八十神高校の一学期の期末試験は7月19日の火曜日に始まり、23日の土曜日に終わった。21日に行われた倫理では論述問題が出された。問題文はこうだ。
『パスカルに曰く、人間は考える葦である。この箴言について二百字以内で述べよ』
このひどく抽象的な問題に対して、悠は答案にこう書いた。
『人間は弱く儚い生き物である。交通事故でも病気や天災でも死んでしまう。まして世界や社会が敵になれば、ひとくきの葦同然に容易く命を失う。人間は考えることで世界に満ちている死の危険を避けることができて、立ち向かうこともできる。しかし考えることの他に、もう一つ世界や死に立ち向かう方法がある。それは仲間の葦と繋がり、絆を育むことである。仲間と苦楽を共にして、仲間と一緒に考える時、人間は葦より強くなれる』
日曜日を挟んで週明けの月曜日。終業式を明日に控えた25日に、期末試験の結果が廊下に貼り出された。皆で掲示板を見にいくと、陽介は相棒の出来に感心した。
「お前、前よりかなり上がってんじゃん」
悠の成績は中間試験に比べれば大分向上していた。平均ラインのほぼちょうどから、上位三分の一程度まで上がった。ただ科目別の得点を見ると偏りがある。大半の科目が平均点そこそこである中で、一つだけ突出した好成績を取っている。もちろん倫理だ。満点である。試験直前は様々な騒動によって、ろくに勉強できなかったが、倫理だけは今月初め頃から試験に備えていた。その努力が点数に如実に表れたわけだ。
ちなみに葦の問題は、文字数に応じて点数がもらえるようになっていた。そんないい加減な採点基準になったのは、生物が担当の柏木が採点したからだ。選択問題や穴埋め問題なら誰でも答え合わせできるが、論述式ではそうはいかない。悠にすれば、あの問題は恩師の思い出のようなものだったのだが、跡を継ぐ者がいなかった為に宙に浮いてしまったのだ。
「先輩、お疲れ様」
掲示板の前にりせがやって来た。そして二年生の成績一覧をおもむろに眺めた。りせの視線は左上の隅から始まって下へと動く。一度最初に見た位置に戻って、また下る。そうやってある程度の時間をかけてから、張り紙の一角に目を留めた。
「ふーん……ちょっと意外かな。先輩、余裕で学年トップとか、そんなんだと思ってた」
「どこからそんなイメージが出てきたんだ」
イメージの出所はきっと『リーダー』だ。特別捜査隊の現場を指揮し、最終的な意思を決定する者。そして愚者のコミュニティの中心。そこから連想されるものは、試験は毎回学年トップを取り、スポーツは何をやらせてもエース級で、ついでに料理や音楽などにおいても非凡な才能を持つ、そんな超人高校生だ。しかしヒーローやカリスマは現実にはそうそう転がっているものではない。ポートアイランドの月光館学園には二年前にそんな生徒がいたという噂があるが、彼も本当の姿は超人などではなかった。
「はは、ごめんなさい! 色眼鏡で見ちゃ駄目ね」
「君は?」
「……さっぱり。特に英語。下手すると、夏休みに補習とかあるかも……」
りせは表情を陰らせた。八十神高校は進学校ではないが、成績が芳しくないと夏期講習に招待される。せっかく仕事を休業したのに、代わりに補習をするのでは割に合わない。そんな憂いをもって、りせは可愛らしい顔に帳を下ろす。しかし帳はすぐ消えた。
「ね、先輩。私、色々知りたい」
何を知りたいのか、りせは説明しない。ただ成績が思わしくなかったので、次の試験では改善するよう勉強したいという意味ではない。英語など、いざとなれば通訳でも何でもつければいいと密かに考えているから。
悠とりせ。この二人は本人同士は意識していないものの、実はある共通点が存在する──
「今度の試験は、一緒に勉強しようね!」
