて、四人のペルソナ使いは全員が車を背にして身構えた。

 

「小西君」

 

「はい」

 

 尚紀は召喚器を額に当て、再びガラスを割ってイナバノシロウサギを召喚する。相変わらず可愛らしい姿だが、もはや誰もそれに気を留めない。遊びではない本物の緊張感が、四人の間に満ちている。

 

「あちこちにシャドウが潜んでいます。数は十、いや十一……出ました!」

 

 言うが早いか、一条のアパートの門前の地面から泥のシャドウが湧き出てきた。更に向かいの家の敷居から、道路の側溝から、電柱の陰から。まさに地の底に潜んでいた汚泥が、地面の隙間を通って沁み出てくるような様である。

 

「堂島さん、召喚器の準備を。小西君の傍から、極力離れないようにしてください。足立さんは銃で先制してください」

 

「承知しました」

 

「了解っす!」

 

 現場指揮権を持つ有里の指示の下、足立は再び銃を構えた。そして立て続けに三発撃って、三匹のシャドウを撃ち抜いた。これで足立はあらかじめ装填しておいた五発の弾丸を撃ち尽くしたが、シャドウはまだいる。標的にならずに済んだ泥濘は、立ち上がるや球体にまとまった。シャドウが何かの形を取る前触れである。すると──

 

「ライオン?」

 

 足立が呟いた通り、今日のシャドウは動物の獅子を擬した。黒い毛並みの堂々たる体躯だが、鉄球のついた鎖を足にくくりつけている。シャドウの姿形は良くも悪くも暗示的である。

 

「足立さん、そいつは雷は効きにくいですが、風に弱いです!」

 

「風……そっか」

 

 尚紀の解析結果を聞いて、足立は懐から左手で召喚器を取り出してこめかみに当てた。足立のマガツイザナギは電撃も使えるが、疾風も同等のレベルで使いこなせる。もう少し成長すれば、その他の魔法も使えるようになるとシャドウワーカーの研究班からは報告が上がっており、足立自身と尚紀も聞いている。だが──

 

(早紀さんは雷に撃たれて死んだ……)

 

 冷たい銃口を肌で感じながら、足立は思う。先日ジュネスで、尚紀は姉の死についてこう言っていた。もちろん尚紀はもののたとえでそう言ったのだが、足立の心には突き刺さっていた。早紀を殺したのは、血の色の雷を操れる自分なのだ。しかし今になって尚紀は風を起こせと言う。これは何かの皮肉なのか、それとも──

 

(いや……余計なことを考えてる場合じゃない。今はとにかく、戦うだけだ)

 

 目を閉じて逡巡を抑え、力の形象化を始めた。最初に思い描くのは優しく吹くそよ風だ。それが集まって、つむじ風となって砂塵を巻き上げる。それは見る見るうちに高く伸びて、やがて雲まで達する。一つの竜巻が地上に出現する。更に同じような風が二つ、三つと連続して立ち上がる。群れを成した竜巻は、大地を薙ぎ払いながら一斉に進軍する。そんな破壊のイメージを頭の中で描き出して、左手の人差し指で引き金を絞った。

 

「マガツ!」

 

 指の動きとは対照的な激しい呼び声に応えて、赤と黒の魔人が顕現した。創造神でありながら禍津神を名乗るペルソナは足立の頭上で一度身を屈め、勢いをつけて伸び上がる。そしてイメージは現実に転化した。創造された竜巻の群れは、獅子のシャドウを吹き飛ばして進む。

 

「さあて……行くぞ! 化物ども!」

 

 生み出した風を追うように、足立自身も駆け出した。右手の銃は弾丸の再装填をしていない。代わりに左手の召喚器を再びこめかみに当て、マガツイザナギを召喚する。そしてシャドウの群れへと体ごと突撃する。魔人は矛を振り回し、風に巻かれて倒れ伏したシャドウを次々と刺し、斬り、とどめをくれてやる。

 

「こら、足立! 一人で突っ込むな!」

 

「堂島さん、足立さんの援護を! 小西君の護衛は僕が引き受けます!」

 

「お願いします!」

 

 そうして堂島も相棒を追って、乱戦の中へと駆けていった。右手に持った召喚器をこめかみに当て、タヂカラオを召喚してシャドウの群れへと吶喊する。二人の刑事は数の上では倍以上いる敵を向こうに回して、当たるを幸いに蹴散らした。矛が閃き、剛腕が唸る。実銃のグリップで殴りつけ、警棒で叩き伏せる。尚紀と有里は、それを離れた位置から見守っていたが──

 

「!……」

 

 尚紀はペルソナの感覚で新手の接近を察知した。自分たちの背後、駐車した車の陰から一匹の泥の塊が密かに近づいてきている。尚紀が振り返ると同時に、シャドウは泥からアルカナの形へ変化を始めた。ボコボコとまさに泥が泡立つような音を立てたかと思うと、瞬時に形を成した。

 

 プロレスラーかと見紛う巨躯を持つ人型のシャドウだ。気付かれないよう忍び寄ってきたくせに、気付かれた瞬間に派手な姿になった。

 

(弱点は……氷結!)

