ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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裁きの絆(2011/7/12)

 陽介と別れてジュネスを出た後、悠は堂島からメールを受け取った。今日は家に客を連れていくことと、夕食は買っていくので作らなくていいとのことだった。何とも事務的な、ただ必要事項だけを記したメールだった。

 

 この日の夕方まで続いた雷雨は、夜には上がった。一昨日には、真夜中まで降ってほしいと悠は雨乞いをしたものだが、叶わなかった。ペルソナ使いは神ではないのだ。気象を操ることはできない。しかし今となっては、降っても降らなくてもどうでもいい話である。

 

『明日は朝方にまた少し雨が降りますが、昼には上がる見込みです。天気が回復するのは明後日で、明々後日まで晴天が続くでしょう』

 

 帰宅した悠は、居間で菜々子と一緒にニュースの天気予報を見ていた。二人の間に会話はない。テレビが点いているから無音ではないが、電源を落とせば沈黙そのものを奏でるキリキリと鳴る気まずい音が、二人の耳を襲うだろう。菜々子との間にコミュニティがなかった4月には、よく見られた堂島家の情景である。

 

 同居を始めて二ヶ月目には、十歳差の従兄妹たちはジュネスへの買い物やピアノ演奏などで、すっかり打ち解けていた。しかし四ヶ月目に入った今になって、当初の気まずさが復活してしまった。その原因は言うまでもない。一昨日のニュースで流れた悠のインタビューだ。

 

(はあ……)

 

 悠は今になって後悔し始めていた。インタビューを受けたこと自体はともかく、ニュースを居間で菜々子と一緒に見ることはなかったのだ。放送されるか確認するだけなら、自室で見れば済む話であったのに。それをしなかった己の浅慮が、今になって重くのしかかっている。しかし菜々子の機嫌を取るには、悠はまだ失意から立ち直れていない。こうなると、間もなく帰ってくるであろう叔父に頼るしかない──

 

「ただいま」

 

 などと思っていると、ちょうど叔父が帰宅した。

 

「かえってきた!」

 

 菜々子は立ち上がって玄関から続く板間へ向かおうとしたが、途中で足を止めた。以前もあったような状況である。

 

「お、おかえり……」

 

 菜々子は困惑してしまった。父が客を連れてくるとは聞いていたが、その人数までは聞いていなかった。予想外なことに、今日の客は二人だったのだ。

 

「こんばんはー。やあ菜々子ちゃん、今日はお寿司だよ?」

 

 客の一人は菜々子も知っている相手だった。二つ積み重ねた寿司桶を両手に抱えていて、その脇から人懐っこい笑顔を覗かせた若い男。足立である。しかし足立の次に家に入ってきた黒いスーツを着た若い男に、菜々子は見覚えがなかった。こういう時、菜々子は隠れてしまいたくなる。『兄』と初めて会った時は父の陰に、足立と初めて会った時は『兄』の陰に隠れた。だから今日もそうしたかったのだが、今の『兄』は──

 

「貴方は……」

 

 戸惑う菜々子と違って、悠は二人目の客に見覚えがあった。今日の放課後の早い時間に、諸岡の葬儀で姿を見た青年だ。あの時と違って、ネクタイは締めていないが。

 

「お邪魔します。初めまして……かな?」

 

 そして口振りからして、青年も悠に見覚えがあるようだった。

 

「この人は警察の協力者だ。これは私の甥です」

 

「有里湊です。堂島さんと足立さんにはお世話になってるよ」

 

「鳴上悠です」

 

 堂島に紹介されて、二人は名乗った。

 

 

「いっやー、スーゴいっすねえ! 特上が二つも! 大トロが山盛りっすよ!」

 

「ちっと買いすぎたか……」

 

 ちゃぶ台から溢れかえるほどの大量の寿司が、五人の前に並んでいる。金を出したのは堂島だ。若い男が三人もいるので、多めに買ったのである。堂島は特殊部隊員として多額の報酬を本部から受け取っていて、経済的な余裕があることも奮発の一助となった。だがそれにしても、明らかに量が過大だ。十人いても足りるくらいの寿司の大群である。