りせは表情の使い分けが巧みだ。それはもちろんアイドル稼業で磨いてきた為だが、生来の特技であるのかもしれない。憂いを浮かべたと思ったらすぐに引っ込めて、今度は鮮やかに笑う。町を歩けば誰もが振り返るだろう、いわゆるカリスマ的な魅力を醸し出す。直前に憂いを見せたことで、それがより際立つ。すると──
『我は汝、汝は我……』
悠の脳裏に声が響き渡った。新たなコミュニティが生じたことを宣告する、時間を止める声だ。アルカナは恋愛。文字通り愛や性も象徴する。
「ああ、いいね」
特別捜査隊には全体の絆である愚者のコミュニティがあるが、それに加えて個人としての絆もある。りせ以前の仲間たちは、既に全員が悠と個人的な繋がりを持っている。りせは特捜隊には今月10日から加入しているが、これまでは個人の絆がなかった。逆説的だが、ないことそれ自体がりせを特異な立場に置いていた。先週の悠の失踪事件においては、その特異さが役立ったのだ。
しかし今日この時に、りせは他のメンバーと同じ立場に立ってしまったわけである。皮肉にも『悠について』色々知りたいと言った途端、他の仲間たちと同列に置かれてしまった。色眼鏡で見てはいけないと自分の口で言っておきながら。それは二人の共通点から生じるはずの、真なる共感を妨げかねなくする──
しかし宣告を受けた以上は悠にもどうしようもない。コミュニティの主であるワイルドも、誰と絆を結ぶか選択する権利はないのだ。狙うことはあるが、選ぶのは飽くまで『我』だ。主と担い手の意思は基本的に関係ない。
りせと別れ、二年二組の教室に戻る途中の廊下で悠は声をかけられた。
「よう鳴上」
「やあ一条」
八十神高校の生徒で『我』によって悠と結びつけられている者は、特捜隊の仲間たちだけではない。その一人、ではなくて二人の少年たちがそこにいた。一条と長瀬だ。顔を見るのは、互いに何となく久しぶりな気がしている。
「試験、どうだった?」
「中間よりは良かったな」
「そっか、俺は順位落としちまったよ……」
一条は苦笑した。悠は試験直前は騒動続きだったが、実は一条も騒動に巻き込まれていたのである。悠は事前に勉強していた倫理だけは好成績を取れたが、一条にはそういう科目もなかった為、普段以下の成績に甘んじてしまった。ちなみに長瀬はと言うと──
「俺はいつも通りだ」
「いつも通り、底辺な」
「底辺じゃないぞ! 下にまだ何人もいる!」
「両手の指で足りんだろうが……。つか鳴上、聞いてくれよ。試験前の日曜、こいつと俺んちで勉強したんだけどよ。俺、その前にちょっと休んだから長瀬にノート借りようと思ったら、こいつ数1持ってきやがってさ……」
「は? 二年になってどれだけ経ってるんだ……」
「だろ? 普通に『1』を書く奴があるかってんだ」
「借りた奴が偉そうに言うな!」
「借りてねえだろ! 意味ねえんだから!」
剛毅の絆で結ばれた三人は、互いに文句を言いながら学業について笑い合う。部活を通じて知り合った相手でも、触れ合うのに部活は必須ではない。絆は時と場合によって在り様を変えるが、育む場も変わり得る。今日は月曜日なのでバスケ部の活動はないが、それは問題にならないのだ。近頃の一条は部活をサボりがちであることも、絆の後退を招く要因にはなっていない。
そんな親しみに乗って、一条は話題を変えてきた。
「なあ、今日暇か? 放課後ちょっと、飯でも食ってかね?」
「ああ、いいけど……愛家か?」
この三人が食事をする際は、これまでは大抵が商店街にある中華料理屋だった。値段は手頃で味は良く、しかもボリュームは満点だ。大食漢の長瀬は特にあの店がお気に入りだ。皆で食べるとなったら、ほとんど常に愛家に繰り出していた。
「いや……ジュネスに行かねえか?」
