今から一年半ほど前、ある女神が地上に舞い降りようとしたのだが、その実体は月だった。ただしそれの化身と呼ばれた存在は、十三番目のアルカナである死神を象徴としていた。それは月そのものの特性にあるのかもしれない。月は満ち欠けを繰り返し、その周期は死と再生を暗示する。そうした多面性による為か、月を司る神は一つの神話体系で複数の神格が挙げられる場合もある。例えばギリシャ神話においては、天界、地上、冥界の各々の月を司る神が、各々異なる名で別々に存立している。
顔に十字の刻印が押された少年が、稲羽市立病院の廊下を歩いていた。少年である。太陽を象徴とするペルソナを持たない少年、皆月翔だ。普段外出する時はミナヅキに体の主導権を譲っているのだが、今日は皆月が表に出ていた。ただし表情はない。
「……」
皆月は感情の振り幅が大きい。顔は怒りか笑いの形を作っているのが大半で、言葉はほとんど常に荒い。しかし今はすっかり落ち着いている。本来は端正な顔を傷以上に損なっている、歪みは浮かんでいない。もし皆月とミナヅキを知る者が見れば、二人のどちらが出ているのか判別しづらいくらいだ。
『翔、ペルソナの欠片は拾い終えた。もうここに用はないはずだ』
「……」
心の中からミナヅキが声をかけても、皆月は答えない。リノリウムの床を黙って歩く。時刻は夕方から夜に差し掛かっている。今日の面会時間は終わりが近く、廊下の灯りは量を減らしている。
(病院……か)
皆月は長い期間に渡って入院していた。それはこの病院ではないが、連想はさせる。
父と呼んだこともある男に育てられ、皆月は常人にはない力を与えられた。しかしその力の種類は、『父』が期待していたものとは違っていた。そしてある実験によって植物状態に陥ってしまったのが、十年以上前だ。実験を行った当時身を置いていた場所は、今いるこの建物と少し似た雰囲気があった。白い壁、白い床、白衣を着た人間──
やがて皆月はある病室の前に辿り着いた。扉の脇にかけられたネームプレートには『小沢結実』と書かれている。会ったことはないが、知っている名前ではある。
(この女もペルソナを手に入れたわけか)
皆月はシャドウワーカーの本部と支部、そして特別捜査隊の動きをほぼ全て把握している。眼前の扉の向こうにいる少女が、新たに目覚めたことも知っている。自分はどうしても手に入れられなかった、夢のような力を我が物にしたのだ。
(何でなんだ……何であんな奴らにばっかりできて、僕にはできねえんだ……)
創面に小さな歪みが浮かび、両の拳を固く握った。濃い緑のシャツの下にある胸や背中から熱が生まれる。袖をまくった腕の筋肉が張る。体の中から湧き出る力の量は尋常なものではない。人間の頭蓋骨でも握り潰せるし、シャドウでも素手で殺せる。今は持っていないが愛用の刀を振るえば、ペルソナ使いたちも大半は軽く蹴散らせる。特捜隊や稲羽支部なら、一分もかけずに皆殺しにできる。経験豊富な本部の者たちが相手でも、一対一なら負けない自信がある。ただ一人を除いて。
『もうじき有里が来るぞ。すぐにここを離れるべきだ』
「ちっ……」
勝てない唯一の男の名を心の中から告げられた。皆月の顔の歪みが大きくなり、小さく舌打ちした。
『翔、焦るな。有里を倒す方法はあるんだ。今は時期を待つべきだ』
「分かってるよ……何度も言うんじゃねえ」
体を共有している存在に小声で答えて、皆月は気持ちを切り替えた。だが立ち去る前にもう一度病室の扉を見る。
(てめえら、運がなかったな……)
皆月が狙っているのは有里だ。広く考えてもシャドウワーカー本部までで、稲羽支部や特捜隊にこれと言った思い入れはない。馬鹿な素人どもと思いはするし、妬みもある。だがそれだけだ。戦う機会があるなら戦いたいが、それはいわば趣味のようなもので、抜きがたい憎悪を感じてはいない。刺身で言えばツマに過ぎない。
