ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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崖から落ちて(2011/4/14)

 タロットの大アルカナは、人間の人生を象徴すると言われている。誕生し、成長し、転機や挫折を経て、裁かれた後に自分の居場所を見つけるのだ。その起源は正確には分かっておらず、古代オリエント以来の神秘思想の流れを汲んでいるのだとも、中世以降のヨーロッパで遊びや賭け事の道具として使われたのが始まりとも言われている。いずれにしてもタロットは占いを始めとする魔術の道具として用いられ、様々に解釈されてきた歴史がある。そして現代では本職の占い師のみならず市井の人でも容易に入手が可能で、解説書の類も広く出回った一般的な文物である。

 

 大アルカナはカードごとの名前や順番、そして寓意画のデザインにおいては、タロットの版によって多少の異同がある。ただし枚数はいずれも同じで全部で二十二枚だ。そして最初に挙げられているカードは愚者。寓意画は、旅装に身を包んで歩いている一人の男と一匹の犬、そして崖だ。彼は明確な目的、例えば『世界』を目指して歩いているのか。それともただ当てもなく放浪しているだけなのか。そこは解釈が分かれる。

 

『愚者』と呼ばれるが、彼を単なる愚か者とするのは正しくない。大アルカナのカードはいずれも、肯定的な意味と否定的な意味の二面性を持っており、愚者も例外ではない。愚者のカードを肯定的にとらえれば、自由、可能性、天才という意味になる。しかし単なる愚か者とするのが正しくないように、単に天才とするのも正しくない。否定的にとらえれば、愚者の意味は逃避、無責任、愚行となる。それを最も端的に表しているのは、愚者が向かう先にある崖だ。目の前に崖があることに気付かなければ、彼は落ちる。つまり考えの足りない愚行の結果は人生からの転落だ。

 

 

 

 

 崖へと頭から突撃してしまった悠は、浮遊感の只中にいた。何だか分からないが後ろから押されて、テレビ台に乗せた膝は浮き、フレームを掴んでいた手を離してしまった。そこから先はただ重力に従うのみである。遊園地の落下系アトラクションは嫌いではないが、命綱がない状態でやるのはもちろん初めてだ。

 

(し、死ぬ……?)

 

 人は死の直前に、それまでの人生を走馬灯のように思い出すと言う。しかし悠は何も思い出せなかった。それは本物の走馬灯を見たことがないからか、思い出すほどの事柄は何もないからか。それとも落下自体が瞬きする間に終わったからか。

 

「うわっ!」

 

「どわっ!」

 

「きゃあああ!」

 

 その理由が何であれ、何も思い出せないうちに、悠の背中は崖の底に当たってバウンドした。そしてその直後に二人分の悲鳴と落下音が重なってきた。

 

「く……」

 

「いってえ……。け、ケツの財布がダイレクトに……!」

 

「もう、何なの一体!」

 

 崖から落ちた三人はその場で立ち上がった。底に叩き付けられたその時は、さすがに痛みがあったものの、誰も怪我はしていなかった。五体満足な状態で底に足をついて立ち上がった。靴から伝わる感触は、ゴム製のマットレスを思わせるものだ。これは崖に気付かず落ちた愚か者も、必要以上に痛めつけはしまいと、どこかの誰かが施してくれた慈悲であるのか。それとも転落の衝撃で首でも折って、『はいおしまい』となってしまっては面白味に欠けると、その誰かさんが企んだのか。とにかく誰も怪我はせずに済んだ。

 

「ここは……テレビの、中?」

 

 悠はジュネスに体の半分があった時に確認はしていた。テレビの中には、どれだけあるのか見当もつかない相当に広い空間があったはずだった。その空間に落ちてしまったのだ。しかも一人ではなく、三人揃って。

 

「外で何があったんだ?」

 

「外……? ああ、ジュネスね。客が来そうだったからさ……」

 

 普段は客の出入りが少なく、店員もろくに配備されていないジュネス八十稲羽店の家電売り場であるが、もちろん一日中人が来ないわけではない。悠がテレビに頭を突っ込んでいる最中に他の客が来そうになって、陽介と千枝が慌てふためいて、ぶつかってしまった。そして二人揃って悠の側に倒れ込んだ。陽介の説明によれば、現在の状況に至った経緯はそんなところだった。

 

「つか……何なの、この黄色いの。霧……?」

 

