八十神高校随一の嫌われ教師だった悠の前担任は、生徒の教育そのものには熱心だった。担当する倫理の授業はもちろんだが、それ以外でも。
例えば悠は転入して二週目の時期に職員室を訪れて、入れる部活がないかと諸岡に相談したことがある。その際、諸岡は学校教育における部活動の意義について長々と演説をぶっていた。当時の悠は留まるところを知らない説教にひたすら疲れただけだったが、今となっては亡き恩師との思い出の一つである。
そして諸岡は、修学旅行においても方針決めを主導していた。これまで観光が中心だった旅行全体を見直し、地方と都会の触れ合いとして現地の私立高校との交流会を企画したのだ。交流会とは簡単に言えば、向こうの授業を受けることだ。要は遊びではなく、勉強を主とした旅行に切り替えようとしたわけである。
この企画は教員の間でも不評な案だったのだが、故人への追悼の意を込めることになったのか、今年の修学旅行は諸岡の案の通りに実行される運びとなった。しかし──
「はい、どうも初めまして。会うは別れの始め、アルファなり、オメガなり……この時間、皆さんのお相手をいたします、江戸川です。ヒヒヒ……」
諸岡の企画は肝心なところで詰めが甘かったようである。まず交流先の高校は辰巳ポートアイランドにある私立月光館学園だった。かつて特別課外活動部と呼ばれ、現在はシャドウワーカーへと名を変えた組織の構成員が数多く通っていた、いわくつきの学校である。
もっとも学校自体の不吉な過去については世間は知りようがないので、仕方がないと言えば仕方がない。しかし当の高校のどの教師から何を学ぶのか、当然やるべき事前の調査と交渉においては、十分でなかったと言わざるを得ない。と言うのも、月光館学園は個性的な教師が非常に多いのだ。特に悠たち二年二組の生徒が受けることになった特別授業を担当する教師は、群を抜いて強烈な個性を発揮していた。
「八十神高校の皆さん……メニー・ゴッド・ハイスクールですか。ほほう……」
まず風貌からして異様である。いかにも不健康そうな細い体躯をよれた白衣で覆い、印を組んだ手をデザインした黄色いシャツを着るという、なかなかの濃さだ。冒頭の挨拶で人生の真理を口にしたと思ったら、白く濁った眼鏡で隠した視線を教室に巡らせ、薄い笑みを浮かべた。
「カバラ哲学の話でも……と思ってましたが、気が変わりましたよ。今日は皆さんとせっかく会えたんですから、お別れの話を差し上げることにしましょう」
生徒は誰も気に留めていないであろう八十神高校の校名の由来や典拠を、一度聞いただけで見抜いたようである。そしてそこから得た閃きを、常人には理解しがたい形に発展させた。
「いやいや、これは『日本で一番古い呪いの話』と言ってもいいのかもしれませんねえ……。果たして皆さんは、この話からいかなる真理を汲み取ってくれるでしょうか?」
そうして保健室の主でもあるという江戸川教諭の、二年前は『総合学習』の名で生徒たちから疎まれていた特別授業が始まった。
「皆さんは、この国を作った神様くらいは知っているでしょう?」
江戸川の口振りは『知ってて当然』と言わんばかりである。しかし八十神高校は校名と違って、神職や巫女を養成する学校ではない。普通の高校だ。記紀神話を含む日本の思想史は、一学期の倫理の授業では触れられてもいない。だから日本の創造神の名など知っている生徒は、ごく少数である。
(イザナギとイザナミか?)
