昨日に霧をもたらした雨は、昼間には上がっていた。しかし空は本来の青色を見せることはなく、灰色の曇天は夜通し続いて今朝になっても晴れる気配がない。それどころか天気予報によれば、今夜から再び降り始めるとのことだった。初登校から二日続けてのあいにくの天気は、悠の気分を爽快にはしてくれなかった。しかしその代わり、爽快ではないものの悪くはない感覚を与えられていた。
(田舎の匂い……って言うのかな)
空気に匂いがあったのだ。特に鮫川河川敷の辺りで、それが強くなった。雨が上がって晴れ間が広がると、土の匂いが立ち上る。大地の香りが天へと帰ろうとするのを、頭上の雲は少しだけ長い時間、地上に留め置いたらしい。土と川と、草や稲。総じて言えば、土地の匂い。コンクリートやアスファルトで覆われた町にはない、嗅覚から得られる小さな幸福感を、悠は感じていた。
ただしそれもいつまでも続くものではない。河川敷を過ぎれば住宅地に入り、匂いはアスファルトに隠される。そこに僅かな寂寥を感じた頃、横合いを自転車が猛スピードで通り抜けた。そして大きな音がした。
「だ、誰か……助けて……」
通学路の途中にあるゴミ集積所に大道芸人が現れた。緑のポリバケツに上半身を突っ込んで左右に転がるという、珍妙な即興芸を披露している。
(またか)
またである。この即興芸人は、昨日の通学時に体の一部分を強打して性の境をさまよいホームルームの間は机に突っ伏していた、あの少年に違いないと悠にも察せられた。顔はバケツに隠されているが、主人と違ってゴミをかぶらずに済んでいる、見覚えのある黄色のマウンテンバイクが芸人の正体を告げている。
(何なんだろう……この頻度は)
この少年と縁を結べと、どこかの誰かが言っているのだろうか。例えば神様とか。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えてしまうくらい、頻繁に出会っている。それも少年が助けを必要としている場面でばかり出会う。
そっとしておいた昨日に倣おうかと、悠は一瞬考えた。しかし古いコントでよくありそうな眼前の状況は、放置する為の言い訳を自分の中に探すのに、かなりの労力を必要としていた。体を張った喜劇は見ていて楽しいものだが、演じている方は辛い。そして少年は演じているのではなく、本当に困っているのは明白だ。
今は通学の時間帯で、しかもこの場所はもう学校のすぐ近くだ。だからこの場には悠と少年以外にも生徒が何人もいるのだが、なぜか誰も助けようとしない。単にそっとしておいているだけではなく、面白げに笑っている者も多い。周囲でテレビカメラが回っているわけでもないので、これがコントでないことは誰にでも分かるはずなのに。田舎であっても、人間は空気に含まれる匂いほど優しくはないようだった。
そこまで考えてから悠は少年の足を掴んで引っ張り出してやった。少年は自力でも脱出しようと暴れて、それがかえって救出の妨げとなってしまったが。
「いやー、助かったわ。ありがとな! えっと……」
いささかの時間をかけた作業の後、少年は引き出された。正面からはっきり見るのは初めてのその顔は、端正なものだった。やや垂れ気味の目は鮮やかに光り、顔の造作は正確なシンメトリーを描いている。現代風に言えば『イケメン』だ。ただ茶色の髪に付着しているゴミ屑が、せっかくの美男子に残念な彩りを添えている。
「鳴上だ。多分、同じクラスの」
「そうだ、転校生だ! 俺、花村陽介。よろしくな」
「よろしく」
陽介は快活に笑い、悠もそれに応えた。そして二人連れだって学校へ向かった。途中、昨日に起きた怪事件についてなど、世間話をしながら。ちなみに陽介を救出する際に、悠は人間以外のものも少しばかりポリバケツから引っ張り出してしまった。おかげで住宅地に来て既に薄れていた心地良い匂いは、完全に消え失せた。だが物言わぬ土地の気配と違って言葉を交わせて手も触れられる人間と、悠は知り合いになった。
