ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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妻問(2011/7/17、7/18)

「相棒、ちょっと……」

 

 緊急の特捜会議を終えて皆が席から立ち上がり、フードコートを出ようとする中、陽介が悠に話しかけた。他の五人が建屋へ向かうのをそのままにして、二人だけの話が突然始まった。

 

「さっきも話に出たけど、お前のこと、足立さんと菜々子ちゃんに聞いたんだ。最初、りせとクマはお前の居場所、掴めなくてさ」

 

「え?」

 

 悠は意外に感じた。完二とりせを救助した時は、確かに彼らの人柄を調べた。事件以前からの知り合いではなく、しかも色々と当てにならない噂が多く、彼らの本当のところは知らなかったから。だが特別捜査隊のリーダーである自分を探すのにも調査が必要だったとは思わなかった。確かにりせとは知り合って日が浅いし、クマの鼻は効かなくなっているが──

 

「例のインタビューの件な……」

 

 だが陽介が言わんとしているのは、居場所を掴めなかったことそれ自体ではない。

 

「なあ悠……お前の気持ちは分かるよ。よく分かる。でも菜々子ちゃんには……あー、何つーかな……」

 

 しかし陽介の歯切れは悪い。言いにくいので言わずにおきたいが、そうも言っていられない。普段は軽薄な仮面をかぶっている陽介は、多弁な割に真摯な言葉の引き出しが多くないのだ。外に向けて表出するものが内心に見合わない。だからなかなか言葉が繋がらない。セリフをあらかじめ考えてから話しかければよかったと、ちょうど後悔しているところである。

 

「いや、分かるよ。ニュース見て、菜々子は怖がってた」

 

 そんな相棒に代わって、悠は自分で口にした。口にした途端、ため息も一緒に出てきた。

 

「最近、菜々子に構ってなかった……」

 

 この一週間で菜々子との仲は酷く後退してしまった。そしてより悪いことに、関係を修復する努力をしていなかった。そのくせアルバイトを探そうとしたり、試験勉強に勤しもうとしたり。最も大切にしなければならない人から目を背け、些末なもので自分を紛らわそうとしていた。だがそっとしておいても、何も良いことはないのだ。

 

「帰る前に買い物していく。夕飯、作ってやらないとな」

 

 批判とはまず何よりも自分自身にこそ向けねばならないと、諸岡は言っていた。平たく言えば、自分を省みろということだ。人間である限り、過ちはいつでもあるものだから。失敗があり得ず何をやっても上手くいく超人など、お伽話や妄想にしか存在しない。友人や後輩には随分と慕われていて、時には舞い上がってしまう悠だが、それでも自分を無謬と見なすほど愚かではない。

 

 まして親友に後押しされては、菜々子との仲は何としても修復せねばならなかった。

 

「先輩、料理できるの?」

 

 言葉の少ない男二人の会話に少女が一人割り込んできた。りせだ。フードコートから下の階へ向かっていたはずが、いつの間にか戻ってきていた。

 

「少しはな」

 

「へえ……そっか、菜々子ちゃんにご飯作ってあげてるんだ」

 

 りせの念頭に、つい先ほどに見た菜々子の憂いが浮かぶ。物騒なことを言う『兄』を恐れ、怯える『妹』の姿を思い出すと──

 

「よーし、私も作っちゃう!」

 

「え、マジ!? りせちーの手料理!? おま、何つー役得だよ!」

 

 特捜会議中は緊張を孕んでいたフードコートに、急に緩んだ雰囲気が湧き上がった。いや、これが本来あるべき姿であろう。陽介は営業スマイルと違って、顰め面に慣れていない。楽しいイベントが持ち上がれば、やはり気持ちが移ろう。

 

「え……りせちゃん、鳴上君ちに行くの?」

 

「料理……できるの?」

 

 他の面々もやって来た。降りてこないリーダーとサブリーダー(ほとんど誰にも認められていないが)を、皆が案じて戻ってきたのかもしれない。案じてである。千枝と雪子には、確かに何かを案じると言うか警戒するような表情が浮かんでいる。

 

「うん! 先輩、いいかな?」

 

「ああ、構わない……いや、助かるよ。りせが来てくれたら、菜々子も喜ぶだろう」

 

 これは本音だ。何のかの言いつつも、亀裂の入った『兄妹』仲を修復するのを手伝ってくれる人がいるのは助かる。特にりせは、その点でうってつけだ。

 

「リセチャン、またナナチャンに会いにいくクマ!? ズルいクマー!」

 

 そして野の花に狂った着ぐるみも乱入してきた。

 

「センセイ! クマもセンセイんちに行くクマ! センセイを助けたお祝いするクマ!」

 

