「今日は諸岡先生のお葬式があるわよぉ」
八十神高校の二年二組には、昨日から新しい担任が来ている。生物を担当する柏木典子だ。癖なのか何なのか、上目遣いで奇妙に甘えるような声で話す。この高校は個性の強い教師が揃っているが、柏木もその例に漏れない。諸岡とは方向性が異なるものの、味の濃さではいい勝負だ。
「雨酷いけど、最後のお別れなんだしぃ? 行ける人は行ってあげてね。あ、夏なんだし、上着はなくてもいいと思うわよぉ?」
ホームルームが終わると、悠は早速帰り支度を始めた。カバンに教科書やノートを詰め込むのもそこそこに、急いで席から立ち上がる。クラスの中で最も早いくらいだった。
「鳴上?」
相棒の常ならぬ慌ただしさに、後ろの席に座る陽介が声をかけた。すると悠は振り返らずに答えた。
「先生の葬式に行ってくる」
言い終えるのに合わせるように、外で雷が鳴った。今日の雨は朝から続いているが、午後以降はより激しくなってきている。傘を差したところで、どれだけ役に立つかだ。しかし悠に天気を気にする様子はない。
「……俺も行くわ」
陽介も席を立った。今日はアルバイトのシフトが入っているのだが、遅れて行くことにした。
「千枝、私たちも行こう?」
「うん……そうだね」
男子二人に倣って、雪子も千枝に声をかけた。かくして特別捜査隊の二年生組は、全員で亡き担任の葬儀に行くことになった。
警察が調べたところによれば、諸岡の死亡推定時刻は9日の23時から24時の間で、遺体が発見されたのは10日の夜明け前だ。殺人事件であった為、遺体は警察によって検死され、戻って来たのは昨日11日。通夜は昨晩に行われた。そして告別式は今日である。会場は市営の小さな斎場だった。
諸岡の葬儀はしめやかに行われていた。ひっそりと、人目を憚るように。と言うより、参列者が少なかった。学校関係者では教師が数名、生徒は悠たち以外にはほとんどいなかった。
悠は短い行列に並んで焼香を行った。顔を上げれば、花に囲まれた大きな遺影が正面にある。写っているのは、味と香りの強い調味料をあるだけ混ぜ合わせたような、諸岡のいつもの濃い顔だ。しかし写真は本物と違って一言も喋らない。前歯がはみ出し気味のその口は、もう二度と怒声を発さない。額に青筋が浮かぶこともない。授業の続きは永遠に受けられなくなったことを、動かない写真が沈黙のうちに告げている。
香炉で焚かれた抹香の細い煙が、生きている悠と死んだ諸岡の間を別っている。死は何よりも深い溝だ。テレビの中の霧がペルソナ使いを阻むよりずっと深く、どうしようもなく、死は生きた人間を拒む。飾られた葬送の花の鮮やかさの、何と虚しいことか。いもしない神仏に祈る読経の響きの、何と意味のないことか。生者が死者の為に何かをしようと伸ばす手は、いつも見当が外れている。
(先生……申し訳ありません……)
長い時間をかけて、悠は遺影に向けて手を合わせた。その間、陽介たちは黙って待っていた。
「ひゃあっ!」
斎場から出ると、ちょうど天から降される神の怒声が響き渡った。雷が嫌いな千枝は、一声上げてたたらを踏む。
「酷い雨……いつまで降るのかしら?」
まだ放課後の早い時間である。上がるのは夜か、それとも明日の朝か。だがいつであっても構わないはずだった。真夜中まで雨が続こうが続くまいが、もはや違いはない。雨が影響することと言えば、洗濯物の乾き具合くらいのものだ。世間と同様に、特捜隊の四人はそう思っている。一応。
「事件、終わったんだよね……?」
「うん……そうなんじゃない?」
千枝が確認するように聞くと、雪子は曖昧に答えた。犯人の自首は昨晩のニュースで放送され、特捜隊は全員がそれを見た。だが頭では理解しても、感情は納得していない。全く予期せぬ形での唐突な非日常の終わりは、二人に実感を与えていない。毎週欠かさず見ていたテレビドラマが、制作者やスポンサーの都合で打ち切りになり、それまでの経過を無視して強引に最終回を迎えたようなものだ。事件に対する思い入れが特別強くなかった千枝と雪子でさえそうなのだから、強かった悠と陽介はなおさらである。
