「ジャアクフロスト!」
群がるシャドウを迎え撃つべく、黒い雪だるまのペルソナが召喚された。元来はイギリスの妖精であるはずなのだが、何となくイメージにそぐわない奇妙なペルソナである。だが膂力と魔力の両方に優れ、それでいて敏捷性も高い、なかなか便利なものだ。特別捜査隊全体のコミュニティである愚者の絆の恩恵を受けている。呼び出されたそれはむやみやたらに暴れ回り、黒い怪物たちを殴り倒していく。
そうして一人で戦いながら、悠は内心で悪態を吐く。
(くっ……何がどうなってるんだ!)
自分の身に何が起きたのか。霧に覆われてシャドウが溢れかえる、ここは一体どこなのか。自分はなぜたった一人でここにいるのか。ベルベットルームの夢から目覚めて以降、何度目かの自問自答を悠は繰り返した。だが導き出される答えはいつも同じだ。ここはテレビの中で、自分は落とされたのだ。誰に? 決まっている。犯人にだ。なぜ落とされたのか? それも決まっている。マヨナカテレビに出たからだ。
(犯人、自首したんじゃないのか!? 何でなんだ!)
導かれた答えに対する疑問はある。だがそこまで考えている余裕はない。疑問が浮かんだ頃には、頭よりも手を動かさなければならない。
「ペルソナ!」
襲ってくるシャドウの数があまりに多いのだ。一体や二体ならどうということもないが、十や二十にもなると、特捜隊の最大戦力である悠であっても一人で片付けるには無理が出てくる。しかもいつも使っている刀も手元にない。何よりまずいことに、視界がまるでない。全身が霧ですっぽり覆われていて、自分の爪先さえろくに見えない。
悠は仲間の証である眼鏡を持っていないのだ。もう使うこともないからと、家に置いてきた。
「はあ、はあ……ぐっ!」
背中に熱さを感じ、悠は床に膝をついた。いつの間にかシャドウが背後に湧き出ていて、不意打ちを受けたのだ。
「このっ……ネコショウグン!」
片膝のまま振り返り、りせの影を制圧したペルソナを召喚して一筋の雷を落とす。それで新手のシャドウは文字通り霧消した。幸い電撃に弱いタイプだったようで、一発で倒せた。だがこれは運が良かっただけだ。情報担当がいない今、シャドウの特性や弱点は分からない。姿形さえほとんど見えない。攻撃手段の選択は勘でやるしかない。
眼鏡なしで、しかも一人で戦うなど考えたこともなかった。仲間の証は何と素晴らしい道具であったか。背中を預かってくれる仲間は、どれほどありがたい者たちだったか。何事も失って初めてその価値が分かるとよく言われるが、全くもってその通りである。
(ここまで、なのか……)
膝に手を置いて、疲れた首を足下に向けた。すると霧に隠されていた床が目に入った。それは金属のような石のような、不思議な材質でできていた。赤と黒の正方形をいくつも重ねた、幾何学的な模様で彩られている。
クマによれば、テレビの世界の迷宮は落とされた人が生み出すらしい。なるほど雪子の城、完二のサウナ、りせの劇場はまさしく彼らの心象に合わせたものだった。ここの装いはシンプルだが、不思議と奥ゆかしい。何を表しているのか一見すると判別しがたく、それでいて奇妙に味わい深い。まるで現代彫刻の森のように。
ゲームであれば、序盤や中盤までとは毛色の異なる異次元世界風のダンジョンとでも言おうか。ここが自分の心か。ここが死に場所か──
(そんな……そんなはずがない!)
