「開けて……通してください!」
商店街の外れにあるアパートの敷地内に、大きな人だかりができていた。日曜日ということもあって、主婦や学生の他に平日は仕事をしている大人も大勢いた。
悠は群がる野次馬をかき分けて進んだ。両手を使い、肩をぶつけ、泥の中を泳ぐようにして前へ進む。押すなと文句の声が何度も飛んでくるが、悠は振り向きもしない。真実を知らない世間など知ったことではないのだ。そうして大勢の人々を押しのけて、少年は世間の最前列まで辿り着いた。
「はあ、はあ……」
悠はすっかり息が上がっている。ジュネスからここまで全速力で駆けてきて、その上に人波を無理に泳いだからだ。だが自分の疲労など気にしている暇はない。一秒でも早く確かめなければならなかった。何かの間違いだと、誰かに言ってもらわねばならなかった。残る最後の障害は、立入禁止の黄色いテープだ。
4月以来の連続殺人事件の真実を、世間は何も知らない。それに比べれば警察は少しくらいなら知っているかもしれない。だが本当の真実は警察も知らないはずだ。思いもしないはずなのだ。眼前のテープは警察の世間に対する優位性そのものを表している。権力そのものでもある境界線に、悠は手をかけた。真実を誰よりも知っている自分は、これを乗り越える権利があるはずだから──
そう思って、悠は禁じられた区画に足を踏み入れようとした。だがテープを潜り抜ける為に腰を屈めて頭を入れようとした、まさにその瞬間、聞き慣れた声によって制止された。
「悠!」
境界線の向こう側、警察の領域から堂島が鋭い声をかけてきた。保護者でもある叔父に止められて、悠はテープを潜るのを一旦やめて腰を伸ばした。やがて上着を肩にかけた堂島が目の前までやって来た。足立もその後ろからついてきた。
「こんな所で何をしている。早く帰れ!」
悠は知らないことだが、堂島は徹夜明けなのである。災害救助と言うか有害鳥獣駆除と言うか、とにかくそうした副業を終えた直後に、休む間もなく本業が始まった。だから顔は土色に近く、目は心なしか赤い。はっきりとした疲労の色が顔に浮かんでいる。しかし顔色で言うならば、悠も負けず劣らず良くなかった。頬に汗を浮かべながらも血の気は引いて蒼白になり、両の目だけが爛々と光っている。あからさまな焦燥の色だ。
各々体と心が普段通りではない叔父と甥は、テープの境界線を挟んで向かい合った。二人の間で火花が散る。同居を始めて三ヶ月で初めての対決だ。立会人は叔父の相棒で、甥の『友達』でもある男だ。
「……誰が死んだの」
まず甥が仕掛けた。だが叔父はまともに取り合わない。
「お前な……」
堂島は叱るよりも呆れが先にやって来た。身内とはいえ、こんなことを教えられるわけがあるかと。こういう馬鹿をするとは思わなかったと言わんばかりの、呆れ顔を浮かべる。
近頃は心労の多い堂島にとって、悠はいてくれて助かる甥だった。特に深夜の副業をやっている最中は当然家を空けねばならないが、その間は幼い娘が心配になっていたから。だが甥がいてくれれば、まだいい。もちろん気休めに過ぎないが、それでも助かっている。
「教えてくれ!」
だがそれとこれとは話が別である。仕事中に甘い顔はしてやれない。甥の様子がただ事でないことは、当然叔父にも分かる。しかしだからと言って、聞かれたことに答えてやるわけにはいかない。ここは一つ、この困った若造の首根っこを掴んで引きずり出し、説教の一つもくれてやらねばならないかと、荒っぽい手に訴えることを考え出した頃──
「む……何だ、こんな時に」
鬼刑事の胸元から電子音が鳴り始めた。電話やメールの着信を告げる、無機質な音だ。
堂島はテープの向こう側で悠に背を向け、それから電話を取り出した。数時間前、稲羽署から連絡が入った昔ながらの携帯電話ではなく、最新式のスマートフォンだ。
「じきに警察から発表がある。それまで待て。足立、そいつを連れていけ」
