ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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逆位置(2011/7/15、7/16)

 熱気が漲る日差しがアスファルトを焦がす中、悠は商店街を一人で歩いていた。八十神高校は来週から期末試験が始まるので、今週は部活がない。陽介たちも試験が近づくと、あまり出歩かなくなる傾向がある。つまり学内の知り合いに付き合ってもらえないので、今週はコミュニティがほとんどできない。しかし昨年までのように、暇な一日を無為に過ごそうとは思っていなかった。今日は自分にできるアルバイトがないかと、商店街の掲示板を確認しに来た。

 

 悠はアルバイトと言えば、三日前にジュネスの手伝いをした以外は封筒貼りくらいしかしてこなかった。しかし最近は他の仕事もしてみるつもりになっていた。できれば内職ではなく、人と関わりを持てる仕事をしたかった。そうして新たなコミュニティも得られるのなら、なお良い。

 

 事件は終わったので、特別捜査隊はもうテレビに入る必要はない。だからコミュニティでペルソナを強化しても意味はないのだが、人との繋がりは積極的に持とうという気になっていた。

 

(学童保育、病院の清掃、家庭教師……スナックの皿洗いまであるのか)

 

 惣菜屋の隣にある掲示板を見てみると、自分にもできそうな仕事は意外なほどにあった。活気の失われた不景気な町といえども、やることが全くないわけではない。縁も仕事も、探せば探すほど見つかるものだ。

 

(今日は金曜だから……ちょうど学童保育があるな。行ってみるか)

 

 今日は7月15日の金曜日だ。週の後半である。試験は来週火曜日の19日からで、もう間もなくなのだが──

 

(勉強は夜やろう。夜更かしには慣れたし、起きてられるだろ)

 

 これは自分自身に対する言い訳ではない。勉強するつもりは本当にある。なぜかと言えば諸岡の為だ。三日前の堂島の説教に納得したわけではないが、亡き恩師の為にできることは、勉強くらいしかないのは確かなのだ。悔しいが、とてつもなく悔しいが、仕方がない。

 

 そうして悠は稲羽市中央通り商店街を南に向けて歩いた。通りの南端にはバス停がある。掲示板によれば学童保育は町外れの高台で行われる。歩いて行けない距離ではないが、バスを使った方が早い。

 

 

「ねえ、君」

 

 バス停に向かう途中、本屋の前に差し掛かった時、悠は後ろから声をかけられた。足を止めて振り返ると、青い帽子が目に入った。

 

「マリー……」

 

 約一ヶ月に一度の頻度で霧に襲われ、衰え死にゆく老いた町に、一人の印象的な少女が突然現れた。突然である。マリーは遠目にも目立つ。服装の独特さと本人の存在感が主な要因だ。そして掲示板の前からここまで歩いてくる途中、通りにマリーの姿はなかったはずである。悠は特別内心の考えに捉われていたつもりもなかったので、もしマリーが外に出ていれば、声をかけられる前に気付いたはずだ。

 

 それはつまり、この少女はたった今ベルベットルームから出てきたのか。なぜだろうか?

 

 悠は踵を返してマリーに歩み寄った。この町に初めて来た時も、悠は駅でマリーに声をかけられた。女の方から声をかけられたのだ。男が先に気付かなければならないのに、それができなかった。またしても──

 

 手を伸ばせば互いに触れられる距離にまで、二人は近づいた。だが視線は出会わなかった。マリーは天を見上げている。自分から声をかけておきながら、悠を見ようとはしていない。

 

「今夜、雨が降るよ」

 

「そうか?」

 

 言われて悠も空を見上げてみた。しかし昼が長い夏の空は、雲一つない晴天だ。人がどれだけ背伸びしても届くはずのない高い位置で、空は存分にその翼を広げ、見続けると目が痛くなる眩しい光を放っている。八十稲羽の土地を囲む『多くの神々の山』が突き出す濃い緑の繊毛の、その遥か上に空はある。時には山が届く低い位置に横たわる鈍色の雲は、どこを探してもない。

 

「予報では降らないと言ってたが」

 

 連続誘拐殺人事件の犯人は自首したのだから、特捜隊は天気に気を配る必要はなくなった。だが天気予報の確認を毎日三ヶ月も続けた為、癖になっていた。だから悠は今朝もテレビで予報を見た。それによれば、今日は一日晴れだったはずだ。午後のこの時間に見上げてみても、空には藍色に近い強烈な青があるばかりだ。水の気配はまるでない。夕立の予感さえない。

 

「誰かが……雨を降らすよ」

 

「誰かって……誰だ」

 

 雨を降らせる何者か──

 

 気象を操作できる者が、この世にいるとでも言うのだろうか。普通ならば一笑に付すところだろう。しかしシャドウやペルソナ、更にはマヨナカテレビにテレビの中の世界のような、超能力や超常現象が実在するのだ。ならば雨を降らせる者も実在するかもしれない。ではそれは何者か?

