「わ、屋台が並んでる。こういうの、久しぶりかも」
長いと思っていた夏休みも残り十日となった、8月21日の日曜日。夜の時間に、悠と結実は辰姫神社で合流した。普段は虫取りをする小学生くらいしか人の気配がない、寂れた神社に今日は大勢の人間が集まっていた。神社の本殿に続く参道には金魚すくいや射的など、いくつかの屋台が出ている。今日は年に一度の夏の祭礼、その二日目である。
周囲には浴衣を着た人が多いが、結実は普段着である。白の七分丈のシャツに青のスカートというシンプルなものだ。悠もポロシャツにチノパンという装いだ。
「昨日も来てたんだよね。どうだった?」
夏祭りは昨日から行われていて、悠は初日も来ていた。ただし今日のように、誰かと二人で来たわけではない。
「大勢だったからな。賑やかだったよ」
昨日の夏祭り初日は、特別捜査隊七人が勢揃いして大いに賑やかだった。ただイベントの開始において、ひと悶着があった。
「男三、女三か……どうすっかな……」
20日の夜、提灯の赤い光が昔ながらの薄暗さを演出する中で、陽介はフランクフルトを片手に考え込んだ。かき氷を持った悠、イカ焼きを持った完二、そして手ぶらのクマの四人で輪になっている。千枝、雪子、りせの女性陣三人は、それを少し離れた位置から見守っている。ちなみに男性陣は全員普段着だが、女性陣は三人とも浴衣姿だ。普段と異なる装いが、少々大胆な気分にさせているところである。
「え、男三? 一人抜けてない?」
「は? こいつ、俺、完二でちゃんと三人だろ」
「ギャース! クマ、ナチュラルに漏れてるー!」
全員で夏祭りに来たのだが、この際だから男女一対一ずつで回ろうという話になったのだ。クマに曰く、『夏で浴衣でお祭りとくれば、異性同士が団子状態でぞろぞろ歩くなんて、もはや人として不健康』だそうである。あからさまな物言いだったが、りせを始め女性陣の賛同は『なぜか』得られた。組み合わせをどうするかは男性陣に任せるということで、相談が開始されたところである。ただし言い出したクマは、ものの数に入っていない。
(いや、これはまずい……)
大仰に喚くクマをよそに、悠は無言のプレッシャーを背中で感じていた。無言である。背後に控える三人の美少女たちは、口では何も言ってこないが視線で語っている。言葉に訳すとこんなところだ。
『あたし……』
『私……!』
『私!』
特捜隊女性陣の三人は、揃いも揃って悠に注目しているのだ。悠は目で見なくても肌で気配を感じられるほどの達人ではないが、これは分かる。修羅場の予感を、ひしひしと感じている。つい先日に結実に泣きつかれて、あいと二股をかける羽目に陥ったことが、そっち方面の感覚を鋭敏にしていた。腹の辺りに置かれたセンサーが、視線の圧力でキリキリと悲鳴を上げている。男としてモテるのは気分が良くなりそうなものだが、現実と妄想は違う。放っておくと胃に穴が空きそうだ。
これでは誰を選んでも角が立つのは避けられない。そうかと言って、一人で三人全員を持っていくのも論外である。移動する修羅場が出来上がるだけだし、そもそも悠は親友と後輩の分け前を奪うほど厚かましくはない。ならばどうするか?
蒸し暑い夏の夜の只中で、悠は考える。危機に陥った人間は考える葦となる。
(……そうだ!)