 諸岡の死から始まった様々な出来事は、特捜隊に変化をもたらしていた。悠のモチベーション以外にも、クマの心理にも変化が生じていた。

 

「じゃ、じゃあ……あたしたちも作ろっか?」

 

「そ、そうだね」

 

「へえ……先輩たち、お料理得意なの?」

 

「そ、それなりに?」

 

「何を言っているんだ、お前らは! 菜々子ちゃんを殺す気か!?」

 

 イゴールが思わせぶりに話した通り、悠と周囲の人々は変化を続けている。しかし変わらないものも、やはりある。例えば林間学校でちょっとした惨劇を引き起こした、とある少女たちの料理の腕前とか。それは何者かに宿命づけられているようなものだ。何しろ意地や思い込みはおろか、どれだけ努力しようが失敗を重ねようが、一向に改善しないのだから。

 

 かくして悠の救出祝いと称された、目前に迫った試験から目を背けるがごとき食事会が堂島宅で開催されることになった。なったのだが──

 

「こ、これは……菜々子ちゃんにはやれないな……。辛い……」

 

「これ……何つうんだ? 不毛な味って言うか……」

 

「うん、まずい」

 

 祝賀会の詳しい模様は敢えて述べるまでもないだろう。ただ、どれだけ無難な料理であっても毒物を製造してしまう宿命を背負わされている者は、千枝と雪子だけではなかったことを記しておく。

 

「……おいしいよ?」

 

 蛇足を付け加えるなら、溶岩のようなオムライス、無味無臭のオムライス、普通にまずいオムライスのいずれをも、笑顔で食べてみせる仮面使いの達人も、この世にはいるということであろうか。

 

 

 

 

 陽介が言うところの『物体X』が三種類も作られた、救出成功の祝賀会から一夜明けた18日の放課後。試験を明日に控えた悠は、昨日に引き続いて商店街を訪れた。目的は二つある。一つは現場検証だ。

 

(昨日落とされたのは……ここか?)

 

 商店街の南端にあるバス停を一人で見上げた。路線図には町外れにある高台や、稲羽市立病院などの行き先が記されている。昨日の午前、悠は犯人によってテレビの中に落とされた。犯人が誰なのかは分からないし、やられた場所も不明確だ。この辺りだろうと当たりはつけているが、もしここだとしたら、なかなかに皮肉が効いている。

 

(先生……)

 

 海で釣ったバス停を思い出す。もちろんここに立っているものは釣りの成果ではない。現物は諸岡が車で持ち帰って処分した。だが連想はさせる。住み慣れた場所から離れて、遠くへ向かう為の目印──

 

(俺を落とした犯人は、まだ確実にこの世にいる。山野アナと小西先輩を殺した犯人も、そいつに違いない。だが先生の仇は……)

 

 悠は省みる。昨日の緊急特捜会議では結論を先延ばしにした。だが本当は自分でも分かっているのだ。客観的に考えれば自首した犯人、久保美津雄が諸岡を殺したとしか思えない。諸岡は普通のテレビとマヨナカテレビのいずれにも映っておらず、死因も報道によれば金属バットによる撲殺で、最初の二件と違ってはっきりしている。本人の証言、動機、凶器が揃っている以上、確実と言ってよいだろう。今にして考えれば、久保は人をテレビに入れられるかどうかさえ疑わしい。

 

 つまるところ、悠は諸岡の仇はやはり取れないのだ。

 

(陽介……)

 

 自分は復讐を遂げることはできない。無念だが、仕方がない。しかし陽介はまだ望みがある。

 

(お前の為に戦うしかないんだな)

 

 親友の仇討ちに助太刀する。戦う理由としては、相応しくないこともない。無念さは否定しがたいが、自分を納得させることはできる。そうしてどうにか自分の感情に折り合いをつけると、次の問題が頭に浮かぶ。12日の諸岡の葬儀の後、ジュネスで陽介と告白し合ったことだ。

 

(犯人を捕まえたら、どうすればいいのかな……)

 

 犯人を捕まえたら、どうするか。4月から懸念されていた大きな問題を、悠は再び考えた。警察には真実をそのまま伝えたところで、取り合ってもらえるはずがない。堂島に信じさせる方法はなくもないが、刑事一人を納得させたところで、それで全てが解決するわけでもない。犯人を法律で裁けない恐れは、やはりあるはずだった。法知識などほとんどない悠でも大体のところは想像がつく。そうかと言って、犯人を野放しにもできない。ならばどうするか?

 

(……やるしかないのか?)