 

 ペルソナ使いは雨を降らせることはできない。五日前に悠は雨乞いをしたが、効果はなかったように。そうすると、神とかそういう存在だろうか。いやいや、この世には神も仏もいはしない。まさに雨乞いをしたその日、自分はそれを悟ったはずではないのか──

 

 悠はそんなことを考えたが、マリーは聞かれたことに答えなかった。

 

「ね、こないだテレビに出てたの、君でしょ」

 

 今日の二人は、いつにも増して噛み合わない。

 

「ああ……そうだけど」

 

 諸岡の死を報じたニュース番組で、教え子の声として放映された悠のインタビューだ。ベルベットルームにテレビはなかったはずだが、マリーは知っている。まるでマリーに隠し事はできないかのように。

 

「何であんなこと言ったの?」

 

「何でって……」

 

 インタビューに答えたのはマヨナカテレビに出て、犯人をおびき寄せる為だった。発言を過激なものにしたのは、マスコミがインパクトのあるコメントとしてニュースで取り上げたくなることを狙った為だった。これらの事情を、悠は特捜隊の皆に話してある。それに関して千枝や雪子、そしてりせはわだかまりを抱きつつも納得した。だが本当は違うのだ。

 

『犯人を殺してやる』

 

 悠がこの言葉の真意を話したのは陽介だけだ。堂島と足立辺りは、何かしら察しているかもしれない。しかし彼らは特捜隊の事情を知らないし、教えるわけにもいかない。だから悠の本心を知っているのは、この世でただ一人。復讐の意志を明かし合った相棒である、陽介だけだ。そして陽介一人で十分だ。悠はそう思っている。

 

 だがマリーは尋ねてきた。マリーは特捜隊の部外者だが、全くの無関係ではない。ワイルドにとって欠かせないベルベットルームの住人だ。そして二つ目の『契約』をした相手でもある。ならばここで己の本心を明かすのも、悪くはないかもしれない。深く尋ねてくることさえしなかった、陽介以外の仲間たちとは違う、マリーになら。この町に来た日に出会った、印象的なこの少女になら──

 

 そんなことを思っていた悠に対して、マリーは質問の答えを受け取る前に質問を重ねてきた。まるで答えを聞きたくないと言うように。

 

「君、人を殺したいの?」

 

 一瞬、何を言われたのか分からなかった。思いがけない人から思いがけない言葉を投げ付けられた時、人は現実を現実として認識できなくなる。完全に不意を突かれた悠は、応じる言葉が咄嗟に出てこなかった。

 

「あの人みたいに……」

 

 マリーは目を伏せた。まるで悠を見たくないと言うように。対する悠は、はたと自分を取り戻した。

 

 これは黙っているわけにはいかない。何事もそっとしておきたがる、面倒くさがりの悪癖はもう捨てた。捨てたつもりでいる。事件が終わっても、一度変わった性格が元に戻りはしない。

 

「そんなはずがないだろう」

 

 しかし悠の言葉は足りていない。

 

「……嘘」

 

 マリーはまだ目を上げない。すぐ目の前に、血に塗れた暗黒のペルソナがいるように。創造神でありながら禍津神を名乗る、矛盾した存在がそこにいるように。滴る血を飲み込んで、虚無へと続く深淵がそこにあるように。それを見てしまっては自分も飲み込まれてしまうと言うように、マリーは悠を見ない。

 

「嘘じゃない」

 

 ここにはマーガレットも陽介もいない。マリーを宥める者も、悠の言葉を補う者もいない。助けてくれる者のいない永劫の絆は、ただ移ろいゆく。

 

「……」

 

 ここでようやくマリーは顔を上げた。異邦人を思わせる緑の瞳が、異邦人の少年を真っ直ぐ見据えた。若い少年は血に濡れてはいない。今はまだ。

 