 

「寿司は久しぶりです」

 

 奥の座布団に腰かけた有里は、感慨深げに呟いた。寿司は思い出のあるメニューだ。昨年の3月、当時住んでいた寮の閉鎖記念の寿司パーティーで寮長の父親と犬を含めた十一人で盛大に祝ったのは、今でもよく覚えている。

 

「田舎の寿司ですが、食べていってください」

 

 堂島が有里を自宅に招いたのは、諸岡の葬儀に尚紀が参列したことに関する義理である。尚紀の立場上、たちの悪いマスコミなどに絡まれる恐れがあったので、堂島は自分か足立が同行すべきと思っていた。しかし久保の自首によって捜査は急転直下し、昨日と今日は裏付け捜査で二人とも大わらわだった。その為、葬儀への同行は有里に頼んだのだ。

 

 その礼と事件が一つ解決した祝賀会を兼ねて、堂島は有里を夕食に誘ったのである。

 

「ありがたくいただきます」

 

 そうして家族三人に客を二人加えた食事が始まった。刑事たちはビールを、他は麦茶をコップに注いで、乾杯の声が唱和する。そして男四人はめいめいに箸を伸ばす。

 

「あれ、菜々子ちゃん、お寿司嫌いなの?」

 

 皆が食べ始める中、菜々子だけは手を付けないでいる。気付いた足立が声をかけると、菜々子は蚊の鳴くような声で答えた。

 

「わさび、入ってる……」

 

 寿司にわさびは付き物だが、苦手な子供は多い。すると──

 

「大丈夫だよ。こっちはさび抜きだから」

 

 有里はすかさず腕を伸ばし、菜々子から見て奥にある桶を手に取った。

 

「何食べる?」

 

「……ひらめ!」

 

「渋いね……」

 

 有里は思わず目を丸くした。わさびは駄目でも、ネタの趣味はまるで大人のようである。

 

「いやはや、お恥ずかしい……」

 

 娘の背伸びに堂島は苦笑した。実は堂島が寿司屋に注文した時も、一つはわさびを抜いた方が良いと忠告したのも有里だったのだ。堂島の家族構成は5月から調べがついているので、気を遣ったのである。

 

 

 食事が始まって一時間ほど過ぎて、大量の寿司も半分ほどがなくなった頃、有里は座布団から立ち上がった。

 

「済みません、手洗いをお借りしていいですか?」

 

「ええ。菜々子、案内してあげろ」

 

「うん! こっちだよ!」

 

 菜々子は笑顔で立ち上がり、有里を案内していった。寿司は最初に白身を食べる子供も、『お客さんを案内する』という仕事は年相応に楽しいようである。

 

 そうして娘と青年が居間から出ると、堂島は顔を右手側に向けた。すると隣に座る悠と目が合った。今日の食事では口数が少なかった少年に、笑みを消した真剣な顔を見せる。

 

「悠、歯を食いしばれ」

 

「……」

 

 叔父の豹変に対して、甥は無言である。叔父が右手を軽く握って、振りかざしても何も言わない。襲いくる打撃を防ごうと、手を持ち上げたり体を仰け反らしたりもしない。

 

 この二人は一昨日も事件現場で対決した。その時は有里の横槍で流れてしまったが、今は席を外している。足立は堂島の向かいの席にいるが、叔父と甥を止めはしない。そうして誰にも邪魔されず、堂島の裏拳が振り下ろされた。悠の額からコツンと気の抜けた音がした。

 

「何で殴られたか、分かるか?」

 

 手加減は十分されていた。たとえ叩かれたのが菜々子でも痛がりはしなかったであろうくらいの、極めて軽い一撃だった。だがそれでも拳である。余程のことがなければ、堂島は子供に手を上げはしない。それでも敢えてした、その理由は悠にも察しがついていた。

 

「一昨日のインタビューのこと?」

 

「そうだ。署でも噂になってたぞ」

 