ただ一ヶ月ほど前から始めた計画を実行に移す時には、彼らも死ぬことになるだろうと、皆月は思っている。憎い相手ではないが、憎くないことは死なせたくないこととイコールではない。稲羽支部や特捜隊の面々が死んでも、皆月は何とも思わない。力に目覚めることそれ自体が、世にも稀な不運に見舞われたと言ってよいものだから。全てはそこに端を発しているのであって、死に至るのはただの結果。皆月はそう考える。よって計画に巻き込まれて死ぬ人間が何人いようと、一向に構わない。皆月は有里以外の他人の生死に、そもそも関心がない。
関心を抱くのは、これから──
「あら、貴方……」
「!?」
後ろから突然声をかけられて、皆月は体を震わせた。『ビクッ』と擬音を発するくらいに。皆月は実戦においては、背中にも目がついているように動ける。だがこの時は『なぜか』気付かなかった。内心の思いに気を取られていたからか。それとも声をかけてきた者が、余程の達人であるのか。それとも何かの宿命によるものか。何にせよ、不覚だった。
「結実ちゃんのお友達?」
「いや……違う」
振り返った時には、現実の時刻に合わせるように太陽は沈んで、月が昇っていた。冷ややかな表情には、驚愕は痕跡も残っていない。ミナヅキに入れ替わったのだ。
「あら、そうなの……」
現れたのは喪服を着て杖をついた老婦人、黒田ひさ乃である。
「ごめんなさいね。でもちょっと、お話しさせてもらってもいいかしら?」
ひさ乃とミナヅキたちは知り合いではない。しかし町を歩けば、知り合いでない相手から話しかけられることは往々にしてある。八十稲羽は人間同士の距離感が近いのだ。片方がそっとしておこうと思っても、もう片方が勝手に近づいてくることはままある。ひさ乃はそうした傾向が強い方だった。足立に煮物を送っていた老女のように。
しかし足立が縁を切った相手ほど、ひさ乃は多弁ではない。
「あなた……どうしてそんな格好してるのかしら?」
むしろ何の説明もなく死神を自称するなど、言葉は少ない方だ。
「……」
一見すると意味不明な質問に、ミナヅキは答えなかった。ひさ乃が何を言わんとしているのか、理解できないわけではない。分かっているのだが、何も答えない。表情も作らない。地を這う者たちがどんなに恋焦がれても応えない、天上の月のように。体温を持たない冷たい機械のように、ミナヅキは自分に触れようと近づく者を拒む。
そうやってミナヅキが黙っている間に、次の人間が結実の病室の前にやって来た。清掃員の制服を着た少年だ。
「あら、悠ちゃん」
「どうも」
少年は帽子のつばを上げて老婦人に目を見せた。昨日に引き続いて、病院の清掃アルバイトに来た悠だ。もっともアルバイトは口実のようなもので、病室にいる少女に会いに来たのが本当の目的である。昨日にいわゆる『特別な関係』になった際、今日も来ると約束してしまったから、来ない選択肢は初めからなかった。
死が取り持った絆は強固なのである。そして今日、ひさ乃は結実に続いてもう一人を悠と引き合わせた。
「こちらは鳴上悠ちゃんよ」
皆月翔とミナヅキショウ。太陽と月を象徴とする二人のいずれとも、悠はこれまで会ったことがない。実はジュネスですれ違ったことはあったのだが、それだけだ。誰かさんが言うところの『こちらが覗くのを待つまでもなく、向こうから覗いてくる真実』と、悠は初めて顔を合わせたのだ。立ち去ろうとするミナヅキを、ひさ乃が引き留めた為に。
「よろしく」
悠は再び帽子のつばに手を当てて、簡単に挨拶した。対するミナヅキは視線を悠に注ぎながらも、依然として沈黙を続けている。
「……」
(こいつ……?)