 千枝が左右を見回しながら言うように、三人は黄色がかった霧らしきものに取り囲まれていた。一寸先も見えないというほどではないし、手を伸ばせば届きそうな位置にいる、互いの姿も見える。だが遠くまでは見通せない。

 

「うおっ! 見てみろ! 上!」

 

 そして陽介の叫び声に促されて、三人は頭上を見上げた。建物であれば梁をかけるような高い位置に、黒い骨組みの構造物が横にかかっている。そこに何本もの黒いコードが通され、はみ出した一部が垂れ下がっている。コードの先では、テレビや映画の撮影で使われそうなスポットライトが何基も吊り下がっている。

 

「これって……スタジオ?」

 

「……かな」

 

 千枝の呟きに悠は控え目に答えた。足元を見てみれば、マットレスかと思った床には白線が何本も引かれているのに気付いた。何かの形を描いているようだが、霧、場所からするとスモークと言うべきかもしれないが、とにかく払いのけられない何かに遮られて、何の形が描かれているのかは見えなかった。

 

「こんな場所、うちらの町にないよね……?」

 

「あるわけねえだろ……」

 

 もちろん、あるわけがない。陽介が知らないのだから、ジュネスの施設であるはずがない。それどころか稲羽市全体を探してもないだろう。需要があるとは思えないから。田舎を離れて都会に行けば、撮影スタジオくらいあるだろうが、テレビを撮影する為にテレビに入る、そんな超常的なテレビ局があるはずがない。そんな需要は世界中探してもあるとは思えないから。

 

「どうすんの……」

 

「……帰るんだよ」

 

「そ、そうだよね! とにかく一旦帰ってさ……帰って……」

 

 千枝は上を見上げた。しかし霧だかスモークだかに遮られて、三人がいる床からは何も見えない。天井があるのかどうかさえ、定かではない。まして出入口など──

 

「あたしら、どっから入ってきたの? 出れそうなトコ、ないんだけど!?」

 

「ちょ、そんなわけねえだろ! どど、どういうことだよ!」

 

「知らんよ、あたしに聞かないでよ!」

 

 言い合いながら、千枝と陽介はだんだん熱くなってきた。こんな状況に陥ったのは、互いのせいであるとでも言うように。

 

「二人とも、落ち着けよ」

 

「これで落ち着いてられっか!」

 

「もうやだ、帰る……今すぐ帰る!」

 

 悠は二人を宥めようとしたのだが、残念ながら効果はなかった。陽介は困惑しながら声を荒げ、千枝は泣き出さんばかりだ。出会ってまだ三日の付き合いの浅い友人が、言葉だけで人を落ち着かせるのは難しい。ましてこんな訳の分からない状況に突然放り込まれたとあっては、付き合いが長くても困難だろう。言葉が通用しないならば、どうするか。

 

「お、おい! どこ行くんだよ」

 

 悠は二人を置いて、一人で歩き出した。ただし少し走ればすぐに追いつけるくらい、ゆっくりとした足取りで。

 

「出口を探そう」

 

「お、置いてかないでよ!」

 

 普段の悠は面倒くさがりだ。そっとしておく選択肢が提示されれば、大抵はそれを選ぶ。だから今日も二人を取り敢えずそっとしておいたわけだ。すると案の定、二人はついて来た。こういう非常時は、率先して動く人間がいると周囲はそれに釣られやすい。たとえその先にあるものが更なる崖であろうとも。

 

「よし、行こうか」

 

 悠は一旦足を止め、後ろを振り返って二人に顔を見せた。ただしそれは一瞬のことで、またすぐ歩き出した。硬くない床材を踏む足音は柔らかいものだった。鋭く耳を叩いて、不安感を一層盛り上げるようなことはしなかった。

 

(きっと大丈夫だ。こういう場所は、外へワープするポイントがどこかにあるはずだ。と言うか、ないとおかしい)

 

 異世界ダンジョン系冒険ゲームでは、一定区間ごとにセーブポイントが設置されているのが常だ。それは時に、ダンジョンで入手できる金銭を支払うことでパーティーの体力を回復してくれたりするし、脱出口になる時もある。もしもそうした便利な施設がなくて、いちいち出口まで徒歩で行かねばならないとなれば、それは確実にユーザーからクレームを頂戴する。そんな不便なシステムを作るメーカーはない。一昔前ならあったかもしれないが、今となってはとっくに淘汰されている。まして『出口はない』などというゲームはあり得ない。もしあったら、そのゲームの名は『現実』だ。

 

 歩きながら、悠はそんなことを考えた。無茶な理屈だ、これはゲームじゃないんだぞと、頭の片隅から突っ込みが飛んできている。するとその反対側の頭の隅はこう反論した。

 

(二人と一緒になって泣き叫んだって、どうしようもない。だったら動くしかない。動けば何か見つかる。それが出口じゃないなんてことがあるか?)

