担任の死から始まった過酷な一週間が終わり、新しい一週間が始まった。悠は通学カバンを脇に抱えて、二階の自室から一階の居間に下りた。そこには菜々子がいた。
「出かけてくるよ」
悠は教材の入ったカバンを持っているが、着ているものは制服ではなく私服である。白のポロシャツと、茶色のチノパンという出で立ちだ。今日は日曜日である。
「ん……」
菜々子はテレビを一人で見ている。声をかけた従兄には振り向きもしない。
『み・ん・な・の、欲の友!』
画面に映っているのは有名な通販番組で、紹介されているのは奇妙に派手な色の服だった。小学一年生の女児の興味を特別惹くとも思えない代物だが、菜々子は見ている。いや、見ていると言うより、単に画面を漫然と眺めているような風情だ。つまらなくても他に見るものもないので、仕方なく見ている。そんな気配が無言のままに漂っている。
「ジュネスに行くけど……菜々子も来る?」
今日のジュネス行きは買い物ではなく、明後日から始まる期末試験に向けての、特別捜査隊の仲間たちとの勉強会だ。だから菜々子を連れていくのは望ましくないのだが、悠は敢えて誘った。
「……いい」
しかし菜々子はつれない。先週から始まった、と言うより4月以来ぶり返した気まずさは、まだ続いている。いや、同居を始めた当初の頃と比べても、今の状況はより良くない。大好きなデパート兼テーマパークに誘われて応じないとは相当である。
「そうか……夕方には帰るよ」
しかし悠は菜々子を無理に連れ出そうとはせず、一人で玄関へ向かった。向かいながら、思った。
(試験が終わった頃にでも、皆を家に連れてくるかな。りせが来れば菜々子は喜ぶだろうし……)
菜々子は特捜隊の二年生組とは全員面識がある。しかしりせとはまだ会っていない。ついでに言うと完二もそうだし、先週から外に出てきたクマもそうだ。
菜々子との間に溝が生まれてしまったのは、悠の責任だ。しかし独力で関係を修復するのは、かなり困難な作業になりそうだった。この際だから、菜々子くらいの年頃の女児なら誰もが憧れるであろう、女子高生アイドルの力を借りるのも致し方ないかと考えた。事態の責任は自分一人にあっても、一人でできることには限りがある。
今日は全天を覆う雲が血気盛んな太陽を遮っている。光が少ない夏の午前は、暑さが少しだけ和らいでいる。先週は霧に始まり、晴れ、曇り、雨に雷と天気は忙しく変わったが、週間予報によれば今週は今日のような曇りの日が多いと言われていた。もっとも一昨日は突然雨が降ったように、予報は確実ではないが。
堂島宅からジュネスに行くにはバイクを使ってもよいのだが、今日の悠は歩きたい気分だった。通学カバンを脇に抱えて、白い空を見上げて思う。
(事件は終わったんだし、勉強しないとな……先生の為にも)
諸岡は亡くなる前に試験問題を仕上げていたようで、倫理の試験も通常通り行われる。そしてそれは望むところだ。悠は今月の初め頃から倫理は熱心に復習していたし、しかも今度の試験は恩師の遺品のようなものである。だから倫理には全力を挙げるつもりでいる。ついでに他の教科も、本番まで残された日数は少ないが身を入れて勉強しようという気になっていた。そしてそんな自分に少しばかり感心していた。
(俺、去年までとはえらい違いだな)
勉強に熱意を持つなど、去年以前には考えられなかった。来年の春に両親と再会したら、『誰だこいつは』と思われるかもしれない。しかも昔と比べて違うのは学業だけではない。交友関係は格段に広く、深くなった。その多くは事件がもたらしたものだ。
陽介とは都会出身同士であるから、事件がなくても仲良くなっていただろうと思う。しかしそれでは今のような深い関係には、きっとならなかった。不良然とした容貌な上に学年の違う完二とは、事件がなければきっと知り合いにすらならなかった。千枝や雪子とも、ただのクラスメイト以上の関係になれたとは限らない。もっともあの二人はもはやただのクラスメイトではないものの、友達以上の関係には事件があってもなれなかった。チャンスはあったが、失敗したのだ。
