八十神高校の修学旅行の初日はクラスごとに月光館学園で特別授業を受けて終わったが、二日目は自由時間が比較的多く用意されている。行動もクラス単位ではなく、数人の班ごとに分かれてになる。班分けは生徒たちの自由に任されており、クラスや学年の違う者同士で同じ班になることも許されている。
そうしてシャドウワーカー稲羽支部高校生組の四人は同じ班になった。裏の仕事において仲間になったら、表の行事においても行動を共にする機会が増えたわけだ。それは至って自然なことである。この四人は相互の感情的な対立などもないので、一緒にいて居心地の悪さを感じることはない。
しかし何をしても楽しいというわけではない。ただそこにいるだけで満たされるほど、四人の付き合いは深くないし、おめでたくもない。
「つまんなかったな」
「昨日の授業も伊達家の話ばっかで大概だったが、今日も工場じゃなあ……これじゃ社会科見学と一緒だぜ」
修学旅行二日目の夕方の時間。長瀬が零した愚痴に一条が答えた。自由行動とは言うものの、大半の生徒はどこに行けば面白いのか分からなかったので、学校から薦められた工場などを見学して時間を潰していて、この四人もそうしたのだ。彼らは全員港区に来るのは二度目なのだが、土地勘があるわけではないから。そうしてお決まりのコースを回った結果、退屈してしまったわけである。
「夕飯どうしましょうね? この辺は何もなさそうですけど」
尚紀が周囲を見回しながら呟いた。四人が今いるのは、ポートアイランドからモノレールで海を渡った港区本土、巌戸台にある工業地域である。いかに都会とはいえ、この種の場所には飲食店は少ない。だからどこかへ移動すべきなのだが、行く当てはない。
「あんたたち、前は二人で来たんでしょ? どっか観光とかしなかったの?」
四人の紅一点、結実が長瀬に尋ねた。結実がペルソナ召喚の訓練の為にここを初めて訪れたのは、先月22日だ。しかし直前の霧の日に暴走気味だが召喚済みだった為、召喚器を使った召喚は時日を要さず、すぐに成功した。しかも一人で来ていた為、特殊部隊への加入の手続きを終えると、すぐに地元に戻ったので観光などはしていない。そこで自分とは違う状況で訪問したらしい同級生に尋ねてみたが、長瀬は首を横に振った。
「いや、してねえな」
一学期の終業式が行われた7月26日から、一条と長瀬は二人でポートアイランドを訪れた。二人は次の日にはペルソナの召喚に成功したが、その後に流星錘と三節棍の訓練を行った為、都会に滞在した期間は比較的長い。だが観光などは、結実と同様にしていなかった。
「昼間は訓練で疲れてたし、真夏だったから出歩くのもしんどかったからな。飯はホテルのルームサービスばっかだった」
「俺もしてないですね。帰り際にちょっと買い物くらいはしましたが」
そして尚紀も同様である。つまり四人揃って、おのぼりさん状態なわけである。食事に行こうにも、どこが良いのか見当もつかない。こういう場合、どうするべきか?
「なら聞いてみっか」
長瀬はジャージのポケットからスマートフォンを取り出した。市販品ではなく、シャドウワーカーの情報端末だ。
「聞くって誰に?」
「有里さん」
知らない土地を訪れた時には、地元民に頼むのが一番である。
「おいおい、いきなり迷惑だろ!」
一条が慌てて止めに入ったが、長瀬はもう通話モードに入っていた。長瀬は親友と違って器用な方ではないが、何と言っても若いので文明の利器の操作にはすっかり慣れていた。
「もしもし? 長瀬っす。俺ら今、巌戸台に来てんすけど……そうっす、修学旅行。どっかうまい店とか知らないっすか?」
そして素早く話を進める。遠慮も何もあったものではない。二言三言だけであっという間に話をまとめ、通話を切った。
「ポートアイランドの駅に来いってさ。知り合いがやってる店に連れてってくれるってよ」
「ったく、アボなしでいきなり呼び出しとか、ありえねえだろ……会ったら一言謝るぞ」
一条は腕を組んで、軽い調子の親友を窘めた。実家の関係で社交の経験がある身からすれば、上役に当たる人間を突然呼び出すなど、失礼にしか感じられないところである。
「いいんすかね?」
「さあ……」
「いいに決まってんだろ。んじゃ、行こうぜ」
尚紀と結実も少なからず困惑していたが、長瀬は何も気にする様子はなく、さっさと歩き出した。何事につけ、行動力のある人間が強いのが世の常だ。仲間たちも巻き込んで、礼儀や常識も軽く踏み越えてしまう。