「迷惑かけたのなら、謝ります」

 

 殺人のような重大事件では、マスコミの報道にも警察は目を光らせる。悠のインタビューを見た警官は、稲羽署にも何人かいたのである。公共の電波を使って身内があんなことを言ったとあっては、刑事には迷惑この上ないであろう──

 

「そんなのはいいんだ」

 

 世知辛いことを言う甥を、叔父は素早く遮った。刑事として無論迷惑ではあったが、堂島は自分の立場に関して悠を咎めているのではない。

 

「友達相手に冗談でぶっ殺すとか言うのは、別に構わん。だが、あれはいかん」

 

『殺す』

 

 物騒な言葉だが、世間で普通に使われている言葉でもある。大人はともかく、小学生から高校生くらいの子供同士であれば、些細な口論や冗談で『ぶっ殺すぞ』とか言い合うのはよくある話だ。それはもちろん本気で殺すつもりがあって言われるものではない。だから問題にならない。しかし悠のあれは、子供の戯言と流してしまえるものではなかった。冗談にしてもたちが悪いし、しかも悠は今日陽介に告白したように冗談のつもりではなかったのだから。

 

「いい先生だったんだろうな。だがそれでもな……犯人を殺してやるなんて、もっての外だ。たとえ殺人事件の遺族でも、人を殺す権利なんかないんだ」

 

「……」

 

「犯罪者を裁くのは法律だ。お前じゃない」

 

 日本は法治国家であり、私刑は許されていない。犯罪は警察が捜査をして、裁判所が証拠を判断し、有罪になれば法律に照らして相応の刑罰を与える。その原則は罪の軽重を問わない。たとえ何十人も人を殺した殺人鬼であろうと、コンビニの万引き犯であろうと、市民が犯人を罰することは許されない。それは犯罪の被害者本人や遺族であっても同様である。日本で仇討ちが公的に許されていた時代は、遥か遠くに過ぎ去ったのだ。まして第三者に私刑を行う権利は、近代国家ではあり得ない。

 

(法律なんかじゃ……)

 

 悠は反論したくなったが、口には出せなかった。特別捜査隊の秘密を今さら堂島に明かすわけにはいかないし、何より犯人は自首したのだから。犯行を認める供述をしていることもニュースで報道されている。つまり犯人は法律で裁けるのだ。警察の手に負えるはずのない事件は、最後の最後で警察にさらわれてしまった。一昨日までは思いもしなかったが、事実そうなってしまった。泣いても喚いてもどうしようもない、厳然たる事実が悠の口を封じていた。

 

「亡くなった先生の為にしてやれることは……勉強して、立派な大人になることだ。復讐なんかじゃない」

 

「……はい」

 

 長い沈黙の後、悠は頷いた。

 

 生きた人間は死んだ人間の為に、何をしてやれるのか。陽介と共有しているこの難題に対する、堂島の答えに納得したわけではない。だがそれ以上の答えは、いくら考えても得られそうにない。振り上げた拳を下ろす先を見失えば、拳を解くしかないのだ。持っていく先のない悔しさは、ただ飲み込むしかない。叱られる情けなさと共に。

 

「失礼しました」

 

 説教が終わると同時に、菜々子に連れられた有里が戻ってきた。これはただの偶然か、それとも自分や菜々子が聞くべきでないと思って、戻る時期を見計らっていたのか。だが何にせよ客は居間に戻ってきた。

 

 そうして有里は再び席に着いたが、菜々子は立ったままだった。

 

「……ねむい」

 

「ん? もうそんな時間か。風呂入って寝なさい」

 

 寿司を食べている間に、時計の針は元の位置から大分動いていた。

 

「おふろ……お父さんもはいろう?」

 

 菜々子は重そうな瞼を、努力して持ち上げている。早く寝たいのだが、三日ぶりに家に帰ってきた父親と離れたくない。そんな思いが透けて見える。しかし──

 

「いや、だがな……」

 