(……でも海老原とは付き合ってる……って、そう言えばしばらく会ってないな)
後悔を思い出した途端、別の女に思いを馳せた。ただしかの少女とは付き合うようになったものの、ここ最近は事件の終息にまつわる様々な出来事によって、ほとんど忘れてしまっていた。
(小沢は……付き合うとか、そういう関係にはならなさそうな気がするな。りせは……うん、やっぱり菜々子と引き合わせよう)
悠は気が多い方である。絆で結ばれた女のことを一人思うと、連想的に次々と思い出していく。しかし──
(マリー……)
最後の少女に思い至ったところで、悠は立ち止まった。思考が移ろうのをやめると共に、足も止まった。胸の奥で何かが凝って締めつけられる。八十稲羽に来て三ヶ月の間に失敗はいくつかしでかしている。例えば可愛い従妹とすっかり気まずくなってしまったこととか。だがマリーとは菜々子より酷い状態に陥っている。
キミは殺人者です──
一昨日読んだ詩句が蘇る。陽介は違うと言ってくれたが、それは本当なのか。相棒の優しさに甘えて、大切なことから目を背けてしまっていなかっただろうか。周囲に仲間がおらず一人で歩いている今になって、詩が抉り出す『真実』がのしかかってくる。
(俺が殺した……)
自分はどのようにして久保を殺すつもりだったか、想像してみた。テレビの画面に久保を突き落とす。頭が、胴体が、足が異世界に飲み込まれていく。自分はそれを追って霧の中で対峙する。眼鏡を持たず慌てふためく犯人を前に、自分はペルソナを召喚して青い稲妻を落とす。
(静かな微笑みで、落ち着いた声で……)
とどめは刀を、否、バス停を振りかざし、顔面に叩きつける。その顔は怯えて、否、無表情で、いやいや狂喜して。憎悪も歓喜も何もかもが一緒くたで、被害者と加害者の区別もなくて、傍からは静かに微笑んでいるようにしか見えなくて、まるで自分のシャドウのようで──
「……!」
いつの間にか自分が汗をかいているのに気付いた。太陽は雲に隠れたままなのに。思わず自分の掌を見れば、じっとりと濡れている。前髪の下に手の甲を当ててみれば、そこも汗に塗れている。もちろん暑さに由来するものではない。
(これが……)
悠は初めてマリーの詩を心で感じた。重く、苦しく、リアリティに満ちている。思い返してみれば、初めて読んだ人魚姫の詩からして、綴られていたのはこれだったのではないか。この『真実』の重さに比べれば、詩の表面的なセンスが過剰であることなど何であろうか?
だが事件は終わった為、特捜隊はもうテレビに入る必要はなくなった。つまりベルベットルームに行く必要もない。ならばもう、マリーとは会うこともないだろうか──
(いや……行こう)
悠は思い直した。何事もそっとしておきたがる、臆病な面倒くさがりは返上したはずだった。犯人の自首により諸岡の仇は取れなくなってしまった。しかし行動力に欠けるという、自分の最大の短所だけは改めた。改めたつもりでいる。
行き先をジュネスから変更し、ベルベットルームのある商店街に向かった。寄り道をしては、陽介と約束した集合時間に間に合わなくなってしまいかねない。だが敢えて向かった。
しかし目的地には辿り着けなかった。そこに至る寸前で気を失ったのだ。今日は曇りだから大丈夫だと油断していたら、またしても天気予報が外れて、突然勢力を増した太陽にやられて熱中症になったように。もしくは薬を嗅がされたか、はたまたスタンガンの一撃でも食らったか。とにかく予期しないものに襲われて、少年は自分を失ってしまった。
「あー、もう明後日から期末かあ……。赤、久々に来るな、これ……」
「先週からずっとバタバタしてたもんね。諸岡先生とか、クマ君とか……」
フードコートのガーデンテーブルで、千枝が気だるげにぼやき、雪子が応じた。特捜隊に優等生は少ない。雪子は学年でトップクラスの成績を取っているが、他は平均かそれ以下だ。特に6月までは学校をサボりがちだった完二はかなり危ない。りせもこれまでアイドル稼業に忙殺され、しかも先週に転入したばかりの為、危険なラインにいる。おまけに先週は諸岡の死にまつわる騒動で、普段以上に勉強しなかった者が大半である。