悠は歯を食い縛った。りせの影と戦った時も、特捜隊は追い詰められた。今は当時以上の危機的状況だが、当時のように自分を奮い立たせた。
これまでの全ての戦いに、自分は勝利してきた。りせの影にも結局は勝てた。自分が負けるはずはない。なぜなら自分は『守られている』から。誰が守ってくれているのかと言えば、それは──
『何を望む……?』
「え……!?」
床から目を上げると、白い闇の遠くに何かがいるのに気が付いた。朧な立ち姿で、男なのか女なのか、若いのか年寄りなのかも判別できない謎の人影だ。それが言葉をかけてきた。言葉である。シャドウの呻き声や悲鳴ではない、はっきりした意味のある言葉だ。
『人の子よ、答えよ。お前は何を望んでいる? 真実か?』
真実。事件の真実。人生の真実──
瞬間、悠の脳裏で何かが繋がった。この状況に奇妙な覚えがあった。同じようなことを、以前にも誰かに聞かれたような気がする。細かなことは思い出せないが、いつかどこかで──
「そうだ!」
『ではいかにして真実を得る……?』
「それは……」
咄嗟に言葉が出てこなかった。どうやって事件を解決するのか、自分は何者かどうやって知るのか。いずれの答えも、悠はまだ得ていない。
『やれやれ……甘やかしすぎたか』
──
答えを持たない少年が何か言うより先に、再び人影が言葉を発した。それと同時に雷が落ちた。まるで自然の落雷のような、目もくらむ膨大な光を携えた絶対の一撃だ。
「!?」
思わず背後を振り返ると、倒されたシャドウが上げる黒い煙が目の前に立ち込めていた。雷は悠のすぐ後ろに落ちたのだ。今まさに悠を背後から襲おうとしていたシャドウが、巨大な雷によって滅ぼされた。再び振り返ると、白の人影は依然としてそこにいる。
(助けてくれたのか……?)
悠はまさしく『守られた』のだ。誰に? 霧の向こうから見守ってくれて、ずっと前から助けてくれていた存在に。甘やかしすぎたと言いながら、今また悠を助けた。
『愚かな者よ、お前は何も見ていない。霧に惑う
しかし際限なく甘いわけではない。愛と甘さは似てはいるが、決して同じではない。
『お前は師から教わったはずだ。お前が深淵を覗く時、深淵もお前を覗くと』
「!……なぜそれを!?」
知っている言葉に弾かれて、悠は立ち上がった。これは神の死を宣言したある哲学者の有名な言葉だ。悠は5月に諸岡から教わっている。言葉の上辺だけでなく、深いところにある意味までも。もっとも理解したのは最近だが。
『だが私はこうも言った……。お前が覗くのを待つまでもなく、真実の方からお前を覗きにくるやもしれぬと。そして、案じた通りになった!』
「……?」
『お前はもう何度も覗かれている……お前は見られているのだ! お前が見ておらぬ者たちから!』
(どういう意味だ……?)
訳の分からない話である。だが悠は考える。分からない話をそっとしておきはしない。出来の悪い怠惰な生徒に対して、熱心な教師は口を酸っぱくして教えていた。考えろと。血反吐を吐いて、考え続けろと。
(見られている……俺が映ったマヨナカテレビのことか? だが、何度も……?)
悠が映った先日のマヨナカテレビを、犯人は確実に見ている。しかし映ったのは、あの一度きりのはずだ。それにも関わらず、何度も見られているとこの人影は言う。それはどういうことなのか、悠は考える。考える葦となる。特捜隊で最強のリーダーといえど、この世界全体が武装して襲ってくれば容易く滅ぼされる。他の全ての人間と大差のない、弱く儚いものだ。仲間のいない今の状況では特にそうである。
弱いから悠は考える。必死になって考える。考えるうちに、一つの仮説を閃いた。
「まさか……犯人は前から俺を知っているのか!? いや……俺が知っている人の中に、犯人がいるのか!?」
『来たるべき滅びの日まで、月はあと幾度の巡りを許されているか……。五度か、十度か……』
しかし悠の問いかけに影は答えない。影は影で自ら考え、行動もする。
『死の封印なき今世……世界を焼き殺す炎はより強く、激しく盛るであろう……。炎を鎮める
世界を焼き殺す──
『迎えが来たか……』
独り言を続ける遠くの人影は、またしても話を変えてきた。それと同時に、近くの霧の中に黒いしみがいくつも浮かび上がった。シャドウだ。どれだけいるのか裸眼では判然としないが、相当数がいるようだ。なるほど迎えと言えば、確かに迎えである。地の底にあるという死の国からのお迎えだ。黄泉の底から這い出てきて、生者を自分たちの仲間にする死の使いだ。これらに一斉に襲われれば、命はない。