時間にすれば僅か数秒の間に、悠はこの場を切り抜ける作戦を閃いた。そして即座に実行に移す。
「クマも入れてやれよ」
「センセイ……! やっぱりセンセイは分かってくれるクマね! 夏祭りの夜、寄り添って歩く二人! 慣れない浴衣が着崩れて……!」
「じゃあどうすんだ。ジャンケンか?」
最も容易な解決策は悠が抜けることだ。だがそれはそれで別の気まずさが生まれそうであるし、女性陣が勝手に追いかけてこないとも限らない。また悠にしても、せっかくの祭りを一人で回るほど孤独を愛しているつもりはない。
「いや、もうじき菜々子が来るはずだから……」
鍵は可愛い従妹だ。つまり自分は菜々子と一緒に回り、プレッシャーをかけてくる三人娘は皆に譲る。それが悠の作戦だ。『それなら仕方ない』と女性陣を納得させ、男の仲間たちにも分配し、かつ自分も楽しめる最善の組み合わせなのだ。自分の問題解決能力を誇りたくなるレベルの、完璧な策である。
「お兄ちゃーん!」
するとタイミングを見計らったように、夏の夜に平和をもたらす天使が堂島に連れられてやって来た。やはり浴衣を着ていて、綿飴の袋を持っている。
「ナナチャン!」
ここで悠にとって、大きな誤算があった。
「あ、クマさんだー! こんばんはー!」
「ナナチャン、可愛いーよ! クマさ、ナナチャンにゾッコンラブ!」
クマは協議の輪から一足飛びに抜け出して、菜々子の前に片膝をついた。ピンク色の浴衣の袖から覗く菜々子の小さな手を、クマは両手で包み込む。何かの芝居めいた振る舞いだが、クマ自身の容貌と一向に恥ずかしがる素振りがない為か、奇妙に様になっている。
「えっと……どちらさんだ?」
堂島は胡乱な顔をしている。娘と手を取り合う金髪碧眼の少年を見たのは、これが初めてなのだ。クマはこれまで堂島宅を二度訪問しているが、いずれの時も堂島はいなかった。田舎の住人らしからぬ異邦人風の麗しい容貌が、何とはない警鐘を父親の脳裏で鳴らす。
「こ、こいつ、熊田って言うんです! うちで住み込みバイトしてて、あだ名はクマ!」
すかさず陽介がフォローを入れた。クマだ、ではない。熊田である。実際、ジュネスではその名前で通っている。ほとんど誰も呼んでいないが。
「よーし、クマはお相手決めたぜよ。ナナチャン! 一緒に回ろう!」
「うん! 行くー!」
戦いは先手必勝である。ごちゃごちゃと理屈をこねて交渉を重ねる前に、さっさと行動に移してしまうのが最も手っ取り早い。つまり行動力のある者が強い。始めから標的を絞っている者は、より強い。
「ナナチャン、そのピンクのフワフワモフモフは何クマ?」
「わたあめだよ。買ってもらったの!」
クマは菜々子の周囲を跳びはねて、菜々子は面白そうに花を綻ばせて笑う。二人の子供は師と従兄の前から、揃って去っていった。
「……」
悠が口を挟む隙はなかった。かくして可愛い従妹は謎の人外に持っていかれた。修羅場を回避する悠の作戦は、根底から崩れ去ってしまったわけである。見通しが完全に甘かったと言わざるを得ない。審判の絆の担い手は、二年前に似たような計画をいくつも立てていたのだが、何一つ実を結ばなかった。悠もその点は似たようなものである。
悩める若者たちが黙る中、この場の唯一の大人である堂島が口を開いた。頭を掻きながら。
「俺はあいつらを見張ってるわ。お前らは適当に楽しんでてくれ」
見張る。見守るではない。よもや何かのキャッチコピーのように、慣れない浴衣が着崩れるなどの事態を心配しているわけではなかろうが、とにかく一人娘と謎の少年を二人だけにしておくつもりはないようだ。はしゃぐ二人の子供から離れないように、堂島も甥とその友人たちの前から去った。
「……」
「……」
「……」
千枝、雪子、りせの三人はずっと沈黙を続けている。奇妙な気まずさが、六人になった残り物たちの間に漂う。
「え、えと……男三、女三だな!」
事態は振り出しに戻った。いや、当初と比べてより悪化したかもしれない。無言のプレッシャーは待たされた間に、より強くなっている。こうなると、もはや悠に取り得る手段は一つしかない。
「別にバラバラにならなくてもいいんじゃないか?」
「え? 相棒、今さら……」
悠は陽介に顔を向けながら、瞬きを一つした。以心伝心──
「そ、そうだな! みんなで回ろっか! な、完二もそれがいいだろ?」
さすがは相棒である。悠の目配せ一つで、陽介も状況の危うさに気付いた。元より浴衣姿に照れていて、女性陣を正視できずにいた後輩も巻き込む。
「お、俺は何でもいっすよ!」
「つ、つーわけで! みんな一緒に……な?」
「はは、そうきたか……」
「そ、そうしよっか……」
「えー、せっかく選択権譲ったのにコレ? もう……ちょっとがっかり」
そんな修羅場未遂事件があったのが、昨日の夏祭り初日だった。
悠はしみじみと、六人で回った昨晩を思い返した。ため息が出そうになるのを努力して抑える。
(落ち着かない夜だったな……クマに振り回された)
特捜隊は全員揃ってクマに翻弄されてしまった。そのせいと言うべきか、悠は今朝に女性陣三人から、祭りの二日目を二人で一緒に回ろうと電話で誘われた。しかし全て断った。理由はもちろん先約があったからだ。忙しい生活もそろそろ板についてスケジュール管理もできてきた悠は、ダブルブッキングの愚は犯さなかった。
ちなみに悠は誘いを断る理由を正直に話したわけではない。ただ『小さなお祭りだし、昨日も行ったんだから十分だよ』といった具合に、客観的な事実を述べただけである。それだけで、かの三人は納得してくれた。幸いにも。
「じゃ、お参り行こっか」
先約の主、結実は左右に屋台が並ぶ参道を歩き出した。悠を先導する形で。
繰り返すが、戦いは先手必勝である。シャドウとの戦闘だけでなく、人間関係においても同様だ。殴ったり殴られたりの泥仕合に陥る前に、問答無用の先手を打つのが最も手っ取り早い。その点、結実は上手いやり方をしたと言える。校内では意外と人気のある活発な少女、険難踏破にたとえられる高嶺の花、そして休業中のアイドルという、いずれアヤメかカキツバタがひしめいている中で一歩先んじたのだ。なぜそんなことができたのか?