「そう言や、クマ公どうしてんすか?」
「そこだよ」
完二の問いかけに、陽介は短く答えつつ後ろを指差した。そこでは赤と青のコントラストが鮮やかな、ゆるキャラが仕事をしていた。群がる子供たちに風船を配っている。
「住み込みで働かせることにしました。マスコット」
「あー、むしろ着せたんすね。逆転の発想だ」
日本に着ぐるみは昔からいたが、最近は各地の自治体や企業の広報活動において数多く生み出されている。中には地域の枠を超えて、全国区の人気を博すキャラクターもいる。そうした世間の流行にジュネス八十稲羽店も乗ったわけである。
「おーう! 皆さんお集まりクマねー!」
仲間たちの注目に気付いたクマは、風船を配り終えると皆のもとにやって来た。ぴょこぴょこと、まさに可愛らしいキャラに相応しい足音を立てながら。しかし風貌や足音と違って、言動は可愛いばかりではない。
「チエチャン、ユキチャン、リセチャン! みんな大好きクマクマよー!」
この場に五人いる仲間たちの中で女性陣にしか声をかけないのは、クマの癖のようなものである。クマの師匠も美少女がいればつい目移りしてしまう悪癖があるが、弟子はその上を行っている。
「あ、そだ! リセチャンに、プレゼント・フォー・ユー!」
一人で忙しく騒ぐクマはどこからか眼鏡を取り出して、りせに手渡した。ハーフリムのセルフレームタイプで、色はピンクだった。
「これ、向こうでみんながしてたのと?」
「そークマ! それかけてると、霧をバッチリ見通せるクマ!」
実はクマは外に出てきた今月10日には、りせの眼鏡を用意していたのである。しかしその後のあれこれで、渡す機会を逸したままになっていたのだ。
「もう使うことねえかもしんねえけど……まあ、仲間の証みたいなもんだからさ」
「そっか、ありがとね!」
陽介が説明を追加すると、りせは笑顔を見せた。まさにアイドルらしい、噴水に光が反射するように煌めいて、皆の微笑みを誘う笑顔だ。三人の少女と二人の少年、そして一人の着ぐるみ。合わせて六人の笑い声が、露天のフードコートで湧き上がって空へと向かう。
六人である。現在の特捜隊の総勢と比べて、一人少ない。
「遅いな、悠……」
皆の笑いが収まってから、陽介は周囲を見回しながら呟いた。誰に聞かせるつもりもなかったのだが、千枝が聞きとがめた。
「あれ……花村、鳴上君のこと、名前で呼ぶようになったの?」
名前で呼ぶようになったのは陽介だけではない。悠も陽介を名前で呼ぶようになっている。
「ん……おう。男には色々あんのさ……」
千枝の指摘に陽介は曖昧に答えた。二人の互いの呼び名が変わったのは、つい最近のことである。そうなった詳しい経緯を、陽介は千枝たちに話していないし今後も話すつもりはない。極めて個人的な事情が絡んでいるからだ。背中を預ける仲間同士といえども入り込んではいけない一線があると、陽介は感じていた。
そこに相棒に対する独占欲と呼ぶべきものがあるのかと問われれば、陽介はきっと困っただろうが──
「時間、間違えてねえだろうな……電話してみっか」
陽介はズボンのポケットから携帯電話を取り出した。慣れた手つきで素早く操作して、耳に当てた。
人は電話をすると、往々にして周囲が目に入らなくなる。この場にいない話し相手に意識が向かってしまい、現実で目を開けていても、目の前にあるものを認識しなくなる場合があるのだ。だから陽介は、悠との関係において頭一つ抜け出た自分が、密かに睨まれているのに気付かなかった。
(私だって名字で呼んでるのに……)
(花村のくせに……)
睨んでいるのは雪子と千枝だ。
リーダーの相棒、もしくはサブリーダー。呼び方は色々あり得るが、陽介は特捜隊のいわば中間管理職的な立場にいる。それは多くの組織において最も割を食うポジションである。電話に集中している陽介は気付いていないが、女性陣二人の気迫によって、つい先ほどまで賑やかだったフードコートに俄かな沈黙が降りた。