知っている数少ない一人は悠である。6月に受けた諸岡の補習で、国生みの神の名を聞いている。そして夏祭りでマリーに貰った神道の本も少しは読んでいるので分かる。
「男神イザナギと女神イザナミですね。大変に仲が良かった二神ですが……ある日イザナミ神が火の神をお産した時に、死んでしまいます」
(やっぱりか)
続いて江戸川は、その後にイザナギがどうしたかを語った。妻の死を悲しんだ夫は黄泉の国まで下って行き、妻を取り戻そうとした。暗闇の中で妻を見つけた夫は一緒に帰ろうと誘うが、妻は黄泉の国の神に掛け合うから、そのまま待っていろと答えた。しかし様子が気になった夫は禁を破り、火を灯して辺りを見てしまう。そこにいたのは、死んで蛆虫がびっしりと湧いた妻の姿──
夫は恐れをなして逃げ帰り、妻は怒り狂って追いかける。夫は追っ手をあの手この手でかわし、必死に逃げる。やがて黄泉の国の入り口、黄泉比良坂に辿り着くと、大岩で道を塞いで難を逃れた。
「そして岩までやってきた恐ろしい女神に、別れを言い渡します。これが『コトド』と言われる呪言です」
(ふわ……)
教室の中央付近で、悠はあくびを噛み殺した。江戸川の話は概ねマリーに貰った本に書いてあった通りである。マリーは『なぜか』知っている話ばかりだからと言って、本を悠に譲ったが、悠もそういう気分になった。知っている話を繰り返される授業は退屈でしかない。眠気を誘われる。
「……みんな、聞いてますかね? 三途の川を渡っちゃ駄目ですよ、ヒヒヒ。それじゃきちんと聞いていたか、少し質問してみますかねえ。間違うとヨモツシコメにデートに誘われますよ。うじたかれころろきて、頭には大雷おり、胸には火雷おり、腹には黒雷おり……」
(おっと……)
何やら不気味な呪文めいたものが紡がれたのを耳にして、悠は軽く頭を振って眠気を振り払った。いかに退屈であろうと、授業で居眠りをしてはいけない。ましてこの修学旅行は恩師の遺言のようなものだ。真面目に聞かねばならないと、気を取り直して前を向いた。するとちょうど教壇に立つ江戸川と目が合った。怪しげな養護教諭は白く濁った眼鏡で目を隠しているが、視線が出会ったことは分かる。
江戸川は教卓に置かれた座席表を手に取り、一瞬だけ目を落とした。次の瞬間、再び悠を見る。
「はい、鳴上悠君。イザナミ神の死因は何ですか」
視線が整えた軌跡を追うように、質問が発せられた。
「火の神を産んで、火傷を負った為です。火の神ヒノカグツチはイザナギの怒りを買い、十握剣で斬り殺されてしまいます」
知っている授業の内容は聞いていなくても答えられる。聞いていない範囲までも。
「はい、正解。シコメは櫛に追い払われましたー」
(え……?)
悠はこれまで授業をあまり聞いていないながらも、質問には答えられた。しかしおまけのように告げられた言葉に、引っ掛かりを覚えた。
櫛──
「さすがは多くの神々の高校の生徒さんですねえ……今日の授業ではカグツチの名や剣には触れなかったはずですが、既にご存知でしたか。もしや退屈させてしまいましたか? ではもう少し詳しくお話ししましょうか」
しかし江戸川は『櫛』については特に説明しなかった。悠の答えに気を良くしたように、ますます饒舌に語り出す。
「仰る通り、親殺しをしてしまったカグツチは、父イザナギによって十握剣で斬り殺されてしまうのですが……この『十握』とは握り拳十個分の長さという意味で、剣そのものの名前ではないことはご存知でしょうか?」
(へえ……)
これは悠も知らなかった。一冊の本でかじった程度では、一国の神話の全てに通暁はできない。最初は眠気を覚えた授業に、興味が湧いてきた。
「つまり十握剣とは剣の種類を表す一般名詞で、現代風に言えばロングソードと言ったところですね。神々の父イザナギの佩剣は、名を天之尾羽張の剣と言います。神を殺せるわけですから、まさに神剣と言うべきですが……ここで注目すべきはカグツチを斬り殺した際、飛び散った血や死体から新たな神々が生まれていることです。そこいらの剣と違って、殺すこと以外にも使えるわけです。そして生まれたのは雷の神、刀剣の神など色々ですが……水の神もいます。火を殺したら水が生まれる……何とも興味深いですねえ?」