一言も喋らない『少年』に、やがて悠も不審を覚え始めた。世の中に愛想の悪い人間は大勢いるが、この『少年』は取り分けそうだ。顔の中央にある十字の傷と相まって、人を寄せ付けない雰囲気がある。
(……そっとしておこうかな)
恩師を失って以降、悠は面倒くさがりを返上した。しかし治ったつもりの病気がぶり返すように、昔の悪癖が頭をよぎった。これ以上踏み込むのを躊躇ってしまう。しかし──
「あなたのお名前は?」
悠が引き返す前に、縁結びの死神が一歩踏み込んだ。その踏み込み方は、決して強いるようなものではなかった。顔を覆う黒いベールから透けて見えるひさ乃の目は、飽くまで優しい。そんなものがあればだが、有無を言わせない優しさとでも言おうか。すると『少年』は老婦人を一瞥し、再び愚者の少年に戻す。
「俺は……」
月の存在は口を開いた。しかし言葉を一度止めて、目を閉じた。
悠はミナヅキを知らないが、ミナヅキはマヨナカテレビで何度も見ているので悠を知っている。多少は興味もある。ただしその興味は悠本人に対してのものではない。霧の向こうから悠を支援していると思われる、超常の存在との関係においてだ。
(この男とここで出会うとは……奇しき縁と言うべきか)
長い沈黙の後、ミナヅキはゆっくりと瞼を上げた。刻まれた十字架の隙間から覗き見るように、観察の視線を眼前の少年に送る。ミナヅキは当初、悠を拒絶しようとして、悠もミナヅキを拒絶しようとした。だが二人がそうする前に、ひさ乃が縁を結んでしまった。
そっとしておくことができなかった二人の間で、時間が停止した。
『我は汝、汝は我……』
悠の脳裏で、謎の存在である『我』が新たなコミュニティの発生を告げた。アルカナは死神。人生を象徴するタロットの大アルカナの、分岐点に置かれたカードだ。アルカナの名前は不吉だが、必ずしも悪い意味ではない。寓意画に描かれる髑髏はタロットの最初のカードである愚者と同一人物とされることもある、非常に重要なカードだ。タロット占いについては本で少々かじった程度の知識しかない悠も、それくらいは知っている。
そしてコミュニティの担い手は──
(えっ……と、ひさ乃さんじゃないよな。こいつだよな)
「ミナヅキだ」
時間の流れが元通りになると、『少年』は自分の名を二人の他人に教えた。
(水無月……かな?)
「失礼する」
死の担い手は自分の名前だけ教えて、それで話は終わった。ミナヅキは踵を返し、悠とひさ乃に背を向けた。腰に巻いた上着が揺れ、床を踏む靴音が鮮やかに響く。その音が聞こえなくなってから、悠は口を開いた。
「何か……不思議な雰囲気でしたね、彼」
「彼……? 誰のことを言っているのかしら?」
だがひさ乃の反応は、調子が少し外れていた。
「誰って……今の人ですよ」
「ああ、今の……」
ひさ乃は悠から一度目を離し、ミナヅキが立ち去った廊下の側へ視線を送る。数秒そちらを見た後で、悠に戻す。
「あの人は女よ」
「は?」
意味が分からなかった。ミナヅキと名乗ったあの少年は、どこから見ても男にしか見えない。自分を『俺』と呼んでいたし、顔や声も男のそれだった。もちろん体格も。スポーツか武道か、何の種類の運動をしているのかは知らないが、相当に鍛えられた男の肉体の持ち主であることが服の上からでも分かった。
「ふふ、若い子には分かんないかしらね……」
しかしひさ乃はベールの下の目を優しく細めるだけで、意味を若者に説明はしない。この世にはいくら言葉を尽くしても、説明しきれない事柄はある。
「今の人のこと、気にかけてあげてくれないかしら?」
説明しないまま、話題を少し変えてきた。
「この年まで生きてるとね……色んな人を見るのよ。今の、ミナヅキさん? ああいう人は、昔よく見かけたわ。夫を失って、幼い子供を抱えた母親……そんな感じね」
「母親……ですか」
「そう」
悠は依然として理解できなかった。ミナヅキが女であるとは思えないし、まして『母親』などと言われても、正直反応に困るところだ。百歩譲ってミナヅキが男装趣味のある女だとしても、子供を持つような年には全く見えない。
「貴方には何かお願いしてばかりで、ごめんなさいね。でも、今日でお終いだから……」
「お終い……なんですか?」
「ええ、娘の所に行くの」
ひさ乃は自分の身の上を簡単に話し始めた。長年連れ添った夫を、少し前にこの病院で亡くしたのだ。それで娘夫婦と同居する為、稲羽を去るつもりでいるとのことだった。夫との思い出が良くも悪くもたくさん詰まった故郷を去るのは惜しいが、もう決めたらしい。つまり悠と会う機会は、もうないであろうということだ。
「じゃあ……さようなら。元気でね」
喪服姿の老婦人は優しく微笑んで去っていった。誰にでも優しく接する人として、心の深い所をほとんど見せないままに、ごく短い付き合いの少年と別れた。去りゆく腰の曲がった後姿を見て、悠は思う。
(コミュにならなかったな……)
悠はひさ乃との間に、密かにコミュニティを期待していた。しかし『我』の宣告がないままに、別れの時を迎えてしまった。なぜこうなったのか?