だが諦めるわけにはいかない。過酷な状況であっても生き残らなければならない。多勢の敵に立ち向かう為に、便利な愚者のペルソナを召喚しようとした。しかし寸前で──
『人の子よ、命があるうちに帰れ』
再び人影から声をかけられた。それと同時に、悠の白い視界に影が差した。今まで晴れていたのに空に突然黒雲が湧いて出て、通り雨が降り始めたように。一昨日マリーに拒まれた時、予報にない雨が降り出したように。
「!?」
見上げてみれば、雨ではない何かが降ってきた。岩だ。黒く巨大で、とてつもない重量感のある大岩だ。まるで山が降ってきたかのようである。宇宙から飛来し、大気の壁を突き破って地球を襲う隕石のように、虚空から生じたそれは霧を貫いて落下してきた。
「うわっ……!」
悠は後ろへ飛びのいた。だが瞬きを一度か二度する程度しか余裕は与えられていない。距離にすれば一歩か二歩ほども動けたであろうか。自然の脅威を知らず、知っていても意識せず、災厄が現実に訪れてから慌てる人間のように、悠は大急ぎで床を転がった。
──
地響きを上げて、前衛的な異次元の迷宮に大岩は落ちた。まさに巨大な隕石が天地の形を変えるような、凄まじい音響が霧を揺らす。油断すると耳や頭が壊れかねない、気が狂うような轟音だ。悠は床をのたうち回りながら、両手で耳を押さえた。刀を持っておらず、両手が自由だったのが幸いした。
やがて長い時間が過ぎて、霧から残響が消えた頃。再び言葉が届けられた。
『まだ時はある……心して、月が巡りきるその日に備えるがいい。人の子よ』
その日──
特捜隊が追う殺人事件とは明らかに異なる話である。世界を焼き殺す炎とは何か。五ヶ月後や十ヶ月後に何が起きるのか。人影は何一つ説明しないまま、無知な少年を放り出した。
「一体、何なんだ……」
悠は床に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。人影は立ち去ったか、それとも大岩に遮られて見えなくなったのか。一人残された悠は、飛来してきた岩に近づいた。触れてみると冷たかった。依然として周囲を覆っている白い霧の中に、黒いしみはもうなかった。湧き出たシャドウは、岩に押し潰されて霧に溶けたようだ。
(俺は……助けてもらったのか?)
しかし人影には近づけない。人はおろか悪鬼悪霊が千匹集まっても動かせないであろう、絶対の境界によって別たれている。よじ登っても、乗り越えることはきっとできない。岩の頂上は霧に隠されていて、どれだけの高さがあるのかも分からないのだ。いかなる大道も塞いで、生死を別ち、異界渡りの旅人を返らせる黄泉路の岩──
「悠!」
訳が分からず半ば自失していたところへ、微かな声が霧を通り抜けてやって来た。意味がほとんど分からない話を一方的に語った、謎の人影の声ではない。千引の岩で塞がれた道の反対側から、耳慣れた声がやって来た。『迎え』が来たのだ。
「陽介?」
「鳴上君!」
「先輩!」
「センセイ!」
岩に背を向けて振り返ると、他の声も届けられてきた。女の声、男の声、子供の声。いずれも耳慣れたものばかりだ。姿はまだはっきり見えないが、霧の向こうから誰かが確かに近づいてきている。
「クマ? 皆、そこにいるのか?」
「センセーイ!」
上から隕石が降ってきたばかりなのに、今度は流れ星が前から飛んできた。
「うわっ!」
悠は青い星に押し倒された。中身がなかった以前と違って、中身の入った着ぐるみには重さがある。もちろん道を塞ぐ大岩より遥かに小さくささやかなものだが、疲れた体で受け止めるのは難しかった。
「ク、クマ!」
先月のりせの影との戦いのワンシーンが再現された。ただあの時とは体の位置が逆転している。今日はクマが上だ。
「センセイのニオイ、じっくり覚えとくクマ……」
クマは悠の胸に着ぐるみの鼻を当てて、何度もこすりつけてくる。何とはなしに嫌な状態である。
「あんた、それちょっと怪しいわよ」
「こら! 感動の再会もいいけど、その辺にしときなさい!」
りせがクマの頭を両手で掴んだ。次いで千枝もやって来て、不埒な着ぐるみをリーダーから引き剥がす。
「皆、来てくれたのか……」