 娘に頼まれても、父親は困ってしまう。今日は客が二人もいるのだから、主人が風呂を使うわけにはいかない。しかも客の一人は部下だが、もう一人は親子ほども年が離れているものの上司に等しいのだ。

 

「はは、菜々子ちゃん、久しぶりにお父さんが帰ってきたんだもんね?」

 

 そんな相棒の困惑を、足立は打ち消しにかかった。すっかり板についた軽そうな笑顔で、菜々子の気持ちを明るく代弁する。

 

「僕らに気を遣わなくても大丈夫ですって! だってお兄ちゃんいるし!」

 

 酒の肴はここにいる。だから気にするな。足立の言葉を分かりやすく言うと、こういう意味になる。

 

「僕にもお構いなく」

 

「済みませんな……。じゃ、行くか」

 

「うん!」

 

 相棒の気遣いを受け入れて、堂島は菜々子に連れられて風呂場へ向かった。家の主人と娘が去って、若い三人だけが居間に残った。

 

「じゃ、鬼のいぬ間に改めて……乾杯!」

 

 足立が音頭を取って、再び乾杯の声が唱和した。足立と有里は各々ビールと麦茶の入ったコップをあおり、喉に流し込む。二人がちゃぶ台にコップを置くと、悠は床に置かれたビール瓶を手に取った。注ぎ口を向けるのは足立だ。

 

「どうぞ」

 

「お、ありがとう!」

 

 足立の顔は既に赤らんでいるが、勧めは断らない。コップの下半分ほどに金色の液体が溜まり、上半分が白い泡で蓋をされる。

 

「有里さんも飲みますか?」

 

 悠は瓶を有里に向けた。しかし青年は右の掌を向けてきた。

 

「遠慮するよ。未成年だから、刑事の家では飲めないな」

 

 有里は足立の前では煙草も吸う。だからもしここが足立の家であったなら酒でも飲んだだろうが、堂島の家なので遠慮していたのだ。一昨日未明、シャドウワーカーの仕事中は道交法違反を繰り返していた有里も、普段から良識がないわけではない。

 

「え?」

 

 だが悠は元より法令違反をさせるつもりで、酒を勧めたのではない。有里は最初から麦茶を飲んでいるので、下戸なのかと思ってはいた。今のは足立にビールを注いだ流れで言ったに過ぎない。しかし予想外の答えに目を丸くした。

 

「二十代半ばくらいだと思ってました」

 

 これは本音だ。悠はこの青年を、自分より六つか七つは年上の大卒の社会人なのだろうくらいに思っていた。スーツを着ている為もあるが、オールバックの髪の下にある顔はそれくらい大人びて見えていた。

 

「酷いな。そんなに老けて見える?」

 

「見える見える! 君って本当に未成年? 僕より年上じゃないかって疑ってるんだけど」

 

 ここで足立が口を挟んできた。対する有里は素早く応じる。

 

「おや、僕は今年高校を卒業したばかりなんですが。と言うことは足立さん……貴方は高校生でいらしたのですか」

 

「そうだよー。僕、鳴上君と同級生!」

 

 足立は腰を浮かせると、悠のすぐ隣に座り直して現役の高校生と肩を組んだ。悠が逃げる暇もない、素早い動きだった。

 

「サバ読んでますね」

 

「ごめん……ホントは彼の一個上。十八歳なんだ!」

 

「じゃあ飲んじゃいけませんね。堂島さんの不祥事になります」

 

 有里はちゃぶ台越しに手を伸ばし、ビールの入った足立のコップを取り上げた。

 

「あ、酷い! こないだ煙草分けてあげたのに!」

 

 現職の刑事と警察の協力者とされた未成年は、ノリよく掛け合いをする。しかし有里がコップを戻すと、足立は一旦笑いを止めた。

 

「ま、僕の年は冗談だけど……彼は本当。君の二個上」

 

 それまでの明らかな冗談とは異なる含みのある笑いを浮かべながら、足立は有里を指差した。そして悠の肩から手を離し、元いた自分の席に戻った。

 