その要因は、病室の扉の向こうにいる父親を『殺した』少女だ。もちろん実際には、結実は父親を殺してはいない。誰かの死を望んで本当に死んだからと言って、望んだ人が殺したわけではない。それは考えるまでもない、当然の話である。しかし人は時に、自明の理さえ見えなくなる。
今日のひさ乃は詳しく語らなかったが、亡き夫は認知症を患っていたのだ。夫は日々過去を失ってゆき、三年前にはとうとう妻のことまで忘れてしまい、ひさ乃はそれを恨んだ。そんな夫の死んだ後、妻は自分を死神とみなすようになった。恨んで、死を望んで、そして死んだから。しかし自分と同じことを言う少女と出会って、それは違うと諭したのだ。願望で人は殺せないと。
他人は自分を映す鏡だ。結実を諭すと共に、ひさ乃は自分自身に対する認識を自分で改めてしまった。結果的に『本来あるべき』死の絆は、主たる愚者と結ばれる前に担い手がその資格を自ら手放してしまった。そうして宙に浮いた絆は、ひさ乃からまるで譲られるようにしてミナヅキへと移ってしまった。
死の絆を担った者と担うはずだった者が立ち去って数分後。ミナヅキが接近を察知した危険な男が、稲羽市立病院にやって来た。シャドウワーカー本部の副隊長で、当代最強のペルソナ使いである有里だ。ただし一人ではない。稲羽支部の副支部長で、新進気鋭のペルソナ使いである足立を伴っている。
「彼女、参加してくれるかなあ? お父さんを亡くしたばっかりだってのに」
二人が話しているのは、先日シャドウに襲われた結実を稲羽支部に加入させる件である。結実は有里たちに特殊部隊への参加を誘われているのだが、返事はまだしていない。
「仰る通りですが、今のままではかえって危険です。最低限、訓練だけは受けてもらって力を安定させる必要があります」
これは一応本当である。新たに目覚めたペルソナ使いに何の手当てもせず、放置しておくのは危険が大きい。特に結実は被害に遭った13日未明、召喚器も使わず、暴走させる形でペルソナを召喚した。今のままでは次の霧の日辺りに、ペルソナが結実自身に危害を加える可能性もないとは言えない。その為、結実をポートアイランドへ連れていくことに関して、シャドウワーカーの内部では既に合意を取っている。
よって加入に向けて残る問題は本人の意思だけである。だが有里は結実の勧誘に、ある成算を見出していた。
(決め手は金かな……)
生臭い話だが、事実である。桐条グループの裏の手を使って調べたところ、小沢家には経済的な問題があることが分かっている。その点、シャドウワーカーは任務の特殊性から、隊員への報酬には相当額を積んでいる。高校生のアルバイトやシングルマザーの稼ぎなど遥かに超える額を出せるのだ。もちろん札束で頬を叩くような、下世話なやり方をするつもりはない。清濁併せ呑める大人はともかく、高校生相手には有効な手法ではない。だが物は言いなし、事は聞きなしである。突破口が見えているなら、そこを上手に攻めてやれば良いだけだ。話の進め方くらい、有里にはいくらでも思い付く。
腹の内に色々なものを持っている二人は、やがて目的の病室の前まで辿り着いた。しかし入ろうとしたところで、足立は扉が閉めきられていないのに気付いた。
「ん? 誰か来てるみたい……」
「あれは……鳴上君?」
壁と扉の隙間から、部屋の中の様子が少し伺えた。二人の人間がベッドに並んで腰かけているようだった。姿だけでなく、話し声も部屋の外まで届けられてきた。
「ねえ、今度の夏祭り、一緒に回らない?」
結実は体調の面では元より特に問題はない。13日から入院が五日も続いているのは、精神的な問題からだ。言うなれば、父の死によって無気力症状態に陥っていたわけだ。しかし漏れ聞こえてくる声に憂鬱の影は伺えない。
「ああ、いいよ……っと、ごめん。明後日は陽介たちと約束してるんだった」
「お祭り、二日続けてやるよ?」
「じゃあ明々後日に行こうか」
話の内容はデートの約束のようだった。青春そのものである。大人の二人は顔を見合わせ、互いに苦笑する。
「ちょっと待とうか」
「そうですね」
有里と足立は病室の前から移動した。廊下を曲がった先にある長椅子に、二人並んで腰掛けた。