 

 後からついてくる二人には、霧を通した朧な背中だけを見せて、悠は歩き続けた。だから陽介と千枝には、この時の悠の顔が見えなかった。もし見ていたら、陽介ならばこう言っただろう。『お前、随分楽しそうだな』と。千枝が見たならば、『こんなとこで、何笑ってんの!』であろうか。

 

 夜明け前、未だ眠り続ける町を出て、どこか知らない場所へと旅に出る。それは古い映画のプロローグのように魅力的だ。時刻は夜明けでこそないものの、場所は微睡を連想させる霧の異世界だ。そして旅の道連れは、少しばかり軽薄であるものの快活な少年と、少年に蹴りをくれてやる活発な美少女。ここまでお膳立てが整えば、転校に慣れてテレビ番組にも飽きた少年のポーカーフェイスを崩すのに十分だ。

 

 

 

 

「何ここ……さっきんとこと、雰囲気違うけど……」

 

 数分なのか数十分なのか判然としないが、とにかく撮影スタジオらしき空間からしばらく歩いた場所で、千枝は周囲を訝しんだ。いつの間にか、最初とは全く違う場所に出ていたのだ。

 

 足元はマットレスから金属質の床に変わり、向かって左手側には一定間隔で立つ柱と手摺りがある。手摺りの向こうは霧に覆われて見えないが、ある程度の高さがある場所だと思われた。現実にあるもので言うならば、アパートやマンションの二階以上のフロアにある共用の通路とよく似ていた。

 

 そして三人の周囲に漂う霧は、その色を変えていた。スポットライトに照らされたスタジオの黄色いスモークと違って、白さが際立ってきたのだ。一昨日に現実の町を覆った『自然』の霧に、非常に近い色合いへと姿を変えていた。

 

「かえって遠ざかったりしてない?」

 

 千枝の心配はもっともだ。大いにあり得る話だ。しかし三人に選択の余地はない。地図や道案内はおろか、視界さえない現状では、勘に頼るしかない。

 

「とにかく、今は前に進むしかないな」

 

 悠は共用通路を歩き出し、陽介がそれに続いた。悠の顔に知らず浮かんでいた笑みは、既に傍目には見えないくらい小さくなっていた。

 

「ま、待ってってば!」

 

 慌てて駆け寄ってきた千枝が追いついた頃、霧の先に一枚のドアが見えた。ここがマンションであるならば、まさにその一室のドアを三人は目にしていることになる。ただしそれは現実の世界では、なかなかお目にかかれない類のドアだった。

 

「……」

 

 形こそ正確な長方形で、高さは二メートル弱で幅は八十センチ程度。人間が出入りするのに適したサイズだ。ただその色合いは随分と奇妙な代物だった。一点の曇りもない完全な黒の背景に、これまた完全な原色の赤そのものの歪な楕円が、同心円的に四つ配置されている。もしここに住んでいる人間がいるのなら、客を招くのに躊躇いを禁じ得まい。

 

「……どうする?」

 

「……入ってみよう」

 

 妙に長い間を置いた陽介の問いに、悠も長い間を置いて答えた。

 

「うう……何でこんな目に……」

 

 そして千枝も二人の後に従った。そろそろ声の震えを隠そうともしなくなっていた。もしここに雪子もいて怯える役割を肩代わりしてくれていれば、もっと気丈に振る舞うこともできたであろうが。

 

「お、この辺ちょっと霧薄くない?」

 

 前衛的すぎる扉を通り抜けた先は、やはりアパートかマンションのワンルームめいた部屋だった。広さは二十畳ほどで、フローリングの床にベッドや冷蔵庫、本棚などが置かれ、窓にはカーテンがかかっている。そして陽介が言う通り、霧が少し薄かった。だからそれらの家具類はかなりはっきり見えたのだが、余計なものまで見えてしまった。

 

「これ……ポスター? 全部、顔ないよ? 切り抜かれてる……」

 

「この椅子とロープ……あからさまにまずい配置だよな」

 