だから一条のこの提案は少し意外だった。
「あ、花村がいる」
悠、一条、長瀬の三人は、ジュネスの屋上へ向かう途中、二階の売り場で知り合いの姿を認めた。アルバイト中の陽介だ。
「こちらなどいかがでしょうか、お客様。この夏発売されたばかりの最新型で……」
どこかで聞いたようなセリフでもって、セールスをしているところだった。ただし売っているのはテレビではなくスマートフォンだ。テレビや洗濯機くらいなら、ジュネスの進出後も潰れずに残っている町の家電屋などでも買える。しかしスマホやタブレットのような文明の最先端は、八十稲羽ではジュネスにしか置いていない。
「桐条製か」
客は悠たちに背を向けているので、顔は見えない。だが若い男のようである。濃い緑色のシャツの袖をまくり、腰には上着を巻き付けている。
「そうです! 桐条エレクトロニクス製。信頼できますよ」
桐条グループは様々な分野で大きなシェアを誇る、世界的な企業グループだ。その名を聞かずには一日たりとも生活できない。そんな風に言われることさえあるくらいに、桐条は現代日本の生活に浸透している。
「桐条はいい。他のものを見せてくれ」
しかし世の中には大企業に反感を抱く者もいる。この客はそういうタイプであるのか、別のメーカーの製品を要求した。
「そうですか。ではこちらに……」
陽介は客を連れて別の陳列台に移動した。仕事の邪魔をしてはならないと、悠たち三人は友人に声をかけず、そのままフードコートへ向かった。
「愛家もいいけど、たまにはここもいいよな」
「安いしな。量があっていい」
焼きそばとお好み焼き、ついでにたこ焼きもついている、お好みペアセットを三人揃って食べ終えた。どこの小麦粉好きが企画したのか分からない、炭水化物が明らかに過剰な代物だが、三人とも食べきった。栄養バランスはともかく味は悪くない。
4月以来、特捜会議を何度か行っている白いラウンドテーブルに、今日は特捜隊のリーダーと部外者の二人が座っている。そんな珍しい人と場所の組み合わせの中で、部外者の一人である一条は座ったまま腕を組み、天を仰いだ。そこでは今朝に雨を降らせた低い雲が、蒸し暑さを地上に留め置くように居座っている。
「予報だと明日は雨だよな……。明後日辺り、また霧が出たりすんのかな?」
「いや、多分出ないだろう」
稲羽の霧は雨が何日か続いた後に出る。テレビの天気予報でもそう言われているし、悠は4月以来、ずっと霧に注意していたので、傾向は分かっていた。予報によれば明日は雨だが、今日は朝の雨はとうに上がり、今は曇りだ。昨日と一昨日も曇りだった。ならば明後日は出ないと悠は見込んでおり、ニュースでも霧は予報されていない。明日の雨が深夜まで続けば、マヨナカテレビは映るかもしれないが。
「ならいいんだけどさ」
そう、一条は『明後日辺り』は、霧が出なければいいと思っているのだ。出るなら来月頃であってほしいと思っている。
「昔は霧なんか出なかった……。この町、来た頃からは随分変わっちまったな」
一条は視線を空から地上に戻し、左右へ巡らせる。屋上のフェンス越しに町を眺め、更にジュネスの看板へ目を送る。そこはかとない憂いが切れ長の目に宿り、クラスの女子には人気の秀麗な顔を陰らせる。
「一条?」
悠は不審を覚えた。今のような一条の憂い顔に既視感があったのだ。先月15日の沖奈へのバイク遠征だ。あの日の一連の出来事は記憶から消し去りたかったので今まで忘れていたが、思い出した。あの日、原付ではない本物のバイクで沖奈に現れた一条は、憂鬱を漂わせていた。一条がバスケ部に顔を出さない日が多くなったのは、あの頃からである。
「ああ、実は俺、生まれはここじゃないんだ」