数秒の静寂の後、陽介は機械を耳から離した。沈黙したままで。
「通じねえ……」
陽介の携帯電話に届けられたのは、相手は電源を切っているか電波の届かない場所にいるとの無機質な声だった。陽介と悠は4月以来、何度も電話で連絡を取り合っているが、この結果は初めてだった。そして八十稲羽にあって電波の届かない場所と言えば──
「ねえ、こないだのマヨナカテレビに映ってたのって……鳴上先輩だよね?」
りせが呟くと、皆の注目はそちらに集まった。一昨日15日に降った雨は予報されていなかったが、その晩のマヨナカテレビは全員見たのだ。映像は酷く粗かったが、誰が映っていたのかは皆が分かっていた。
「……」
「……」
沈黙が更に重くなった。夏の暑さを遠ざける何かが、沈黙それ自体の中から忍び寄ってきた。自分たちは何かを間違えているのではないかと。何か重大で深刻で壮絶な過ちを犯して、今まさにその報いが来ているのではないかと──
「勉強なんかしてる場合じゃねえ! 行くぞ!」
陽介は席を立った。皆の返事も待たずに、ジュネスの建屋へ一目散に駆け出した。全員がそれに続く。
二階の家電売り場にあるいつもの大型テレビから、特捜隊は初めてリーダー不在のまま霧の世界に飛び込んだ。『霧』の世界である。最近は見えないから意識しなくなっていたが、霧はずっとそこにあり続ける。テレビのスタジオに降り立った途端、特捜隊六人のうち四人はそれを思い知った。
「しまった……! 眼鏡忘れた!」
「あ、あたしも!」
今日の特捜隊は誰も眼鏡を持っていなかった。先週に犯人の自首という形で事件が終わってから、正しくは終わったと思ってから、持ち歩かなくなっていたのだ。もう必要ないから。もちろん捨ててはいないが、全員が自宅に置いてきていた。
「クマメガネ、みんな忘れたクマか!? しょーがないクマね……」
本当に必要ないのは、眼鏡がなくても霧を見通せるクマだけである。
「しゃあねえだろ! りせ、取り敢えず探してくれ!」
「うん! 来て、ヒミコ!」
今日貰ったばかりの仲間の証を、りせは顔にかけた。そしてすかさずペルソナを召喚する。シャドウだった時と同じく顔にアンテナをつけたペルソナは、本体の眼鏡の上からヘッドマウント型のディスプレイをかぶせる。まずは探査である。前線要員が霧を見通せなくても、情報担当要員さえ見通せればまずは事足りる。テレビの中に誰もいなければ、全て勘違いであれば、それでよいのだから。
皆が息を潜めて結果を待つこと数秒で、りせにだけ見えるディスプレイに反応が出た。
「いる……先輩、この世界にいる!」
その結果は予想通りに期待を裏切っていた。
「く……マジかよ!」
「な、何で!? 犯人、自首したんでしょ!?」
「一体、どういう……」
二年生組は息を飲み、そして混乱する。犯人はいなくなったのに、悠はテレビに放り込まれた。なぜなのか。自分たちは一体どこで間違えたのか。何が目を曇らせて、リーダーが危機に陥るこの事態が生み出されたのか。何が何だか分からない。激しい混迷の渦に巻き込まれ、体は固まり、思考も固まっているも同然なほどに、あちらこちらへ巡り始める──
「んなことより! 先輩どこにいんだ! 分かんだろ!?」
惑乱した上級生たちを完二が一喝した。そして再び全員の注目がりせに集まる。だが──
「……駄目。いるのは間違いないけど、足取り掴めない!」
今度は期待ばかりか予想も裏切っていた。
「どうして……? 私が先輩のこと、まだあんまり知らないから?」
「おいクマ! お前はどうだ!?」
一縷の希望を託して、陽介はクマに振る。しかし──
「えーっと……センセイのニオイは感じるクマ。でもどこにいるのか、分からんクマ……」
こちらも同じだった。すると今度は千枝が叫んだ。
「あー……その! こういう時はアレでしょ。鳴上君がどういう人かって!」