「……」
悠は建物から出てすぐの場所で振り返って、斎場をじっと見上げていた。傘を手の中で傾けて、中棒を肩にかけている。半透明のビニール製の傘布を水が滑り、露先から白糸を無数に垂らしている。垂れているのは雨である。一昨日から相も変わらず、悠の目から涙は出てこない。憎悪の炎は行き場をなくしても、なおも少年の涙を乾かしている。
「……」
陽介はそんな相棒と背中合わせになって、豪雨で洗われる斎場の外を眺める。三々五々帰路に就く参列者たちを、無言で目に入れている。事件が終わって、ただの高校生に戻った自分が帰る場所である世間を。
「あ……」
その中に知り合いの姿を認めて、陽介は歩き出した。近づくと相手も陽介に気付いた。
「花村さん」
尚紀だ。小さなビニール傘で小柄な体を覆っている。
「来てたんだな」
「花村さんこそ」
「そりゃあ……担任だからな」
尚紀は視線を巡らせ、陽介が来た側を見た。そこには千枝と雪子、そして悠がいる。
「来たの、皆さんだけですか?」
「まあ、何つーかな……」
陽介は言葉を濁したが、何を言わんとしているのかは明白だ。参列する生徒が少ないのは、諸岡は八十神高校随一の不人気教師だったからだ。特捜隊の四人の他は、二年二組の生徒は誰も来ていない。他のクラスの生徒も尚紀以外は見かけない。完二とりせも、陽介たちは声をかけなかったので来ていない。
「ま、そっすよね……おまけに大雨ですし」
「……」
尚紀は小さくため息を吐き、対する陽介は息を吸った。腹を使って大きく呼吸した。何かの決心をするように。
「なあ……尚紀」
陽介は短くない間を置きながら、尚紀を下の名前で呼んだ。この少年を名字で呼ぶのは、何かが違うような気がしていたから。しかしそうかと言って、気安く呼ぶのも憚られる。何しろ『あんたが嫌いです』などと、面と向かって言うような生意気な後輩である。だが陽介としては、いつまでも尚紀から逃げているわけにはいかないのだ。だから躊躇いを禁じ得ないながらも頑張って、腹を括って、想い人の弟を名前で呼んだ。
「何ですか?」
意を決した陽介とは対照的に、尚紀は陽介が自分に向けた呼び名に驚いた様子はない。好きではない相手でも、下の名前で呼ばれるくらいは気にしない。何より場所が場所だ。葬儀で嫌味を言ったりケンカしたりするほど、尚紀は大人気なくはない。
デパート店長の息子と老舗酒屋の息子。想い人を失った少年と、姉を失った少年。家業と女という、当人同士以外の何かを介して縁の深い二人。そして同じ人間を契機として力を得た、二人のペルソナ使い。陽介と尚紀は互いにそうとは知らないものの、実は普段の生活と力の両面において、共通点がいくつかある。そんな奇妙に類似している二人の視線が、雨の中で真っ直ぐ出会った。
「……」
仇を取れなくて、済まなかった──
陽介はそう言いたかった。言ってはならないことだと分かっていながら、もう喉まで出かかっていた。事件は解決したのだから、もう何もかも明かしてしまってよいのではないか。世間はともかく尚紀にだけは、早紀の死の真相を教えてもよいのではないか。生意気なこの少年は、特捜隊以外ではこの世でたった一人、真実を知る権利があるのではないのか。陽介は半ば本気で、そんなことを思っていたのだが──
「おい、あの高校生って、二件目の被害者の弟じゃないか?」
邪魔が入った。斎場に私服姿で来ている数人の男たちが、尚紀を指差している。マスコミだ。世間というものを代表する者たちである。尚紀も気付かれたことに気付いて、顔を顰めた。するとマスコミより素早く少年に近づいてくる影があった。