首だけ回して、堂島は悠を突き放した。そしてスマホを耳に当てて歩き去った。その足取りは速く、焦燥した少年にはもう振り向きもしない。かくして叔父と甥の対決は流れた。
「はあ……一体何なのさ?」
成り行きで立会人にさせられた挙句、相棒に後始末を任された形になった足立は、ため息を吐いた。しかし相棒の甥兼自分の『友達』の相手をする前に、その他大勢の野次馬に向けて声を張り上げた。
「あー、お集まりの皆さん! 見世物じゃないですよ! 捜査へのご協力をお願いします! 用のない方はお引き取り下さい!」
そしてテープの境界線を潜り抜けて、悠の側にやって来た。
「君もだよ。叔父さんの邪魔しちゃ駄目でしょ。早く帰んなさい」
若い刑事は十歳年下の『友達』の背に、軽く手を回した。襟首を掴んで無理矢理引っ張りはしない。本気でやろうと思えばできないことではないが、ここでやる気はなかった。
「足立さん……誰が死んだんですか」
だが悠の方は本気だった。息の乱れが未だ収まらず焦りに焦る顔を、十歳年上の『友達』に向ける。そして叔父にしたのと同じ質問を繰り返す。
「いや、だからね……発表がないうちは、そういうことは話せないの! 僕らには守秘義務ってもんがあって……」
「教えてください! 誰が殺されたんですか!」
本気の人間に建前をいくら並べても通用しない。特に普段は感情を表に出さず冷静に振る舞う人間が、予期せぬ悲報によって心底から動揺させられているような場合は。今の悠はまさにそれだった。普段の悠は冷静を通り越して面倒くさがりなのだが、この時は日頃用いずに蓄積していた行動力を、あるだけ全て吐き出しているところだった。建前や常識はおろか、ものの道理さえ顧みない。足立の胸倉を掴まんばかりの剣幕だ。テレビの中で戦う時でも、悠はこんな姿はめったに見せない。
「はあ……しょうがないな……」
普段の足立は寝癖がついている日が多いが、徹夜明けの今日はさすがにない。髪型の大人しい頭に右手を差し込み、億劫そうに掻いた。そして悠から視線を逸らしつつ、内緒だよと小声で耳打ちした。それから改めて少年の背に手を回し、歩くよう促した。すると今度は悠も歩き出した。
若い刑事と高校生の二人は立入禁止のテープから離れた。未だ大半が残ったままの野次馬を置いて、アパートの駐車場の隅まで移動した。足立にすれば守秘義務違反をすることになってしまうが、どうせ今日中には警察から発表が行われる予定である。数時間早いくらいなら、大した問題にはなるまいと簡単に考えた。
「八十神高校の諸岡金四郎先生だよ」
だがやはり、言うべきではなかったのかもしれなかった。たとえすぐに分かることであっても、僅かの間しか続かない希望であっても、自分が打ち砕いてやらなくても良かったのかもしれない。後になってから、足立はそんなふうに思った。
「先生……」
悠は地面に崩れ落ちた。足立が見ている前で体の支えを失った。アスファルトに膝が打ちつけられる音がした。
実は悠はここに来る前から、連続殺人事件の三人目の被害者が誰なのか聞いていた。今日の朝の時間、死体が見つかったと携帯電話に千枝から連絡が入ったのだ。それでジュネスのフードコートに特別捜査隊が集合したのが午前。そこで悠は、現場を見てきたという陽介から聞いたのだ。被害者は『モロキン』だと。
ただ陽介も自分の目で遺体を見たわけではなく、人から聞いた話だったらしい。ならば何かの間違いかもしれないと、悠は希望を抱いた。仲間たちを置いて一人でジュネスを飛び出し、自分で確かめに来たのだ。きっと間違いだと信じて。すがるような気持ちで、明白な事実から目を逸らすような気持ちで、ここまで走ってきた。
だが希望は打ち砕かれた。優しき夢の国と違って、現実は残酷である。この世にどれだけ悪や不幸が満ちていようが、正さないまま放置する神のように。
「知ってる先生なの?」
