ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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隠形(2011/8/11、8/12)

 冬の低い日差しが窓から差し込んでいる、小さな一室。備え付けのベッド、机、棚、テレビ、洗面台があるだけの、空気が住むような殺風景な部屋だ。そこに住む空気、もとい前髪を下ろして右目を隠した少年は、青い布団が敷かれたベッドに腰を下ろしていた。その隣には、寝床よりも濃い青色をまとった女が座っている。

 

「私でも……殿方の私室に上がりこむ意味くらいは……存じております」

 

 女の髪は銀色で瞳は金色だ。いずれも人間が持つものではない。だがそんな表面的な特徴などより、ずっと人間的でないものを女は持っている。自然ではない、明確な意志を持った何者かの手によりこしらえられた、古典的な人形を思わせる容貌だ。現象の背後にある美の観念が、限りなく純粋に近い形で闇から浮き出た幻のような美しさ。

 

「もし、貴方さえよろしければ……」

 

 しかしこの時、女は観念から現実へと一歩踏み出した。黙っていれば手を触れるのを恐れ憚って、高く遠く奉りたくなるその顔に、そこはかとない朱色が差している。物言わぬ人形であれば衣服を取り払っても顔色が変わるはずがないが、青い女は取り払われる前から顔を赤く変えている。

 

 恥じらいとは人間にとっては普遍的で、人形にとってはあり得ない感情だ。今はこの建物にいない白い人形は、普段から衣服を身に付けていないが、それで何も恥じることがない。周囲の人間も何も感じない。しかしこの女は違う──

 

「お手引きを……いただきたいのです」

 

 女は少年の手を取った。青い手袋越しに、自分の体温を相手に伝える。己は体温のある存在なのだと、無言のうちに主張している。先日に死神によって半殺し、ではなく半壊させられた存在とは違う。今は病院で手当て、ではなくラボで修理している存在とは違う。女は男の手を取るだけで、そう主張することができるのだ。

 

「……分かった」

 

「ありがとう……ございます」

 

 有里はエリザベスの手を引いた。そして女を抱き寄せた。彼にとって女の手を引いたのは、初めてではない。ただこれまではいつも女の部屋に通っていた。女を自分の部屋に連れ込んだのは、これが初めてだった。押し掛けられたことならあるが。

 

 

(先月より酷い……)

 

 砂漠に立つ有里は膝から崩れ落ちそうになった。先月も体の芯から力が抜けて首が折れそうになったものだが、今日はそれより酷い。妻との関係を見せられるのは恥ずかしくはあるものの、のろけ話にしてしまうこともできる。しかし妻以外の女との関係ではそうもいかない。どこをどう押しても笑い事では済まされない。まして証拠映像を見せてきたのが、その女の姉とあっては。まるで美人局である。

 

(寮の監視カメラに記録されていたわけじゃない……よな。今のは前回にだけあったことだ)

 

 今の映像は2009年の12月のものだ。しかし今日、2011年8月11日から一年と八ヶ月ほど前ではない。体感的にはそれより更に一年昔の出来事である。ある意味では『なかったことになった』のだ。しかし別の意味においては、やはりなくなっていない。マーガレットには隠せない。

 

 さすがは何でもありのベルベットルームの住人である。今現在と直接繋がっていない、失われた過去の映像まで引っ張り出してくる。有里はまだその存在を知らないが、マヨナカテレビは回を追うごとに企画が先鋭化する傾向がある。この暴露大会もそれと似たようなものである。

 

「ふふ、あの子ったら……力を管理する者として、客人と関わりを持ちすぎるのは罪だと言うのに……。あんなことをしていたから、職務放棄なんかしてしまうのね」

 

 マーガレットは小姑。先月にマリーはマーガレットをそう呼び、悠は思わず同意しそうになってしまった。だが有里にとってこそ、まさに『小姑』かもしれない。もちろんそれはただの気分的な問題である。事実としては、有里の妻はマーガレットの妹ではなく先月の映像に登場した女で、小姑は最近になって発見されたエルゴ研の遺産である。

 

「さて……あの日、貴方はあの子の手を引いたわ。でも時が巡って同じ日が来た時には、貴方はそうしなかった……。なぜなのかしら?」

 

「……」

 