「君、嘘が下手だね」

 

 マリーは悠の姿は見たが、言葉は受け入れなかった。ただ一言を、匕首のように短い言葉を突き付けてきた。そして踵を返した。あらゆる弁解を拒絶して、取りすがる機会さえ与えずに、元いた青い闇へと帰っていった。

 

「……」

 

 悠はしばらくその場で立ち尽くしてしまった。何が何だか分からない。何が自分の足を地面に縫い付けて、マリーを追うことを躊躇わせているのか。何が自分の手を縛り付けて、眼前の青い装飾扉を押し開けてマリーに会いに行くことを阻んでいるのか。何が自分の口を塞いで、真実を飲み込ませているのか、何も分からない。

 

 自分は一体、何を間違えたのだろうか。いつ道を踏み外したのだろうか。明るい田舎暮らしはどこから湧いて出た邪悪によって、こうも酷く蝕まれてしまったのだろうか。心臓に刺さった言葉のナイフは何も答えてくれない。

 

 ──

 

 頬に当たった冷たいもので、悠は我に返った。そして頭上を見上げると、思わぬものがそこにあった。

 

「え……?」

 

 雨が降り始めたのだ。つい先ほどまで青かったはずの空は、どこからともなく現れた灰色の雲に覆われていた。美しく見えていた雪原で一陣の不意の風が雪を払い、大地に刻まれた深い溝を露わにするように。歩みを遮るものが何もなかった楽しい人生に、突如として大きな岩が立ちはだかって道が塞がれてしまったように。永劫の絆で結ばれた人との間に、突然の雨は帳となって舞い降りてきた。

 

 

 雨に追われた悠は商店街を出て、堂島宅へと真っ直ぐ帰った。もちろんアルバイトどころではなかった。菜々子の相手もそこそこに、すぐに二階の自室に閉じこもった。確かめたいことがあったから。折り畳み式の携帯電話でインターネットを検索し、ここ数日の間に大量に流された情報の海を小さな画面で泳いだ。

 

(久保美津雄……)

 

 調べているのは事件の犯人についてだ。そして夜の遅い時間に、悠はあるサイトで犯人の名前を見つけた。そこには氏名の他、顔写真や住所、在籍していた高校、更には家族構成その他のプロフィールも色々書きこまれていた。それに留まらず、犯人の性格や普段の言動についてもエピソード付きで紹介されていた。そしてその大半に、悪意に満ちた言葉が添えられていた。

 

『いつかやると思ってた』

 

『自己顕示欲が強いっての?』

 

『おめでとう。人気者になれたな!』

 

『三人も殺しちまったら、どうなんのかな? 成人の犯罪者なら確実に死刑だけど』

 

『少年法ってダメダメだよな。あんなのも保護しちまうんだから』

 

『犯人を殺してやるって言ってた奴いたじゃん? 残念! 塀の中に逃げられちまったな!』

 

『あいつを退学にしたのは、モロキン唯一の功績だったな!』

 

 被害者を揶揄する書き込みが目に入ったところで、悠は携帯電話を閉じた。自室のソファーに深く座り直して、天井を仰ぎ見た。

 

「……」

 

 多くの場合、犯罪や不祥事に対する世論は私刑である。私刑とは被害者やその関係者にとっては復讐であり、そうでない第三者にとっては娯楽である。そしてその種の娯楽を楽しむ趣味のない者にとっては、見るに堪えないものだ。

 

 犯人は未成年だから警察は身元を発表しなかったし、ニュースでも伏せられた。だが人の口に戸は立てられない。隠し通せる秘密など、この世にはないのだ。たとえ警察が自ら発表しなくても、情報が漏れる隙はいくらでもある。例えば犯人の家族や学校関係者には、警察から逮捕した旨の連絡がされるし事情聴取もされる。無論彼らも口止めされるが、守られる保証はない。たとえ彼らが守っても、学校の同級生や近所の住人などであれば犯人を推し量るのは難しくない。そのうち誰か一人でも情報を流せば、もう終わりだ。一度流れた情報は消しようがない。

 

 そのようにして未成年の犯罪者の情報が流出するのは、過去の事件でもよくあったことだ。まして情報社会の現代では、漏洩を完全に防ぐのは不可能に近い。だから今回も流出した。それだけのことだ。

 

 ガラス窓を叩く雨音が耳に痛い。天気予報は大外れだ。

 

(あいつは……人を殺したかったのか?)