そしてその日の放課後、新たな知り合いに誘われた。
「安い店ってここかよ……。ここ、ビフテキなんかないじゃんよ」
「お前にも奢んなら、あっちのステーキハウスは無理だっつの」
授業を終えてから悠と陽介、そして千枝の三人は、ジュネスの屋上にあるフードコートに来ていた。当初は今朝の救出劇の礼ということで、この町名産の『ビフテキ』を陽介が悠に奢る話だったのが、千枝が割り込んできた為、予算の関係からこの場所になったのだった。ちなみに千枝が来た理由は、昨日陽介が千枝から借りたDVDを割ってしまったこと(それが昨日の陽介の二つ目の災難、飛び蹴り事件の原因だったわけだが)に対する、お詫びである。
「だからって自分んち連れて来ることないでしょうが」
「別に、俺んちってわけじゃねえって……」
ポリバケツから助け出して知り合って以来、陽介は始終明るく話していた。しかしこの時になって、声に急な陰りが落ちた。晴天に一抹の雲が湧き出たように。
「お前んち?」
「ああ、えーと……お前には話してなかったっけ」
陽介の説明によれば、陽介の父親はジュネス八十稲羽店の店長を勤めており、開店に合わせて家族で引っ越してきたとのことだった。ちなみに陽介自身も、ここでアルバイトとして忙しく働いているらしい。
「できてまだ半年くらいだけど、行かなくなったよね。地元の商店街とか。店とか、どんどん潰れちゃって……あ」
千枝は陽介の説明を引き取りながら、急に口を噤んだ。自分の失言に気付いたのだ。
「……別にここのせいだけってことはないだろ?」
一抹の雲はその勢力を大きく広げた。さっきまで晴れ渡っていた陽介の顔をすっかり覆ってしまった雲は、自らの言葉から説得力を奪っている。見回してみれば、平日の昼間でありながらジュネスに客の入りは多い。フードコートは高校生や中学生、子供連れの主婦と思しき女性など、大勢の人間で賑わっている。それに応対するアルバイトの数も多い。下の階の売り場も同じようなものだ。
ジュネスは大型デパートだ。その進出は、稲羽市に経済的な地殻変動を起こしたはずである。地方の商店街の経営基盤など草刈り場に等しい。何と言っても資本が違うし、その他諸々も違う。全国に広がる物流ネットワークに支えられた取り扱う商品の種類と量。生み出す雇用。同業他社との競争で磨かれた経営のノウハウ。更には耳当たりの良いテーマソングを添えた、テレビコマーシャルを始めとする情報発信力。それらはいずれも個人商店では対抗しえない。
日本の歴史にたとえれば、黒船の来航みたいなものだ。そして倫理の授業風に言えば、商店街の人々はアイデンティティの危機に陥ったわけで、そこから立ち直れなかった店の末路は野垂れ死にならぬ倒産だ。
客観的には、その責任はジュネスだけにあるものではないし、まして陽介個人に帰せられるものでは断じてない。しかし人は事実や道理だけでは生きていけない。道理から離れた感情の面において、陽介は複雑な立場に置かれている。それは知り合って半年程度の千枝にも分かることだし、言葉を交わしたのは今日が初めての悠にも察せられることだった。
「……」
悠は空を見上げた。朝から変わらず厚い雲がかかっており、夜から降りだすとの予報が当たりそうな気配だ。これで晴天であれば八十稲羽には珍しい背の高い建物の屋上は、さぞや気分爽快だっただろう。しかし陽介のような曇天である為に、突然聞いてしまった重たい事情から生まれた重たい雰囲気を、天気は振り払ってくれない。と思いきや──
「あ、小西先輩じゃん。悪い、ちょっと……」