しかし一条の憂いはすぐに普段の顔に隠れた。悠の絆の担い手たちは、仮面の使い分けが巧みな者が意外に多い。その筆頭は足立だが、一条もかなり上手な部類に属している。
「引っ越してきたのか?」
「引っ越しって言えば、引っ越しだけど……俺、養子なんだよ」
そうして一条は自分の家庭事情を初めて悠に話した。
曰く、一条は物心ついた頃から孤児院で暮らしていて、本当の両親は顔も名前も知らない。今の両親に引き取られて、この町に来たのが十年ほど前。ただ貰われた先は、普通とはかなり違った家だった。一条家は稲羽ではかなり名の知られた、名士と呼ばれる家柄なのだ。傍から見れば前世紀の遺物感のある色々な仕来りが、今も残っている。例えば政略結婚とか。
「特にお婆様がすげー人でな……あ、お婆様ってのはシャレじゃねえよ。マジでそう呼んでんの」
かく言う一条自身も、実家では使用人から『康様』などと呼ばれている。学校での一条しか知らなければ悪い冗談のようだが、本当の話なのだ。そしてそんな古風な家から距離を置くつもりで、一条は高校生の身で一人暮らしをしている。週に一度くらいは実家に帰って社交の場に立つなどしているが、好きでやっているわけではない。バスケも『野蛮だから』と祖母に反対されているが、逆らって続けてきた──
「ま、平たく言やあ、反抗期って奴だな。けど一昨年、妹が産まれてさ……」
そんな一条に転機が訪れたのが二年前。幸子という名の妹ができたのだ。家を継がせる為に養子をもらった家に、思いがけず実子が誕生した。家庭内における養子の立場が変わる要因として十分である。古典的なまでに十分だ。
「バスケでもバイクでも、好きにやれって言われちまってな。でもそしたら逆に……ってな」
好きで始めたつもりのバスケだったが、実は厳格な家に対する子供じみた反抗に過ぎなかったのではないか。自分自身に疑問を持ってしまったことにより、一条はバスケにやる気を失ってしまった。諸岡風に言うとモラールが低下したのだ。
「俺最近、部活サボりがちだったろ? 悪かったな……」
そう言いつつも一条は笑っている。極めてプライベートな、しかも機微な話をしているのに、明るく笑っている。悲壮感など何も伺えない不自然なほどの軽さが、悠にある懸念を抱かせた。
「お前、もしかして……部活やめる気か?」
「ん? いや……」
ここで一条は笑顔を消した。スポーツマンらしからぬ細い腕を組み直して、やはり細い首を横に振った。
「やめはしないよ」
そしてまた笑う。良家の子弟らしからぬ悪戯小僧の顔である。それでいて爽やかな笑顔だ。悩みなど一片もなさそうに見える。それは本当に悩みがないからであるのか。それとも仮面を外したと思ったら、また別の仮面をかぶったのか。どちらが真実であるのかは、悠には判別がつかない。
「ま、色々あったが……またよろしくな」
一条は反抗期でバスケを続けていたが、妹の誕生によって状況が変わった。反抗すべき敵の方が一条を抑圧しなくなったのだ。いわば肩透かしを食らった状態にあったわけだが、今の一条は立ち直っている。立ち直っているように、悠には見える。何が一条をそうさせたのか、説明されていない悠には分からない。
コミュニティの主も読心術ができるわけではないのだ。表情や声色のような人間の表面だけで心の深層まで見通してしまうような便利なペルソナは、悠も持っていない。もし持っていれば、人生はもっと容易だっただろうが。
「そうか……よろしくな」
しかし心を見通せない以上、悠としてはこう言うしかない。
一条は悠には明かせない、ある秘密を抱えている。二週間前の霧の日、一条は一人暮らしのアパートの門前でシャドウに襲われ、シャドウワーカーに救助されたのだ。当時の記憶はほとんど残っていないが、ペルソナの素養を見込まれた。召喚はまだ試していないが、訓練の為に明日からポートアイランドに来るよう、有里に誘われているのだ。召喚に成功次第、ペルソナ使いとしてシャドウワーカーに参加する。予定している配属先はもちろん稲羽支部だ。