「では、話を戻しましょうか。コトドと呼ばれる呪言についてですが……これには二通りの書き方があります」
教壇で江戸川は振り返り、チョークで黒板に呪いの言葉を書いた。ご丁寧にもルビを振って。
『
『
「ご存じでしょうが、日本神話を記録した神典はいくつかありまして、代表は古事記と日本書紀です。合わせて記紀と呼ばれます。両書が伝える神話には重複したものも多いのですが、同じ話でも細部には違いが色々あります。コトドにおいても違いがありまして、これがそれです。上が古事記で、下が日本書紀での書き方です」
ここで江戸川は再び振り返り、教室を見回した。
「ご覧の通り、日本書紀では言葉が強く、古事記では抽象的です。また道を塞いだ大岩についても、日本書紀ではイザナギがやったと書かれていますが、古事記ではどちらが道を塞いだのか曖昧です。この違いは記紀が成立した過程や、世の中にどう広められたかが影響しているのかもしれません。はてさて、どちらが真実であるのか……」
「そしてイザナミとイザナギは岩を挟んで言い合うのですが……互いに何と言ったか、ちょっと書いてみましょうか。古事記です」
江戸川はもう一度振り返り、黒板に呪いの言葉の全文を書いた。
『
「いかがでしょうか? 現代語に訳すと、イザナミは『こんな仕打ちをするのなら、私は貴方の国の人間を日に千人殺す』と言って、イザナギは『ならば私は日に千五百の産屋を立てよう』と言っているわけです。いわば神々の離婚であるわけですが……イザナギの答えには、妻を咎める怒りは伺えません。しかも二人はどちらも『愛しき』と言っています。死で別たれた男女の心の内は、果たしてどのようなものであったのか……想像する余地がたくさんありますね」
江戸川はチョークを置き、また振り返る。
「さて、最初に申し上げたように、この神話はこの国にかけられた呪いを伝えていると解釈できます。千が死に、万が生まれるわけです。わけですが……ちょっと不思議に思いませんか?」
怪しい教師はここで一旦言葉を止めた。息を一つ吸って教室を見回し、やがて止める。眼鏡で隠された視線は、教室の中央に座る悠に向けられているように見える。
「イザナミは火傷で死に、カグツチも剣で殺されています。そして黄泉の神なる存在がいて、シコメやイクサと呼ばれる黄泉の国の住人もいます。これはつまり、コトドの呪い以前から死は存在したと解釈できます。よってイザナミの呪いは、世界における死の起源ではないと言えます。また二人は子供をたくさん生んでいるわけですから、イザナギの呪い……もしくは祝福も、生の起源ではないと言えます。では一体、二人の呪いはどういう意味なのでしょう? コトドの神話は何を伝えているのでしょう?」
(……?)
江戸川は悠を見ている。しかし悠は訳が分からなかった。江戸川が日本神話についてこれだけ詳しく話しているのは、自分がした回答が契機であるのだが、いつの間にやら理解を超えてしまっている。死と生が既に存在した上での、死と生の呪い──
「これは皆さんへの宿題としましょうか。期限は皆さんが黄泉路へ旅立つまでで」
しかし江戸川は深く追求せず、未解決のまま宿題として若者に委ねた。二年前、ここの生徒だった有里に様々な秘密の知識を教えながら、核心までは触れなかったように。諸岡が4月の最初の授業で生徒たちに宿題を与えたように、自ら全てを語りはしなかった。
「……まだ時間がありますね。せっかくですから、またちょっと別の視点から考えてみましょうか」
そして宿題を出した途端、脱線が始まった。