曇天は自らその雲を払った。突然席を立った陽介は、離れた位置に座っていた一人の女子アルバイトの元へ向かった。
「あの人は?」
「三年の小西早紀先輩。実家は商店街の酒屋さん。けど、ここでバイトしてんだって」
地域経済に関する重たい話の直後に現れたのは、ジュネスと商店街の狭間にいる人だった。その表情には若干の疲れが伺えた。
「花村の彼女?」
「はは、だったらいいんだけどね……」
悠の問いに、千枝は曖昧に笑って答えた。老舗酒屋の娘とデパート店長の息子。燃え上がる禁断の恋──
とでも言えば、誰もが知っているイギリスの有名な戯曲を連想する。その戯曲では、主人公は些細な行き違いからヒロインが死んだと思い込んで自殺し、ヒロインも後を追って自殺した。つまり悲劇である。ただしそれは飽くまで創作上の話で、陽介と早紀の間に横たわっているのは作家が描いた物語ではなく現実だ。それも現代の。戯曲が書かれた近代以前と違って、現代日本では家業の対立は死によってしか乗り越えられない類の壁ではない。
「何かあったら、何でも言ってよ。俺……」
陽介が直面しているのはそれとは違う壁だ。言いたいことがあるのに、言葉にできなくさせてしまうもの。人は誰しも仮面をつけて生きているが、それは時に家同士の間にある壁より強固な障害になる。特にモラトリアム期間中の青少年にとっては。
「あの子、もしかして最近入ったっていう転校生?」
その壁を前にして陽介が沈黙している間、早紀は話題を変えてしまった。悠と千枝のいるテーブル席に近づいてきて、転校生に話を振ってしまった。
「君が転校生? あ、私のことは聞いてる?」
「はい。鳴上です」
早紀は陽介とあまり変わらないくらい背の高い少女だった。ソバージュの髪は肩まで伸ばされ、目元には優しげな色が浮かんでいた。悠や陽介より実際に年上で、ジュネスのエプロンをしているその姿は、『お姉さん』という言葉が持つイメージに非常に近いものだった。着る服と化粧の仕方によっては、高校生には見えないくらい大人びた雰囲気を作れるだろう。ちなみに後で陽介から聞いた話によると、二歳年下の弟がいるらしく、それがお姉さん風を生み出す要因の一つであるのかもしれなかった。
「花ちゃんが男友達連れてるなんて珍しいよね。こいつ、友達少ないからさ。仲良くしてやってね?」
ついでに言うと、悠は『お姉さん』の他に『綺麗な人』という印象を持った。持っただけで、口には出さなかったが。
「でも花ちゃんってお節介でいい奴だけど、ウザかったらウザいって言いなね?」
「いい奴ですよ」
早紀の『お節介』に対して悠は即答した。明らかに冗談を言っていると分かる早紀に対して、悠は冗談なのか本気なのか、自分でも考えないまま答えた。
「あはは、分かってるって」
「せ、先輩……変な心配しないでよ」
焦る陽介を置いて、やがて早紀は仕事に戻る為、その場から去っていった。そして陽介は元いた自分の席に戻った。腕を組みながら、去りゆく早紀の背を視線だけで追って。そんな『友達』の姿を見て悠は思う。
(友達……。まあ、友達だな)
友達かそうでないか。その境界はかなり曖昧なものだが、陽介をそう認識することに悠は特別な抵抗を感じなかった。陽介は親の仕事に由来する複雑さを周囲に抱えていそうではあるが、悠には関係のない話である。そして千枝も友達と言って別に差し支えはない。ないと思う。
悠は人付き合いに積極的でない。頻繁に転校を繰り返す身では、いくら友人を作ろうと確実に近い確率ですぐに別れなければならないから。まして稲羽にいるのは一年限定で、陽介や千枝とは一緒に卒業式を迎えることもできないのだと、初めから分かっている。