授業と補習で教わった言葉が蘇る。神は死んだと言う者もいるし、自分たちもそう言って構わないと。哲学や宗教を学んでからならば。なぜいないのか、ある時からいなくなったのか、元からいなかったのか、よく考えたのならば。血反吐を吐いて考えたのならば、言ってよいと教わった。
「……担任です」
今こそ言おう。この世には神も仏もいはしない。昔はいたかもしれないが、それはもう死んだ。ではいつ死んだのか? たった今だ。
「そっか……」
足立は地面に片膝をついた。自失する悠と同じ高さに視線を下ろし、力を失った肩に右手を置いた。夜明け前は銃を握りシャドウを何匹も狩り殺したその手を、途方に暮れる少年の肩に優しく置いた。気休めにもならないだろうと知っていながら。刑事として働いてきた足立は、親しい人を失った人を何人も見てきた。突然の訃報に心が打ち砕かれ、何も見えなくなり、何も聞こえなくなってしまう。そういう人の為に、刑事ができることは一つだけだ。
「辛いだろうけど、今日は帰りなさい。犯人は必ず僕たちが捕まえるから」
柄ではないと、足立は思った。自分は人殺しだと、自分で自分を定めたばかりであるから。だが自分が殺したのではない人に関しては、刑事であることを自分に許した。
悠が足立に慰められていた、ちょうどその頃。稲羽市立病院の駐車場に一台のバンが駐車していた。自動車とは人間の文明の象徴である。その製造は産業の中核を担えるし、走らせれば人や物の移動と交流を革命的なまでに活発化できる。そして走らせずに駐停車した状態でも、車はある意味で象徴的なことができる。空調だ。
夜明け前に出ていた霧は人に肌寒さを感じさせる。しかし霧が晴れれば、季節は夏である。気温はすぐに上がる。しかも密閉された空間である車内は取り分け暑い。しかしクーラーを効かせれば、容易く快適な温度に調整できる。まさに自然に対する人間の勝利と言えよう。
「そうですか……はい、分かりました。お忙しいところ、ありがとうございます」
外の暑さをクーラーで跳ねのけた車の中。その運転席には有里が座っていた。そして自動車と並ぶもう一つの文明の象徴を操っていた。電話である。
「あの……」
有里が通話を終えると、助手席に座る尚紀は遠慮がちに声をかけた。電話の相手は堂島だ。刑事の叔父と高校生の甥の対決を妨害したのは、有里だったのである。もちろん有里は狙ってそうしたのではない。新たに発生した事件について聞く為に電話をかけたら、偶然にも悠がやって来た、そのタイミングだったのだ。
そんな間の悪い電話だったが、聞くべきことは聞けた。
「今朝上がった遺体は八十神高校の諸岡教諭らしい」
「モロキンが!?」
「知ってる先生かい?」
奇しくも有里は、足立が悠にしたのと同じ質問をした。だが尚紀の反応は悠とは少し違っていた。
「え、ええ……授業は受けてませんが」
動揺はしているものの、自失するほどではない。そして動揺の原因は犠牲者本人ではない。
「俺……シャドウを見落としたんでしょうか」
特殊部隊の一員としての責任感だ。
尚紀にとって、諸岡は決して良い教師ではなかった。八十神高校の大多数の生徒にとってと同様に、煙たく疎ましい教師だった。それに加えて、あろうことか殺人事件の被害者を、授業で悪く言っていたとの噂も聞いていた。そんな問題教師であるのだが、死んで清々したなどとは尚紀は言わない。考えもしない。ただ自分の初仕事に手抜かりがあったのかと。自分のせいで、死ななくてもいい人が死んでしまったのかと。その自責の念が尚紀の小さな肩に重くのしかかってきた。
「いや、諸岡さんの遺体には大きな外傷があったらしい。これまでの被害者と違うから、シャドウの仕業じゃない可能性が高い」
「そ、そうですか……。いや、でも……シャドウにだって、ぶん殴ってくる奴とかいるし……」
有里の説明を聞いても尚紀の動揺はまだ収まらない。やはり自分のせいではないのかと、自分を責める要素を自分で探してしまう。顔は有里の側に向けていながら、視線は自分の内側にだけ向いている。良くない傾向である。
(まずいな……)