「皆さんは比較神話学という学問をご存知でしょうか? 世界の各地に伝わる神話や伝承には、不思議と類似しているものが数多くあります。イザナギの黄泉下りの神話に関して言いますと、ギリシャ神話に似たお話があります。幽玄の奏者……失礼、竪琴の名手であるオルフェウスです。彼もまた亡くした妻を取り戻す為、生きたまま冥界へ赴きます。そして彼も失敗します。途中で振り返らないことを条件に妻を返してもらうことになったのですが、地上に辿り着く寸前、不安にかられて振り返ってしまい、妻は冥界に連れ戻されてしまうのです」
これは神話である。現実においては、振り返らずに地上まで駆け抜けた者もいる──
「ギリシャの夫婦は呪い合ったりはしませんが、死の世界まで行っておきながら見るなのタブーを違えた為に目的を遂げられず、失敗したという点においては日本のそれと同じなわけです。ギリシャと日本という、地理的には東西でかけ離れた二つの国で似た神話が生まれたのです。これが何を意味しているのかというと……神話が伝えているものは、地域や時代を超えた普遍的な真理である、と言ったところでしょうかね?」
ここで江戸川は笑った。
「つまり……死人は生き返らないということです」
しかし笑みはすぐに眼鏡の裏に隠れた。そして自ら述べた神話の意味に対する反証を挙げ始めた。
「しかし死者の蘇生に関して言いますと、イザナギやオルフェウスのそれとは逆に生き返ってしまう神話もあります。世界で最も有名な蘇生の神話と言えば、やはり十字架にかけられたイエス・キリストの復活でしょうかね? キリスト教では、他にもラザロの復活などもありますね。ギリシャでは医療の神アスクレピオスは死者を蘇生させています。そして日本ではイザナギとイザナミに続く国作りの神であるオオクニヌシに、蘇生の神話があります。彼は八十神と呼ばれる兄弟神に殺されて……おっと、皆さんの学校と同じ名前ですねえ……ヒヒヒ」
ここでチャイムが鳴った。八十神高校の校名の由来を解き明かそうとした、そのタイミングを狙ったように。余計なことを言うなと、天が魔術師を止めるように。
「ああ、もう時間ですか。ちょっと喋りすぎましたかね。まとまりがあるようで、ないようで……」
かくして長い授業は終わった。都会の教師は田舎から来た生徒に、イザナギとイザナミの名の由来のように謎と疑問へと誘っておいて、解答は示さなかった。年長者は安易な答えは与えず、若者に自ら考えるよう促したわけである。生前の諸岡が何度もそうしたように。
修学旅行の初日は移動と授業で終わり、生徒たちは宿泊するホテルに移動した。ホテル名はシーサイド・シティホテル『はまぐり』と言い、何とはなしに刺激的な装いの建物だった。一昨年の7月まで月光館学園の理事長を務めていた、ある故人が言うところのアミューズメントホテルである。
「どーすんだ、これ……」
赤味がかった薄暗い光が照らす部屋の中央には、円形のウォーターベッドが置かれている。この部屋を割り当てられた生徒の一人、陽介は柔らかすぎる寝床に胡坐をかいて座っている。腕組みをして首をひねり、この状況にどう対処するか考える。そして相部屋になった相棒に話を振る。
「取り敢えず、置いておくしかないだろう。その辺に捨てるわけにもいかないし」
悠は額に手を当てながら、部屋の床に立たせた大きなぬいぐるみを眺めた。逆さにした卵に手足をつけた形状の、赤と青のコントラストが特徴的なぬいぐるみである。モチーフにしているのはクマ科の動物だ。今日の授業で作ったもので、担任の柏木にも器用なのねと感心された力作である──
「……もう動いてもいいクマ?」
わけがない。
「よし」
「ふー! ぬいぐるみの振りするのも疲れるクマねー!」
人間サイズの特大ぬいぐるみは、制作者の許可により直立不動の姿勢を崩した。あたかも土くれで作られた人型が、神の息吹でもって命を与えられたように──
「ったく、何でついてきやがるんだ……」
ではない。ぬいぐるみは元より中身があることを示すようにジッパーを開け、皮を脱いだ。中から現れた美少年はぴょんと跳び上がり、ベッドにダイブする。
「ここのベッド、タプタプで気持ちいークマね! ナナチャンもお誘いすれば良かったクマ!」