 

 マリーが言っていたように、望んで人を殺したのだろうか。悠のように。

 

「……」

 

 悠はソファーから立ち上がり、勉強机の棚に置かれた一冊の本を取り出した。先月マリーに勧められて本屋で買った、タロットの解説書と付録の小箱だ。ソファーに戻って作業机に本を置き、箱の封を切った。

 

 付録は大アルカナのカードだ。箱の口を下に向けると、掌から少しはみ出るサイズのカードが二十枚ばかり出てきた。悠はカードの束の角を揃え、トランプを切るように適当に切ってみた。今日初めて手に取ったばかりなので、イゴールのように華麗にシャッフルすることはできない。そうしていささか不格好にカードの山を作業机に積み上げた。そして山の一番上のカードをめくってみた。出てきたのは──

 

「愚者……」

 

 大アルカナの始まりに位置する愚者のカード。それが逆位置で出てきた。

 

 手にしたカードの寓意画は、小さな袋を棒に差して肩に担いでいる旅装の男だ。一匹の犬を連れて、スキップを踏むように飄々と足を進めている。その向かう先にあるものは崖だ。転落が待ち受けているのに、それに気付いていない。或いは気付いていながら、歩みを止める気がない。

 

『よう、俺』

 

 空っぽの頭で逆立ちした、カードの愚者が語りかけてきた。

 

『お前は久保をどう殺すつもりだった? やり方、色々考えてたろ? テレビに引きずり込んで、ペルソナの雷で焼き殺すも良し。刀で斬るも良し。シャドウに食わせて、電柱に吊るしてさらし者にするのも良しだ。いやそれよりも……殴り殺してやりたいよな』

 

 時刻はまだ0時になっていない。マヨナカテレビも放映されない、ただの夜だ。それなのにカードはなぜか喋る。4月14日にジュネスの家電売り場に現れ、その翌日にはイザナギになった瞬きをする少年が語りかけてきたように。

 

『海で釣ったあのバス停、捨てちまって惜しかったよな? 持って帰ってくればよかったよな? 思い出の品なんだからさ? 仇取るなら、あれでやるのが一番いいぜ、なあ? 殺されたんだから、殺してもいいはずだろ?』

 

 世界の音は雨でかき消されている。不吉な静寂が声に含まれる悪意を際立たせる。

 

(俺は……)

 

『せっかくペルソナなんて面白い力を手に入れたんだ。色々試してみたいよな? 言葉も喋れない、命乞いもしない化物を踏み潰すだけじゃ、刺激が足りないよな? 殺すんなら虫や動物より人間の方が面白いし、やり甲斐あるよなあ?』

 

(違う……)

 

『この馬鹿が。お前は久保を殺したその手で何をする気だった? 菜々子の頭を撫でるのか? お兄ちゃんは立派なことしたんだって、自慢するのか? やれやれ、菜々子が可哀想だぜ。酷いお兄ちゃんを持ったもんだ』

 

(ぐ……)

 

『先生風に言えば怪物って奴だな。正義を気取っていやがるくせに、悪の怪物と何も変わりゃしない……。お前そのものじゃないか。せっかく先生が教えてくれたってのに、お前は何も分かっちゃいなかったんだ。マリーの言う通りだな、おい』

 

 幻聴を流し続けるカードを作業机に置いた。叩き付けるように、耳を塞ぐように、裏面を向けて置いた。そこには古典的な舞踏会で用いられそうな、仮面の絵が描かれている。

 

 実はこの裏面の柄は、悠にとって見覚えがあるものだ。イゴールが占いとペルソナの創造をする際に用いるカードと同じ柄である。ついでに言うと、初めてイザナギを召喚した時、掌に舞い降りてきたカードの裏にも同じ仮面が描かれていた。しかし今の悠はそれどころではない。呼吸は乱れ、視線は泳ぎ、暑さに由来しない汗で前髪が額に貼り付いている。

 

「はあ……」

 

 タロットの解説書を開いて、愚者のアルカナについて書かれたページを探してみた。最初のカードであるだけに、すぐに見つかった。愚者の意味は正位置では自由、可能性、天才。逆位置では逃避、無責任、愚行。つまりは愚か者だ。本にはそう書かれている。天気予報が外れたのとは対照的に、初めて自分でやってみたタロット占いは大当たりだったというわけだ。

 

 喋るカードを箱に戻そうと、付録の箱を手に取った。すると──

 

(ん?)