「大丈夫かな、彼……君の轍を踏んだりしないかな」
「はて……何のことでしょうか?」
「責任って奴さ」
足立はにやりと笑った。意図して作った嫌らしい悪人顔を、妻帯者の未成年に見せる。
「ジュネスで買っているなら大丈夫でしょう」
二人が言っているのは、先月12日に堂島宅で食事をした時に話した有里の身の上話と悠の交友関係についてだ。有里は高校を卒業した直後にアイギスと籍を入れた。有里自身は望んでそうしたのだが、世間から見れば違う解釈も可能である。何しろアイギスは妊娠中だから。
普通の高校生であれば、どうしても責任を取らざるを得なくなる問答無用の既成事実の発生を回避する手段を講じるのは、やはり必要である。そして回避するのに有効な物品はジュネスで手に入る。それを買っておくようにと、足立は悠に勧めている。
「近頃の若い者はって、よく言われるけどさ……まさにこのことだよね」
年寄りくさいことを言いながら、現職の刑事は再び笑う。ただし嫌らしさを顔から抜いて、朗らかに。それは子供が砂場や野原で遊ぶのを眺めて微笑むような笑顔だった。それを見て、妻帯者の未成年は話題を少し変えた。
「足立さんは、学生の頃はどのようにお過ごしでしたか?」
「僕? んー……勉強ばっかだったなあ」
淡々と語った話によると、通っていた高校はそれなりに進学校で、成績が全てだった。それさえ良ければ親も何も言わなかった。そんな生活だったらしい。
「でも今にして思うと、あの頃は良かったな……頑張ればその分、報われたしさ。君のことだから知ってると思うけど、警察って結構酷いからねえ。仲間内で足引っ張り合ったり、責任押し付け合ったり、そんなんばっかだよ」
勉強さえできればそれで良いのは、学校の中だけだ。社会に出れば当然勝手が異なる。足立は大学を卒業して警察官になってからは、試験よりも過酷な争いに身を投じた。そしてその結果は敗北だった。稲羽に都落ちした経緯を思い出して、足立はため息を吐いた。しかし直後にまた笑顔を取り戻す。
「けどまあ、最近は結構楽しいかな? 僕にもやれることがあるって感じ?」
いささか恥ずかしいセリフだが、これは本音である。足立にやれることと言えば、ペルソナ使いとしてできることだ。4月30日に目覚めて以来、足立はシャドウに襲われた者たちを何人も助けている。もちろん足立一人の功績ではないが、支部の中では足立が挙げた戦果は最も高い。特に始めの時は、足立がいなければ堂島と黒沢は確実に命か心を失っていた。
「ま、その分責任も増えたなって気もするけど……」
そう言って、足立は再びため息を吐いた。
「足立さん、僕は思うのですが……」
悩む素振りを見せる年上の後輩に、年下の先輩は語り始めた。
「責任とは客観的に自分に帰する責任のうち、取れる分だけ取ればいいんです」
有里は足立を案じている。何を案じているかと言えば色々あるのだが、その最たるものは自分が担い手になっている審判の絆が象徴するものだ。負傷者を治療する為、有里は稲羽でメサイアと呼ばれるペルソナを何度か使っているが、あれは審判のアルカナの最奥に位置し、全てのペルソナの中でも屈指の実力を持つものだ。そしてかつて有里が背負った宿命を暗示するものでもある。
それは救世主の宿命だ。何かの為に犠牲になり、十字架にかけられることだ。無限大の責任を負うことを強いられる、究極の不条理だ。
「この町で何が起きているのか……本当のところは、僕にもまだ分かりません。でもこの町は、きっと貴方を必要としています」
これは6月に黒沢が堂島に言ったことである。黒沢はその件を有里に報告していないが、奇しくも有里は黒沢と同じことを言っている。
「買いかぶりだよ。僕はそんな大層な人間じゃないって」
そして足立の返答も堂島と同じだった。
「僕はただ、僕にできることをするだけだよ」
対する有里はもう一歩踏み込んだ。
「ええ。自分にできることをやってくだされば、それで結構なんです。その過程で、何かの選択を迫られても……どんな選択をしても、間違ってはいないはずなんです。その選択の責任を、取れる分だけ取れば」
「そうだねえ……」
足立は考えてみた。足立が背負っている責任と言えば、二人の人間を殺した罪だ。だが罪とは何であろうか?