 

 そして次の瞬間、尚紀は敵の弱点を見抜いた。

 

「シロウサギ! 撃て!」

 

 尚紀は顕現を続けている『自分自身』に命令した。すると兎のペルソナは小さな口をかっと開いた。そこには鋭い牙が生えていた。本物の兎にはない隠された牙の間から、ペルソナは氷の弾丸を吐き出した。

 

 いや、弾丸とは呼べない。豆鉄砲のような、ごく小さなものだ。しかしそんなささやかな氷の粒は、シャドウを仰向けに転倒させた。重たい筋肉の鎧が地面に落ちる、大きな音が響き渡る。

 

 ──

 

 その残響が消えないうちに銃声が重なった。シャドウは一発で八つ裂きになり、そのまま消滅した。有里が銃を撃ったのだ。

 

「なかなかやるね」

 

 有里は銃を収めながら、尚紀に声をかけた。しかし少年はばつが悪そうに肩をすくめた。

 

「いえ……倒しきれませんでした」

 

 尚紀は自分のペルソナに攻撃能力は一応あるものの、直接的な戦闘には耐えられないと、ポートアイランドで聞いている。だがものは試しと、一つやってみた。足立たちに守られているばかりでは情けないとの思いも、ないではない。しかしその結果は恥ずかしいくらいにささやかだった。まさにペルソナの外見通り、小動物並の力しかない。だが有里は首を軽く横に振った。

 

「いいのさ。君のペルソナは攻撃の種類が多彩だ」

 

 これは本当だ。尚紀の本業はサポート役の為、戦闘能力はごく低い。しかし使える攻撃魔法の属性は多岐に渡る。大半のシャドウがいずれかを弱点とする火炎、氷結、疾風、電撃の四種類を全て使える。そしてシャドウは弱点を突かれると、威力の大小に関わらず怯む。

 

「今みたいに、軽くひと当てしてやるのも意味はあるんだ。転んだ隙に僕たちが攻めればいいんだからね」

 

「小西! 大丈夫か!」

 

 そうやって最も年季の古いペルソナ使いが新人を励ましていると、刑事たちが大急ぎで戻ってきた。二人とも少し息が上がっている。

 

「俺は大丈夫です」

 

「足立! お前が勝手に突っ込むからだぞ!」

 

「す、済みません……」

 

 相棒に叱られた足立は、ばつが悪そうに首をすくめた。足立は戦力的には堂島を大きく凌いでいるが、頭が上がるかどうかは別問題である。

 

「あの、本当に大丈夫ですから。それより堂島さん、怪我をして……」

 

「ああ、大したことはない……」

 

 尚紀が言う通り、堂島は負傷していた。左手の甲から出血していて、スーツの袖も裂けている。尚紀がプロレスラーを転ばせたちょうどその頃、乱戦の最中に獅子に噛みつかれたのだ。そのシャドウはすかさずマガツイザナギが斬り伏せたので、重傷には至っていないが。

 

「メサイア」

 

 そこへ有里がペルソナを召喚した。召喚器は使わず一声呼んだだけで、翼の生えた白い男のペルソナが顕現した。それは右手を掲げ、煌々とした光の柱を立ち上がらせた。光は堂島と足立を優しく包み、特に堂島の左手に集まって、水が砂に吸い込まれるように浸透していった。

 

「!……」

 

 その様を見て、正しくは有里の頭上に現れたペルソナを見て、尚紀は目を瞠った。そうしているうちに、堂島は自分の左手から痛みが引いていくのを感じた。傷は見る間に塞がっていく。そればかりか、左手の指先まで伝っていた血の跡さえ消えてしまった。

 

「何と……服まで元通りとは」

 

「便利なもんっすねえ……」

 

 堂島と足立は回復魔法の効果に感嘆している。だが尚紀はペルソナそのものに驚いていた。

 

「今のが……有里さんのペルソナですか?」

 

「そう。攻撃と回復が両方できる便利な奴さ」

 

 尚紀の声には単なる感嘆以上の響きがあった。しかし有里はそれに構わず、大人たちに呼びかけた。

 

「それより警戒を続けましょう」

 

「ええ」

 