 千枝と陽介は多大な困惑と、小さくない怯えを感じていた。さもあろう。部屋の壁には、和服を着た女性のポスターが何枚も貼られていたのだ。同じポスターが大量にあるだけでも奇妙なのに、その顔が全て切り抜かれているとあっては。ついでに血を思わせる赤色の塗料が、その周囲に踊っているのでは。

 

 そして天井から吊り下げられたロープと、赤いスカーフらしきものを結わえた輪。その下に置かれた椅子。これら一連のオブジェが何を意味しているか。それは明白だ。自明の理とさえ言ってよい。

 

(お化け屋敷……とはちょっと言えないな)

 

 悠はスタジオに落ちてから、一度も声を荒げたりしなかった。にやにやと笑うことはあっても、冷静さは失わずに済んでいた。その主な要因は連れの二人、特に千枝だ。怯える人間を近くに置いた人間の反応は、大きく分けて二通りだ。一緒になって怯えて恐怖を相乗させるか、逆に冷静になるか。今日の悠の反応は後者だった。それはテレビに頭を突っ込んだ際に、内心だけでとはいえ大笑いしたので、感情の燃料が少なくなったのか。それとも怯える千枝が可愛らしかったからか。

 

「ん……?」

 

 その理由が何であれ、とにかく悠はこれまで感情的にならずにいた。しかし辿り着いた部屋のあまりのデザインに、薄気味の悪さを感じ始めたその頃、急に何かを感じた。

 

「ど、どしたの?」

 

 千枝が素早く反応した。手を伸ばせば、肩くらい抱き寄せられそうな位置にいる。

 

「今、何か匂わなかった?」

 

「に、におい?」

 

「血の臭い……とか言わないよな」

 

 こんな場所で臭うとなれば、血や死体こそ相応しかろう。しかし悠が感じたものは、それらではなかった。もちろん悠は死体の臭いなど嗅いだことはない。だが映画やマンガに登場する死体の姿から想像できるような、昨日に陽介がかぶっていたポリバケツの中身を十倍も強烈にしたような、そうした凄惨な臭いではない。それどころか、むしろ甘いものだった。どこから漂って来たのか分からないが、甘い飲み物が発するような匂いを感じたのだ。

 

(乳製品……かな?)

 

 しかしそれを二人に説明する間はなかった。

 

「バッ……花村、何言ってんの!?」

 

 突如千枝の足が翻った。女子としても背の低い千枝だが、右足を大きく踏み込むや、その足でフローリングの床を蹴って普段の歩幅を大きく超える距離を跳躍した。そして身を屈めつつ、陽介の脛にローキックをお見舞いした。

 

「いでっ……馬鹿、何しやがんだ!」

 

 遠い間合いから、一足飛びに距離を詰めての一撃だ。正面から対峙していても奇襲になり得る、見事な足技と言える。まして完全に油断していた陽介は、回避も防御もできずにうずくまった。

 

「うっさい! もう嫌あ……こんな場所……」

 

「ああ……悪い」

 

 蹴った方は低い体勢のまま、その場で膝を抱えてしまった。そして蹴られた方は己の失言を悟り、立ち上がって謝った。

 

「取り敢えず元の場所に戻ろう。ここに出口はなさそうだ」

 

 そう言って、悠は二人を促してドアへ向かった。来た時のままに開け放たれており、その先は部屋よりずっと深い、白い闇だ。スタジオに戻ろうにも果たしてそこに辿り着けるのかどうか、甚だ怪しいと言わざるを得ない。

 

(軽率だったな……)

 

 今になって、悠はそう思い始めた。昨晩の異常な出来事を確認するにせよ、何もテレビに頭まで入れることはなかったのだ。ただ手を入れてみて、二人に少しばかり驚いてもらって、そこでやめにすれば良かったのだ。それなのに超常現象を面白がったばかりに、この有様だ。千枝を怖がらせ、陽介には痛い思いをさせた。落ちてからそれと気付いた。しかし悠の内省は唐突に中断された。

 

 びょこ──

 

 三人は無言で顔を見合わせた。場所が場所だけに、臭いなら血や死体が相応しい。そして音ならば血が滴る音とか、死体が自ら動いて足を引きずる音とかが雰囲気に馴染む。しかし聞こえてきたのは、何ともコミカルなものだった。

 

 びょこ、ぴょこ、ぴょこ──

 

「な、何か来る!?」

 