テレビに放り込まれた人の居場所が掴めない。これは特捜隊にとって前例のある事態である。打開する方法は被害者の人柄などを情報担当に伝え、それを元に探ってもらうことだ。クマが言う『ニオイ』とは体臭のことではなく、もちろん呼吸音や体温などでもない。その人が発する気配なのだ。極めて精神的な意味での気配だ。情報系ペルソナやそれに類した力が感じるのは、そういうものだ。しかし──
「センセイはセンセイクマ!」
悠の人柄に関する最初の情報は、この程度だった。
「それ、要領を得ねえっての……」
クマは悠たちと初めて会った時から、自分のことを『クマはクマクマ』としか言ってこなかった。クマは自分自身についての認識を、それしか持っていないからなのだが、実は悠に対しても同様なのかもしれない。
「先輩は……すげえ人っすよ」
「頼りになる人……」
「優しくて、友達思いだよね」
クマに続いて、完二、雪子、千枝が口々に言う。彼らは皆、特捜隊としての活動で悠と接してきた他、コミュニティと呼ばれる絆を個人的に結んでもいる。それらの交流の中で、悠に対する認識が形作られてきたのだ。
「あいつがいたから俺も里中も天城も、完二やりせも助かったんだ。あいつがいなきゃ、俺らはとっくに死んでたんだ。つまりアレだ……俺らのヒーローだ」
最後に陽介が相棒への思いを口にした。だが──
「駄目、全然変わんない……」
「んなわきゃねえだろ! お前、ちゃんと探してんのか!?」
「探してるわよ!」
再び完二が怒鳴り、りせも言い返す。皆は各々なりに必死なのだが、どうにも噛み合わない。ただ焦りだけが募り、言いたいことだけを言い合って時間が過ぎていく。
「あー……もう! じゃあ誰か他の人! 私たち以外で先輩と仲いい人! 誰!?」
紛糾したテレビのスタジオに、りせの怒声が響き渡った。
「それはやっぱり……家族じゃない? えっと……確か叔父さんで刑事の、堂島さん」
悲鳴のような後輩の発案に、雪子が答えた。雪子は堂島と会ったことがある。悠が転入した4月12日、千枝を含めた三人で下校した際に山野の遺体発見現場近くで堂島と遭遇した。その後も山野の捜査と自分の失踪で、何度か顔を合わせたことがある。
「先輩の叔父貴が、デカなんすか?」
しかし女性陣二人と、そして補導されかけたことのある陽介と違って、完二は堂島に会ったことがない。完二は堂島宅を訪ねたことは未だないし、特捜隊としての捜査活動中に偶然出くわしたりとか、そういう機会がなかったから。
「聞いて大丈夫なんすか? デカ相手に下手に詮索なんかしたら、何突っ込まれるか……」
完二は本来の性格は別として、容貌や言動は不良然としたものだ。暴走族を一人で潰したという、町では有名な武勇伝もある。だから心ならずも目を付けられているので、警察関係に対する心象は良いものではない。だがそうした個人的事情を差し引いても、この指摘は一理ある。元より警察を頼れない事件において、刑事への聞き込みは事態の更なる悪化を招きかねない。
「じゃあ菜々子ちゃんかな?」
今度は千枝が提案した。堂島以外の悠の家族と言えば菜々子だけだ。
「よし……まず菜々子ちゃんに聞いてみよう。それで上手くいかなかったら、何とかして堂島さんにも聞いてみよう。クマ、出口!」
リーダー不在の中で、サブリーダー的な立場にある陽介が場をまとめた。当面の行動が決まるや、全員が我先に三段積みのテレビから外に出た。
被害者の人柄などを情報担当に伝えることで、居場所は探し出せる。それなのに特捜隊の仲間たちが各々の印象や思いを語っても、悠を見つけられない。それが何を意味しているのか、よくよく考えれば分かりそうな話である。しかし今はとにかく緊急事態である。議論よりも、まず行動が求められる局面だ。突然のリーダーの危機が、そしてこれまでの悠との交流それ自体が、特捜隊をある『真実』から遠ざけていた。結果的に。もしくは宿命的に。
特捜隊は家電売り場を早々に飛び出し、ジュネスの階段を駆け下りた。そして堂島宅に向かうべく全員でエレベーターホールまで辿り着くと、一人のスーツ姿の男がそこにいるのを認めた。
「あれ、あの人……」