 有里は右手で目を覆った。いっそのこと、『よくも妹を弄んでくれたわね』とでも言ってほしい。その方が分かりやすいから。謝るなり怒るなり、対応の仕方も思い付く。しかし妹と同等の域にある怪異の美貌を、親しみを表すように微笑ませながら言われては、とにかく困ってしまう。

 

「いえ……こう聞いた方がいいわね。あの子をどう思っていたの?」

 

 マーガレットが見せる映像はいつも酷い。そして質問も酷い。いや、この場合に酷いのは有里だ。

 

(最悪、この女と戦う羽目になることも覚悟しておかないとな……)

 

 片手の指では足りない浮気の罪を背負う酷い男は、顔から手を離した。先月ここを訪れた時は何でも言ってやろうと決意したものだが、今日は気持ちを更に一歩進めなければならなくなった。

 

 有里はエリザベスと過去に一度戦ったことがある。現在に繋がる過去と、繋がっていない過去を通じて一度だけ。時期は繋がる過去の昨年1月、タルタロスを制覇する直前だ。その時、有里は敗れた。完敗だった。マーガレットの戦力は未知数だが仮に妹と同程度だとすると、相当な覚悟でもって臨まないといけない。つまりこの問いは命懸けで答えなければならない。いや、命どころか人生を懸けなければならない。

 

「運命が一つ違えば、彼女を愛したかもしれない」

 

「そう……」

 

 マーガレットの笑みが深まった。姉は妹に関して、何を期待して男に聞いているのか。それは定かでない。しかし男の答えは望んでいたものに近いのかもしれない。しかし──

 

「だがもう元には戻れない」

 

 三度目の暴露大会で、有里は初めて一言より多い言葉をマーガレットに与えた。与えた途端、空気が固まった。元より風も太陽もない、極めて不自然な砂漠の景色にあって、二人の間にある気配そのものがおかしくなった。目に見えない何かが硬質化して、息をするのも憚られる。

 

「……」

 

 マーガレットから親しみが去り、代わってあるものが金の瞳に浮かぶ。あるものとは小姑の怒りか、それとも答えに二言が費やされたことで興が醒めたのか。観察力には自信のある有里にも、ベルベットルームの人外の心は判別がつかない。

 

「……」

 

 沈滞した砂漠に重い静寂が溜まる。何を考えているのか愚者にも読めない魔女の瞳を、有里は真っ直ぐ受け止める。失言だったかもしれない。しかし言わないわけにはいかなかった。もう元に戻れないとは、人生を懸けた真実だ。

 

 有里はアイギスを人間にした。しかし運命が一つ違っていれば、人生の伴侶として選んで奇跡の力で人間にしたのはエリザベスだったかもしれない。酷い話だが、そういう道はあり得たはずだった。意思や嗜好の問題ではない、宿命的な領域における結びつきというものは、有里とアイギスの間にあったが、エリザベスとの間にもあり得たから。それでもやはり元には戻れないのだ。たとえ何かの奇跡が起こって時間が再び戻ったとしても、有里は今と同じ道を選ぶつもりでいる。

 

「そう……分かったわ」

 

 長い間を置いて、マーガレットは二言の答えを受け取った。

 

「でも覚えておいて。いつか貴方が妹と再び出会う時、貴方は妹と決着をつけなければならないでしょう」

 

 決着──

 

「以前の貴方は妹に敗れたけれど、今戦えば勝てるかしら?」

 

 この日、二つ目の質問である。対する有里は即答した。

 

「試合ならやるが、殺し合いならやらない」

 

 昨年のエリザベスとの戦いは試合だった。つまり力や技を比べ合ったに過ぎなかった。だから有里は生きているのだ。もし今後エリザベスと再会して戦いになるとしても、そのようにして済ませたいと思っている。妻子のいる男は命を惜しむものだから。

 

「ええ、そうでしょうね。試合で済むような状況で、妹と会えればいいわね」

 

 

 天城屋旅館の駐車場に作られた銀の扉を出ると、有里は旅館の建物へ向かった。時刻は夜だ。チェックインは既に済ませており、傍から見れば散歩から帰ってきたような風情である。部屋に戻る前に、一階のロビーの隅にある閉店間際の売店に立ち寄った。

 

「これを」

 

「はい、毎度ありがとうございます」

 

 

(やっぱり女は鬼門だ……)

 