 音は一回では終わらず、連続した。それも段々と大きくなり、リズムは速くなった。何者かが近づいてくる足音だ。三人は正面を向いたまま、ドアから後ずさった。千枝が一番後ろで、悠と陽介がその前に立つ形だ。急いでこの場を離れたいところだが、あいにくこの部屋には他にドアはない。窓はあるようだが、カーテンは開いていない。

 

「お、落ち着こう……」

 

「そ、そうだな、うん……」

 

 男二人は言いながらも、落ち着きはまるでない。悠も来た当初の微笑など既に忘れてしまっている。だが腰を抜かしたりはせず、まだ自分の足で立っている。もし聞こえてくる足音が、マンションらしき建物を揺るがす重く巨大なものだったり、猛獣が舌なめずりする音が混じっていたりしたら、全員揃って恐慌状態に陥っていたはずだ。しかし場違いなコミカルさが、三人の動揺をかろうじて抑制していた。そうしているうちに、やがて足音の主が姿を現した。

 

「こんにちはクマー」

 

 小学校低学年くらいの、菜々子と同じか少し年上程度の男児のような幼い、可愛らしい声を添えて。そして『ぴょこっ』と音を立てて、ドアの敷居を跨いだ。

 

「何これ? サル……じゃない、クマ?」

 

 前に立つ二人の肩の間から、千枝が顔を覗かせた。現れたのは悠の胸くらいの背丈の、三頭身の着ぐるみらしきものだった。体型は逆さにした卵に短い手足をつけたようなもので、色合いは胴体が赤、頭部が青を基調としている。胴体の正面は白くなっており、ボタンめいた大きな赤丸が飾りのようになっている。大きな頭部は顔に当たる正面がやはり白く、黒く大きな目には愛嬌がある。青い頭の上にあるのは動物の耳だ。首はあってなきがごとしで、ジッパーらしき線が頭部と胴体の境界線になっている。

 

「いや、パンダ……? の、ゆるキャラか?」

 

 悠は思わず呟いた。パンダと言うか何と言うか、企業や自治体がマスコットとして広報活動に使いそうな、そんな代物だった。一言で言えば可愛げがある。稲羽の市役所が『イナパンダ』とかの名前をつけて、名産のビフテキを頬張る姿とかをポスターにしていたとしても、特に違和感はない。もしここが遊園地の類でこの部屋がお化け屋敷であるならば、この着ぐるみはマスコットとして相応しい。子供が大勢集まって全員で写真撮影をしそうな。

 

「ムー! ゆるキャラじゃないクマ! クマクマ!」

 

「クマクマ……って言うのか?」

 

 悠は言いながら、緊張感がガラガラと音を立てて壊れていくのを感じた。このお化け屋敷は演出こそ秀逸だが、キャスティングはずれている。血塗れの死体や動く死体はおらず、可愛らしいマスコットが仕事をしている。これを怖がる客が、この世にどれだけいると言うのか。

 

「クマクマじゃないクマ! クマはクマクマ!」

 

「な、何なのよあんた! いきなり出てきて、クマとかクマクマとか! ここはどこ!? あんた誰!? 何がどうなってのんよ!?」

 

 着ぐるみと悠の要領を得ないやり取りに、千枝が身を乗り出して割り込んできた。だがその言い方は、先ほどまでの緊張が裏返って詰問するような口調になってしまった。なお、千枝は変わらず三人の最後尾にいるが、実はもうあと一動作で、着ぐるみに必殺の蹴りを浴びせられる間合いに入っている。

 

「そ、そんなに大声出さなくたって……」

 

 一喝された着ぐるみは、頭を抱えて震えだした。その両の腕は胴体のサイズに比べて非常に短いものだったが、ある程度伸縮する仕組みなのか、しっかり頭の頂上付近まで届いている。もっとも陽介の膝を一撃で殺した千枝の蹴りを防ぐには、甚だ心許ないと言わざるを得ないが。

 

「ど、どーどー。冷静に、冷静になろ? な?」

 

 昂ぶる千枝を陽介が宥めた。その様を目の端に留めて、悠は気を取り直した。こういう時こそ冷静にならねばならない。今は怒りに用はないし、声を立てない微笑も出る幕はない。普段得意なポーカーフェイスの見せ所だ。

 

「えっと……お前はクマ。それでいいか?」

 

「そークマ! クマはクマクマ!」

 