しかし友達と言われて『まだです』などとのたまうほど、悠は気難しい性格でもない。例を挙げれば、自分で遊びを企画して人を誘ったりはしないが、誘われたら断らない。そういう類の少年だった。冷めた方ではあるが冷めきってはいない。要は年相応に、普通に冷めていた。これまでの人生で転校が多かったことは確かだが、それは青少年の人格形成に破滅的な影響を及ぼす異常な経験などではなく、普通の範疇に属する出来事だったから。
菜々子と同じくらいの年頃に、死神と人型兵器の戦いに巻き込まれて両親を失い、自分は死神を封印する器に使われたとか。それよりもっと幼い、物心ついた頃からマッドサイエンティストに育てられて、死の欠片を体内に埋め込まれたとか。そういう異常な経験は、普通に生きてきた悠の過去にはなかった。もっとも些細な出来事でも人は絶望しうるものだが、そうした機会もなかった。だから悠は人間らしさを失ってはいなかった。今はまだ。
異常な経験をするのは、これから。その最初の契機は一昨日に既に済ませている。そして二つ目の契機は、陽介と早紀の関係を案じた、或いは面白がった千枝による次の発言だった。
「マヨナカテレビって知ってる?」
電子レンジに猫を入れて乾かすとか、日本にピラミッドがあるとか、その種の都市伝説は大昔から存在する。洋の東西も時代も問わない。しかしそれを真実としてとらえる者は多くはない。そして話に含まれる真実味が少なければ少ないほど、信じる者は比例して少なくなる。まして『雨の夜の午前0時に、消えたテレビを一人で見ると、運命の人が映る』などと言われては、一体どこに信じる要素を探せば良いのか、その段階から悩んでしまう。
それでもなお人は試してしまう。信じていなくても、幼稚だと一蹴しても、消えたテレビを見つめる人間は確実にいる。それは『万が一本当だったら』という期待感がそうさせるのか、常識の枠外にある怪異を覗き見て、その実体を掴もうとする知的欲求のせいなのか。いずれにしても、悠は千枝から聞いた『マヨナカテレビ』なるものを、その日の晩に試してみた。
悠は話を信じたつもりはなかったのだが、それでも試した。その理由はいくつかある。例えば夕食中のテレビニュースで、変死したアナウンサーの遺体第一発見者のインタビューにおけるリポーターの遠慮のなさなどに、久しぶりに帰宅した堂島が気を悪くして菜々子との間の気まずさが増幅してしまい、その気晴らしを求めたとか。短い期間の付き合いであることが約束されているものの、『友達』になった陽介と千枝への義理とか。退屈な田舎暮らしに刺激を求めていたとかだ。
そして『運命の人』に興味があったというのも、全くないわけではなかった。もしマヨナカテレビに千枝や雪子が映ったりしたら、なかなか楽しい気分になれそうだった。もし早紀が映ろうものならかなり困った事態になるはずだが、友人をからかうネタにはなりそうだった。そして万が一、一昨日に駅で見かけたパンク風ファッションの少女が映りでもしたら、こんな田舎に転校してきた甲斐もあったと言うもの──
とにかく色々な理由をこじつけて、悠は堂島宅二階の自室でマヨナカテレビを確認した。そして見て、驚いて、テレビの縁に肩をぶつけた。挙句には仰け反った弾みでテーブルに頭をぶつけてしまい、酷く痛い思いをした。数日前、足立が自宅のアパートでやったように。
翌日、14日の放課後の時間。またしても降り始めた雨が優しい手つきで大地の匂いをかき混ぜる中、悠は再びジュネスを訪れた。もちろん陽介と千枝も一緒である。転校から僅か三日、しかも菜々子も未だ連れて来ていないのに、昨日に続いての二度目の訪問となったのには理由がある。事の発端は、三人が学校でした話だった。
「やっぱ、入れるわけないよな」
「はは、寝落ち確定だね」
六十インチの大型テレビの前で、陽介と千枝は顔を見合わせて笑った。