 4月に死んだアナウンサーが生前最後に過ごした部屋で、有里は煙草に火を点けた。売店で買ったのはこれである。未成年の身であるので、本来は買えないはずだが買った。ここに宿泊するのは4月末からほぼ一ヶ月に一度のペースで、今日が四度目だ。そろそろ旅館の従業員に顔も売れてきた有里は、普通に売ってもらえた。

 

「ふー……」

 

 一人で泊まるには広すぎる部屋に、紫煙が踊って消える。古い旅館特有の年を経た空気に、煙の香りが加わる。有里は座椅子に腰掛け、座卓にウイスキーの瓶とショットグラスを置いた。これも売店で買ってきたものだ。強い酒の封を切り、水や氷なしでそのままグラスに注ぐ。そしてリモコンを手に取って、テレビを点けた。

 

『今日の雨は、明日も終日続く模様です。その影響で、稲羽市方面では明後日未明から明け方にかけて、濃い霧が予想されています』

 

 気象情報の確認を終えると、すぐに電源を切った。

 

「はあ……」

 

 稲羽に来る前から聞いていたが、今日と明日は雨が続く。そして明後日に霧が出る。きっと来月や再来月にも出るのだろうと推測される。そしてその都度、有里は稲羽に来てマーガレットと会わなければならない。次は何を見せられ何を言わされるのかと思うと、何とも憂鬱になる。そしてこの状況を改善する道が見えていないのが、更に気を滅入らせる。

 

(ここの事案を解決する方法が分からないってのが、一番困るんだよな……。タルタロスも大型シャドウもないからな)

 

 稲羽のシャドウは弱く、被害の規模も小さい。その意味では今年の事案は楽なものである。ただ高校時代の戦いと比べて、一つだけ困難な点がある。解決に至る道が見えないのだ。その為の手掛かりさえ見つかっていない。以前と違っていかにも怪しい場所というものがないし、それらしい敵というものもいない。この町に霧とシャドウが現れるようになった原因は何であるのか。解決するにはどうすればよいのか、全く見当もつかないのだ。恒久的なパトロールが必要になる可能性も否定できない。

 

(鍵になるとしたら足立さんだが……)

 

 敢えて言うならば、新たな愚者の存在だ。ベルベットルームが用意され、コミュニティも築いているようなので、稲羽のシャドウ事案を足立が解決してくれるとの期待は持てる。

 

(そう言えば足立さんのコミュは、今どうなってるんだろう? 審判は僕だが……)

 

 コミュニティの主は人気者になる『宿命』を負う。主の意思とはほとんど関係なく。余程下手にやって絆を壊してしまわない限り、担い手は誰もが主に好意を抱く。有里はその不条理を過去の経験から学んでいる。では今年のコミュニティはどうなっているのか。有里はウイスキーを口に含みながら考えてみた。

 

(法王は堂島さん、刑死者は小西君、剛毅は一条君と長瀬君の二人……。担い手が二人のコミュは、僕も法王がそうだったからあり得るな。愚者は多分、稲羽支部全体だろう)

 

 現時点で有里が想定できる、足立のコミュニティの担い手は男ばかりだ。それは幸運と言える。コミュニティは担い手が同性なら友人が増えるだけだが、異性だと恋人が増えてしまう。それは男にとっては夢みたいな話だが、妄想と現実は違う。しかもコミュニティは永続するものではない。主が使命を果たすと絆も使命を終えるのだ。戦いが終わった時、複数の異性と関係を持っていれば、待っているのは破局だけだ。袋叩きにされるくらいならまだいいが、下手をすると刺される。

 

(でも交友関係は、支部メンバー以外でも普通にあるだろうしな。どこかで話をしてみるかな……)

 

 有里は足立を案じている。事案の解決を期待するだけでなく、純粋な心配もある。何しろ他人事とは思えないのだ。そして話をする意味はあるはずだ。いわゆる『特別な関係』(何人もの相手と結んでおいて、特別と言うのもおかしいが)になるのを、回避する方法はある。現に有里はかつて築いた異性との絆において、恋人にならずに済んだ例もある。

 

(ゆかりたちはアイギスに肩代わりしてもらったが……あれは例外だから参考にならないな。岩崎は友近がいたから助かった……)

 