雪子が最初に気付いた。すると相手の方も、五人の高校生と一匹の着ぐるみという、何とも目立つ集団に気付いて目を向けてきた。
「おや、君たち……鳴上君の友達?」
「貴方は……えっと、刑事さん?」
エレベーターの前にいたのは足立である。近づくと陽介も相手が誰なのかに気付いた。しかし名前は出てこない。
「そうだよ。あ、ひょっとしたら、まだ名乗ってなかったかな?」
足立は悠以外の特捜隊の面々とは、ほとんど話したことがない。雪子とは4月に山野の警護とその後の捜査で顔を見た程度で、陽介とは補導未遂の際に少し話したくらいだ。特捜会議中のフードコートに足立が偶然現れたとか、りせの調査中に町中で鉢合わせたとか、そういう機会は今までなかった。『そうするべき』時期の足立はポートアイランドに出張に行っていたり、堂島に連れられてひき逃げ事件の現場に足を運んだりしていたから。
「足立透です。鳴上君の叔父さんの、堂島さんの部下……ってか、相棒ね」
「えと、花村陽介です。悠の友達……ってか、相棒です」
陽介の答えに、足立はくすりと笑った。
「はは、何か一緒だね」
相棒同士の二人は、初めて互いに名乗った。悠と足立、悠と陽介は言うまでもないが、足立と陽介の二人もまた、深い因縁にある──
「よろしく。今日は鳴上君と一緒じゃないの?」
「え、ええ……ちょっと連絡つかなくて……」
雪子は曖昧に答えた。刑事と話している時間はないのだ。今は一刻も早く菜々子に話を聞いて、悠について調べねばならない。しかしそんな雪子を遮るように、陽介が口を開いた。
「あの……足立さん。最近あいつにおかしなトコとか、なかったっすか?」
刑事相手に下手に詮索などしたら、何を突っ込まれるか分からない。つい数分前に完二が懸念したばかりであるのに、陽介は足立に尋ねた。それも決して上手とは言えない聞き方で。
「おかしなトコ? 変なこと聞くねえ……僕より君たちの方がよく知ってるんじゃない?」
そう言って足立は雪子に、次いで千枝に視線を送った。案の定と言うか、足立は突っ込んできたわけである。
「い、いやいや! 大人の目から見たら、何か違うとかないすか?」
陽介が足立に話を振ったのは、もちろん窮地の相棒を案じてのことである。しかし単に形振り構っていられないというわけでもない。悠は5月に警察の捜査情報を漏らしてくれないかと、足立に話を聞いたことがある。その時のような心境に、陽介もなったのだ。このいかにも軽そうな、あからさまに仕事をサボっている風情の刑事なら、何かヒントになることを教えてくれるのではないかと、俄な期待を抱いたのだ。
「大人、ね……」
つまり悠と同様に、陽介も足立を甘く見ていたのだ。もっとも悠は今月8日、煮物の縁を叩き切った姿を見て認識を改めた。しかし陽介はそれを知らない。
「ま、いいけど。先週の火曜日だったかな? 堂島さんちで夕飯食べたんだけど……彼、ちょっと落ち込んでたね」
だが足立はそんな自分に対する評価を知ってか知らずか、突っ込む手を収めた。そして情報提供を始めた。
「落ち込んでた?」
「うん。堂島さんに叱られてたし」
「あ? ……叱られて落ち込んでたってのか? あの先輩が?」
完二が口を挟んできた。口調はかなり硬く、表情は怖い。だが足立は平静を崩さない。
「うーん……と言うより、あれでしょ。亡くなった諸岡さん、彼の担任だったんでしょ? そりゃあ、ショックだったんだろうね……」
5月に道化師のコミュニティが築かれた時には、足立は悠に捜査情報ではなく口から出まかせを喋っただけだった。しかし今日の足立は本当のことを話している。単なる事実や印象だけでなく、推察できる悠の心境まで語る。少々鋭敏な者なら、そこに本音の響きを聞き分けるだろう。
「もういいかな?」
「あ、はい……ありがとうございます。みんな、行こう」
陽介たちが去った後も、足立はエレベーターホールに残った。そして事件の現状を考えた。
(生田目の奴、坊やをテレビに放り込んだか。そうすると……僕らはどうしようかな?)