 着ぐるみの名前に関するやり取りが、余計な紆余曲折を経てようやく決着した。だが悠は今一つ納得しかねた。眼前の着ぐるみは、動物の熊をモチーフにしているとすれば、デフォルメがいささか過剰な感があるのだ。しかしパンダは系統的には熊に近いらしいので、悠はその点を突っ込むのはやめにした。その代わり、ここは一体どこで、帰るにはどうすればよいのかを聞こうとしたら──

 

「ここは危ないから、早く帰るクマ!」

 

 クマの方から話を進めてきた。愛嬌のあるどんぐり眼を直線的にして、口の形をへの字にした。着ぐるみは表情を動かせるはずがないが、この謎の生き物(?)はそうした世間のゆるキャラとは、一線を画しているようだった。

 

「あ、危ないって何が!?」

 

「それは……のわっ!」

 

 再び千枝が口を挟むと、クマは体全体を仰け反らせた。そして短い両手をあたふたと振り回した。体型的に言って、一度バランスを崩せば自力では起き上がれそうもない。咄嗟に悠は右手を伸ばし、着ぐるみの手を掴んだ。それはまさしく着ぐるみらしく、ふさふさの毛で覆われていた。そして体は軽く、簡単に引き寄せられた。

 

「ふー、ありがとクマ。とにかく、早く逃げるクマ!」

 

 悠が手を離すと、クマは着ぐるみの短すぎる足をぴょこぴょこと動かした。卵が跳びはねるその様は、笑い出してしまいそうなくらいコミカルなのだが、どうしてかその動きは速かった。悠の右手側を迂回すると、あっと言う間に三人の一番後ろにいた千枝の背後に回った。

 

「ほれ! ほれ早く! もう今にも出てくるクマ! こないだ放り込まれた人みたいに、食べられちゃうクマよ!」

 

「ちょ、どこ触ってんの!」

 

 クマが押している部分に対して、千枝は文句を言いながらも、結局は小走りで走り出した。そうして追い立てられるように、三人の人間は部屋から出された。ちなみにクマが仰け反ったのは、着ぐるみの体は首がない為、上を見上げるにはそういう体勢に自然となるのだが、悠たちには理解できなかった。聞く間もなかったから。

 

 

 三人と一匹が去った後、風もなく、誰もいないはずの部屋で霧が動いた。それは天井から吊り下げられたロープを中心として渦を巻き、やがて輪になった赤いスカーフの辺りで凝集した。それは悠が感じた、乳製品らしき甘い匂いの源だった。

 

「……」

 

 現れたのは人影らしきものだ。しかし元より霧があるのに加えて、それ自体も輪郭のぼやけた影そのもののような姿である為、人間を象ったものであることくらいしか傍目には分からない。頭に当たる部分がスカーフの輪に、足に当たる部分が椅子に触れている。

 

 マンションの一室と思しきこの部屋に人間の三人が現れた当初から、実はこの黒い影はずっといたのである。しかし影は人間たちに興味がなく、人間たちも影に気付かなかったので、何もせず放置していたのだ。ただし後から現れた、着ぐるみらしきものは影の存在に気付いた。しかし影はそれにも興味がなく、害があるとも思わなかったので、何もしなかった。着ぐるみの方では危険と思って、急いで立ち去っていったが。

 

「……太郎さん」

 

 一人残された影は言葉を発した。しかしそれは誰にも聞かれることなく、霧の中を当てもなくさまよった。

 

 

 部屋から追い立てられた悠たち三人は、クマの案内でスタジオまで戻った。そこでクマが古式ゆかしいテレビを三つ重ねたオブジェを出して、そこから外に出ることができた。つまりゲームで言うところの『脱出ポイント』は存在したのだ。三人を襲った事態は現実であるはずなのだが、ゲームのような便利な代物も、やはりあったわけである。かくして悠は、一度は落ちた崖から這い上がることができた。

 

 

 

 

 大抵の犯罪には動機がある。金に困っていた。被害者に恨みを抱いていた。法律には背くことであっても、正義であると確信していた、等々だ。それらは警察の取り調べや、裁判によって明らかにされる。しかしそれらの『語られた動機』は、一体何によって保証されるのだろうか。動機の追及は、凶器や死因のような物的な問題を明らかにすることとは、本来的に次元が異なっている。もちろん人間心理にも因果関係は存在するが、それは時として合理性を見出せない場合があるのだ。

 

 卑近な例で言えば、小学生の男児がクラスメイトの女児の髪を引っ張っていじめたとする。彼がそうしたのは、彼女が好きだから。迂遠な例で言えば、ある夏の暑い日に海岸の岩陰で人を殺した男がいたとする。彼がそうしたのは、太陽のせいだった。