「小西君、そろそろ行こう」
黒いスーツに白いワイシャツを着て、黒いネクタイを締めた男だ。傘を差しながら、滑るような足取りで尚紀に近づいてくる。
「はい。それじゃ、失礼します」
「帰ります。通してください」
「……」
被害者遺族からコメントの一つも取ろうと無遠慮に近づいてくるマスコミを、喪服姿の男は追い払った。そうして二人は斎場の建物前から駐車場へと向かった。その間、陽介は黙って二人を見送った。言おうとしたことは、結局言えなかった。生前の早紀に何度も言いかけながら言えなかったように、今日も言葉を飲み込んでしまった。
虚しく佇む陽介の下に、やがて悠がやって来た。次いで千枝が来て、雪子も来た。すると──
「あれ、あの人って……」
「ん? 雪子、知ってるの?」
「知ってるって言うか……お客さん。ゴールデンウィークの頃から、何度かうちに泊まってるの」
喪服姿の男は有里である。尚紀が諸岡の葬儀に参列すると言うので、付き添いとして来たのだ。早紀と諸岡は、世間では同一犯による連続殺人事件の被害者と見なされている。警察は久保が全ての事件の犯人とは断定していないが、完全な否定もしていない。その間に噂や憶測が独り歩きしているのが、現在の状況だ。
そこへ遺族の尚紀が参列すれば、好奇の視線にさらされる恐れがあった。だから一人で行かせるのは良くないと有里は判断し、車で送るついでに葬儀に付き合ったのだ。ちなみに喪服は急遽ジュネスで調達したものだ。
「小西君の知り合いだったんだ……」
4月以来、有里は稲羽への出張では、いつも天城屋旅館に宿泊している。そろそろ常連と呼んでも良さそうな頃合いなので、雪子も覚えていた。ついでに言うと、雪子と有里は二年前の8月にも会っているのだが、雪子はそこまでは覚えていない。
雪子が有里について知っているのは、顔と名前くらいである。何者なのかは知らない。有里も雪子が何者か知らないし、知ろうとも思っていない。もし二年前のように有里がコミュニティと呼ばれる絆を集めていたならば、己の戦力強化の為に一歩くらい踏み込んだかもしれないが。しかし今の有里は、雪子とは旅館の娘と客という、極めて表面的な関係しか築けないのだ。
もし有里が特捜隊と表面以上の関係を築くとすれば、その相手は──
(あの人、どこかで見たような……)
何とはない既視感を覚えているのは悠である。そしてこれは錯覚ではない。二人が顔を合わせるのは、これが二度目なのだ。最初は4月30日、堂島と足立がシャドウに襲われて入院した日だ。だがその時は特に話もしなかったので、悠は思い出せなかった。そして今日もこの場では話はしなかった。
「あたしらも帰ろっか……」
「そうだな……。俺はバイト行くわ」
非日常の日々が終われば日常があるのみだ。そして陽介の日常にアルバイトは付き物である。しかし──
「花村、ジュネスは人手が足りてるか?」
今日は普段と違うことが起きた。斎場を出ようとする陽介を、悠が引き留めてきたのだ。
「ん? いや、いつも足りてねえけど……」
「俺もバイト手伝うよ」
悠は以前も陽介にこう言ったことがある。完二を救助した直後の5月25日、倫理の授業で二人揃って居眠りをして、補習を受けさせられた時だ。言うなれば、二人の絆には諸岡も一枚噛んでいたわけである。そして奇しくもその死に関連して、悠は友人との約束を果たそうとしているのだった。だが陽介は、それは助かると喜びはしない。
「……いいのか?」
「ああ……働かせてくれ」
陽介にすれば、何もこんな時にとの思いがある。しかし悠にすれば、こんな時だからこそなのだ。何でもいいから忙しくしていたかった。できれば体を動かしたい。じっとしていると、頭の中を色々なものが駆け巡って憂鬱になるのだ。