 強制的な恋人関係を回避する為の最も効果的な方法は、他の男に押し付けることだ。たとえ実を結ばなくても、好意が他の男に向けられているだけでもいい。有里がかつて築いた『二つ目』の戦車のコミュニティが、それを実証している。もしくは──

 

(沙織の時は……向こうが転校したんだったな)

 

 外的な要因によって別れることになった、『二つ目』の隠者のコミュニティの担い手を思い出す。思い出すと胸の内で何かが凝る。あのコミュニティでは不覚にも有里が好意を抱いてしまった。人でなしの『愚者』でありながら。その要因は、年上の同級生だったかの担い手自身が、有里に色々と共感を覚えさせる性格であったからだ。もしかすると隠者のアルカナの特殊性も、何か影響していたのかもしれない。

 

「……」

 

 体か心のどこかで凝る何かを溶かそうと、有里はグラスを煽った。ストレートのハードリカーが喉を焼き、胃を熱くする。傍から見れば、完全にやけ酒の状態である。

 

「ふう……」

 

 愚痴を零せる相手がいればまだ良いのだが、一人の有里はただ息を吐くだけだ。そして次の一杯を黙ってグラスに注ぐ。今と昔の苦い思い出に浸りながら、有里は一人で強い酒を飲む。煙草も吸う。優等生だった時代は遠くへ過ぎ去って、今は良からぬ大人がいるばかりだ。

 

 

 稲羽に一人で出張に来ている有里は、これまで床に就くのは比較的早かった。どの夜も日付が変わる前には眠りに落ちていたが、今日の晩酌は長い時間続いた。そして0時になると──

 

「ん?」

 

 酒が入って靄のかかった目に、不思議なものが映った。部屋に備え付けのテレビが急に砂嵐を映し始めたのだ。砂嵐である。何も映さず何も語らない、ただのノイズである。古い機械が発する雨音に似た割れた音が、窓の向こうから届けられる自然の雨音と重なって、ささやかな不快感をもたらしてくる。

 

 勝手に電源が入ってしまったのかと、有里は座ったままテレビのリモコンを目で探した。しかし見つける前にノイズは消えた。見てみれば、テレビはただの箱に戻っている。

 

(テレビが壊れたか? それとも……飲みすぎたか?)

 

 座卓に置かれた瓶を見てみれば、中身は既に半分がなくなっている。愚痴のような思いを抱いていたとはいえ、いささか量が多すぎる。

 

「……寝るか」

 

 有里は座椅子から立ち上がって、布団へ向かった。

 

 

 一方その頃、有里に交友関係を心配されていた当の男、足立は自宅のアパートにいた。

 

「今日も映らないか……」

 

 雨の夜に恒例のマヨナカテレビを確認しているのだ。しかし窓ガラスを叩く雨が、電源の入っていないただの箱に届けてくるものは、朧に光る砂嵐だけである。何の映像も映らないし、雑音以外の音声もない。なぜ映らないのか、足立は考える。

 

(坊やの録画が映るかと思ってたけど……先月も映らなかったしな。これはもう、どうしても映んないってことなのかな?)

 

 悠は先月17日、『誘拐犯』によってテレビに落とされた。その日のうちに無事救助されたようだが、落ちたことは確かだ。これまでの前例に従えば、マヨナカテレビの録画放送に悠の救助の模様が映るはずだが、なぜか映らない。しかもこれが二度目の不発である。先月の26日も深夜まで雨が降っていたが、24時のテレビには何も映らなかった。

 

(予告の次はライブっていうふうに、手順を踏まないと駄目なのかな? いや待て。4月のジュネスのチンピラは、どっちもなしでいきなり録画が映ったよな……)

 

 仮説は思い付くが、すぐに反証も思い付く。

 

(そうすると……そもそも放送するほどのイベントはなかったのかな? ペルソナ使いが向こうに行ったって、そいつのシャドウは出ないっぽいし……特に面白いネタがなかったから、ボツになったってとこかな?)