それはかの三人は回りくどく側面から攻めていて、しかも互いに牽制し合っているからだ。昨日悠と二人で回りたかったのであれば、選択を男性陣に任せずに先手を打てば良かったものを、そうしなかった。男から言ってくれるのを三人が待っている間に、結実は自分から動いて悠をさらってしまった。いわば抜け駆けであるが、効果は抜群である。夏の夜のイベントにおいて、テレビの中で共に戦ってきた特捜隊女性陣は誰もできなかった悠の独占を、部外者の結実がやってのけたのだ。
参拝を終えた後、二人は屋台を回った。陽介や完二によれば、今年の夏祭りは昨年以前より人が減っているとのことだった。その要因は事件、と言うよりジュネスの進出にあるわけだが、昨日はあまり深く話さなかった。そして結実は今年の賑わいは今一つであることに、そもそも気付いている様子がない。
「あ、リンゴ飴。小さい頃、好きだったな」
長い期間に渡って、祭りに出かけることはなかったから。
「リンゴが大きいから割ろうとして、下に敷いてたお皿、割っちゃった。あん時なんか、お父さんが……」
「……」
父親がどうしたのか、結実は思い出話を途中で切った。皿を割って叱られたのか、怪我はないかと心配されたのか、詳しい説明をせずに話を終えた。いずれにしても夏祭りには父親の思い出があるのだと、悠にも察せられた。その父親は一度いなくなって、長い期間を置いて戻ってきたものの、祭りに再び来ることは叶わなかった──
「らっしゃーい! うちのは世界一うまいリンゴ飴だよ!」
しかし二人がただ感傷に浸るのを、祝祭は許しておかない。たとえ寂れていようとも、屋台の前に客がいればセールスが始まる。
「お、美人さんだねえ。福引券、サービスしとくよ!」
「福引?」
祭りに付き物のフルーツ菓子を売る主人の話によると、屋台で買い物をすると鳥居のところでくじを引けるらしい。豪華賞品から今一つな代物(正直にも、主人自らそう説明した)まで、種々取り揃えているとのことだった。
「へえ……」
結実の目が輝いた。意外にも、こうした企画が好きなようである。
「じゃあ取り敢えず、リンゴ飴食べよ。……奢りで」
「はいはい」
かくして若い二人は二つのリンゴ飴を買い、一つのお好み焼きを食べて、金魚すくいを楽しんだ。その全てで、悠が二人分の金を出した。悠はエレキベースの借金は返済済みだが、その為に夏休みに数多くこなしたアルバイトの収入は大半が飛んでいった。だから決して金銭的に余裕があるわけではないのだが、結実に頼まれると断ることはできなかった。元より流されやすい性格であるのに加えて、デートとはそういうものだから。
なお、結実は父親を亡くしてから四十九日が過ぎていないので、神社に来るのはよろしくない。しかしそうした日本の古い風習に若い二人は詳しくない。喪中は年賀の挨拶を控えることくらいは知っていても、忌中の過ごし方までは知らないし、知っていても気にしなかっただろう。古来の習わしよりデートの方が重要だ。たとえ亡き恩師が幻聴で叱責しても、聞こえない振りをした。
ほぼ全ての屋台を回り尽くし、福引券を二枚入手したところで、二人は神社の本殿の脇にある鳥居の前まで来た。
「あ、君」
しかしくじを引く前に、悠は声をかけられた。鳥居の柱に背を預けて、本を読んでいた一人の少女がいたのだ。少女は本から顔を上げ、悠と目が合った。
「マリー……」
ベルベットルームの見習いである、緑の瞳の異邦人がそこにいた。借金を作った先月17日以来の、約一ヶ月ぶりの再会だ。
あの日、悠はしばらく会わない方がいいと言われ、追う足も止められていた。その後は事件に動きがなかったので、テレビに入って戦う機会もなく、結局マリーが言った通りに長い間会わずにいてしまった。つまるところ、そっとしておいてしまったのだ。だが思いがけない時に、思いがけない場所で再会した。