ジュネス八十稲羽店はいつも忙しい。接客やレジ打ちなど、商品知識や技術が要求される仕事は無論、体力が必要な仕事もたくさんある。初めて来た悠に割り振られたのは、品出しや棚卸などの力仕事だった。どちらかと言えば細身の悠がやるにはなかなか疲れる作業だったが、陽介のようなセールストークはできない以上、仕方がなかった。
「お疲れさん」
そうして夕方の遅い時間になって、一通りの作業を終えた。日当も受け取ってから、二人はフードコートに身を置いた。雨は依然として降り続いていて、屋上に他の客はいない。
「ああ、急に割り込んで悪かったな」
二人が座っているのは、建物のすぐ近くに置かれた屋根つきのテーブル席だ。
「いいって! つか、助かったぜ。最近マジで人手足りねえし、頭数だけいてもスキルが足りてねえとかさ……」
陽介は愚痴を零した。稲羽市は小さな田舎町ではあるが、地域全体の生活を一店舗で支えようなどと思ったら、それは大変な騒ぎになる。だからジュネスで働く人は正社員から高校生のアルバイトに至るまで、求められるものが多い。
「ちょっと、花村!」
多いから、こんな揉め事も起きる。
「……今日は何すか?」
陽介が座ったまま振り返ると、女子高生と思しき二人組が来た。どちらも派手な服装で、口調は速かった。
「何でカズミは休めて、うちらは駄目なわけ!?」
初めてジュネスで働いた悠は、何が何やらよく分からない。しかし悠などまるでそこにいないかのように、二人はまくし立てる。
「前にあんたに言ったじゃん! うちら、土日はバイト入れないって! だから断ったら、やっぱクビとか言われて! 超意味分かんないんだけど!」
「や、俺は一応、チーフに伝えましたけど……。それよか先輩ら、最近無断欠勤とかしてないすか?」
この二人はシフトの関係で、陽介に文句を言っているのである。ただし道理は陽介にある。痛いところを一つ指摘された、年上と思しき少女たちは矛先を転じてきた。
「あんた、早紀もヒイキしてたよね!?」
「は……?」
「ごまかしてもムダだからね! みんな知ってんだから! あんたが早紀のこと好きで、特別扱いしてたことくらい!」
「……小西先輩のことは関係ないんじゃないですか?」
「あるに決まってんじゃん! どうせ、他の従業員にもヒイキさせるよう言ったんでしょ? 店長の息子だからって、何やってもいいわけ!?」
正しくは店長の息子だから、『陽介には』何を言ってもいいのである。大勢の人間が働く場では、不平や不満はどうしても生まれる。諸岡風に言えば、ルサンチマンが服を着て歩き出す。その埋め合わせを陽介はさせられているのだ。
「で、早紀が死んだら今度はカズミってさあ! 言っとくけどあの子、彼氏いるし。早紀だって嫌がってたよ!? そういうの分かんないとか、マジウザすぎ!」
「……」
『悠は』段々と自分が苛立って来るのを感じた。いや、苛立ちならば昨日からずっと継続している。人は四六時中怒りばかりを感じてはいられないが、大人しくしている間にも燻るものはある。
「うちら、早紀から話聞いてるんだから! 早紀ってああ見えて……」
男二人が黙っている間に、話がずれだした。早紀を贔屓していた(と思っている)陽介を詰っていたのが、贔屓されていた早紀への非難にすり替わった。
「帰省してきた大学生にくっついて、どっかまで行ったって! けどすぐ帰ってきて、自分でお金貯めて出てくって言ってたって! 分かってる!? 金と男よ!」
何か燃えるものを与えられれば、熾火はいつでも炎を噴き上げる。そして今、雨あられと振りかけられる言葉の燃料が、悠の心の器の許容量を超えてしまった。零れ落ちた油は心の岩盤に開いた隙間を滑り落ちて、燻っていた怒りをとうとう爆発させた。
「黙れ!」
フードコートに雷が落ちた。雨ごと吹き飛ばさんばかりの悠の大喝に、二人の少女は振り向いた。
「な、何よあんた……」
そして怯む。現実の雷光を映して、悠の瞳は金色に光っている。