この日の授業を終えた後、三人は昨晩のマヨナカテレビを見た結果を報告しあったのだ。三人とも同じような人影を見たようなのだが、悠だけはそれに留まらなかった。
そう、『テレビに吸い込まれそうになった』のだ。
悠は放課後の教室で、二人にそれを話した。ならばジュネスの家電売り場で、試してみようとの話になったわけだ。とは言うものの、もちろん陽介と千枝は悠の話を信じておらず、試すというのは冗談に過ぎない。今年の7月にアナログ放送が終了するのに合わせてテレビの買い替えを千枝の家でも検討しており、下見に来たのが本当のところである。
「取り敢えず安い奴。お勧めある?」
「では、こちらなどいかがでしょうか、お客様。この春発売されたばかりの最新型で……」
だから二人はテレビ画面に自分たちの手が入らないことを確認するや、早速本来の目的を実行に移し始めた。
「……」
アルバイトで磨いた陽介の営業トークを小耳に挟みながら、悠はその場に留まった。電源の入っていない大型テレビは、仄かに暗い鏡となって悠の顔を映している。それは特に何の表情も浮かべておらず、運転免許の証明写真にでも使えそうな顔だった。しかし──
(馬鹿なことをしたな……)
テレビ画面に映る顔は、小さなため息を吐いた。
『何が馬鹿なんだ?』
(何がって? 決まってるだろう! テレビに手がもぐり込んで、引きずり込まれそうになって、肩がつかえたから入らなかった? そんなの夢以外の何だって言うんだ。何で花村と里中に話したりするかな。笑われるだけじゃないか)
『本当にそうか? マヨナカテレビの映像は、あの二人も見たと言っていたぞ。八十神高校の制服を着た女の子で、ふわっとした髪が肩くらいまであっただろう?』
(……その段階から夢だったのさ)
『それこそ馬鹿な話だ。同じ夢を三人揃って見たと言うのか? それともお前は、今日の放課後の教室であの二人がその話をしていたこと自体も、夢だったとでも言うつもりか? お前はそんなに自分の目に自信がないのか? 自分は妄想癖があるとした方が、テレビにもぐるよりもマシなのか?』
(だったら証拠を見せてみろ)
『証拠はお前が持っている』
(は?)
『そこのテレビだ。触ってみるといい。それで全てが証明できる。たったそれだけで、真実は白日の下に晒されるんだ。簡単だろう? 十秒もかからん』
(……そっちから証拠を見せろ)
『何だ、お前はとんだ面倒くさがりだな。ただ腕を伸ばすだけなのに、それさえできないのか。そっとしておいても何もいいことはないんだぞ?』
(いいから見せろ。マヨナカテレビって何で雨の夜にしか映らないんだ。別に朝でも昼でもいいじゃないか。雨なら今日も降ってるんだし、何でもいいから映してみろよ)
『全く、仕方のない奴だ。特別だからな?』
電源を入れていないテレビは、仄かに暗い鏡だ。そこに映る渋面の悠は瞬きをした。
「え……?」
鏡に映る自分が瞬きをする。自分が瞬きをする瞬間を、自分の目で見る。そんなことはあり得ない。あり得ないのだが、なぜか見てしまった。
『運命の人が映る』よりもずっと地味だが、これも一つの超常現象だ。あり得ない出来事を見てしまった悠は、自分の目を疑った。文字通りの意味で。昨晩さえもしなかった、『目をこする』という行為を思わずしてしまった。目にゴミが入ったところで、鏡の自分が瞬きする幻など見るはずがないのに、反射的に右手で目をこすってしまった。その間、テレビ画面の中にいる悠は左手で目をこすっていた。
「……」
ジュネスの家電売り場にいる現実の悠は、左肩を回した。すると向こう側の悠は右肩を回した。回しながら、また瞬きをした。
『さあ、次はお前の番だ』
この時、悠は初めて気が付いた。自分はさっきから一体誰と話しているのかと。初めて疑問に思った。
(だ……誰だ? お前は誰なんだ?)