有里は性格の根の部分には、面倒くさがりなところがある。特に高校生の頃は、何事も『どうでもいい』と投げ出したくなる悪癖があった。しかし今はそれをしてはいけない。尚紀の懊悩を突き放して、組織の上役としての責任を投げ出してはならない。
「君は誇れることをしたんだ」
「誇る……?」
ここで尚紀は戻ってきた。視線を自分の内面から、不思議なことを言う眼前の男に向ける。
「一条君を助けたじゃないか」
「あれは有里さんたちが……」
言いながら尚紀は目を伏せ、再び自分の内面に向かった。尚紀の印象では、一条を助けたのは堂島と足立、そして有里だ。つまり直接戦う力のある者たちであって、自分ではないと感じていた。そう感じさせる最大の要因は、昨晩の最後に有里が召喚した白いペルソナ、メサイアだ。あれは堂島の傷を癒すとすぐに姿を消したが、僅かな間の顕現だけでも分かったことがある。
有里の戦力は桁が違う。イナバノシロウサギが豆鉄砲なら、メサイアは戦略兵器だ。あんなペルソナがいるのなら、自分の力など何であろうか──
「小西君、勘違いしちゃいけない」
対する有里は更に踏み込んだ。意図して強い口調を作り、自ら泥沼にはまろうとする少年を遮る。
こういう心理に関しては、有里は過去の経験から似た人を知っている。シャドウワーカーの前身組織における、サポート専門の情報系ペルソナ使いだ。かの少女はチームとしては絶対に欠かせない役であったのだが、本人はそれをあまり実感していなかった。敵と直接戦う力を持たないが故に、戦いを見ている『だけ』で役に立てていないと、悩むことが何度かあった。だがそれは間違いである。
「戦ったのは僕たちだ。でも見つけたのは君だ。君がいなければ、一条君は諸岡さんと同じ目に遭っていたかもしれないんだ。もちろん堂島さんや足立さんがいなくてもね」
有里は運転席から左手を伸ばした。高校生としては小柄で線が細く、骨が浮かびそうな尚紀の肩を掴む。過去の戦いで培った力を、戦いを始めたばかりの少年に分け与えるように。
「僕たちはチームだ。その責任は、君一人が背負うものじゃないんだ」
「……はい」
尚紀は頷いた。取り敢えずのフォローは上手くいったと有里は判断し、伸ばした手を戻した。そして今度は自分のことを考え始めた。
(イゴールが言っていたのは、これのことかな……)
今年初めて稲羽を訪れた4月29日の出来事だ。あの日、イゴールはこの町で起きていることの責任を負っているのは、有里ではない別の人間だと明言した。有里はそれを足立のことだと思っている。だがイゴールはその後で、こうも言っていた。『貴方にも何らかの責任が生じるかもしれない』と。
有里はシャドウワーカーの組織上、ナンバーツーの地位にいる。そして実質的にはトップを凌ぐ影響力を持っている。つまり未成年の身でありながら、人の上に立っている。そして人の上に立つとは、人を使うことだ。利用するとは、それを言い換えたに過ぎない。人を使うことで生じる責任は人の上に立つ者が当然負わねばならないし、そこから逃げるつもりはない。
ただし有里はシャドウワーカーの本部と稲羽支部の活動から生じる、全ての責任を一人で背負うつもりもない。責任とは客観的に己に帰する責任のうち、取れる分だけ取ればよいものだ。それ以上を背負うのは傲慢であり、背負わされるのは理不尽であると有里は考えている。
(全部の責任は僕には負えないが……だからって彼に負わせるものじゃない)
そんな有里にとって、諸岡の死の責任は尚紀のものではなかった。では誰のものであるのかは、今後の調査次第だ。だがどのような真実が明らかになろうと、有里は尚紀に責任を負わせるつもりはなかった。
そうして一つのことを決めて、有里は自分の内面から現実へと戻る。するとフロントガラスの向こうで、病院の建物から二人連れが出てくる姿が目に入った。夫婦と思しき中年の男女だ。
(ん……家族が出てきたか)