 

 考えられるのは、目の前に立った者が裁く役目を負うことだ。ではやるとなったら、誰がやるか。特捜隊は七人いるが、全員でやる必要はない。汚す必要のない手を揃いも揃って敢えて汚すのは、ただ愚かなだけだ。殺しの業を背負うのは一人で十分である。

 

(権利があるのは陽介だが……)

 

 犯人を殺す権利(そんなものがあればだが)が最もあるのは、間違いなく陽介である。だが親友を人殺しにしてよいのか。責任を負うべきなのは、リーダーである自分ではないのか。そんな考えも悠にはある。

 

「……」

 

 高校二年生の少年は天を仰いで目を閉じた。夏の日差しが顔を焼いて、瞼の裏側を血の色に染める。これは考えれば考えるほど難しい問題だった。遊び気分で戦っていた以前の自分はどれだけ甘かったか、今になってよく分かる。警察の手に負えないとは、犯罪者と個人で対峙しなければならないという意味だ。それはとてつもない覚悟を要求する。自ら犯罪者になるのと同じだ。やってもやられても未来は閉ざされる。

 

 怪物と戦う者は、とはよく言ったものである。特捜隊の戦いは、実は命懸けのものだったのだ。シャドウ相手の実戦は特に難しくないことなど、問題にならない。

 

(……保留だな)

 

 少年は目を開けて、人生を棒に振りかねない恐ろしさから現実に復帰した。目を背けてもなくなりはしない問題だが、犯人の目星もついていない現時点では緊急性は高くない。今は取り敢えず、今できることをするべきだ。

 

 悠はバス停から離れ、道路の反対側へ向かった。歩いて。

 

 

「らっしゃーせー!」

 

 バス停から距離にして、ほんの数十メートル。ガソリンスタンドの敷地内に足を踏み入れると、威勢のいい店員の声で迎えられた。しかし『いらっしゃいませ』と言われても、今日の悠はスタンドで買い物はできない。徒歩で来たからだ。通学にバイクを使ってはならないと、諸岡にも言われている。愛車の給油の為に、学校帰りにここに立ち寄ることはない。

 

「ああ、ごめんごめん。お客さんかと思った」

 

 作業着を着た店員は帽子を目深にかぶっていて、顔の上半分はほとんど見えない。しかし目を隠しながらも、声は気さくな限りだった。何とも軽いその調子が、仕事の邪魔になりかねない後ろめたさを悠から遠ざけた。

 

「あの、済みません。昨日の昼間、この辺りで何かなかったですか?」

 

「何か?」

 

「ええ……ケンカとか、何か揉め事はありませんでしたか?」

 

 悠が聞いているのは、もちろん昨日自分がテレビに落とされた時のことである。雪子、完二、りせのパターンでは、犯人は自宅を訪ねて来ていたようだったが、悠は町中でやられた。どうしてこれまでの例に倣わなかったのか、その理由は分からない。だがいつにも増して大胆な犯行なので、昨日は目撃者がいた可能性がある。それを期待して店員に聞き込みをしているのだ。

 

「うーん……どうだろう? 僕、昨日は出てなかったから」

 

 しかし店員の反応は芳しくない。客じゃないなら帰れと邪険にはしないが、応対に真面目さは伺えない。

 

「昨日出ていた人はいませんか?」

 

「いたかなあ……ここ、開店休業みたいなもんだからねえ」

 

 店員は顔を巡らせた。悠も釣られて見てみれば、店に他の人間はいない。建屋の中を窓越しに覗いてみても、そこに人の気配はなかった。古いレジカウンターと飲み物の自動販売機、そして一台の大きなテレビがあるばかりだ。ジュネスの進出で寂れゆく町を象徴するように、店には活気がまるでない。

 

「そうですか……」

 

 休日に誰一人いないガソリンスタンド。都会であれば信じがたい話だが、八十稲羽では普通のことなのかもしれない。思い起こせば、先月23日に盗撮騒動が持ち上がった時も、特捜隊はここで盗撮犯を取り押さえた。いわば暴力沙汰が起きたわけだが、その時もスタンドから人は出てこなかった。そんな調子だから、昨日は本当に誰もいなかったのかもしれないと、悠は納得してしまった。

 

 これ以上聞き込みをしても有益な情報は得られそうにない。現場検証を終えるつもりで、スタンドを出ようとした。しかし──

 

「それより君さ、高校生でしょ。うちでバイトしてみない?」

 

 勧誘された。この店は開店休業状態だと評した、その舌の根も乾かないうちに。まるで悠を引き留めるように。

 

「考えておきます」

 

 しかし悠は留まらなかった。『やめておきます』との意味をオブラートに包んだ言葉を残して、店員に背を向けた。

 