『やれやれ、さっきから目の前にいるだろう』
テレビ画面に映る悠は笑っている。証明写真の顔はどこかに放り捨てられて、口の端を持ち上げて、にやにやと笑っている。楽しくて仕方がないのだと、言葉にしなくても顔がそう言っている。現実の悠は思わず自分の口に右手を当てて、現状を確認してしまった。薄い唇は普段の形からかなり変わっていることが、それで分かった。その間、テレビの悠は左手を口に当てていた。
「……」
現実の悠は口から右手を離し、前に伸ばした。するとテレビの悠は左手を伸ばした。しかし『二人』の手は、触れあう直前で止まった。そしてもう一度だけ互いの顔を確認した。二人とも面白そうに笑っている。何がそんなに面白いのか、悠には分かった。分かる気がした。そしてテレビの向こうの『彼』も、もちろん分かっている。
そして悠は躊躇うのをやめた。
──
奇妙にくぐもった音が発せられ、画面に波紋が広がった。おかげで画面に映る彼は姿を消してしまったが、悠は構わなかった。彼は自分なのだから。自分は楽しそうに笑っていたのだから、何を構うことがあろうか。
「そういやさあ、鳴上。お前んちのテレビって……ええ!?」
「ん? どしたの、花村……って、えええ!?」
この時になって、ようやく陽介と千枝も気付いた。自分たちと一緒に家電を見に来たはずの新たな友人が、イリュージョンめいたことを公共の場でやっているのに。
「す、すげえ……」
「ど、どうなってんだ!? タネは?」
二人は不審な友人の周りに駆け寄り、右腕を肘の辺りまでテレビに刺している様を、食い入るように見つめている。すると悠は右手を一旦抜いて、顔から表情を消した。ポーカーフェイスは得意な方だ。大真面目な顔で秘蔵のトリックを披露する一流の手品師のように、傍から見れば冷静そうな、真剣そうな顔で一歩進んだ。左足の膝をテレビ台にかけ、テレビのフレームの下を両手で掴んだ。そして画面の真ん中の辺りに、今度は額を当ててみた。するとやはりと言うか、頭ももぐった。
「ば、馬鹿よせって! 何してんだお前!」
テレビに頭を入れた悠の耳に、陽介の声が届いた。それを聞いてから悠は中で声を出してみた。
「中に空間が広がってる」
「な、中って何!?」
「く、空間って何!?」
律儀にも、外にいる二人からの返事はしっかり返ってきた。それはつまり、テレビの中と外は、声が互いに通じるということだ。それを確認した悠は、それ以上喋るのをやめた。その代わり顔に笑みを戻した。目尻を下げて、唇の端を吊り上げて。友人たちには見えない場所にある顔で、一人笑った。
(は、ははは……)
そして心の中でも笑った。声には出さないが、大笑いした。
(ははは! 何だ! 何だこれ! 田舎で頑張ってる俺へのご褒美か!?)
悠はこれまで生きてきた中で、己を聖人君子へと教え導いてくれる人生の恩師になど出会ったことはない。一昔以上前に流行した、いわゆるバンカラファッションに身を包んだ不良のリーダーなども、お目にかかったことはない。現代日本で普通に生きてきただけだ。だから普通に冷めていて、普通に面倒くさがりで、普通に異性が好きだった。世の青少年の平均値から見れば多少の逸脱はあったにせよ、異常と言えるほどではなかった。
青筋を浮かべた教師に怒鳴られれば、敢えて口答えはしない。面倒事はなるべく避けて通るが、クラスメイトがポリバケツをかぶっていれば助けてやる。美少女がいれば目移りする。転校先の新しい友人に誘われれば、一緒に遊びにいく。テレビ番組が面白くなければ、退屈する。そして延々と続く日常の中で、思いがけず非日常を目の当たりにすれば、ワクワクする。
(『何もないがある』だなんて、とんでもない! 凄く面白そうな町じゃないか! 何か変な事件とかあるし、女の子はレベル高いのばっかりだし! 極めつけはテレビの中の異世界と来たもんだ!)
そんなものだから、突然降って湧いた非日常に興奮して、身を乗り出してしまうのも無理からぬことであった。テレビのフレームを掴む両手を全力で伸ばすのも仕方ない。テレビ台に乗せた左膝を気持ち進めて、右足の踵が床から浮くくらいにテレビの奥へ首を突っ込んでしまうのも、仕方なかった。外で焦った友人たちが、つまずいてぶつかって倒れ込んできたら、抵抗できずに一緒に落ちてしまうのも、やむを得なかった。