「年上に見えるのは都会暮らしだからかな?」

 

「この辺りにお住まいじゃないんですか」

 

「ああ、家は港区でね。足立さんたちの手伝いでこっちに来てたんだけど、明日には帰る予定」

 

 今月の有里の出張は今日で五日目である。これだけ長く八十稲羽に滞在していたのは、一条と長瀬の件と諸岡の葬儀があったからだ。有里は新たな候補生である二人に、ペルソナとシャドウに関して少しだけ説明している。詳細な説明と訓練の為に、ポートアイランドへ来てもらう約束を取り付けたのが昨日だ。今日は尚紀に付き添った。そして明日地元に帰る。

 

 ただし一条と長瀬を連れて帰りはしない。八十神高校は来週から一学期の期末試験が始まるので、二人の都会行きは夏休みを予定している。

 

「どうやったら、こんな未成年ができあがるんだろうね? 君、どんな高校生だったの」

 

「僕の高校時代ですか……」

 

 有里は顎を持ち上げ、遠くを見る目をした。過ぎ去った日々を思い返すように。語ろうと思ったら一晩かけても語り尽くせない思い出の数々を、どうやって短くまとめようかと思案するように。

 

「考えてみれば、年次ごとに全然違いましたね」

 

 そうして青年は、自らの過去をおもむろに語り出した。

 

「一年の頃は、特筆すべきことは何もありませんね。転機は二年からでした」

 

 話によると、勉強も運動も人付き合いもこれと言って何もなかった平凡な一年生が、二年生になった途端に生活が一変したとのことだった。元々転校が多かったのだが、進級と同時に転校した先で別人のように忙しくなった。運動部と生徒会と委員会、更に同好会を掛け持ちし、ついでに寮の仲間と一緒にボランティア活動にまで勤しんだ。学業においては定期試験で学年トップを何度も取った。そんな超人高校生であった為、もし校内で『今年最も活躍した生徒は誰か』とかのアンケートでもあれば、当時の生徒会長と票を二分するくらいはできたはずとのことだった。

 

「でも二年の終わり頃に彼女ができて、三年の生活はそっちが中心になってしまいました」

 

 過労死しなかったのが不思議なくらい忙しすぎた二年生を終えると、その反動が出た。無気力な一年生から優等生な二年生に変貌したその後で、今度は不埒な三年生になってしまったのだった。

 

 取り敢えず生徒会や委員会は辞めた。生徒会長に推薦する声もあったのだが断り、自由を通り越した放埓な生活に突入してしまった。できたばかりの彼女や寮のルームメイトと連日遊び歩いて、酒や煙草も覚えた。部活は続けたがサボりの常連になり、おかげで部長にも怒られたりした。成績はトップから急落し、昨年の優等生はどこに行ったのだと担任にも呆れられた。遂には元々成績が良い方ではなかった彼女にも追いつかれそうになり、二学期の後半頃からようやく受験勉強に本腰を入れたものの、遅れを取り戻すのに相当苦労したらしい。

 

「問題児でしたが、無事に卒業はできました。で、その後すぐに彼女と籍を入れました」

 

 そう言って、有里は左手を顔の高さに持ち上げて、手の甲を足立と悠に見せてきた。その薬指では銀色の鎖、もとい指輪が鈍い光を放っている。

 

「そりゃまた、早いね! 何、責任取んなきゃいけなくなったの?」

 

「妻は今、五ヶ月です」

 

 まさに責任というものが文字通り『生じて』、五ヶ月目というわけだ。成人式も迎えていない若者が結婚するのは、大抵の場合はそういう事情があってのことだ。

 

「うわ……人生の墓場に頭から突撃しちゃったわけね。鳴上君、気を付けなよ。こういう大人になっちゃ駄目だよ」

 

「お、俺は別に……」

 

 話を振られた悠は、我関せずとばかりに逃げようとした。だが歯切れは悪い。極めて悪い。

 

「いーや、気を付けなよ。こっちでもう、一人か二人は泣かせてるんじゃない?」

 