 ここでアルバイトに誘われるのは、実は二度目である。しかし記憶力に特別の自信があるわけでない悠は、最初の機会は覚えてもいない。そして最初と同様に、二度目の誘いにも心を動かされることはなかった。仕事はしようと考えているが、ここで働く気にはなれなかった。放課後の予定は友人たちとのコミュニティで塗り潰されているので、労働は夜に行えるものがいいと考えていたから。

 

 悠は商店街の北側へ向かって歩き出した。その足がスタンドの敷地から出ると、店員は帽子のつばを上げた。

 

「晴れた日にここに出るのは久しぶりだな。春に虚無の男を迎えた時以来だったか……?」

 

 店員は普段は人に見せない鋭い目を、空へと向けた。萌える春はとうに過ぎて、二つ目の季節は今まさに盛ろうとしている。そうしてしばらくの間、夏の太陽を直視した。常人であれば網膜を傷める強い光を、瞬きもせずに受け止める。

 

「やはり私は甘すぎるのかもしれないな……」

 

 日本の夏は暑く、太陽は眩しい。しかしそれも峻烈な信仰を育む砂漠の『神』と比べれば、優しいくらいだ。

 

「彼の師がそうしたように、私も少しは厳しくしてやるべきか……」

 

 店員は帽子のつばを下ろした。荒事に慣れていない子供が滑って転んで死んでしまわないようにと、色々と手を回していたのだが、そうした自分の甘さを省みた。

 

 

 

 

 得るものがないまま現場検証を終えた悠は、商店街を北に向けて歩いた。行き先は本屋を越えた先にある青い扉だ。扉の前には誰もいない。蝶をモチーフにした絢爛たる意匠が施された異界の出入り口の前で、悠はしばし佇んだ。

 

「……」

 

 試験を明日に控えているにも関わらず、家に帰って勉強をするでもなく、商店街に来た目的のもう一つはこれである。三日前に読んだ、別れの詩を書いた詩人に会う為だ。

 

(マリー……)

 

 正直に言えば、そっとしておきたい気持ちは未だ残っている。何しろ手酷い拒絶を味わって、深い溝が横たわるのを感じたばかりだ。以前の自分であれば、きっとマリーをそのままにしておいただろう。青い扉が目に入っても目を背けて、そこにはないものとして扱った。だがそれではいけない。そっとしておいても、何も良いことはないのだ。傷ついた絆はやり直さなければならない。

 

(行こう)

 

 意を決して、悠はベルベットルームの扉に手をかけた。ガソリンスタンドからあっさり立ち去ったのとは対照的に、勇気と行動力を努力して自分の中から絞り出した。扉の中から溢れ出る、自分にしか見えない眩しい光へと踏み出した。

 

 

「ようこそ、ベルベットルームへ」

 

 光が収まると青い闇がやってくる。見慣れたリムジンには、いつもの三人が全員揃っていた。正面にイゴールが、向かって右側にマーガレットがいる。そして左に目的の人がいた。いや、マーガレットによれば『人』ではないらしいが、そんなことは関係ない。ないと思っている。

 

「マリー」

 

「……」

 

 声をかけてもマリーは返事をしない。自分の爪先を見つめている。訪ねてきた男との間に遮るものはない。リムジンの座席同士の間には、背の低いラウンドテーブルがあるばかりだ。衝立も簾もありはしない。顔を上げさえすれば、視線は出会う。しかしその距離の近さをないものにするように、マリーは悠から目を背けている。

 

 愛想の悪い態度である。悠ならずとも、普通の男ならそっとしておきたくなるだろう。だが面倒くさがりを改めた少年は一歩踏み込んだ。

 

「話がしたい。外に出ないか」

 

「……」

 

 ここでようやくマリーは顔を上げた。ただし男を真っ直ぐ見つめはしない。普段から斜めにかぶった青い帽子のように、反体制を表すパンクファッションのように、やぶにらみの緑の瞳を悠に向ける。

 

「……うん」

 

 長い間を置いて、マリーはようやく頷いた。しかし──

 

「マリー、存在が揺らいでいる時は、外に出てはいけないと言わなかったかしら?」

 

 どこかで聞いたようなセリフでもって、大人然とした『姉』が引き留めてきた。永劫のコミュニティを築いた4月の雨の日、『デート』を終えて戻ってきたマリーを、マーガレットはこう言って窘めた。

 

「今日、雨は降ってない……」

 

「分かっているはずよ。今日は危険な者が外にいるのよ」

 

 危険な者──

 

「きらいばかこじゅうと……」

 

(小姑……?)