もし互いに一人でいたのなら、ここから夜のデートが始まるところである。これまでマリーと出かけるのはいつも昼間だった。いつもと違う時間帯の外出は思わぬ展開を期待させるものであるから、何とはなしに浮足立ってしまうだろう。しかし今日の悠は一人ではない。連れのいる状態だ。
「どなたかしら?」
結実は笑顔でいる。切れ長の目を細めて、流麗な弧を描く。笑っているのだが、笑っていない状態を作り出している。笑顔の裏に刃が隠されているような。と言うより、隠していること自体を隠していないような、何かが矛盾した雰囲気を振りまいている。さすがは部活では誰も及ぶ者のいない、本格派の女優である。器用な表情を見せる。
蒸し暑い熱帯夜に一陣の風が吹いた。愚者の少年と、表は太陽で裏は隠者の少女。そしていかなる言葉で表すべきか、本人も知らない少女。三人を結ぶ三角形の空間に何かが張り詰めてゆく。どこかであったような状況である。
(あれは確か、6月に……)
6月11日、マリーをジュネスに連れていった時だ。あの日、永劫の絆で結ばれた二人組は千枝と雪子、そして陽介と遭遇した。当時はまだ絆が極まっていなかった二人の少女の間で、修羅場未遂事件が持ち上がったのだ。その時は硬質化した雰囲気をマリーが打ち消してくれたが、今日はマリー自身が当事者になっている。
「……誰でもいいよ」
長い間を置いて、マリーは答えた。愛想は欠片もない。ジュネスでは名乗ったが、今日は仮の名前も名乗らない。名乗る代わりに、アームカバーに包まれた腕を悠に向けて伸ばした。
「あげる」
マリーが先ほどまで読んでいた一冊の本だ。悠が受け取ると、マリーはすぐに手を引っ込めた。
「さっきくじ引いたら当たったの。でも読んでみたら、知ってる話ばかりだった。何でか分かんないけど……」
「……ありがとう」
場の雰囲気にそぐわない礼の言葉を、悠は述べた。するとマリーは歩き出した。
「帰る」
「……」
送ろう、と悠は言いかけた。一瞬、喉まで出かかった。しかし自分のすぐ隣に結実がいるので、何とか言葉を飲み込んだ。
そっとしておいても何も良いことはないのが世の常だ。しかしそっとしておかない方が、悪い結果をもたらすこともある。女といる時に他の女に構うのは、考えうる限りで最低の悪手というものだ。そっとしておいた方が、まだ被害が少なくて済む。
「鳴上君って、人気者なんだね」
緑の瞳の少女が立ち去ってから、もう一人の少女が後ろから声をかけてきた。その声色は普段通りである。不自然なくらいに普段通りだ。つまり害の少ない事態であるわけだが、それでもいい雰囲気であるわけではない。
「……怒ってるのか?」
悠は首だけ回して尋ねた。何とか努力して普段通りの声を出そうとして、失敗したことを悟りながら。
「怒ってない」
人付き合いにおいては、言われた言葉をそのまま受け取ってはいけない場合がある。鈍感でも朴念仁でもない悠は、注意報が鳴らされているのに気付いた。何ともまずい状況である。
「じゃ、くじ引こっか」
危険な雰囲気をそのままにして、二人は鳥居まで来た本来の目的をようやく果たすことになった。聖なる空間と俗なる空間を別つ境界を越えると、くじ引きの係と思しき男性がいた。神職ではなく、商店街のどこかの店の人という風情だ。二枚の福引券を渡すと、くじの入った箱を持ってきた。
「ほいほい、目をつぶって引いてごらん」
悠と結実は言われた通りに目を閉じて、一度ずつ引いた。すると──
「おっと来た! お嬢ちゃん、一等だよ!」
「わ、やった!」
結実はしばらく不幸続きだった反動が出たのか、一発で大当たりを引いた。思わず両手を叩いて、不機嫌な雰囲気は急激に入れ替わった。ちなみに悠は外れだった。
「はい、商品だ」
係の人が持ってきたのは、何と米俵だ。一抱え以上の大きさがある。
「うっそ、いいの!? 超嬉しい!」
「そっちの彼氏に持って帰ってもらいな」
「最近、節約ばっかりだったから……ホント嬉しい」
結実は笑顔でいる。先ほどの普段通りの様子に隠した怒りは、目を凝らしても見えないくらいに奥へと引っ込んだ。演劇部に入った4月25日、太陽の絆を呼び起こした小動物を連想させる愛らしい笑顔だ。