今月15日の24時に始まったマヨナカテレビの予告は、足立も見ていた。怒り狂った悠がなぜかバス停を振り回して久保をリンチするという凄惨な映像だったが、とにかく予告は映った。『誘拐犯』の存在を知っている足立にすれば、今日の悠に何が起きたかは容易に推理できる。そして陽介たちは救助に動こうとしているが、経過が思わしくないことも今の話で見て取れた。
(取り敢えず様子見かな? でも一晩家に帰らなかったら、堂島さんは不審に思うだろうな。とすると……様子見は明日までだな)
高校生が数日家出するくらい、よくある話だ。だから警察はこれまでの失踪事件を事件扱いしていない。しかし身内の堂島は気にするだろうし、探しもするだろう。そうなれば、堂島の相棒である足立もきっと巻き込まれる。
(明日になっても戻ってこなかったら、僕らも助けに動くか)
これまでの失踪騒ぎでは傍観してきた足立だが、今回ばかりは放置しないことにした。柄ではないが。
(馬鹿なガキだけど? 電柱に吊るされたりしたら、さすがに堂島さんが気の毒だし菜々子ちゃんが可哀想だしな……。それに堂島さんだって、いつかは向こうの世界に気付くだろう。なら先手を打った方がいい)
堂島は特捜隊とテレビの世界のいずれにも気付いていない。だが高校生の特捜隊に機密保持の意識などあるとは思えないし、何より堂島自身がペルソナ使いである以上、いつかは気付く可能性が高い。ならば足立も自ら動いた方が、きっと都合が良い。堂島に自由にやらせるよりも自分も動いた方が、相棒の行動や認識をコントロールしやすくなる。先月の足立は相棒の心身を案じて、特捜隊やテレビの世界を伝えるのはやめておいたが、さすがにこの状況では話が別だ。
(あいつの為じゃないよ? 勘違いするなよ?)
誰に言っているのか分からない言い訳を、心の中でした。
(やるとなったら……あいつらがテレビに入る現場を押さえるのが一番だな。そこを問い詰めて、堂島さんに連絡するか)
聞く者のいない言い訳を一言で済ませ、シャドウワーカーを動かして悠を助ける方法を考え始めた。テレビの世界をどのように知ったことにして、堂島や本部にどのように伝えるか。足がつかないようにする為に、何を言い、何を言わずにおくか。自分の立場を守りつつ、悠も助ける最善の方法を捻り出す作業を開始した。
(大事なのは、変に口を滑らせないことだ。そこさえ上手くやればバレやしない)
普段の足立は口が軽い。だがその軽さは世間で波風を立てない為の処世術、要は仮面に過ぎない。表情や言動を自在に操れる道化師にとって、言ってはならないことを言わずにおくのは簡単だ。注意さえしていれば何も難しくない。たとえ不意打ちされたとしても、日頃から意識していれば、内心の動揺も表に出さずにおけるはずだった。
「お久しぶりでございますな」
「ここは……」
悠は青い世界で目を覚ました。見れば正面に鼻の長い怪人がいて、向かって右に美貌の魔女が、左に見知った少女がいる。ここはベルベットルームだ。
「現実の貴方は気を失っておられます。私が夢の中にてお呼び立てしたのです」
「気を……?」
「いかがでございましょう。謎の解決に、徐々に近づいておられますかな?」
「謎……? いや、事件は解決したはず……あれ?」
言いながら、悠は引っかかった。謎とは何か。事件とは何か。一体何が解決したのだろうか。なぜ自分はここにいるのだろうか。まるで分からない。自分は気を失っているとイゴールは言うが、なぜそんなことになったのだろうか──
「君!」
「マリー……そうだ。俺は君に……」
思い出した。今日はマリーに会いに来たのだ。ついこないだ、三行半のような詩を突き付けられたばかりだが、あれで終わりにしたくはなかった。会って何を言えばいいのか、何を言いたいのか自分でも分からないが、とにかくもう一度会いたいと思って商店街を訪れたのだ。どうやら知らぬ間に、自分は目的を一つ達成したようだった。
「寝ぼけないで! 君、今すっごく危ないの! 向こうで一番危ない場所に落ちたの!」