 

 一瞬、ほんの一瞬だけ、悠は吹き出しそうになってしまった。マーガレットは小姑。言われてみれば、なるほどと頷きたくなってしまう。

 

「仕方のない子ね……」

 

 言いながら、マーガレットは悠に視線を向けてきた。一体誰が『仕方がない』のか。マリーに同意しそうになった悠の思考を読んだように、金色に光る目を『妹』を誘う少年に向けてきた。非礼を咎めるように。色々な意味でぞっとする怖い目である。真実でもって人を詰る、シャドウの瞳を連想させる色だ。

 

「……お願いします」

 

 しかし悠は怯まなかった。いや、実はかなり怯んだが、後には退かなかった。思い起こせば、近頃の大人たちは甘い顔ばかりはしてくれない。先週は堂島に叱られたし、足立と有里にはからかわれた。だが世の中とは、大体においてそういうものだ。寛容ばかりが大人ではないし、従順ばかりが子供でもない。咎められても素直に従わず、抵抗することもある。

 

「全く……なら歌いなさい。少しは存在が保たれるわ」

 

 マーガレットは背骨に芯を通した少年から目を逸らし、再び少女へ向けた。そして条件付きで外出の許可を出した。

 

「……うん。行こ」

 

 

 少年と少女は青い闇から外に出た。リムジンの青よりずっと鮮やかな色を降り注ぐ、強烈な夏空の下で二人は並んで立った。

 

「どこか行きたい所はある?」

 

 どこに行くかは、悠は特に決めていない。これまで外出した時のように、マリーの望みに任せることにした。しかし──

 

「……ピエロたち」

 

「は?」

 

「Hey, you...!」

 

 マリーはなぜか英語を呟いたと思ったら、さっさと歩き出した。いや、駆け出した。闇から一緒に出てきた男を置いて、商店街を一人で走る。方角は北だ。ガソリンスタンドのある方角から降り注ぐ太陽に背を向けて、全速力で走り出した。右手で帽子を押さえ、左手でカバンを押さえ、両足を猛烈な速度で回転させる。

 

「マリー!」

 

 逃げる少女を追って悠も走る。毎度のことであるが、マリーとの付き合いはこんなのばかりである。方々へ走らされる。

 

 

 熱中症の心配もある夏のダッシュは、短い距離で終わった。青い帽子は数十メートルを走ったところで左側へ急ターンし、店へ駆け込んだ。雨の日に出かけた際にも一緒に行ってカエルの置物を買わされた、駄菓子屋の四六商店である。

 

「薄っぺらい正体を、見栄っ張りでコートして……」

 

 短い距離とはいえ、暑い屋外を全力疾走したマリーの息は上がっている。体格は細身なか弱い少女らしく、腰を屈めて両膝に手を当てて、荒い息を吐いている。激しい呼吸の合間に詩句を呟いている。

 

「アタシが罠にかかるのを待ってるんでしょ……?」

 

「マリー……詩か?」

 

 追いついた悠が声をかけると、マリーは勢いよく振り返ってきた。顔には玉の汗が浮かんでいる。古い店内の空調は、恥じらいを含んだ少女の熱気をまだ冷やしていない。

 

「ヘイ・ユー! 何勝手に聞いてるの!」

 

 詩と書いて『うた』と読む、例のあれだ。揺らいでいる存在を保つ為なのか何なのか、マリーは新作の発表を始めたわけである。しかし書いていること自体も人に知られたくない秘密の詩人は、聴衆に聞かせる気がない。聞かれないようにとベルベットルームを出た途端、いきなり走り出したのだ。しかし──

 

「……聞かせてくれよ」

 

 聞き手からの申し出に、マリーの顔に朱が差した。

 

「な……ななな何言ってるの!? トゥナイトはダンシングなんてしないから! 君一人で踊ってれば!」

 

 煩わしい人付き合いを避ける為の最も効果的な方法は、青筋を立てて怒鳴りつけてやることだ。しかし諸岡との付き合いで、悠は人の怒りに耐性ができている。マリーの怒りも無愛想も、本気の悠を止めることはできない。ましてマリーの怒りは可愛らしいくらいのものだ。

 

「聞かせてくれ」

 

 マリーの詩は色々なものが過剰だ。万人に受け入れられるものではないし、評論家に読ませて評価を得られるものでもないだろう。だが悠は聞きたかった。三日前に読んだ殺人者の詩のような、重く苦しい真実を。悠は何者か、そしてマリーは何者か。5月に結んだ『契約』を果たす鍵は、きっと詩が抉り出す重みの中にある──

 

「だったら……伴奏でもしなさい!」

 

 マリーは自分の詩をいつも恥ずかしがる。しかし面と向かって踏み込まれて、羞恥は一周回ってしまったようだ。濡れぬ先こそ露をも厭えという言葉があるように、痛さや恥ずかしさは何度も続けば慣れてしまう。5月以来、詩を繰り返し読まれたマリーは、とうとう悠に聞く許可を与えた。諸岡が悠に釣りに付き合うのを許したように。