 

 もし小学生がいじめの理由を聞かれて正直に答えれば、教師はきっと許すだろう。しかし男が裁判で犯行動機を聞かれて、正直に答えようものなら、裁判長や検事は怒るだろう。たとえそれが真実だとしても、誰もまともに取り合わない。

 

 だからもし他人には理解できない、本人さえよく分からない理由で何らかの重大な事件が起きた場合、ある程度の事実を元にした、もっともらしい虚構が必要とされる。例えば母親の葬儀で涙を流さなかったとか、次の日に海水浴に行って女とコメディー映画を見て、その後に女と情事に及んだとか。そのように事件そのものから離れた、犯人自身に関する『物語』を組み立てる必要がある。そうしなければ世間は納得しないのだ。

 

「何なんですか、これ。事情聴取の続きじゃ……」

 

 だからこの日の夜、山野真由美の遺体の第一発見者である小西早紀に、足立透は言い寄った。警察官として、本来は犯罪者を追及する立場の者として、犯行へと至る『物語』を自ら構築したのだ。いつか事件が明るみに出た時に、相棒の仕事をやりやすくしてやる為に。或いはもっともらしい『真実』を作ってやることで、更なる真実を覆い隠す為に。もちろん明るみに出る可能性があるとは全く考えていないのだが。

 

「それよりさあ、昼間、見たんだよ」

 

 表情を消した状態で、女子高生に近づいた。彼女の顔やスタイルは悪くないものだった。好きなタイプかと聞かれればいささか困るところだが、それはこの際問題ではない。これなら『真実』にも説得力が出るだろう。ついでに言うと、昨晩深夜のテレビで流れた奇妙な番組にこの女子高生が映っていたことも、まかり間違えば真実味を増すのに一役買うかもしれない。

 

(吐かない)

 

 こちらが一歩足を進めれば、向こうは一歩下がる。それを繰り返すだけで、女子高生は保護室のテレビにまで追い詰められた。アナウンサーの時と同じパターンだ。

 

「お前、生田目と……」

 

 言いながら女子高生の肩を掴んだ。すると女子高生はこちらの手を振り払って、頬を叩いてきた。パシッと乾いた音がした。

 

「ふうん……僕とは嫌だって?」

 

 これでも警察官だ。得意とは言えないものの逮捕術も学んでいる。素人の少女を制圧するくらい、本当はわけもない。わざと無造作にやったら、案の定抵抗してきた。ついでとばかりにアナウンサーにも見せた嫌らしい悪人面も作ったことだし、これで前振りは十分だろう。本題に入るとしよう。

 

「それなら僕にも考えがあるけど?」

 

 怒りの悪人顔を作ってみた。そして再び女子高生の肩を掴んだ。今度は本気で。

 

(僕は吐かない)

 

「い、いや……!」

 

 ──

 

 テレビの中に女子高生は消えた。いともあっさりと。細身の子を選んで正解だった。この部屋に備え付けのテレビは旅館のロビーにあったそれと違って、昔ながらの小さなものだ。しかし肩がつかえたりはせず、しっかり入った。水に石を投げたような波紋がテレビ画面から消えるまで、まずは待ってみた。

 

「……」

 

 五秒過ぎた。胃は抗議してこない。貰った煮物は全て捨てたので、今日は消化に悪いものは食べていない。普段と変わらず大人しいままだ。喉は勝手に動いたりしないし、口の中にも酸味はない。

 

「ったく、何が女子高生だ。世の中クソだな。僕が学生の頃は、勉強しかさせてもらえなかったっての……」

 

 十秒過ぎた。声を出してみたが、そこに震えはなかった。

 

「都会でエリートになるはずが、こんな田舎に飛ばされて……けど、代わりにこんな面白い力を手に入れたってわけか」

 

 三十秒過ぎた。悪人の笑顔を作って、波紋の消えたテレビに映してみた。それで確信できた。

 

(ほーら、やっぱり。硬いレンコンを食べさえしなければ、僕は吐かないんだ)

 

 仄かに暗い鏡に映る自分の顔は、完璧なまでに意図した通りだった。弧を描いた眉、やぶにらみな目、歪な三日月を浮かべる唇。こうしようと思っていた形と一分のずれもない。内臓から表情筋に至るまで、完全に自分自身を制御できている。人をモズのハヤニエにしても、一切の動揺をせずに済んでいる。それを証明してみせたのだ。