もし本部に配属予定で、それこそポートアイランドの月光館学園にでも転校するとなったら、それを機にバスケをやめたかもしれない。しかし訓練を終えれば地元に戻ってくる。転居や転校などの傍目にも分かりやすいきっかけがない中で、敢えてやめる必要性は感じていなかった。
ちなみにシャドウに襲われてから訓練を始めるまで二週間も間を空けたのは、期末試験があったからだ。シャドウワーカーの前身の時代、有里が高校生だった頃も、戦いを理由に学業に手を抜くことは許されていなかった。組織を再編した現在も、そうした変に融通がきかないところは残っている。
「うしっ! あー、何か今日は来て良かったな!」
一条は席から立ち上がり、屋上のフェンス越しに再び町を見る。一見すると昔から何も変わっていない鄙びた町を、だが本当は変わっている、霧の災いに襲われた町を見る。一条にとって今日のジュネス行きは、町と自分が過去から変わったことを確認する機会だった。これから自分の力で『守る』ことになる町の姿を、町で最も背の高い建物から確認したかった。それを今年からの新しい友人と一緒にやりたかった。たとえ真実は言えなくとも。
そうして目的を遂げた途端、三人の下に異分子がやって来た。ぴょこぴょこと特徴的な足音を立てて。
「おーっとセンセイ!」
クマだ。マスコットとして働いているので、ここに来れば大抵の日はクマがいる。
「見慣れないヤローどもをお連れとは……新入りのシモベクマか?」
「え……? 何だ、ジュネスのキャラクターか?」
突然闖入してきた喋る着ぐるみに、一条は驚いた。ジュネスに来たのは久しぶりだったので、先々週から雇われたクマを見たのは初めてだった。
「ああ、ここのマスコットさ」
対する悠の説明は適当なものだった。嘘ではないが、説明は足りていない。しかし一条にクマの正体を教えることはできない。クマは何者かとの観念的な問題の話ではなく、分かっていることだけでも説明できない。特捜隊の部外者には教えられない、内輪の秘密は山ほどあるのだ。一条に秘密があるのと同様に。
そうして『下僕』の一人が戸惑っている間、もう一人は手を出していた。
「ふさふさだな」
長瀬だ。いつの間にか席から立ち上がっていて、大きな手でクマの青い頭を撫でている。がしがしと音が立つくらいに、かなり乱暴に。
「ギャース! ダメクマ! おさわり禁止!」
「カタいこと言うなって。こんな毛、触らせなきゃ損だぜ?」
今日の長瀬は一条が告白している間、一言も口を挟まなかった。だが長瀬は大人しい性格ではない。全くない。親友の打ち明け話を邪魔してはなるまいと慣れない沈黙を続けていたが、その反動が今になって出てきたわけだ。クマの見事な毛並みを遠慮なく撫でる。
「こ、これはカンジ以上クマ……! センセイ、どちらさんで?」
「学校の友達さ。一条康と長瀬大輔だ」
「コーチンとダイスケね! クマはクマクマ!」
「クマ……ね」
一条は席に腰を下ろして、何とも言い難い微妙な顔をした。着ぐるみのデザインは動物の熊には見えないのだ。
「パンダのゆるキャラじゃねえのか?」
「ちがーう! パンダじゃないし、ゆるキャラでもないクマ! ってか、いつまで触ってるクマ!?」
一条と長瀬は親友の間柄だが、二人の性格は全く違う。一条はクマの見た目に思うところはあっても、口にはしなかった。しかし長瀬は遠慮なく言う。クマ毛を撫でる手にも遠慮はなく、放っておけばいつまでも触り続けるくらいの勢いだ。遂にクマはぴょんと音を立てて後ろに跳びはね、ようやく逃れた。