「鳴上君、持ってってくれるよね?」
「……」
しかし光を放つ笑顔がいかに魅力的であろうと、人にはできることとできないことがある。何しろ米俵は重さが六十キロはあるのだ。ジュネスで売っている米袋は最も大きいものでも十キロなので、悠一人でも何とかなる。しかしこれは限度を超えている。
「知ってる? これを持ち運びできるのが一人前の男なんだって」
年齢とは別に、男が成人として認められる為に受けなければならない通過儀礼の風習は、世界の各地にある。昔の日本では、米俵一俵を一人で持てるようになって一人前とする風習は、確かにあった。悠の知り合いの中では、堂島や完二、他にも長瀬ならこれくらい持てるかもしれない。しかし体力に特別自信がある方ではない、悠では無理だ。何しろテレビの中と違って、現実ではペルソナの恩恵は受けられないのだから。受けられないと、悠は『思っている』から。
「ね?」
しかしこの米俵は、できるできないの問題ではない。結実の笑顔の中に断る選択肢は用意されていない。なぜかと言えば、マリーと遭遇してしまったからだ。あれを許してほしければ、荷物持ちの労働をしろというわけだ。言葉にしなくても、表情だけでそう言っている。言っているのが、悠にも分かる。
結実は異性と交際するのは初めてなのだが、生来の才能なのか男女の駆け引きは演劇で学んでいるからか、とにかく役者は悠より上である。
「分かった……」
力仕事は男の領分。林間学校の時、結実はそう言って、大きなブラウン管テレビを男三人が運ぶのを励ますだけだった。かくして悠は肉体労働をする羽目になった。ただ林間学校と違って、神社から結実の自宅に至るまでの道は平坦だったことと、台車を貸してもらえたのが幸いだった。
初デートをした二人は神社を出て、商店街の通りを歩いた。結実が先を行き、悠は台車を押しながらついて行った。演劇部では練達の結実が指導して素人の悠は指導される側だったが、絆を育む場が部活から町中に移っても、二人の基本的な立場に変化はない。そうして少女が少年を先導する中で、重大な話が突然始まった。
「私、部活やめようと思ってるんだ」
「なぜ?」
悠は足を止めた。道路のアスファルトを台車の車輪で削るのをやめると、町並みから音が消えた。夏の暑さが空から下りてきて、悠の肌に汗を感じさせる。
「前にも話したかな……」
結実も足を止めた。だが悠の側を振り返りはせず、前を向いたまま話を始めた。
「演じてる時は、何て言うか……その役の人生を生きてるみたいな気になるの。自分じゃない……小沢結実なんかじゃない……違う人生を生きられる……」
「それが演劇をやってた理由?」
少女は頷いた。依然として前を向いて、少年を見ないまま。
「でももしかしたら……本当に違う人生があるかもしれない……」
演技を得意とする少女は、夏の夜空を見上げた。そこに女優を照らすスポットライトはない。舞台映えする衣装もない。しかし役はある。虚構のようでありながら、限りなく現実に近い舞台があるのだ。ただ一歩踏み出すだけで夢想から現実に転化する『役』を、結実は見出している。
それは現実以上に現実であるものだ。世間は誰も知らないが、知ってしまったら最後、誰も逃れられないもの。目を背けても存在し続けるもの。即ち世界の真実──
「明日から私、ちょっと遠くへ出かけるの。戻ってきた時には、今までと違う私になってるかもよ?」
ここでようやく結実は振り返った。真実を見ていた目は、現実にいる少年へと向けられた。
「どこへ行くんだ?」
「遠くよ」
結実は笑った。男に隠し事をしていることを隠さずにいて、それでいながら男に踏み込ませない、女の笑みだ。
「必ず戻ってくるから……待っててね」
「……そうか」