一条の家族である。有里は一条をここに搬送して入院させた後で、一条家に連絡を入れたのだ。それで両親が飛んでやって来たのが数時間前だ。倒れた息子を見舞う家族に気を遣って、有里と尚紀は席を外し、こうして車内に身を置いているのだ。
見舞いを終えた家族は一旦家に戻ろうとしているのだろう。もっとも今日中にも、再び病院を訪れるかもしれないが。
「僕は一条君の様子を見にいくが、君はどうする? 帰るなら家まで送るけど」
「いえ……俺も行きます」
そうして二人は車を出て、一条家の人々と入れ違いに病院へ向かった。
意識不明の状態で担ぎ込まれた少年は、病室のベッドに身を横たえて眠り続けている。尚紀はその脇に置かれた椅子に腰かけ、有里はその隣に立った。ちなみに上着は二人とも脱いでいる。召喚器と実銃、そしてそれを収めるホルスターと一緒に車に置いてきた。夏の日差しは二人の背後にあるカーテンで遮られ、廊下に繋がる引き戸は閉じられている。空調の効いた涼しい部屋に、三人以外の人間はいない。
「小西君、何か感じないかい? 素養とか」
有里が言っている素養とは、もちろんペルソナ使いになる素養である。
「……済みません。言われてみれば何かあるような気もしますが、はっきりとは……」
だが尚紀の歯切れは悪い。人を見てペルソナ使いであるかどうか判断するのは、情報系ペルソナ使いであっても難しいのだ。ペルソナを召喚して本格的に調べようにも、今ここではできない。霧が出ているうちに調べておくべきだったと、尚紀は少し悔やんだ。
「一条君とは親しいのかい?」
「いえ、親しいってほどじゃ……。先月の林間学校で一緒の班になっただけです」
「……」
有里は考え始めた。先ほど尚紀とした、責任がどうとの話は綺麗さっぱり頭から追い出して。病院に担ぎ込まれる前から変わらず、ひたすら眠り続けている眼前の少年に関して考えを巡らせてみた。果たしてこの少年、一条康はペルソナに目覚めたのか、そうではないのか。はっきりしたことはまだ分からないが、もし目覚めたのだとしたらその原因は何か。
(シャドウの声を聞いた可能性は高い。でもそれは、きっかけに過ぎないはずだ。元の原因は……)
桐条グループの研究と有里自身の経験によれば、家庭環境の問題がペルソナに目覚める要因の一つに挙げられる。例えば親兄弟との死別とか、両親の過度な期待とか。未だ仮説の段階だが、過去の実例からはそのように判断できる。だが一条家がどのような家族なのか、有里はまだ知らない。だから取り敢えずそれは除外して考えてみた。
ペルソナ使いやシャドウの被害に遭った人が身近にいることも、覚醒が促される要因であるとする仮説もある。もし尚紀と一条が親しい間柄であるならば、尚紀の存在が一条の覚醒要因になったのかと思ったが、特に親しいわけではないのなら、尚紀は要因ではないのかもしれない。だがそう言い切ることはできない。シャドウワーカーの非常任のペルソナ使いの一人で、高校三年生の時には寮のルームメイトにもなった有里の親友のケースがある。
(覚醒前の順平は僕と特別親しかったわけじゃない。ほんの僅かな接触でも十分なのかもしれない。足立さんたちだって、案外……)
有里は4月29日に堂島と足立、そして黒沢と一緒にスナックで飲んだ。今となっては確かめようがないが、稲羽の刑事たちの覚醒要因は実はその日に初めて会った自分である可能性を、有里は捨てていない。
この点からすると、交際の期間や深さは問題ではないのかもしれない。だが有里とその親友、そしてもしかしたら足立たちの場合だと、有里自身がペルソナ使いの中でも特殊なワイルドであるという事情がある。そしてもっと特殊な事情として、全てのペルソナ使いの認識と記憶の急所となっていた、シャドウの結晶を体内に宿していたという事実もある。そこを考慮に入れると、尚紀が一条の覚醒要因であるのか違うのか、判断はなかなか難しい。