「向こう……?」
しかしマリーが何を言っているのか、悠には分からない。詩に感じるものがあって、心を動かされた。だがその代わりに喋る言葉が理解できなくなったようだ。いや、マリーは口でも時々訳の分からないことを言う。和歌とか。では『向こう』とか『危ない』とかは、自分の知らない古語か何かだろうか。自分の知識の乏しさが恨めしい。倫理だけでなく、古文や歴史もしっかり勉強しておくべきだった──
「今、助けに行くから! そこ動かないで!」
寝ぼけ続ける愚者に業を煮やしたように、とうとうマリーは席から立ち上がった。だが少女が踏み出す前に、魔女が口を開いた。
「待ちなさい。ここの住人にはルールがあります」
「そんなのクソ食らえよ!」
自由、それがルールだった。
「マリー、座りなさい」
しかし詩句を叫んでもマーガレットには通用しない。
「……」
「覚えておきなさい。意地や思い込みでは、使命も宿命も変えられないのよ」
「……」
「変えるには正しい認識と相応の力がいる。でも貴女は、そのどちらも持たない」
マーガレットは力を管理する者としての仕事中は、至って事務的である。その一方で、時には意外なほどに優しげな情も見せる。だが今はそのどちらの顔も出していない。暴れるじゃじゃ馬の手綱を強く握り、容赦なく抑え込む。千の言葉でも魔女は動かないのだ。
「もう一度だけ言うわ。座りなさい」
「……」
マリーは顔を伏せ、腰を下ろした。『姉』に力尽くで座らされる前に、『妹』は再び席に着いた。ベルベットルームの青い闇は光の届かない深海のように、物理的な圧力さえ感じさせる重さに満ちた。
「さて……鳴上様。初めてお会いした時、私は申し上げました。日々変わりゆく運命の中にあっては、災いは祝福に転じ、謎は自明の理へと転じてしまうやもしれませんと」
その重さをまるで感じていないように、鼻の長い主人が口を開いた。何とも気楽に。古い話を持ち出して、客人の意識を重苦しい現在から逸らすように。しかし逸らした先も居心地の良い場所ではなかった。
「あれから季節は移ろい、貴方の周りの方々は随分と運命が変わってしまいました。人ならざる者たちも変わりました。そしてとうとう、貴方ご自身にも変わる時が訪れたご様子。これから先、運命はどこへ向かうのか、もはや私にも見通せなくなって参りました」
意味が分からないのだ。イゴールは元より韜晦趣味だが、今日は取り分けそうだ。何しろ当のイゴール自身が先行きが分からないと言うのだから、聞かされる側が分かるはずがない。
「運命……」
「ただ、覚えておいてくださいませ。今年、貴方の運命は節目にあります。貴方の選択によっては、未来は閉ざされてしまうかもしれないのです」
「それはどういう意味……」
悠は分からない。霧がかかった頭は働いてくれない。運命とは、そして節目とは何であるのか、まるで分からない。想像もつかない。
「契約は今も生きております。ゆめゆめ、お忘れなきよう」
(夢……?)
悠は目を覚ました。霧に頭を侵食された状態のまま、目を開けて青い闇から復帰した。目覚めた途端、霧は頭の中から外へと移動した。八十稲羽に初めて来た日の夜のように。世界を嘲笑う道化師が、社会に生きる人としての最初の一歩を踏み外した日の夜のように。
「え……?」
世界から色が消えていた。辺り一面、白、白、白。視覚がまるで役に立たず、思考も奪う混迷の霧が世界に満ちていた。右を見ても左を見ても、極めて密度の高い白があるばかりだ。自分の周囲には何かがあるのか、それとも何もないのか。そんなごく単純な二択さえ選べない──
「な……!?」
と思いきや、自分の周囲に何かがいるのに気付いた。白いベールに隠された空間に、黒い朧な影が満ち溢れている。悠は眼鏡をかけていないので、その姿形ははっきりとは見えない。だが確かにそこにいる。悪意に満ちた謎の怪物が、小さな壺に押し込められた無数の虫のように、押し合いへし合い蠢いている。
シャドウの大群だ。