 傷の癒えた堂島が答え、尚紀の左手側に立って警棒を構えた。足立は弾丸を再装填しながら正面に立つ。有里は右手側だ。そうして四人のペルソナ使いは、改めて車を背にしてフォーメーションを組む。しかし──

 

「あ……霧が晴れ始めました」

 

 三人の大人に守られる形で最後尾にいる、尚紀が声を上げた。眼鏡を通していると霧は見えない為、晴れたかどうかも分からない。だが情報系ペルソナには分かる。霧と共に危機は去りつつある。

 

「おや……本当だ。じゃあ今日はここまで?」

 

「そのようですね」

 

 足立は眼鏡を持ち上げて額にかけ、有里も顔から外してジャケットに収めた。肉眼で見れば、霧が薄くなり始めているのが分かる。街灯と車の光は滲まなくなり、それに照らされた互いの顔も見える。ただし日はまだ昇っていない。夜明けはまだ遠い。しかし今夜の作戦は終了だ。

 

「終わりましたか……」

 

 堂島も眼鏡を外しながら、周囲を改めて見回した。住宅街の道路に四人の男以外は誰も立っていない。家はいくつもあるのに、人はいない。

 

「しかしこれだけの騒ぎになって、先ほどの少年以外は誰一人家から出てこないとは……。先月もそうでしたが、常人は霧の中で何が起きているか、全く分からないのですね」

 

 先月5日もそうだったが、今日も銃声が繰り返し響いた。それに加えて竜巻が発生し、ペルソナが矛や剛腕を散々振り回して大暴れした。もちろん四人の男たちの大声も何度も上げられた。まさに戦場の騒擾が市街地で湧き上がったにも関わらず、町の住民は一人も外に出てこない。なぜか?

 

「ええ、影時間と似ています」

 

 天地を覆う霧は、光も音も遮ってしまうからだ。発生原因や実態は未だ不明な稲羽の霧は、その懐を世界から隔絶された異空間へと変えてしまう。

 

「もっともそれだから我々の仕事は、世間に知られずに済んでいるわけですが。ただ一条君は……」

 

 シャドウ、ペルソナ、そしてシャドウワーカー。これらは存在自体が秘密のものだ。その秘密を保てているのは、皮肉にも霧のおかげなのである。しかし真実を隠す霧も、真実そのものに襲われた者に対しては、隠しきれるとは限らない。これまでの被害者で影人間になった者は、襲われた記憶を失った。しかし未然に助けた場合は──

 

「……」

 

 尚紀も眼鏡を外し、車の側を振り返った。そしてバンのドアをスライドさせて開けた。車の室内灯が点いて、中にいる人の姿が露わになった。一条は三列ある座席の一番後ろの列を全て使って、頭を奥にして仰向けに寝かされている。保護する為に車に乗せられてから、ずっとそのまま動かないでいる。

 

「一条さん、大丈夫ですか?」

 

 声をかけると、一条は身動ぎした。顎を僅かに引いて、目を開けた。額には汗が大量に浮かび、前髪が貼りついている。

 

「こ、小西……?」

 

 一条は掠れた声で返事をした。だがそれだけで、すぐにまた目を閉じた。首から力が抜け、座席に頭を投げ出した。

 

「一条さん!」

 

 尚紀は車内に駆け込み、一条の秀麗な、だが消耗しきった顔を覗きこむ。有里が続いて車内に入り、力が抜けた一条の手首を取った。

 

「大丈夫、気を失っただけだ」

 

 脈はしっかりしている。命に別状はない。有里にとって気になるのは、この少年が目を覚ました時、今夜の出来事を記憶しているかどうかだ。更に言えば、ペルソナ使いになり得るかどうかだ。

 

「取り敢えず病院に行きましょう。皆さん、乗ってください」

 

 だが有里はこの場でそれを口にせず、外にいる刑事たちを促した。そして有里は一旦外に出て、運転席に乗り込んだ。

 

 

 かくしてこの日の戦いは終わった。四人のペルソナ使いと一人の被害者全員で住宅街を後にして、稲羽市立病院へと向かった。

 

 しかし堂島と足立は病院には同行できなかった。霧がすっかり晴れた頃、緊急の呼び出しが入ったのだ。シャドウワーカーの情報端末ではない普通の携帯電話に、シャドウワーカーと直接関係のない普通の警察から。それで有里は一旦バンをジュネスまで運んで、刑事二人を下ろした。二人は一晩中駐車させていた堂島の車に乗って、連絡された現場へと急行した。

 

 二人が呼び出された理由は、逆さ吊りの死体が発見された為だった。商店街の外れにある、一条の住まいとは別のアパートの、屋上の手摺りに引っ掛かっていたとのことだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。