 

 箱の中に何かが残っているのに気付いた。折りたたまれた紙片だ。便箋である。取り出して広げてみると、見覚えのある柄が目に入った。尖った文字が書き連ねられている。

 

 

 <キミがアタシを殺した>

 

 キミは殺人者です

 

 静かな微笑みで、落ち着いた声で

 深い色の瞳で、はにかんだ指先で

 アタシを殺したのです

 

 アタシは死体

 愚かで惨めで幸せな

 

 きっとこのまま朽ちていくのね……

 

 最後に一言……

 Goodbye, So Long ... Baby

 

 

「さようなら……か」

 

 三行半のような詩を見ても、もう悠は驚かなかった。この本は商店街の本屋で買ったものだが、店の商品ではなかった。今にして思うと、本屋の隣にいつも駐車しているリムジンの魔女が、密かに紛れ込ませておいたのだと察せられた。かの魔女は妹のように世話をしている少女の便箋を、しおり代わりに挟んでもいた。本のしおりは買ったその日に作者に取り上げられたが、盲点を突くように付録にも紛れ込んでいたのだ。

 

「マリー……」

 

 悠は膝に肘を置いて深く沈んだ。そうして一人で項垂れていると、部屋の中に砂嵐が湧き起こった。

 

「……」

 

 気象予報士泣かせの不意打ちの雨はまだ続いている。それが電気と電波の代わりを果たして、マヨナカテレビを映し出した。顔を上げれば、酷いノイズの中に一人の人影が見える。いや、粗くて判別しづらいが、画面の中にいるのは一人ではなく二人だ。一人は画面の左に向かって走っていて、それをもう一人が後ろから追いかけている。よくよく目を凝らせば、追いかけている方は何か長いものを手に持っているのが分かる。

 

「俺と……あいつか」

 

 マヨナカテレビに悠が映った。これを狙ってマスコミのインタビューに答えたのだが、その通りの結果になったわけである。だが今となっては特に意味はない。見る必要はないと思って軽く目を伏せると、やがてノイズは止まり、テレビはただの箱に戻った。時間にして十秒もないくらいの、コマーシャル並の短い映像だった。

 

 だが短くても悠の胸に突き刺さるものはある。マリーの短い言葉のように、胸の奥にある何かが抉られる。

 

(マリーの言う通り……か)

 

 自分は犯人と、久保美津雄と同じレベルの人間なのだろうか。マヨナカテレビに二人で映ったのは、それを暗に告げているのだろうか。もはや深夜の超常現象は、事件の捜査においては意味がなくなってしまった。なくなったのに相変わらず映る。ただ自分を嘲笑う為に──

 

 そうやって内省の海に沈もうとしていた悠を、唐突に現実に引き戻す者がいた。電子音を発し始めた携帯電話だ。ポケットから取り出して待受画面を見てみれば、16日に変わった日付と陽介の名前がそこに出ていた。悠のインタビューが放送された10日夜以来の電話だ。

 

「もしもし」

 

『相棒、見たか?』

 

「ああ……」

 

『……』

 

「……」

 

 二人はしばらく言葉を重ねなかった。喪失の痛みを知る者は、涙でしか心の内を表せないように。恋に患う若者が言葉の無力を嘆くように、二人は黙った。物理的な質量さえ感じられる沈黙が、二人の間に横たわった。意図して細められた互いの呼吸は、電話も拾わない。ただ互いの部屋の窓を叩く雨音だけが、現実の距離を越えて互いの耳に届いていた。

 

「なあ、俺って犯人と同じなのかな?」

 

『は?』

 

「人殺しってことさ」

 

 普通であれば、『何言ってんだこいつ』と言われても仕方のないセリフである。

 

『違えだろ』

 

 しかし陽介は真面目に付き合う。軽くいなしたりはしない。悠は何を言いたいのか、陽介には分かるから。

 

『お前は誰も殺してねえだろ』

 

「ああ、だけど……」

 

 犯人に対して殺意はあった。それは否定できないし、否定するつもりもない。マヨナカテレビはそんな悠の心を反映したように、久保と二人並べて一つの絵にしていた。

 