だが要因が何であるにせよ、有里としては一条がペルソナ使いになってくれればありがたい。人手は多いに越したことはないのだ。シャドウワーカー稲羽支部の戦力が充実すれば、それだけ有里の負担が下がる。そして稲羽に出張に来る必要性も下がる。それは身重の妻の傍にいられる時間が増えるということであり、青い服の美女に付きまとわれる機会が減るということでもある。そして虚無の大地で過去の情景を見せられて、色々喋らされる機会も減るということだ。
(回復ができるタイプのペルソナだと一番いいな。影時間の再現装置を取り寄せて、試してみるかな……)
そんなことを考えていると、病室の引き戸が開いた。ノックもなしで、いきなり。
「あ、長瀬さん」
来たのは八十神高校二年生の長瀬大輔だった。今日は日曜日だが、学校指定のジャージ姿である。
「小西? どうしてお前が?」
「倒れていた一条君を小西君が見つけたんだよ」
病室に尚紀がいることを怪訝に思った長瀬に、有里がフォローを入れた。だが長瀬は今度は有里に訝しげな視線を送った。すると尚紀がフォローを入れてきた。
「この人は俺の知り合いです。一条さんをここまで運んでくれたんです」
「そっか……そりゃあ、ありがとさんです。俺、長瀬って言います」
「有里だ。よろしく」
「う……ここは……?」
互いの簡単な紹介が終わったところで、ベッドの上の一条が身動ぎした。
「な、長瀬……? 小西……と、誰?」
一条は白い闇から現実に帰ってきた。未明から閉ざされ続けていた目を開けて、小学生時代以来の親友の姿をそこに映す。そしてもののついでのように、林間学校で同じ班になった後輩と見知らぬ男の姿も認める。疲労の滲んだ顔を、首だけ動かして右へ左へと交互に巡らせた。
「おい一条、何だこりゃ?」
だが首の巡りは、不審そうな声によって中断させられた。長瀬は自分の胸に右手を当てながら、精悍な太い眉を顰めている。胸に当てた手は単に添えているのとは違う。体の内側に凝った何かを掴んでいるように、力が込められている。
「何だって、何が……え、え?」
親友に言われた途端、一条の様子もおかしくなった。ベッドから身を起こして、自分の胸に左手を当てる。やはり何かを掴んでいるように、力が込められている。
「長瀬君、どうしたんだい?」
「どうって……俺が聞きてえっすよ。ペル……何とか?」
「ペルソナ……?」
長瀬が途中まで言って、一条が引き取った。
「!……有里さん!」
尚紀は椅子に座ったまま、急いで振り返った。対する有里は深く頷いた。この二人は病室に来てから、一度もこの言葉を口にしていない。それにも関わらず一条は力を表す言葉を知っている。そして長瀬も知っている。それはペルソナ自身から聞いたから。そうとしか考えられない。
「間違いないね。目覚めたんだ」
知らないはずの言葉を自己申告された以上、一条の覚醒はもはや確実と言ってよい。その上、嬉しい誤算まである。
「しかも長瀬君もか」
ペルソナ使いが身近にいると覚醒が促される。この仮説に関して、一つの傍証を得られた気がした。真っ先に見舞いに訪れるくらいだから、長瀬と一条は親友の間柄であることは、初対面の有里にも察せられた。一条の覚醒原因は不明確だが、長瀬の覚醒は一条に原因がある。そう推察できた。
(これは真田と荒垣のパターンに近いかな)
有里が知る過去の実例の中では、幼い頃からの親友だった二人のペルソナ使いが、今回のケースに近いかもしれなかった。有里も人から聞いた話だが、それによればその二人は片方が目覚めた直後に、もう片方も釣られるように目覚めたらしい。しかも現実の関係に合わせたかのように、ギリシャ神話に登場する兄弟のペルソナに目覚めたのだ。それと同じようなことが、一条と長瀬の間にも起きた。有里はそう判断した。判断しつつ、納得した。
だが有里と尚紀も知らない事情が、実は一条と長瀬の間にはある。それはこの二人は、この場にはいないあるワイルドのペルソナ使いが束ねる、コミュニティと呼ばれる絆の担い手であるという事実だ。しかも一つの絆を二人で共有する形で担っている。一条がペルソナに覚醒した原因は、大まかに言って二つある。二年前の妹の誕生から始まった家庭の悩みと、ワイルドとの間に結ばれた剛毅のコミュニティだ。そしてコミュニティとペルソナは根源を同じくするものである為、一条の覚醒が長瀬にも影響を与えたのだ。