 ギク、という音がした。悠の胸の辺りから。眼前の二人にも聞かれたのではないかと心配になるくらい、大きな音がした。悠は八十稲羽に来る前は女を泣かせたことはないし、そもそもそんな機会もなかった。だが来てからは泣かせてはいないものの、近い状況に追いやった女はいる。二人ほど。そして先週から付き合いだした女も一人いる。

 

 足立は人の内心を見透かすような、名前の通りに透徹した視力を備えた目をにやにやと笑う形に歪ませている。唇は両端が持ち上がり、眉は垂れ下がっている。実のところ、足立は悠の女関係を少しだが知っているのだ。そんな刑事に思わずたじろぎつつ、悠は有里に目を向けた。助け舟を求めるように。すると妻帯者の未成年は目を少し細めて笑った。

 

「確かに、気を付けた方がいいね」

 

 美男と言って差し支えない有里の顔が、一瞬足立と重なって見えた。つまり逃げ道は用意されていない。

 

「……真摯に聞いておきます」

 

 仏頂面で悠が答えると、堂島宅の居間に笑い声が響き渡った。足立は嫌らしい悪人面を瞬時に引っ込め、爽やかな笑顔で大笑いした。有里も目を糸のように細めて笑う。

 

「うんうん、そうしなよ。取り敢えずジュネスで買っとくといいよ!」

 

「何をですか」

 

「またまた、分かってるくせに!」

 

 もちろん分かっている。今の話の流れでは、足立が何を言わんとしているのかは誰でも分かる。健康な若者である悠は朴念仁ではないし、結婚情報誌や子育ての本を勧められたのかと思うほど間違った方向に突き抜けてもいない。だが分かるだけに、余計に落ち込む。

 

(はあ……散々な夜だ)

 

 従妹と気まずくなり、叔父に叱られた。その次はこれである。悠は気を紛らわすつもりで麦茶のペットボトルを手に取り、自分のコップに注いだ。それから有里の分を注ごうとそちらへ目をやると、年内に父親になる予定の未成年は笑いから復帰していた。

 

 有里の目から見ると、若い刑事と高校生の二人は同時に視界に収まっている。刑事は声を立てて笑い、高校生は不機嫌そうに唇を結んでいる。そんな二人のどちらを見るともなく見ていると、唐突にSFのような出来事が起きた。

 

 時間が停止したのである。『有里の』時間が。

 

『彼は汝、汝は彼……』

 

(!?)

 

 脳裏で宣告が始まると同時に、眼前の二人は凍りついた。有里の感覚だけを残して、世界の一切が影時間のように動きを止めた。本当に時間や世界が停止したかは別にして、とにかく有里はそう感じた。そして頭に響き始めた声は続きを述べる。自分の中から響いてきたのか、外から届けられたのか、判断に困るその声を止める術はない。

 

『彼、汝との間に審判の絆を見出したり。絆は即ち、まことを知る一歩なり……』

 

 体感的には数秒の間、他人にとっては瞬き以下の刹那ばかりの無の瞬間を終えてから、有里は我に返った。驚愕を顔に出さずにおくのに、猛烈な努力を払いながら。

 

(コミュが発生した……? いや、待て。彼は汝ってことは……)

 

 先ほどの話では言わなかったが、実は有里は高校二年生の生活を二度送っている。留年という意味ではなく。そして『最初』の二年生の時と、『二度目』の二年生の時に、今と似た声を何度も聞いていたのだ。新たな絆が生まれたことを告げる『我』の声だ。だがその言葉は、かつて聞いたものとは異なっていた。時間が止まる感覚や厳粛を通り越して芝居がかった声の調子は同じで、言葉の意味するところも深いところでは恐らく違いはない。それでも言葉の上辺は違っていた。その違いが示しているものは──

 

(僕が担い手になったのか!)