 怪物と戦う者は、己も怪物とならないように留意せよ。お前が深淵を覗く時、深淵もお前を覗いている──

 

 諸岡に教わったこの言葉に、悠は痛いほどの実感を抱いていた。シャドウと戦うペルソナ使いを表すようで、殺人犯を追う復讐者を表すようで。人殺しを追う者は、いつか自分も人殺しになる。それを愚者のカードは嘲笑っていた。シャドウが本体を責めるように、容赦なく真実を暴いた。

 

『ネットで見たんだがよ。あの犯人、元々うちの生徒だったみたいなんだ』

 

 反論しようとした悠を陽介は遮った。恐らくは、わざと。

 

「そうらしいな」

 

 遮られた悠は話を戻そうとはせず、陽介の話に付き合った。そして陽介が言っているのは事実だ。インターネットで言われているだけでなく、テレビのニュースでも報道されている。

 

『そう。そんで去年辺りに諸岡先生と揉めて、退学になったらしくてな。それを逆恨みしたのが犯行の動機だってよ』

 

「……」

 

『なあ、お前って先生と仲良かったんだろ?』

 

「ああ……」

 

『いい先生だったんだよな。口はどうしようもなく悪いけど、悪い奴じゃなかったんだよな。お前と仲良かったんだから、いい先生じゃねえわけねえよな』

 

「……」

 

 陽介は優しい。諸岡を評価する根拠に悠を置いてくれる、その優しさが心に沁みる。

 

『はは、何言ってんのか、自分でもよく分かんなくなってきちまった! ま、要するにだ。お前はあいつを殺してねえ。先生を殺したあいつと、お前が同じなはずがねえんだって』

 

 殺すつもりがあったことと、実際に殺すことは全く別だ。霧の漂う虚構の町は現実のそれと限りなく近くても、本質的に無関係でなくても、やはり別なように。人は己に属さない罪や責任を背負うことはできない。たとえ背負いたいと思ってもできない。己に属する罪から逃げたくても逃げきることができないように。だから悠と久保は同じではない。陽介はそう言いたいわけだ。

 

 同じだと言う人間などいないだろうし、悠も頭では分かっている。分かっていながら、同じだと責める愚者のカードとマヨナカテレビが心に深く突き刺さっていた。だが刃物で抉られるその痛みも、陽介の慰めで薄れてしまった。薄れてしまうのは、陽介が正しいからか。目を背ける口実を得た為か。はたまた人間に元より備わっている、忘却の能力の為せる業か。

 

「そうだな……」

 

 悠は己の心の動きの原因として、一番目の理由を採用した。

 

「悪いな、陽介」

 

 そして謝った。犯人に殺意を抱いていたのは、陽介も同じであるのに。いや、恩師を失った悠よりも想い人を失った陽介の方が、殺意はより激しく、鋭いものだろう。それなのに陽介に慰められてしまった。それを謝ったのだが──

 

『え?』

 

 陽介の反応は調子の外れたものだった。

 

『ああ、悪い。名前で呼ばれたの、初めてだったから』

 

 そうなのである。霧の異世界を共に冒険するという、他ではあり得ない経験を三ヶ月もの期間に渡って共有しながら、この二人は互いを名字で呼び続けている。

 

「ああ……そうだったな」

 

 そろそろ下の名前で、と悠は思っていたつもりはなかった。思っていないはずだったが、気付けば自然と陽介を名前で呼んでいた。それはきっと、相手に対して本当の意味で親しみを覚えたから──

 

『へっへ、全然いいぜ! 悠!』

 

 急に明るくなった陽介の声に、もっと明るい声がかぶさってきた。

 

『ヨースケ! いつまで長電話してるクマかー! センセイを呼び捨てにするなんて、ブレーモノクマね!』

 

 最初の『契約』をした相手だ。クマは今月10日にテレビの世界から出てきて以来、そのまま帰っていないのだ。悠も帰れと命令はしなかったので、事件が終わってなお、こちらの世界に居座り続けている。そして面倒を見ているのは陽介だ。果たして陽介は、両親に何と説明して素性不明の少年を家に置く許可を貰ったのか。謎である。

 

『センセーイ! クマクマー! 初めて噂のマヨナカテレビ、見たクマよー!』

 

 しかしクマは陽介に恩義を感じるでもない様子で、電話を分捕った。菜々子より少し年上程度の小学生男児を思わせる高い声は、底抜けに明るい。

 