 

「ふ、ふふ……面白い」

 

 面白い。世の中には色んな犯罪者がいる。恨みとか金とか、分かりやすい理由で犯罪に走る人間は数多い。中にはむしゃくしゃしていたとか、分かりにくい犯罪者もいる。しかし硬いレンコンのせいで人を殺すなど、そうそういるものではないはずだ。たとえ自白したところで誰も信じるはずがない。つまり僕の真実は、この世のあらゆる追及から免れるのだ──

 

 そこまで思ったところで、もう少し自分自身を試したくなった。女子高生を落としてから、ずっと真っ直ぐ立った姿勢のままでいるが、身を屈めればどうなるかと。テレビのフレームに右手を置いて頭を突っ込んだ。そして顔を下へ向けた。

 

「泣いて許しを請え。そうしたら出してやる」

 

 顔を下に向けても問題はなかった。そしてそのことに少しだけ安堵した。もしここで吐いてしまったら、『下』にいるのだろう女子高生にかかってしまう恐れがあったから。それはさすがにあんまりだし、物証にもなりかねない。リスクの高い実験だったが、何も問題はなかった。と思いきや──

 

『一つ、ご忠告申し上げましょう。今年、貴方の人生は節目にあります。貴方が選ぶ道によっては、貴方の未来は閉ざされてしまうやもしれません』

 

 こんなセリフが唐突に頭に浮かんだ。自分のものではない声で。目を開けているのに夢を見ているような、そんな意味不明な鮮明さで脳裏に言葉が響いた。そしてその意味を理解できてしまった。行き止まりの道路標識を見るように、瞬時に、反射的に。物的なまでの速度でもって、言葉の意味を理解してしまった。

 

 たった今、未来は閉ざされた。誰もがそうであるように、やってからそれと気付いた。落ちて気付く愚かさ──

 

(うっ……!)

 

 テレビに頭を入れたその状態のままで、急激な不快感が胃の辺りから襲ってきた。思わず腰が折れ曲がり、膝が笑ってバランスが崩れた。このテレビは小さいが、自分の体格は女子高生と大差がない。下手をすると自分も落ちてしまいかねない。

 

「ぐ……!」

 

 歯を食いしばって、胃の痛みに耐えた。そしてテレビのフレームに置いていた右手を、ある限りの力で押した。上半身の力だけで無理矢理に頭を抜いて、その勢いで数歩下がってしまった。

 

(な……なーんてな……!)

 

 そう言いたかった。しかし体の中から襲い来る何者かが、声を出すことを許さなかった。その何者かが口からはみ出ようとするのを、両手を使って全力で抑え込まねばならなかったから。こんな戦いは生まれて初めてだ。受験戦争、公務員試験、本庁での出世競争など、争い事の続いた人生だったが、これほど苦しいのはかつてなかった。

 

(うぐ……)

 

 喉を鳴らして、襲ってきた何者かを飲み込んだ。軟らかい鉄を飲み込むような、何か矛盾した嫌な感触だったが、耐えた。我慢した。

 

「ふう……」

 

 ため息が漏れた。体感的には果てしなく、しかし時間にすれば僅か数秒で戦いは終わった。自分は勝利した。勝利したはずだった。保護室の床はもちろんスーツとワイシャツも汚れていないのが、その証拠だ。そして勝ったからには長居は無用だ。波紋の消えたテレビに背を向けて、さっさと部屋から出ることにした。しかし──

 

(ん?)

 

 ドアノブに手をかけた途端、違和感を覚えた。ノブが少し湿っている。回すのを一旦やめて自分の右手を見てみると、そこには液体物が付着していた。ドアノブが湿っていたのではなく、自分の手が濡れていたのだ。

 

「……クソだな」

 

 主語を抜かして呟いてしまった。だが問題はない。言う必要がないから抜かしただけだ。何がクソなのか、言わなくても分かっている。クソなのは──

 

「……」

 

 敢えて言うまでもない。考えるまでもない、どうでもいい話だ。左手でズボンのポケットからハンカチを取り出して、右手を拭いた。ついでにドアノブも拭いて、それから部屋を出た。部屋の外は、女子高生を連れてきた時と何も変わらない、ただの廊下だった。崖から落ちた先に広がっていたのは、そろそろ慣れてきた稲羽署だ。つまり今までと何も変わらない、ただの現実の世界だ。

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