(山野と早紀さん……)
長椅子に浅く座り直して壁に頭を当て、天井を仰ぐ。死んだ二人の顔を思い浮かべてみるが、それに痛みを覚えはしない。いつか真相が明らかになる日が来るとも思っていない。警察の捜査線には上がっていないし、シャドウワーカーにも疑われていない。証拠の類もない。そもそもシャドウやペルソナが絡んだ事案は、法律で裁けるような代物ではない。
裁かれない罪は罪ではない。法的な意味では。ではそれ以外の意味ではどうだろうか?
(真面目な話、僕の罪や責任って何だろうね?)
罪とは何か。罪悪感や良心の呵責のことであるならば、足立に罪はないことになる。心神喪失にある者は罪に問われないように。先月尚紀が言っていたように、早紀は言葉も喋れない化物に殺された。即ち心を持たない足立透に──
「……」
足立は顎を引いて、視線を天井から床に落とした。そして目を閉じ、外界の雑音を遮る。ないはずの心に、何かの感覚が『なぜか』走って苦しくなってしまった。
「……」
「……」
思考が動こうとするのを、足立は瞑目でもって引き留めて、静かに自分を抑えた。己を省みようとする意識がないはずの心を呼び起こすのを、何も考えずにいることで制した。有里も黙った。どこか不吉な静寂が覆う夜の病院の廊下で、二人の大人は沈黙を積み重ねた。
その高さが天井に届いて跳ね返り、床へと向けて零れ落ち始めた頃。廊下の角にいた一人の少年が、降り注ぐ沈黙を浴びて自分の爪先を見た。
(責任……)
結実の病室から出てきた悠である。知り合い同士の話し声がするのに気付いて近づいてみたものの、会話の内容に足を止められていたのだ。それは脈絡の見えない話だったが、用いられていた単語に引っ掛かりを覚えた。以前イゴールに言われたことを思い出させたのだ。
『契約』に従い、自分の選択に相応の責任を持つこと。ベルベットルームを使用する対価として支払う、唯一のものだ。あの鼻の長い怪人の言葉を思い出したのは、随分と久しぶりである。しかし最近の悠は、自分の責任というものを意識し始めていた。殺人事件を追う特捜隊のリーダーとして、背負わねばならない責任。それは人生を投げ打つ覚悟を要するもの──
(俺は……)
戦いを始めた当初に抱いていた遊び気分は、もう捨てた。それでいながら、諸岡の復讐は遂げることができない。では何の為に戦うのか。戦いにおいて何の責任を取るのか。漏れ聞いた大人の会話を契機として、悠は自分を省みることを始めた。
「あ、鳴上君。お疲れさん」
しかし自分の心を見つめる内省は、外から届けられた声で遮られた。いつの間にか足立は長椅子から立ち上がっていて、声をかけてきたのだ。有里も立ち上がっている。
「どうも、お疲れ様です」
悠は内省を打ち切って、帽子のつばに手をかけた。道化師と審判のコミュニティの担い手に型通りの挨拶を送る。
「堂島さんから聞いてるよ。君、最近バイト色々やってるんだってね」
足立は普段通りの、へらりと擬音を発しそうな笑顔でいる。
「ええ……お二人はどうしてこちらに?」
「ん……ちょっと野暮用でね」
言いながら、足立は病室に視線を送った。悠が出てきた部屋である。悠も釣られて振り返る。病室の引き戸は閉められているが、その向こうには特別な関係になった人がいる。
「小沢に……? まさか、何か事件関係なんですか?」
高校生の脳裏に、はたと閃くものがあった。今日の悠は結実に会いに病院に来たのだが、結実がなぜ入院しているのか、詳しい話は聞いていない。だが刑事と警察の協力者が来たということは、何かの事件に関わっているのか。そんな不安が襲ってきた。