謎の生物、クマはウォーターベッドを転がり回った。そのまま端まで行くと、妙に長い枕を抱き締めた。まるで人を抱き締めるように、両手と両足を使ってしっかりと。
「やめんか! 誘拐で堂島さんに逮捕されっぞ!」
「むー! 愛の花火を打ち上げようと思ってたのに!」
「十年早いっての……土産でも買ってって、貢いどけ」
ここにクマがいるのは、もちろん悠たちを追いかけてきたからだ。ホテル前で合流し、柏木にはぬいぐるみだとごまかしたのが、つい先程である。なお、クマが八十稲羽から遠く離れたこんな土地まで移動してきたのは、ペルソナやそれに類する特殊能力によるものではない。ジュネスのアルバイトで貯めた金をはたいて、電車に乗って来ただけだ。ホテルを見つけたのも、事前に陽介の旅のしおりで確認済みだったからに過ぎず、探知能力を使って探し当てたからではない。現実ではテレビの中での力は使えない『はず』なのだ。
「りせの探知が効いてりゃあ、振り切ったものを……」
「そしたらクマだって鼻で探しちゃうクマ!」
いつものように二人は言い合う。放っておくと、いつまでも続けそうな気配である。
「しょうがないだろう」
悠は二人を宥めた。りせの探知が効こうが効くまいが、修学旅行の予定を知られた以上、クマの乱入は避けようがなかった。そして現に来てしまった以上は、文句を言っても仕方がない。何よりついてきたのはクマなりの愛情表現であろうから、悠はクマに関しては諦めた。そして──
「しかし……そういえば何でペルソナって現実だと使えないんだろうな」
不意に湧いた疑問を口にした。実際、特捜隊の面々はペルソナを現実では召喚できない。情報担当のりせも現実では探知できない。なぜなのか?
「うーん……絶対できないわけじゃないと思うクマよ?」
「ん? そうなんか?」
陽介も食いついた。
「クマだって、前はテレビの外に出るっていう発想なかったクマ。でも実は出れたクマ」
クマが外に初めて出てきたのは7月10日だ。それ以前に出てこなかったのは、その『発想』がなかったから。出てきたその日から本人はそう言っている。真偽は別としても。
「つまり……単に気持ちの問題ってことか? できないって思うから、できないだけ?」
陽介はベッドに座ったまま右の掌を上に向けた。特捜隊はペルソナを召喚する時には、こういう姿勢を取ることが多い。ペルソナ召喚は眼前に現れたカードを握り潰して、或いは切り裂いて召喚するのが基本的なやり方だ。慣れてくれば瞬き一つで呼び出すことも可能である。実際、悠や陽介はテレビの中でならペルソナの名前を口にするだけで呼び出すことも、既にできている。
二年前にこの土地で戦っていた者たちは、名前だけでは最後までペルソナを呼び出せなかった者が大半であるのに──
「ジライヤ! ……つっても駄目か」
しかし陽介の手の上にカードは現れない。念じても手を捻っても、何も出てこない。
「ヨースケはおダメさんクマねー!」
「うっせ!」
二人が言い合いを始めたところで、悠も右の掌を上に向けてみた。しかし何も出てこない。
「何と言うか……呼び出せそうな気がしないな」
現実でのペルソナ召喚。可能性だけを論じるならば、不可能ではないのだろう。テレビの世界やシャドウには特捜隊で最も詳しいクマがそう言うのだから。しかしどうすれば召喚できるのかは、悠にも分からない。人は自分の手足を動かすのは簡単にできる。しかし『腕よ動け』と声に出しても、それだけでは腕は動かない。理屈ではない領域における何かが必要になる。ペルソナにおいてはそれが何であるのか、よく分からなかった。
「い、いやいやセンセイ! 別にいーじゃん! こっちにはシャドウいないんだし、雷とか撃ててもしょうがないクマ?」
クマは陽介はからかった。しかし師もできないとなると、慌ててフォローを入れてきた。現金なものである。
「ま、そうだけどよ……」
陽介は再び腕を組み、相棒に視線を送った。対する悠も相棒を見る。無言のままに、互いの目の中にある企みを感じる──
「……」
しかしそれも長く続かなかった。陽介は相棒から視線を外して腕組みを解き、胡坐を組んでいた膝を伸ばした。