体を起こして立ち上がると、悠の目にもおぼろげながらも皆の姿が見えた。悠自身を入れて七人。道を別つ大岩の前で、特捜隊が勢揃いした。
「当たり前でしょ!」
「無事で何よりっす!」
雪子と完二が笑顔で近づいてきた。最後は陽介だ。
「お前、眼鏡は……」
「持ってない……持ち歩いていなかったんだ」
悠は首を横に振った。皆が仲間の証を顔にかけている中で、一人だけ素顔のままでいる。
「そっか……まあとにかく、帰ろうぜ。歩けるか?」
「ああ、大丈夫だ」
陽介の気遣いに、悠は努力して出したしっかりした声で答えた。正直に言えば、視界のない中での戦いで、これまでの被害者救助作戦以上に疲れている。許されるのなら今すぐ寝転んで眠りたいくらいだ。しかしそうも言っていられないので頑張った。そうして歩き出そうとすると──
「ん? センセイ、あれは何クマ?」
「何って……」
クマは七人が集まっている大岩の前から、少し離れた床を指差している。裸眼の悠には見えないが、言われてみれば何か黒いものが落ちているようだった。動かないのでシャドウではないようだが。
「お前のカバンじゃね?」
霧の中の異物に陽介が歩み寄り、拾い上げて持ってきた。悠の通学カバンだ。
「そうか……そう言えば今日は勉強会だったな」
異常事態の連続ですっかり忘れていたが、今日は試験勉強の為に皆と集まる約束だった。教材が詰められたカバンは、持ち主と一緒にテレビに落とされたのだ。戦いの最中は頭から完全に抜け落ちていたが、なくすと地味に困るので、見つけてもらって助かった。と思いきや──
「ムムー! クマの鼻センサーにビンビンくるクマ!」
悠が受け取る前に、クマが陽介の手からカバンをひったくった。ジッパーを開いて中を物色する。
「おい! 何勝手に漁ってんだ!」
陽介が咎めるのもどこ吹く風。クマはノートや教科書を押しのけて、カバンの奥に潜んでいたものを取り出した。
「これ! これクマ!」
「何だそりゃ? カエル?」
「ん? それは確か……」
一見するとゴムまりのような着ぐるみの手に、すっぽり収まる小さなカエルの置物だ。4月の雨の日に、商店街の四六商店でマリーに勧められて買ったものである。何かに使えるからと言われたのだが、買ったきり忘れていて、三ヶ月近くもの間カバンに放置されていたのだった。
「さっすがセンセイ! 用意がいい! これ使えば、いつもの場所にピューンって帰れるクマ! カエルだけに!」
「帰るとカエル……」
「うお、来るか……?」
雪子の呟きに千枝が反応した。雪子はいかにも日本美人的な落ち着いた容貌からは想像しづらいが、笑い出すと止まらなくなる奇癖がある。しかも笑いのツボは、一般人と比べてかなりずれている。どこぞの創面の少年のようなクマのダジャレでも、笑うと言うのか。危難に落ちたリーダーを無事救出できたこの時に、全ての雰囲気をぶち壊すのか──
「……さむ」
「ユ、ユキチャン……! シドイ!」
着ぐるみは床を転がった。戯画的に、冗談のように崩れ落ちた。
「さすがは天城、容赦ねえ……」
かくして誰も笑わないまま雰囲気は壊れた。全くもって楽しい仲間たちである。一人で戦っていた時とは大違いだ。深刻でいるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいである。
なお、ダジャレは笑ってもらえなかったものの、クマが言ったことは本当だった。カエルの置物によって、特捜隊は拠点としているスタジオに苦もなく帰ることができたのだ。いかなる不思議か、置物を掲げた途端、七人全員が光に包まれて瞬間移動したのだ。町の駄菓子屋で売られているもので、どうしてそんなことができるのかは、全くの謎であるが。
特捜隊の七人は速やかにスタジオまで戻り、全員で現世に生還した。リーダーが誘拐されるという予期せぬ事件は、起きたその日のうちに救助に成功したわけである。これまでで最も早い、マヨナカテレビのライブが映る暇もないスピード解決だ。足立たちシャドウワーカーが動く間もなかった。しかし事件全体の完全な解決には程遠い。対症療法が上手くいったに過ぎない。
「疲れてるとこ悪いけど、聞かせてくれ。何があったんだ?」
完全な解決には情報が必要だ。当初は勉強会を開催する予定だったフードコートで、緊急の特捜会議が始まった。
「よく覚えていないんだが……」