異邦人の少年は怒りで視界が染まる感覚を覚えながら、4月以来の友人たちとの付き合いを省みた。思い返せば、こんな揉め事ばかりだった。千枝は不良グループと、雪子はたちの悪いマスコミと揉めていた。そして陽介はこれである。『ジュネスの息子』という立場に付け込んだ、身勝手なバイト仲間だ。コミュニティとは誰が相手でもトラブルに巻き込まれるようにできている。そんな疑いさえ持てるほど、面倒事は群れをなして襲ってくる。だがそれも結構だ。
自分はもはや、これだけ勝手を言われている友人を、そっとしておくほど大人しい少年ではいられない。臆病な面倒くさがりは、一昨日鮫川に捨ててきた。
「いい加減にしろ! そいつを何だと思ってる!」
三ヶ月前、イザナギは怒りの電撃でルサンチマンの化身を叩き伏せた。勝手なことばかり言う鏡像を、力尽くで粉砕したのだ。そしてそのやり方は正しかったのだと、悠は思っている。むしろ下らないことを言い出す前に、問答無用で黙らせれば良かった。シャドウに言葉は通じないのだから。悪鬼悪霊には、まず力だ。そして自分は正しいと思っている、ルサンチマンの女にも言葉は通じない。示すべきなのは力である。
「鳴上……」
「あ、あんたは関係ないでしょ! ギャーギャーうるさいのよ!」
少女たちの矛先が悠に向くと、今度は陽介が立ち上がった。椅子を蹴倒さんばかりの勢いをつけて、決然と。
「ギャーギャーうっせーのはお前らだろ!」
今日はずっと、いや、昨年田舎に引っ越してきて以来、ずっと大人しく対応し続けていた陽介も、遂に本気になった。雷光を映していない瞳は金色に光りはしないが、代わりに激しい身振りで怒りを表す。
「こいつはなあ……あんたら何かより、ずっと小西先輩を知ってんだ!」
陽介がこう言うのは、4月15日に聞いた早紀の『遺言』だ。陽介からシャドウを押し出す要因になったあれは、悠も自分の耳で聞いている。つまり悠は早紀を知っていると言う権利がある。表面しか見ていないアルバイト仲間よりは、少なくとも。
「な、何よ、いきなり……」
「もういい……あんたらは、何も分かりゃしないんだ!」
親友の助けに力を得て、自分も親友を助けるつもりになって陽介はエスカレートした。自分の立場も普段の振る舞いも忘れて、言いたいことをそのまま口にした。
「あんたらはクビだ! さっさと帰れ!」
雨はまだ降り続いている。雷は天地のどちらでも鳴る。
免職された二人の少女はフードコートから去っていった。もっとも店長の息子とはいえ本人はアルバイトの身に過ぎない陽介は、同僚をやめさせる権利などない。つまり越権行為をしたわけだが、結果としては同じことである。あれだけ言われた二人が二度と来るとは思えないし、事情を話せばチーフも見切りをつけるだろう。
邪魔者を追い払った二人の少年は、再び席に腰を下ろした。臨時の手伝いである悠はもちろん、陽介もクビ宣告の後始末をしようとしない。もう仕事どころではなかったから。後でチーフや父親から叱られようが、知ったことではなかった。
「俺さ、犯人が自首したって聞いて……悔しかったんだ」
陽介は眼中にない事柄を心配する代わりに、内心を吐露した。昨日から胸中で渦巻いていたものが、今の騒動でいよいよ抑えきれなくなっていた。
「……」
陽介は腕と足を組んで、脇を見ながら言う。悠は膝に肘を置きながら黙って聞く。雨に隠された二人は、秘密の話を二人だけで進める。
「犯人は俺が捕まえたかった……。先輩の仇を取りたかったんだ」
「そうか……」
「白状するとよ……捕まえたって警察が取り合わねえかもとか、法律じゃ裁けねえかもしんねえってのも、構っちゃいなかった。むしろ好都合だと思った。法律が駄目なんだから、俺が裁くしかねえ……つか、俺が裁いていいんだって思ってた。犯人を殺してやるつもりだったんだ」