「ふー……全く、クマったシト……。センセイのオトモダチって、ツワモノ揃いなのかしらん……」
クマは両手を伸ばして、乱れた毛並みを元に戻す。そうしているうちに、フードコートの入り口から同居人がやって来た。
「おいクマ! サボッてんなよ! っと……お前らか。来てたのか」
アルバイトが休憩時間になった陽介だ。それに続いて、もう一人やって来る。
「あれ、不思議な組み合わせ……」
「……!」
千枝だ。その姿を目にした途端、一条は弾かれたように席から立ち上がって硬直する。
「よう、里中か」
「ちわー……って、不思議でもないか。部活、鳴上君と一緒なんだっけ」
「一条はな」
「あら、珍しい取り合わせ……」
そして雪子もやって来た。
「何か、揃っちまったな」
陽介は不思議そうに呟いた。約束していたわけでもないのに、いつの間にか特捜隊七人のうち五人が揃ってしまった。この分では、そのうち完二とりせも来るかもしれない。そう思うと特捜隊のサブリーダー、言い方を変えると中間管理職として、せっかくなので何か企画を立ち上げたくなってきた。明後日から夏休みが始まるので、全員が顔を合わせる機会は少なくなるだろうから。
「なあ……試験終わったんだし、夏休みどっか行かねえ?」
試験は終わったが事件はまだ終わらない。しかし特捜隊の活動は、基本的に受け身にならざるを得ないのだ。事件に動きがない限り、具体的にはマヨナカテレビに誰かが映るなりしない限り、特にできることはない。救出すべき被害者がいなくても、テレビに入ってシャドウと戦うことは可能だが、いつもそればかりやってはいられない。特捜隊は皆それぞれに、自分たちの生活があるのだ。そして高校生の生活に遊びは付き物だ。
「みんなで海とか行ってみねえ? 電車じゃ辛いけど、バイクなら楽しそうじゃんか」
陽介の愛車は先月に破壊されたが、頑張って修理に出して、ちょうど戻ってきたところである。
「海か……いいかもな」
「お、海っすか! いいっすねえ! 眩しい太陽、きらめくさざ波、香ばしく香り立つ海の家、ほとばしる肉汁……」
千枝が食いついてきた。海から連想される楽しいものを並べる。最後は何かが違っているが。
「お前たちも来ないか?」
そんな千枝を余所に、悠は特捜隊以外の友人たちにも声をかけた。
「バイク、一条も持ってるだろ。原付じゃない奴」
「え? そりゃまあ、持ってるけどさ……」
「おおう……そうでございましたねえ……。可愛い女の子乗っけて、背中にギューとかできるんでしたねえ……」
「ギュー……?」
背中に牛、ではない。一条はそんな大外れな間違いはしない。一条は陽介や悠と同じく健全なる青少年である。だから気付いた。本物のバイクを持っている自分は、二人乗りが禁止の原付と違って『ギュー』という擬音を背中で聞けるのだ。しかもそれだけでは終わらない。擬音の後には、眩しい太陽ときらめくさざ波に映える水着が待っている。
それは凄い。是非やってみたい──
「……」
タンデムシートに乗せたい人へと、一条は恐る恐る視線を送った。良家の養子は自分自身を積極的な性格ではないと見なしている。そしてそれについて不満はある。好意を寄せている異性がいるのに、口に出せずにいる自分を情けなく思うこともある。だが思いがけず、友人からチャンスを与えられた。
(もしかして、俺の力って……)
一条は更に考える。自分は超能力に目覚めた。しかし目覚めた原因はともかく、目的は分からない。故郷の町を守る為かと、漠然と感じているくらいだ。だがもしかしたら、そんな抽象的で顔の見えないものの為ではないのかもしれない。何しろ稲羽は生まれた場所という意味では、故郷ですらないのだ。そうすると──
(……里中さん?)