会議の進行役を務める陽介に促されて、悠は経緯を説明した。約束の勉強会に行く為に家を出たのだが、用事があってジュネスに行く前に商店街に向かったのだ。しかしその用事を済ませないうちに、気付いたら向こうの世界に落ちていたのだと。
(ベルベットルームには行けたが……あれは夢だ。商店街にある扉には辿り着けなかった。と言うことは……)
悠が犯人に落とされた場所は、恐らく商店街の手前か、南側の交差点付近。周辺の施設で言うとバス停前、ガソリンスタンドの前、もしくは本屋の前。推測される犯行現場はその辺りだ。そして悠が分かるのはそれくらいしかない。
「じゃあ犯人の顔とかは……」
「……見ていない。いや、見たかもしれないが覚えてない。薬でも嗅がされたのかもしれないな……」
自分のことであるのだが、記憶が甚だ曖昧なのだ。顔も分からないし、詳しい犯行手口も分からない。要するに肝心の犯人に直接繋がる有力な情報は、これまでの被害者と同様、悠も得られなかったというわけだ。
「完全に油断していた……。済まない、俺のミスだ」
「しょ、しょうがないよ! もう事件は起きないって、みんな思ってたから……」
項垂れる悠を千枝が慰めた。手掛かり一つ得られなかったのは、悠の油断であり失敗である。しかし仕方がないと言えば仕方がない。警戒の必要がない時であっても、本能にまで浸透した常在戦場にして融通無碍な心構えでもって、いかなる不意打ちも返り討ちに仕留める達人の技など、この場の誰も身に付けていない。
「それよりも……一体どういうこと? 犯人、自首したんじゃないの?」
今日の悠は自分で足を滑らせて、勝手にテレビの中に落ちたのではない。何者かに襲われ、放り込まれたのだ。犯人は一週間も前に自首しているはずなのに。真実は一体どうなっているのか。考えられることを、めいめい話していく。
「犯人、脱走したとか?」
「さすがにそれは……」
「分かんねえぞ。足立っつったか、あのサボり魔っぽいデカとかが、ちっと目ぇ離した隙に逃げられたとか、メチャクチャありそうじゃないっすか」
「あり得る!」
「お前ら、足立さんの評価どれだけ低いんだよ……って、完二、足立さんに会ったのか?」
千枝と完二が盛り上がったところで、悠が口を挟んだ。なるほど足立はジュネスでよく見かけるくらいだから、サボりの常習なのだろう。しかし決して無能ではない。尚紀を守って自分の縁を叩き切るほどの男が無能なはずがないと、悠は道化師の絆の担い手を見なしている。しかし酷い誤解をしている二人を窘めるその途中で、一つの不自然さに気が付いた。完二が足立を知っているとは思わなかったのだ。
「あ、はい……先輩の話、ちょっと聞いたんす。済んません……」
「いや、脱走なんかしたらニュースにくらいなるだろ」
ばつが悪そうにする後輩をフォローするように、陽介が意見を却下した。警察の実態がどうであるにせよ、脱走は考えすぎだ。
「じゃ、何だってのよ……自首した奴、そもそも犯人じゃないとか?」
「!」
時刻は午後だ。夏の太陽はまだ空の高い位置にいる。暑さで揺らめく露天のフードコートの空気が、一瞬その動きを止めた。全員の視線が千枝に集中する。
「え……? な、何すか? お、思い付きっすよ? テキトーっすよ? だってほら、ニュースで言ってるじゃん。三人殺したって、本人も認めてるって」
意図せず空気を硬質化してしまった千枝は慌てた。言い訳の口振りだが、ニュース云々は本当である。自首した犯人は山野、早紀、諸岡の三人の殺害を自供していると、何度も報道されている。
「いや……そう言ってるだけかもしれない」
しかし悠は疑問を呈した。そして考え込む。今まで考えもしなかったことを、考えてみた。自首した犯人、久保美津雄は嘘を吐いているのではないかと。そもそも警察もマスコミも当てにならない事件なのだから、警察の公式発表や報道を鵜呑みにしていいはずがない。
「あ、それあるかも! 人のやったことを自分がやったみたいに言いふらす人って、世の中にいっぱいいるよ」
りせが賛同してきた。芸能人がこう言うと、何とも実感がある。
(だったら……)
悠の心に急な期待が湧いてきた。全ての事件の犯人は、まだこの世にいるのではないかと。そもそも今日の自分の身に起きたことこそが、事件が未解決であることを示す紛れもない証拠ではないか。即ち、師の仇を取る機会はまだ失われていない──