犯人を捕まえたとして、どうするのか。警察が取り合うのか。法律で裁けるのか。これは極めて早い段階から懸念されていた問題である。4月16日、魔術師のコミュニティが築かれた日に悠から話している。その時は捕まえてから考えればいいと、楽観的に議論を流してしまっていた。だが実は犯人を捕まえたらどうするか、陽介は初めから決めていた──
そこまで言っては、きっと言い過ぎであろう。しかし初心がどうあれ陽介は本気である。もし今の陽介の前に犯人を差し出せば、必ずやる。そして悠はそんな相棒を咎めない。
「俺もそのつもりだった」
「相棒……」
「マスコミのインタビューに答えたのは、マヨナカテレビに出て犯人をおびき寄せるつもりも、あるにはあった……。でも犯人を殺してやるってのは、嘘じゃない……。本気だったんだ」
悠もまた犯人を殺してやるつもりだった。自分を落とそうと襲ってきたところを、現実で取り押さえるだけで済ませるつもりはなかった。用意された凶器のテレビに、犯人をこそ突き落としてやるつもりでいた。何なら自分も一緒に入って、テレビの中で自らやるのでも良かった。まさにテレビは理想的な凶器である。シャドウに食わせるのも、ペルソナの雷で焼き殺してやるのも思いのままだ。
「モロキ……諸岡先生か?」
「ああ」
悠は今日の葬儀で心底から悔しく思っていたのだ。犯人の首を供えてやるつもりでいたのに、できなかった。仇を取る力があるはずの手は、何の役にも立たなかった。早紀の仇を取ったと尚紀に報告するつもりでいたのに、何も言えなかった陽介と同じで、悠は何もできなかった。たった一つできたのは、遺影の前で手を合わせることだけ。神も仏もいはしないこの世で、無益な祈りの手を合わせただけだ。
「……」
陽介は沈黙しながら、先月に聞いた相棒の冗談を思い出した。『先生はいい人だ』と。あれは冗談ではなく本気だったのだと、一昨日から察していた。そして今日、相棒は本心をはっきりと打ち明けた。殺意があったことを認める悠の告白が、陽介をもう一歩踏み込ませた。
「悪い……もう一つ白状するな。俺、正直……心のどこかで、先生が犯人かもって……思ってたことあんだ」
悠の目が尖った。これは聞き捨てならないとばかりに、反射的なまでの速さで俯いていた顔を上げた。しかし視線は出会わなかった。陽介は依然として腕組みをして、脇を向いている。まるで自分を見ないでくれと言うように。
「被害者、未遂のもうちの高校からばっかだし、死んで当然とか言ってたことあったし……」
「花村」
言い訳を並べる陽介を、悠は低い声で遮った。聞きたくない話だったから。相棒に咎められた陽介は目を閉じて、歯を食い縛った。
「悪い……ホント悪かった」
陽介は腕組みをしたまま深く項垂れた。容赦のない雨に打ち据えられて、服や肌から染み込んだ水が骨まで浸透したように。組んだ腕に爪を立てて、自分の体を傷つけて罰するように。親友に告白する心の痛みを、体の痛みで耐えようとするように。すると悠も再び視線を下げた。
「いや……そう思ってた奴は、きっと他にもいただろう。ひょっとすると、噂の一つくらいあったかもな」
犯人は諸岡。悠はそうした噂を実際に耳にしたことはない。しかしあってもおかしくない。諸岡が山野や早紀を悪く言っていたのは事実だから。諸岡はどういうつもりであったのか、本当に本当のところは悠も理解していないが、とにかく暴言は事実だ。もちろんだからと言って、諸岡が人を殺していたはずはない。悠にすれば、噂をする輩をこそテレビに放り込んでやりたいくらいである。だがそれでも、真摯に謝る陽介をそれ以上責める気にはなれなかった。
「よく話してくれた……」
悠は陽介の謝罪を受け入れた。告白から始まった小さな亀裂は、大事に至る前に修復された。そして塞がれた亀裂は時として、それが入る前よりも絆を強くする。