 

 他人のコミュニティの担い手になるのは、有里にとって人生初の体験だった。ちなみに有里が築いたコミュニティでは、主にしか『我』の声は聞こえず、担い手には聞こえないはずだった。もしかすると妻や子供たち、正確には子供のように思っていた男たちは聞いていたかもしれないが、とにかく普通の担い手には聞こえない。少なくとも意識には上ってこない。

 

 しかし有里には担い手としての『我』の声が聞こえた。それは有里自身がペルソナ使いの中でも特殊なワイルドで、『我』の教える絆を束ねる者であったからだろう。そんなことを思いながら、有里は足立を見つめた。当人には気付かれないように、密かに。

 

(この人はまだワイルドになってないみたいだが……コミュだけ先にやるってのも、あり得なくはないか)

 

 コミュニティのアルカナは審判。タロットの大アルカナでは終着点の一歩手前に位置するカードだ。意味は正位置では再開、復活、決断。逆位置では悔恨、挫折、停滞。キリスト教的な解釈では、救世主の再臨と神の裁きを意味している。そして今から一年半ほど前に始まった有里が主の審判のコミュニティは、愚者と共に有里自身を象徴するものだった。

 

 アルカナそのものの意味と、絆の担い手がワイルドであるということ。これは果たして、何を暗示しているのだろうか──

 

(この町で起きているのは……思っていたより、大事なのかもしれないな)

 

 有里は稲羽のシャドウ事案を月に一度から数度、数十匹かそれ以下の『害獣』が出現する程度の問題であると思っていた。自分がかつて乗り越えた戦いよりもずっと小規模で被害の少ない、ささやかな問題であると。だがそうではないのかもしれない。

 

 この町は救世主を必要としているのかもしれない。そしてそれは、足立のことなのかもしれない。上司に怒られてばかりの駄目刑事の、だが頭は切れるし肝も据わっている、そして当代最強のペルソナ使いである有里湊に肉薄する潜在能力を持つ足立透は、救世主の宿命を背負わされているのかもしれない。この町を、或いはそれに留まらない全世界を救済する使命を、足立は与えられているのかもしれない。だとしたら同情を禁じ得ないが──

 

(いや、ひょっとすると僕がか? 去年はならずに済んだが、今になって救世主にならないといけないのか?)

 

 足立を密かに観察しながら、同情を覚えつつ、この町や自分自身の今後を有里は案じ始めた。だから気付かなかった。この場にいるもう一人が、自分を注視していたことを。

 

(審判か……足立さんとはもう道化師を築いてるから、有里さんだよな)

 

 新たな絆の担い手を見つめながら、悠はペットボトルを床に戻した。そして自分のコップを手に取り、中身を喉に流し込んだ。からかわれた小さな苛立ちと一緒に、腹の奥まで飲み込んだ。

 

(この人、明日には帰るって言ってたけど、案外長い付き合いになるのかも)

 

 連続殺人事件の犯人は自首したのだから、もうテレビに入る必要はない。遊びの時間は終わったのだ。だが人付き合いは続けようと、悠は思った。謎の声が告げる絆に、悠はある種のやり甲斐を感じ始めていた。千枝や雪子とは不完全燃焼のまま終わってしまった感があるが、今日は陽介に心からの共感を覚えたのだ。そしてそうした絆は、眼前の二人の男とも結ばれている。

 

 話の上手い叔父の同僚と、警察の協力者であるという青年。陽介から得たような感慨を彼らからも得られるのなら、続けよう──

 

 

 鳴上悠と有里湊。本来あるべき運命では、出会うはずのなかった二人である。もちろん有里にすれば、八十稲羽の住人は誰もが知り合うはずのなかった相手だ。しかし悠との出会いは、やはり『特別』な意味を持ち得る出来事である。愚者のアルカナを持ち、絆を束ねるワイルド同士の出会い。これは一つの転機であり得るはずだ。だが当の二人は互いがそうであるとはまだ知らない。悠は新たなコミュニティの担い手の正体を知らないし、有里に至ってはコミュニティの主が誰なのかという段階から誤解している。

 

 季節は暑い夏である。真実が霧の中から明らかになる日まで、まだ遠い。

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