 

 過去の実例と現在の状況を照らし合わせれば、ある程度の推測はできる。しかしそれだけだ。元より超常現象であるマヨナカテレビは、とにかく謎が多い。放送が中止になった要因は色々考えられるが、どれが真実なのか確かめる術はない。足立といえども、真実を掴めない謎はある。

 

 例えば悠の救出作戦はマヨナカテレビを映している主体、言わば監督が自分自身も映ってしまうことを嫌った為に映らないなどの、そんな『真実』を足立は思い付きもしないのだ。皆月とミナヅキなら思い付くかもしれないが。

 

 

 

 

 11日の夜に有里が見た一般向けの天気予報は当たった。その日から降り始めた雨は、翌12日も一日続いた。

 

 季節は夏の盛りである。この時期の雨は暑さを和らげるよりも、まとわりつく湿気を増大させて人をより良くない状況に置く。現代の建物には付き物の空調がどれだけ努力しても、空気から不快感を拭いきれないくらいに。

 

 心地よさのまるでない夏の夜。八十神高校二年生の小沢結実は病室を飛び出した。元より胸や頭を万力で締めるように重苦しかったところへ、二日連続の雨が不快を上乗せして、とうとう限度を超えたのだ。

 

「はあ……はあ……」

 

 廊下を少し走ると息が上がった。ここは稲羽市立病院である。先月から結実はここに通う日が多くなっていた。ただし自分が怪我や病気をした為ではない。父親『だった』男と、それを看病する母親の為だ。結実の父親は十年前に妻子を捨てた。余所で女を作って出ていったのだ。その女と別れ、八十稲羽に戻ってきたのが6月。体を壊して、残り少ない人生を最後に過ごす場所として選んだのが、妻と娘のいる町だったというわけだ。

 

 よくある話だ。小説や演劇などの物語であれば、古典的なまでによくある話である。

 

 いつの間にか雨音は消えていた。世界から音が少なくなったことに気付いた結実は、廊下の窓を見てみたが、深夜に包まれた外は見えない。奇妙に白い、黒いガラス窓には若い女の顔が映っている。短い髪、秀でた額、吊り上った目。毎日鏡で見ている自分の顔だ。本当なら高校の演劇コンクールで戦時中の女学生を演じる、女優の顔が映るはずだった。しかし今は違う。ただ疲れて、女優どころか普通の少女らしさまで損なっている。

 

「……」

 

 父親が戻ってから生活は一変してしまった。看病の為、母親は会社と病院を行き来するようになって、挙句には母親まで過労で倒れてしまった。その為、自分も演劇どころではなくなった。部活に出ない日が多くなり、主役も降りた。全て覚えたセリフも、書き込みで真っ黒になった台本も無駄になってしまった。同学年の新入部員の指導も中途半端に終わった。

 

 やりたいことがあり、進みたい道があったのに、親に邪魔されてしまったわけだ。しかしそれも今日までだ。

 

 父親は危篤だ。医師によれば今晩が峠らしい。現に病室にいた間、父親の呼吸は今にも止まりそうなほど静かだった。いや、今はもう止まったかもしれない。雨の音が静まると同時に、息の音も止まってしまったのかもしれない。

 

(そうしたら……あの人が死んだら……)

 

 父が死ねばどうなるのか。元の生活に戻るだけだろうか。そんなことがあり得るのだろうか。元の暮らしなどあって良いのだろうか。父の死を望んだ自分に──

 

(私があの人を……)

 

 人の死を望んで、そして本当に死ぬ。まるで死神のように。

 

 ──

 

「え?」

 

 雨は途絶え、呼吸も聞こえなくなった。その途端に代わりの『声』が届けられた。とても優しい声だ。家を出ていく前はたくさん遊んでくれて、楽しい思い出を本当は数多く残してくれた、優しい人の声──

 

『違うよ……』

 

 そう、違うのだ。結実は決して父親を殺してはいない。憎しみで人は殺せない。死神でもない限り、不可能である。そして結実は死神ではない。この病院に喪服姿で来るとある老婦人は死神でないように、結実も違う。優しい『声』は正しいことを言っている。

 

『お前は……』

 

「私は……何?」

 

 しかし言うことが正しいからと言って、悪でないとは限らない。真実が常に善であるとは限らないのだ。善と真は同じではなく、悪と偽は同じではない。悪を働く真実というものも、この世にはある。例えば親しい人を装って獲物を誘い出し、貪り食う真実とか。

 

『お前の名は……』

 

「私の……名前?」

 

 その真実の名は隠者。タロットの解釈では愚者は死神と同一人物とされ、隠者はその同じ二人の間に立つ。生まれたばかりの赤子ではなく、死の深淵に潜む者でもないが、どちらとも近しい存在である。

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