「はあ……何か疲れたわ。ここまで来て授業とかねえだろ。しかも訳分かんなかったし」
そして話題を変えた。悠も『企み』を口には出さず、変わった先の話題に付き合った。
「割と面白くはあったが……でもまあ、よく分からなかったな。難しすぎる」
「イザナギとイザナミ……だっけか?」
「え、イザナギ? それってセンセイの……」
クマが口を挟んできた。枕を抱いたまま体を起こし、青い瞳で師を見る。
「センセイの……アブラハム? イサク? ヤコブ? ユダとその兄弟……?」
そして謎の言葉が滑り出た。
「え?」
江戸川の特別授業は、日本神話を多少は知っている悠にも難しかった。最初は余裕綽々で眠気を覚えたくらいだったが、詳しく語り出してからは理解できたとは言い難い。そしてクマの口から突然零れ落ちた言葉は、さっぱり分からない。キリスト教については概要くらいは倫理の授業で学んでいる。しかし聖書を読んだことはないので、クマが時々口走る聖句の意味は理解できない。今のはマタイによる福音書の冒頭部分で、クマは初めて悠のペルソナを見た時にも引用していたことも、悠には分からない。
「は、油ハム……? 何言ってんだお前……って、そうだ、思い出した!」
もちろん陽介も、クマが何を言っているのか分からない。その代わり閃いたことがあった。
「イザナギってどっかで聞いたことあるって思ってたけど、お前が最初に呼んだペルソナじゃなかったか?」
「ああ、そうだが……」
悠が初めてペルソナを召喚したのは4月15日、テレビの中のコニシ酒店の前だ。そこで悠は『イザナギ』と口に出してペルソナを召喚した。その後も千枝の影と戦った時など、陽介とクマの前で何度もペルソナを名前で呼んでいた。あれはとうに使われなくなったが、陽介には強い印象を残していたのか、何ヶ月も過ぎた今でも覚えていたわけである。
「あれって神様だったんか……。じゃあ俺のジライヤも神様なん?」
「いーや、きっと違うクマ。ヨースケが神様とか、ないない」
クマはいつの間にか謎の聖職者モードからいつもの様式に戻っていた。
「どういう意味だよ!」
そして陽介もいつものように応じる。修学旅行初日の夜は賑やかに更けていった。
特捜隊はテレビの中でしかペルソナを召喚できない。少なくとも、現時点では。しかし戦いの舞台は基本的にはテレビの中しかないので、これまでは問題にならなかった。そして名前を呼ぶだけで呼び出せるのは、召喚器で頭を撃ち抜かなければならないシャドウワーカーよりも、特捜隊は召喚の儀式において利便性が高いと言える。そうなった理由は当人の素質や才能によるものか。もしくは舞台によるものか。
しかしシャドウワーカーの存在を知らない悠たちに、他人と比較してものを考えることはできない。比較神話学は比較する神話があって、初めて研究できる学問である。遠く離れた国で似た神話が伝えられていても、その存在を知らなければ比較のしようがない。
自分たちとは力を得た由来や背景が異なり、戦う場所も儀式も違うが、力そのものは似ている者たち。特捜隊がその存在を知れば、新たな地平を見出せるかもしれない。世界や人間の真理をも掴めるかもしれない。しかし知らない以上はどうしようもないのだ。だから悠と陽介は現実でペルソナを召喚する方法も見出せない。
もし現実で使えれば、いつか犯人を見つけた時、現実でペルソナの雷や風を使って殺すという手段も取れる。それは普通の人間には不可能な殺し方なので、警察の目を欺くのに役立つ。しかし召喚できない以上は虚しい想像に過ぎない。だから仇持ちの相棒たちは、この場で深く話そうとはしなかった。
余談であるが、後になって悠は陽介のペルソナ名の由来を、携帯電話を使ってインターネットで調べてみた。それによるとジライヤは神や仏ではなく、歌舞伎の登場人物であるとのことだった。ガマを呼ぶ忍者である。ついでに言うと、クマのキントキドウジも神ではなかった。日本人なら誰もが知っている、有名な昔話の登場人物だった。