現に今自分に顔を見せている、この少女一人を守る為のものではないのか。自分の力は、少年が一人前の男になる為に、誰かに授けられたものではないのか。では誰が授けてくれたのか? 顔も知らない本当の両親だろうか。ならば思いきって──
しかし駄目だった。
「なーに、一条君。雪子を後ろに乗せたいの?」
一条は思いきる前に先手を打たれてしまった。過去の自分を省みたり自分の力の由来に少年らしい意味を見出そうとしたりしている間に、当の相手に誤解されてしまった。緊張の余りに気付いていなかったが、千枝の隣には雪子が立っていたのだ。傍から見れば、一条は二人の美少女のどちらを見ていたのか判別するのは難しい。
「え? わ、私……?」
「ムム!? コーチン、ユキチャンを逆ナンするクマ!?」
「え、ええ? そ、そんなことは……」
「まーた、雪子には皆デレデレしちゃうんだから……」
「ちょ、ちょっと待って!」
「いいもーん。あたし、親戚にバイク好きで腐らしてる人いるから。免許取っちゃえば、借りれるしー」
千枝はそっぽを向いた。誤解したまま。
(一条……)
傍から聞いていた悠は密かに頭を抱えた。一条が誰を好きなのかは、七夕の日に本人の口から聞いている。友人が失敗するシーンを見せられると、何とも居たたまれない気持ちになって、ため息が出そうになる。
しかし悠が吐くより先に、一つのため息が蒸し暑いフードコートに湿気を追加した。
「ったく……」
長瀬だ。その顔に浮かんでいるものは、親友の失敗への同情や居たたまれなさではない。ただひたすらな面倒さだった。
一条とは違う意味で、長瀬は女子に苦手意識がある。千枝は苦手ではないがそれは例外であり、雪子は苦手な部類に属している。何が違うかと言えば、女を意識させるかどうかだ。だから海に行こうと誘われるのは、長瀬にとっては不本意なのだ。もっとも雪子と深く付き合えば、例えば特捜隊に加入するなりすれば、可憐な女子らしからぬ雪子の姿を見る機会もあろうから、長瀬も認識を改めるかもしれない。しかし現在の状況では、長瀬が特捜隊の一員になることはない。一条も。
そんな思いと状況によって、長瀬は話を切り上げに入った。
「おい一条……明日は学校終わったら、すぐ駅だろ」
これは本当の話だ。一条は明日終業式を終えたらその足で八十稲羽駅へ向かい、電車でポートアイランドへと出発する予定でいる。
「準備とかあるし、あんまノンビリしてらんねえだろ」
そして一条は一人で都会へ行くのではない。長瀬も同行する。一条と同じく、ペルソナの素養を見込まれているのだ。シャドウを見てもいないのに、『なぜか』目覚めてしまった。そうなった理由は長瀬本人も理解していないし、シャドウワーカー本部も分かっていない。だが理由が何であるにせよ、目覚めた以上は有里はそっとしておかない。
「ああ……そ、そうだったな」
「明日、どこか行くのか?」
悠が尋ねると、長瀬は笑った。
「まあな。ちっとした小旅行って奴さ」
クマの正体について悠は多くを語らなかったように、長瀬も多くを語らない。同じ学校の友人同士といえども、秘密の輪には加わらないのだ。互いに。
「じゃな。海、楽しんでこいよ」
かくして特捜隊の部外者二人は、フードコートから去っていった。海への誘いを、事実上断る物言いを添えて。
特別捜査隊とシャドウワーカー稲羽支部高校生組。同じ高校に在籍し、同じ力を持っていながら、仲間としての輪は飽くまで別である。二つのチームは同じ目的に向けて協力し合うことはおろか、互いの存在さえ知らないのだ。今この時点では。