笑顔の裏に隠されているものに、悠は踏み込めなかった。臆病な面倒くさがりを返上しても、それでも踏み込めない。意地や思い込みでは使命も宿命も変えられないように、行動力だけでは辿り着けない領域も、この世にはあるのだ。自分を省みることを始めたばかりの悠は、先月にマリーを追えなかったように、今日も結実の核心には触れられない。
「次は花火大会だね! その頃までには絶対戻ってくるからね!」
ただ次の約束をして、それが果たされる日が来るのを待つだけだ。
結実の言う『遠く』とは、もちろんポートアイランドである。三日前、結実は病院で悠と会った後に有里と足立の訪問を受け、故郷の田舎から遠い都会へ行くことを了承したのだ。そこでペルソナの訓練を受けて、召喚に成功次第、シャドウワーカー稲羽支部に参加する予定でいる。いや、予定と言うよりほぼ確定である。結実は今月の霧の日、暴走する形だがペルソナを召喚済みだ。しかも現在の稲羽支部が最も欲しい、回復の能力を持つペルソナである。その為、本人の意思さえあれば、特殊部隊への参加は確実の状態にあると言ってよい。結実はその意思を既に示している。
父が死んで以降、結実は無気力症状態に陥っていた。しかしひさ乃と出会い、そして悠との仲が進展したことで立ち直った。そして突然目の前に開かれた新たな舞台に立ってみる気になったのだ。現実以上の現実に。世間から隠された真実、即ちシャドウとペルソナ使いの戦いの場に。
ただ結実の決断には精神的な問題だけでなく、家庭の経済事情が影響していることも否定はできないだろう。米俵を大仰に喜んだことが、その証明である。
結実と米俵を送り届けてから、悠は神社に台車を返し、それから帰宅した。回り道をしたせいで時刻はすっかり遅くなった。昨日の夏祭り初日に続いて、今日も散々振り回されてしまったわけである。
おかげで疲労を覚えていたが、悠は寝る前にマリーに貰った本を調べてみた。また詩を書いた便箋が挟まっているのではないかと。6月のタロットの解説書と付録、7月のベースの教則本という前例があるから。しかし──
(ないな……)
期待は外された。最初から最後までページをめくっても便箋は見つからなかった。先月にエレキベースを買った際、マリーは悠に詩を読む許可を与えたはずだが、今日の本には挟まれていなかった。それは新作がまだできていないのか、それとも先日の伴奏しろ云々は、そもそも許可ではなかったか。はたまた結実と一緒にいたのを怒って、読ませるのをやめたのか。判断はつかなかった。
(女ってのは、よく分からんな……)
どこぞのサッカー部員が言いそうなことを考えながら、本を改めて確認した。
(THE神道……?)
随分なタイトルが示している通り、内容は日本神道に関するものだ。作者名は書いていないが、代わりに『辰姫神社監修』とある。どうやら地域振興の一環か何かのようだ。
悠は適当にページをめくり、中身を確認した。すると聞き覚えのある名前を見つけた。
(イザナギとイザナミ……そう言えば、先生が教えてくれてたな)
本には親切にも神典の原文と現代語訳が併記され、更には神話のあらすじと解説も巻末に書かれていた。古文や漢文はよく分からないが、現代語なら悠でも読める。そうして初めて日本神話を読んでみた悠は、4月に召喚したペルソナの由来について知った。6月に受けた倫理の補習でも少しは聞いているが、具体的な業績まで知ったのはこれが初めてだ。
(最初に産んだ子は流された……)
イザナギとイザナミの最初の子供は、葦の船で流された。解説によれば奇形であったと解釈可能とある。そうなった原因は、夫婦神は最初の交合では勝手が分からず、正しい手順を踏まなかったから──
(最後に産んだ子供は火の神……。イザナミはその時、火傷を負って死んでしまった……。火の神ヒノカグツチはイザナギの怒りを買って、十握剣で斬り殺された……か)
そうして妻は死に、子も死んだ。嘆き悲しんだ夫は妻を連れ戻そうと、死の国へと旅立った。しかし果たせなかった──
創造神の夫婦の神話をざっと読んだ辺りで、眠気を覚えた悠は床に就いた。