結実は普通のテレビとマヨナカテレビのいずれにも映っていないので、山野と早紀の殺人事件とは関係ないはずだ。しかし稲羽は小さな田舎町であるとはいえ、刑事の仕事はそればかりではないだろう。例えば結実は昨日に『父を殺した』と言っていた。悠は笑い事ではないと咎めたが、実は──
「父親が先日亡くなったそうですが……」
「ん? そうらしいけど……ああ、彼女のお父さんが亡くなったのは、普通に病気だよ。事件じゃないから安心して。最近、病院に若い子が担ぎ込まれることが多くてさ。ちょっと話を聞いてるんだよ」
勝手に考えを巡らせて勝手に心配する悠を、足立は宥めた。実際のところ、結実の父の死因は長年の過労と不摂生が祟ったものだ。医師の証言も得ているので、そこに事件性は見出されていない。
「それより君……バイトサボってた?」
足立は再び結実の病室を見て、それから悠を見る。年頃の少女が一人で入院している個室と、清掃員として働いている、やはり年頃の少年。言葉以上に視線の動きでもって、足立は何かを伝えようとしている。
「いや、いいんだよ? 全然構わない。君ってモテそうな感じだし、若いんだからむしろドンドンやるべきだ」
モテそうというのはお世辞である。これは前振りのようなもので、言いたいことはこの次だ。
「でも火遊びはよした方がいいよ」
足立は悠の交友関係をある程度知っている。主な情報源はマヨナカテレビだが、とにかく知っている。つまり足立の言葉を意訳するとこうなるわけだ。
『彼女と付き合うって言うんなら、好きにすればいいよ。でもそれだったら、君を大好きな赤い子と緑の子。あとピンクのアイドルもかな? ちゃんと清算しときなさいよ』
「……真摯に聞いておきます」
悠は帽子のつばを下ろし、目を隠した。ついでに頭も一緒に下げた。
「仕事がありますんで、失礼します」
そうして青春の只中にある少年は、大人たちの前から去っていった。心なしか急ぎ足な少年の後姿を見て、足立は呟いた。
「話、ちゃんと伝わったかな……」
「伝わっていると期待しましょう」
足立の呟きに、有里は応じる。そして内心で一つ安堵する。
(まあ……ありがたい話だ)
有里は足立を案じているが、救世主の宿命以外にも心配の種はある。女関係だ。その点、結実と悠が良い仲になるのは歓迎なのである。やたらと男臭かったシャドウワーカー稲羽支部に初の女性メンバーが加わることになりそうなのだが、それによる人間関係の変化を有里は気にしていたから。コミュニティと呼ばれる絆を束ねる者は、知り合った異性のことごとくから好かれてしまうのだ。本人の意思はほとんど関係なく。それこそが、絆の不条理が最も顕著に表れる点である。
もちろん現代社会では恋愛は自由だが、それにも限度がある。現職の刑事が女子高生と交際するのは問題だ。私的にはともかく、公になると非常によろしくない。だが結実に恋人が別にいるのであれば、問題が発生する可能性は少なくなる。
(頑張れよ……)
もし今後に結実が足立のコミュニティの担い手になったとしても、悠がいれば何とかなる。有里はそう判断した。そして足立は悠に忠告するくらいだから、自分の女関係もきっと上手くやれる。そう期待した。
もちろん実際のところは、足立は自分が主のコミュニティは一つも築いていないのだが、それは思いもしない。稲羽に存在する絆は誰が集めているのか、有里は知らないのだ。足立ではない可能性を、考えてもいない。
愚者の先輩が気付かないでいる間に、後輩は絆を着々と集めている。救世主の絆で結ばれている二人が真実を知る日まで、未だ遠い。死の絆で結ばれた者の存在を知るのは、より遠い。