 

 しかしせっかくのお許しだが、悠は困ってしまった。伴奏しろと言われても、できることとできないことがある。

 

「家に帰ればピアノがあるが……」

 

 堂島宅にはピアノがあるので、帰れば弾ける。しかし帰ったところで、マリーの詩をピアノで伴奏する自信はなかった。悠はジュネスのテーマくらいなら耳から弾けるし即興のアレンジもできるが、所詮はアマチュアのピアノ弾きだ。作曲を学んだことはないし、そもそも悠の音楽の素養はクラシックが基礎だ。色々な意味で先鋭的なマリーの詩に合う曲を自らの内面から紡ぎだす自信は、正直言ってない。などと思っていると──

 

「い……家!?」

 

 マリーは飛躍した。これまでも何度かあったように。

 

「紅の裾引く道を中におきて、我か通はむ君か来まさむ!?」

 

 悠はマリーの詩は理解したいと思っている。文字を目で追うだけではなく、頭で覚えるだけでなく、心で感じたい。しかしこれは無理だ。連ねられた言葉が紡ぎだす全体の意味や雰囲気以前に、単語の段階から意味が分からないのだ。

 

「ごめん……どういう意味だい?」

 

「い……家に来いとか言わないの! そこの琵琶でも買いなさい!」

 

 マリーは店の壁を指差した。黒のボディに白の長いネックを持ち、四本の弦が張られた楽器がかけられている。琵琶、ではなくてエレキベースだ。4月にもやはり見かけた物である。ちなみにその時は何だかんだと慌ただしくて、値段は確認できなかった。

 

「あんな金ないよ……」

 

 悠は楽器に貼られた値札を、初めてはっきり見た。そして冷や汗をかいた。五の後ろにゼロが四つも並んでいる。悠はアルバイトもしようと思ってはいるが、色々あってまだ始めていない。小遣いと仕送りが頼りの高校生では、財布の中身を全てひっくり返しても届かない。堂島に無心しても間違いなく買ってもらえないだろう。すると──

 

「ツケでもいいわよ」

 

 店の奥から、突然声をかけられた。マリーと悠が揃って見てみれば、優しそうに微笑む中年の女性がレジの奥にいた。駄菓子屋の店主だ。

 

「アンプと教則本もセットでどう?」

 

 言いながら、恰幅の良い店主は体をひょいと屈めて、駄菓子が満載されたレジ台の裏から小さな機械と一冊の本を取り出した。機械はアンプである。玩具のような小さなものだが、電子楽器を演奏するには欠かせない。つまりお膳立ては整えられたわけだ。

 

(五万……いや、アンプと本も入れればもっとか。高いが、昨日のあれは……)

 

 悠は悩む。はっきり言えば、勘弁してもらいたい。バンド活動をしているのでもないただの高校生が衝動買いするには、限度を超えている。しかし昨日テレビの世界で使ったカエルの置物を思うと、断るのも躊躇われた。出かけたダンジョンのどこからでも一瞬で拠点のスタジオに戻るという、極めて便利なあの置物は、ここでマリーに薦められて買ったものだ。つまりマリーのお薦めは、必ず何かの役に立つ。

 

「……買います」

 

 長い間を置いて、悠はセールスに乗った。これはもう相当な気合を入れてアルバイトをしなければならなくなった。先日確認した掲示板によれば、学童保育に病院の清掃、家庭教師などがあったはずだ。何ならスナックの皿洗いでも、陽介に頼んでジュネスに一週間くらい缶詰にしてもらうのでもいい。

 

「毎度あり。それじゃこれに名前と住所、電話番号書いてね。印鑑は拇印でいいわよ」

 

 店主は一枚の紙を取り出した。頭には売買証明書と書いてある。四六商店は駄菓子屋である。それにも関わらず、なぜかこんな書類が出てくる。もちろんツケや分割払いなら、口約束では売れないのは当たり前だ。しかしどうして駄菓子の間から、二枚綴りの書類がすんなり出てくるのか。謎である。

 

 だが謎だろうが何だろうが、買うと言った以上は署名せねばならない。ペンと朱肉を手渡された悠は、自分の名前その他を書類に書いた。

 

「坊ちゃん、妻問って知ってる?」

 

 書いている間、店主に話しかけられた。

 

「はい?」

 

「昔の日本ではね、男が女の家に通ってたのよ。今の歌はね、『女の私に通えって言うの? それとも男の貴方が来るの?』って意味よ」

 

 昔と言っても、店主が乙女であった頃の数十年程度の昔ではない。日本がまだ母系社会であった時代、千年は昔の話である。

 