しかし一条と長瀬自身は、自分がコミュニティの担い手であることを知らない。知っているのはコミュニティの主だけだ。そしてその主は二人の覚醒を知らない。だからなぜ二人が覚醒したのか、本当のところを理解できる人間はどこにもいなかった。この時点では。
「えっと……長瀬。お前、どうしてここに?」
「お前のお袋さんから電話もらったんだ。お前が倒れたって……。さっきまで親御さんらが来てたらしいけどな。仕事の都合で外さなきゃいけねえから、俺に行ってくれって頼まれたんだ」
「え、父さん母さんが……?」
小さな光の粒に照らされて、悠は自分がどこにいるか唐突に気付いた。諸岡の遺体発見現場は足立に促されて離れた。そこまでは覚えているが、その後にどうしたのかは覚えていなかった。どの道を歩いてきたのか、自分でも分からなかった。だがとにかく自分が今どこにいるのか、急に理解した。鮫川の河川敷だ。
今日は未明から霧が出ていたが、明け方には晴れていた。だが午前中は雲がかかっていて、日の光が地上に注がれたのは昼間からだ。今月4日以来の約一週間ぶりの太陽の光が川に反射して、細かな宝石を散らしている。川や海は夕日を浴びた時が最も美しいとよく言われるが、昼の光にもよく映える。
(川……)
先月の終わりに、悠は諸岡とここで話をしたのだった。諸岡は問題教師には違いないが、決してそれだけの底の浅い人間ではない。あの日、心の深いところを、ここで見せてくれようとしていた。そしてまた釣りに行こうと、ここで約束したのだ。だが約束を果たす機会は永遠に失われてしまった。犯人のせいで。
(もう……釣りはできないんですね)
悠は悔やむ。川でも海でもいいから、もう一度釣りをしたかった。もっと話がしたかった。もっとたくさんのことを教えてほしかった。倫理の授業は、まだ教科書の半分程度しか進んでいないのに。補習は二回しか受けていないのに。釣りのやり方は、何も教えてもらっていないのに。全てが中途半端なまま、何の答えも得られないまま、諸岡はこの世からいなくなってしまった。
『我』が教えるコミュニティには結局ならなかった。しかしアルカナの名前がないままでも有意義に感じていた、かけがえのない交流は終わってしまった。
全ては犯人のせいだ──
(……許さん)
体の下の方から、熱を持った何かが湧き上がってきた。それは背骨を走って心臓に活を入れる。頭を焼き焦がして、目から熱気が零れ落ちる。涙は出ない。憎悪の炎に当てられて、悲しみは蒸発する。人は目の色が変わる時、世界の色も変わって見える。昨日までとは、何もかもが変わっていく──
今、自分の精神が変容の時を迎えようとしている。悠はそれを自分で自覚した。
思い出されるのは4月15日。クマと陽介に頼まれて、犯人を捕まえるべく特捜隊を結成した時だ。あの時も、自分自身にこんな印象は持たなかった。人をテレビに落として殺している犯人がいることを、ただ知識として知っただけだったから。真実を知っても、それは人の性格まで変えるとは限らない。だが今は違う。
精神の底に眠っていた何かが目を覚まそうとしている。岩盤を貫いて噴出した油に蝋燭の火を落としたように。硬い殻の下で惰眠を貪っていた、心のマグマが沸騰している。物事に対して受け身で面倒くさがりで、何事もそっとしておきたがる行動力に欠けた少年は、激しく燃え盛る感情が己の内にあることを知った。
(先生……仇は必ず取ります)
この時、悠の前に鏡はなかった。だから自分の瞳が何色になっているのか、分からなかった。川が散らす光が瞳に映っているだけなのか、内面から生じる禍々しい金の光が現実の目にも現れたのか。自分の目の色を確かめることはできなかった。