「噂って当てになんねえのな……。いや、直接会ってても、その人の全てが分かるわけじゃねえ……」
真理である。人間が互いを完全に理解し合うのは、どれだけの時間を共に過ごそうと難しい。同じ屋根の下で暮らす家族や恋人でもそうだ。理解できたと思っても、証明するのは不可能だ。それとは逆に、理解していなかったと思い知らされる出来事ならば、いつでも何度でも起こり得る。
「先輩は……どういう人だったんだろう?」
陽介の場合はこうである。好きだった早紀を理解できない。理解できたと思い込む機会さえ、永遠に失われてしまった。
「優しかった先輩、俺をウザがってた先輩、大学生と付き合ってた先輩……どれが本当だったんだ?」
「最後のは噂だろう」
「そうだったな。もう確かめようがねえ……ただの噂だ」
当てにならないくせに聞いた者の心にだけは残り続ける、たちの悪い噂である。服が汚れて、長い間そのままにされ続けて、いつどこで誰が汚したのかもう分からなくなったようなものだ。噂は真実であるとも、真実でないとも証明できない。水の上をいつまでも漂い続けて忘れた頃に視界に入ってくる、目障りな油のように。
「もし先輩が生きていたら……シャドウから助けられたら、どうしてたかな?」
過去にあった真実は、今となっては誰にも分からない。霧の中にさえ存在しない真実は、真実でないものを想像させるのみである。例えば過去を変えられるならば、とか。
「実家を継いだか、ジュネスに就職したか……」
自分と恋仲になっていたか、とは陽介は言わない。言ったところで虚しいだけだ。たとえ復讐を遂げたところで死者は戻ってこない。まして遂げられなかった以上は、都合の良い未来など思い描くことさえ難しい。
「それとも、町を出ていったかな?」
大学に進学したか、或いは町の外で就職したか、はたまた噂の大学生とやらと駆け落ちしたか。現代は人が故郷から離れるのが容易い時代だ。それまで過ごした土地と、そこに住む人々とどんな絆を育んでいようと、ただ場所を変えるだけで簡単に断ち切れる。八十稲羽に来る前の悠がそうであったように。陽介がそうであったように。
だが良い想像も悪い想像も、早紀が死んだ以上は虚しいだけだ。雪子や完二、りせと違って、早紀は『シャドウから助けた』という事実はこの世にない。事実の裏付けを持たないただの仮定は、死んだ子供の年齢を数えるようなもので、何の意味も持たない。意味があるのは──
「これからどうする?」
生きている陽介と悠が、これからどうするかだ。死人と違って生きた人間は年をとる。
「どうしようかな……俺は先輩の為に、何をしてやれるんだ?」
「……」
悠は何も答えられなかった。生きた人間が死んだ人間の為にしてやれることは、この世にいくつあるのだろうか。復讐以外に何があるのだろうか。これは人生で最も難しい問題の一つだ。悩む親友に与えられる答えを、若い悠は何も思い付かなかった。
「ゆっくり考えよう。時間はある……」
「そうだな。時間だけはある……」
犯人が逮捕された以上、もうテレビに落とされる被害者は出ない。霧に追われる日々は終わったのだ。だから二人には時間があるはずだった。絶望的なほどに長い時間が。
弱くなり始めた雨の中で、二人は暗くなるまで座り続けた。
鳴上悠と花村陽介。結束の固い特捜隊の中でも最初期から行動を共にしている二人は、出会ってから一番の、もしかしたら初めての深い共感を互いに覚えていた。これまで特捜隊を結びつけていた『事件』という重しが外れて、初めて本心を明かし合ったのだ。むしろ重しが外れた為に、二人は本当の意味で互いを気に掛けるようになったのだ。皮肉にも。
しかし二人は知らないことだが、事件はまだ何も終わっていない。終わっていないのに、終わってから言うべき真意を、復讐の意志を、悠と陽介は互いに明かしてしまった。早すぎた告白は二人自身と二人の関係に、ある歪みを与える──