「今も昔も、男から攻めていかなきゃ駄目なのよ」

 

 

「マリー」

 

 悠はエレキベースをケースに入れて肩に担ぎ、アンプと教則本をカバンに放り込んで、それから店を出た。マリーも一緒だ。傾き始めた日差しを浴びて、二人の影が道路に伸びる。寂れた街路にそっと忍び寄る死の手のように、黒く細長い。

 

「三日前に俺に言ったこと……覚えてるか?」

 

 なし崩しで高い買い物をしてしまったが、今日の悠はただデートがしたくてベルベットルームを訪れたのではない。心に突き刺さっていた、大きな棘を抜きたかったのだ。

 

「……」

 

 人を殺したいのか。突然雨が降った今月15日、悠はマリーにそう言われた。今日マリーに会いに来たのは、言われたままにしておきたくなかったのだ。しかし弁解をするつもりなのではない。

 

「君の言う通りだ……」

 

 言われたその時は認めなかったが、今なら認められる。諸岡を殺した犯人に対して殺意はあった。悠の中に復讐の意志は確かにあったのだ。その日の晩に映ったマヨナカテレビと、嘲笑う愚者のカードがその証拠だ。

 

「済まない……」

 

 全くもって、永劫のコミュニティはこんなのばかりである。走らされて買い物をさせられて、詩や歌を聞く。そして謝る。

 

「私たち……しばらく会わない方がいい」

 

 だが悠が謝ってもマリーは答えない。許すとも許さないとも言わずに、別の話を振り出すのが常だ。そして今日はこれだ。異邦人の緑の瞳は、強い光で少年を見据えてくる。ただし強くはあっても脆い。

 

「……なぜ?」

 

「何でも……」

 

 マリーは背を向けて、南へ向かって歩き出した。青い闇へと帰ろうとしている。取りすがる男にいかなる言葉も機会も与えず、ただ黙って拒む残酷な女のように。もしくは自分の無知や無力を嘆いて、男に自分は相応しくないと身を引こうとする健気な女のように。どちらなのかを判別する、そのよすがも男に与えようとしない。

 

「待ってくれ」

 

 しかし拒まれても身を引かれても、悠はそっとしておかない。駄菓子屋の店主に聞いた和歌の意味が、悠を後押しする。

 

『女の私に通えって言うの? それとも男の貴方が来るの?』

 

 女にこう言われては、男から行くしかない。先月頃の悠であれば千枝や雪子の好意から身をかわしたように、きっと逃げた。だが今は逃げない。逃げるマリーを追って足を踏み出す。しかし──

 

「滑稽な演技はもうやめなさい。そしたらアタシも踊ってあげる……」

 

「!……」

 

 悠の足は止まった。マリーのこの言葉は詩か、それとも話し言葉か。だがどちらにしても同じことである。

 

(演技……?)

 

 今まで悠は演技をしてきたつもりはない。したのは演劇部の練習くらいである。だが本当にそうなのだろうか?

 

 人は誰しも状況によって仮面を使い分ける。これをペルソナと呼ぶのだと、悠は諸岡から教わった。よって悠が今まで築き、育んできたコミュニティは、相手によってペルソナを使い分ける訓練であったと言える。まさに複数のペルソナを操るワイルドとして。だがそれは、ただの『演技』ではないのだろうか? マリーとは永劫の絆で結ばれているが、コミュニティがあることそれ自体が、悠に演技を強いてきたのではないだろうか。意識してやることと、意識しないでやることの間には、どれほどの差があるのだろうか?

 

「……」

 

 今日の天気は晴れだ。三日前と違って予報は外れていない。突然の雨で遮られてはいないのに、虚空から降ってきた大岩で道が塞がれてもいないのに、悠はそれ以上マリーを追えなかった。

 

 

 長い間天に留まった太陽が、山の向こうにようやく落ちた夕方の時間。悠は自室でソファーに腰掛けながら、ベースを手に取った。セットで買ったアンプに繋いで、適当に弦を爪弾いてみる。

 

 ──

 

 何とも気の抜けた音がした。ピアノと違ってギターやベースは、触るのもこれが初めてだ。どこをどう押せばどんな音が出るのか、さっぱり分からない。自分を天才とも超人とも見なしていない悠は、作業机に置いた教則本を開いてみた。楽器の持ち方と、指の揃え方をまず確認する。そしてどの弦のどこを押さえるとどの音が出るのかを確認しようと、更に本をめくると──

 

「ん?」

 

 一枚の便箋が本に挟まっているのに気付いた。見てみると、弾けた文字が書き連ねられていた。

 

 

 <ピエロ達へ>

 

 Hey, you!