『やっぱこれ、こっちの人たちのキョーミにあっちの世界が共鳴して起きてる現象クマね。テレビに出た人がボンヤリ映るっていうセンセイの推理、正解クマ!』

 

「そうか……」

 

 正しくは悠一人の推理ではなく、特捜隊全員で導いた見解なのだが。何はともあれ、これにてクマのお墨付きを得たわけである。もっとも今となっては意味がないが。

 

『センセイ、元気ないクマねー! 犯人いなくなったのに、嬉しくないクマか?』

 

「ああ……悪いな」

 

 正直に言えば嬉しくはない。自分が決着を付けたわけではないから。だがいつまでも引きずっていてはいけないと、悠は思い始めた。事件が終われば、現実で生きてゆかねばならないのだ。

 

『せっかく出れたんだし、一緒に遊ぼうクマ!』

 

『あのな、俺らもうすぐ試験なんだよ! つってもお前にゃ分かんねえだろうが……勉強しなきゃいけねえんだから、後にしろって!』

 

 陽介の声が再びかぶさってきた。電話の向こうで一悶着が持ち上がった後、声の主が再び交代した。

 

『ああ、俺だ。クマがお前に会いたいってうるさいからさ……。今度の日曜、時間取れるか? 勉強会ってことで、みんなでフードコートに集まろうぜ!』

 

「そうか……いいな、それ」

 

 悠と陽介は、これから現実で生きてゆかねばならない。そして高校生の現実には試験が付き物だ。しかし夢の国で戦ってきた仲間たちとは、現実でも協力していこうと、陽介は言っているように思えた。それを心強く感じた悠は、口元に久しぶりの笑みを浮かべた。

 

『じゃ、決まりな! ま、今後ともよろしく頼むわ!』

 

 それで電話は切れた。今日の魔術師と星の絆は、湿っぽく始まって賑やかに終わった。三人の声を繋いだ携帯電話を見つめて、悠は絆が結ばれた二人との間に起きた出来事を、ふと思い返した。

 

(あいつらのシャドウは……)

 

 陽介とクマの影と戦った時のことだ。あの時の悠は、なぜか怒りを感じた。その理由が今になって分かった気がした。陽介は遊びでこの世界に来たのだろうと詰られ、クマは空っぽだと断定された。あの二人の影は『悠を』責めているような気がしたのだ。遊び呆ける空っぽな愚か者を、嘲笑っているような気がしたのだ。

 

 携帯電話をポケットにしまうと、作業机に置かれたタロットカードが目に入った。愚者のカードは裏返して置かれ、残りのカードはその隣で山になっている。山の一番上にある一枚を手に取り、表を見てみた。すると目に入ってきたのは、ラッパを持った巨人が描かれた審判のアルカナの寓意画だった。これまた逆位置である。

 

「……」

 

 作業机の上に、絵柄を上にしてカードを一枚ずつ並べてみた。審判から始めて、最後に愚者の逆位置を再びめくる。そうして机に並べられたカードは全部で二十二枚。その中に永劫のカードはなかった。

 

「……」

 

 愚者の隣に置かれた審判のカードを手に取り、裏返してみた。しかし裏面にあるのは仮面だけだった。他の全てのカードと同じ、ただの裏面だ。あらゆる個性を隠して、周囲に紛れ込ませる為の同じ仮面。もう一度裏返してみると、先ほども見た審判の絵が描かれているだけだ。同じカードを何回裏返したところで、違う絵柄が出てくるようなことはない。

 

「マリー……」

 

 並べたカードを一枚ずつ集めて、再び束にした。そして箱に戻した。なぜか入っていた便箋も折りたたんで箱に戻して、封をした。

 

 

 この時、悠は気付かなかった。マリーが言っていた『あの人』とは、久保のことではないのだ。これまでにベルベットルームを二度訪れ、一度だけマリーとも会ったことのある、ある男のことだったのだ。永劫以上に異質な、いかなる系統のタロットにもない異端のアルカナを象徴とする男だ。もしそれに気付いていたら、せめてマリーに聞いていたなら、この後の展開は大きく異なったものになっただろう。

 

 だが悠は気付かなかった。マリーに確認することもしなかった。永劫の絆で結ばれた人、正統的なタロットにはない絆の人との間に溝を感じた為に。

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