しかし毒を含んだ悠の期待は、りせの次の言葉で水を差された。ある見解に賛同はしても、全てを持ち上げはしない。
「それとさ……諸岡先生。あの人、テレビに出てなかったよね? マヨナカテレビも、普通のニュースとかにも」
「!」
空気が再び固まった。
「……クマ?」
悠はクマを見た。視線には毒が漏れ出ている。
「え? な、何ですか、センセイ……」
「向こうの霧が晴れた時、どうだったんだ?」
「ど、どうって? 何がどうクマ?」
「りせを助けてから、諸岡先生が亡くなるまでの間……つまり向こうの霧が晴れてこっちに出るまでの間、りせの後で誰かテレビに入れられた人はいなかったのかって……悠はそう聞いてんだ」
普段から口数の少ない悠の言葉を、多弁な陽介が補った。こういうところは、まさしく相棒である。
「だ、誰もいなかったクマよ! ホントに! クマの鼻、最近効かなくなってきてるけど、それくらいは間違えないクマ!」
現実で霧が出たのは、直近では今月10日未明だ。諸岡の遺体はその日に上がったが、りせ以降でその日までの間にテレビに放り込まれた人はいなかった。この話を、実は悠とりせ以外は以前から聞いている。当日の午前中、悠が遺体発見現場に向かっていた間、初めて現実に出てきたクマが陽介たちにそう言ったのだ。しかしその後の騒動続きで、悠とりせは聞く機会を逸していた。特に悠は犠牲者との縁が深かった為に、諸岡はテレビに全く出ていなかったことに、そもそも考えが及んでいなかった。
しかし聞いていなくても、りせは自分で気付いていた。
「だよね? だから変だなって思ってたんだ。ほら、元々テレビに出た人が狙われるって話だったじゃない? だから被害者と面識ない犯人かなってイメージだったんだけど……先生は違うよね?」
「そういや、クラスの奴らが噂してんの聞いたことあんぞ……自首した野郎、元々うちの生徒だったって。んで、センセーと揉めて学校クビになったって」
「それってつまり……自首した犯人は先生を恨んでた? だから殺したってこと?」
完二が外堀を埋めた。そして雪子が核心に触れた。
「先生がマヨナカテレビに映らなかったのも、テレビに入れられた形跡がないのも、全部普通に外で殺して吊るしておいただけだから……私たちを落とした犯人とは別人ってこと?」
「……あり得るな」
特捜会議の進行役を務める陽介は、腕と足を組んだ。視線を上に持ち上げ、誰の姿も目に入れないようにしながら雪子の見解に道理を認めた。相棒の気持ちを思えば諸手を挙げて賛成したくはない意見だが、否定する根拠は見出せなかった。
「えーと……結論を言うと、こういうことですな」
場が静まったところで、議論の発端となった千枝が再び口を開いた。
「自首した犯人は諸岡先生を殺しただけ。山野アナと小西先輩を殺し、雪子、完二君、りせちゃん、鳴上君を落とした犯人とは、別人であると」
そういうことだ。ただし敢えて突っ込みを入れるならば──
「それ結論じゃなくて、ただのまとめだろ」
突っ込んだのは陽介だ。結論はリーダーが口にした。
「結論はこうだ。事件は解決していない」
「……だな。正直、分からないことが多すぎる。確かなのは、人をテレビに入れられる奴が、まだこの世にいるってことだけだ」
陽介の考えは基本的には千枝のまとめと同じである。ただ自首した犯人、久保美津雄が諸岡を殺したのかどうかも含めて、陽介は全てを保留とした。そうなのだろうと思ってはいるが、悠の前で口にするのは憚られた。
「取り敢えず……今後もマヨナカテレビと普通のテレビ、どっちも注意することだな。それとクマ、あの出口の三段テレビ、スタジオに出しっぱにできるか?」
「できるクマよ」
「じゃ、頼む。俺らも眼鏡、普段から持ち歩いていた方がいいな。事件、まだ続くぜ」
テレビを凶器として使う稲羽市連続誘拐殺人事件は、まだ終わらない。この一週間で様々な紆余曲折を経て、結局は元の鞘に収まったわけである。ただそれ以前と比べて変わった点もある。
「ああ……まだ終わってない」
例えば悠の事件に対する思い入れが強くなったことなどだ。先月23日に盗撮騒動が持ち上がって、尚紀とコミュニティが築かれた時には自分の甘さに悩んだものだった。事件に何も奪われていない自分は、陽介たちと並んで立つだけの資格があるのかと。だが今は確かにあるはずだった。