 醜い仮面をいつまで付けてるの?

 外す勇気が無いだけだって、気づきなさいよ

 

 薄っぺらい正体を

 見栄っ張りでコートして

 アタシが罠にかかるのを待ってるんでしょ?

 

 おあいにくさま!

 騙されるほどバカじゃないのよ

 

 こっけいな演技はもうやめなさい

 そしたらアタシも踊ってあげる

 踊るアホーに見るアホーよ!

 

 Hey, Dancing tonight!

 

 

(あの人は……俺たちが何をするか、あらかじめ分かっているのか?)

 

 マーガレットのことだ。タロットの解説書と付録の時もそうだったが、ベースの教則本に便箋を挟んでおいたのは、あの小姑のような魔女に違いない。本屋ばかりか駄菓子屋にまで足を延ばして、こっそりと『妹』の作品を拡散する。いや、拡散しているわけではあるまい。この本を手に取るのは悠であると、マーガレットは分かっていたのだろう。

 

(薄っぺらい正体……か)

 

 だがそんな魔女のお節介に、まずは感謝しておくべきであろう。今日の昼間は一部しか聞けなかった、マリーの新作の全容がこれで分かった。相変わらず表面は痛々しいほど過剰で、意味するところはナイフのように鋭い。

 

「……」

 

 ベースを抱えたまま目を閉じて天井を仰ぐ。そうしていると心に様々なものが浮かぶ。それは主に後悔。或いは落胆。絶望的な重さのある暗い感情。それでも前に進まなければならないとの思い。そして──

 

「ヘイ・ユー……!」

 

 天井の向こうから降りてきた霊感に身を任せ、弦に沿えた指を上下に動かした。目にしたばかりの詩が心の底に落ちて、その反響を声に出した。楽器と喉が発する二つの声は、不思議と揃っていた。すると──

 

「お兄ちゃん……?」

 

 三つ目の声がドアの向こうから届けられてきた。悠は演奏をやめてストラップを肩から外し、ベースをソファーに置いて立ち上がった。ドアを開けると菜々子がいた。

 

「うたってるの……?」

 

 十歳差の従妹は不思議そうな顔をしている。母の日から菜々子には何度かピアノを弾いてやっていたが、歌を聞かせたのは初めてだった。歌うのはいつも菜々子で、悠は伴奏が役割だったから。

 

「ああ……うるさかったか? ごめんな」

 

「ううん……」

 

 菜々子は小さな首を横に振った。その視線は、ソファーに置かれた見慣れない楽器に注がれている。興味津々な様子である。菜々子は母親からピアノを教わりはしなかったものの、やはり音楽は好きなようだ。

 

「菜々子も歌う?」

 

「……うん!」

 

 悠は菜々子を自室に招き入れ、ソファーに座らせた。自分は再びベースを抱えて、ピアノでは何度も弾いているフレーズを頭に浮かべる。そして弦と指板に目をやると、脳裏に何かが走った。

 

(弾ける……?)

 

 ベースを手にしたのは今日が初めてだ。それなのに、なぜか弾ける。弾く前から自分は弾けることが分かる。奇妙な確信に乗って、悠の両手は弦の上で閃いた。

 

「エヴリデイ、ヤングライフ! ジュ・ネ・ス!」

 

 ベースで出せる音域はピアノよりもずっと狭い。だから『兄』の指が奏でた音は、オリジナルのフレーズよりもやや低かった。それでも『妹』の歌声とタイミングは綺麗に合わさった。初めて手にした楽器でありながら、意外なほどに上手くいったと言える結果だった。

 

「お兄ちゃん、すごいね!」

 

 菜々子は手を叩いて喜んでいる。その笑顔の鮮やかさには、昨日酷い出来のオムライスを三種類も食べた時とは若干の違いが伺えた。それはきっと演技ではない、滑稽ではない、真実の気持ち──

 

「菜々子、ピアノ弾いてみる? 俺はこれで、菜々子がピアノ」

 

「うん! ひく!」

 

『妹』はソファーからぴょんと飛び降りて、『兄』の手を引いて一階の仏間へと向かった。これまで菜々子は聞くか歌うだけだったが、初めて鍵盤に手を触れることになったわけである。かくしてピアノとベースのデュオアンサンブルが誕生した。曲はもちろんジュネスのテーマである。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 

 マリーが薦める品々は、どれも有用なものばかりである。カエルの置物もそうだったし、5月に神社で貰った漢文の便箋もそうだった。そして今日のベースも値段は張る物だったが、それに見合うだけの価値はやはりあった。先週から始まった正義のコミュニティの反転を解消するのに、大いに役立ったのだから。

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