若いペルソナ使いの四人組は巌戸台からモノレールに乗って再び海を渡り、ポートアイランド駅にやって来た。時刻は夕方から夜に入ろうとしているが、街灯の多い駅前はかなり明るい。駅舎と映画館の照明も加わって、昼間に近いくらいの光の量だ。八十稲羽にはない光景である。
そうして駅前のロータリーで待つこと数分で、一台のタクシーがやって来た。四人の前で停車し、後部座席のドアが開いた。最強のペルソナ使いにして、田舎の高校生を世界の裏側に巻き込んだ張本人が降りてきた。
「やあ」
「済みません、いきなり来てもらって……」
一条はまず謝った。だが有里に気にした様子はない。
「構わないさ。それより紹介しよう」
有里は振り返って、車内にいたもう一人の降車を手伝った。空色のマタニティドレスを着た女だ。右手を有里に預け、左手で膨らんだ腹を押さえながら、ゆっくりと足を伸ばして地面に立った。
「家内だ」
「初めまして、皆さん。有里アイギスです。主人がお世話になってます」
「い、いえ……こちらこそ、お世話になってます」
社交場では使い慣れているお決まりのセリフを、一条は言い淀んでしまった。都会のポートアイランドには故郷の田舎にないものが山ほどある。代表的なのは高層ビルやクラブなどだが、これはその最たるものだ。金髪碧眼の美女など、稲羽では十年住んでいてもお目にかかれない──
実際のところは、稲羽市中央通り商店街に駐車しているリムジンには、これと同等以上の美貌の持ち主がいる。しかしそれを知っているのは、稲羽の人間では悠と足立くらいである。ベルベットルームを知らない、並のペルソナ使いに過ぎない四人にすれば、アイギスは自分史上空前の美人だった。
「それじゃ行こうか。歩いてすぐだ」
有里は妻と手を繋いで、駅前の広場を歩き出した。若者たちは声を潜めて、二人の大人の後をついていく。
「有里さんって、年は俺らとあんま変わんねえんだよな?」
「奥さんいたんだ……。しかも外人さん?」
「何つーか……超リア充だな」
「そう言えば……」
尚紀はこの土地を初めて訪れた6月8日に、有里から聞いた話を思い出した。過去の戦いで有里は何を守ったのだと尚紀は尋ねて、返ってきた答えは『妻』だった。一瞬の迷いもない即答だった。要はのろけられたわけだが、こうして会ってみると納得せざるを得ない。
(あんな綺麗な人だったら、そりゃあ……)
国や世界などの大仰なものではなく、ただ一人の女を守ることを目的として戦う。それはロマンティシズムの典型だ。恥ずかしいし、不謹慎でさえある。しかしあのレベルの女がいるのであれば、戦う目的にしてしまうのは、むしろ自然かもしれない。一人の人間と世界を天秤にかけて、一人の方を選んだとしても仕方がないと納得してしまいかねない。社交的な方ではない尚紀でさえ、そう思ってしまう。
六人のペルソナ使いは広場を通り抜け、細い路地を歩いた。妊婦がいるので、普段よりもゆっくりした足取りで。しかし歩いた距離はごく短く、すぐに目的の場所に辿り着いた。都会の中心近くにありながら、隠れ家のように密やかに佇む小料理屋だ。ただし暖簾は出ていない。一見すると営業していない様子だが、有里は木製の引き戸に手をかけた。
店内は電気が点いていて、カウンターの奥には作務衣姿の板前が一人いた。まな板に置かれた種々の具材に、包丁を入れているところだった。
「お久しぶりです、荒垣さん」
「お久しぶりです」
「おう、来たか」
有里夫妻の挨拶に応えて、板前は顔を上げた。そして店の敷居を跨がずにいる、四人の若者の姿を認めた。
「そいつらが噂の新入りか?」
「ええ。みんな、この人は僕の先輩の荒垣さんだ。非常任だがシャドウワーカーの一員でもある」
「え……じゃあペルソナを?」
「まあな」
尚紀の確認に板前の男、荒垣は短く答えた。一見すると無愛想そうな、いかにも強面な顔に小さな笑みを浮かべる。
有里が長瀬の突然の要望に応えたのは、何も善意からだけではない。新人たちが揃って地元にやって来たこの機会に、妻や先輩に紹介しようとの意図があったのだ。いつか肩を並べて、共同で作戦を遂行する日が来るかもしれないから。もちろん具体的な予定はないが、今のうちに面通しをしておく意味はある。
「今日は貸し切りだから、何喋っても問題ないよ」
かくしてシャドウワーカーの本部と支部、どちらも全員ではなく一部だけだが、同じ場所に集まっての食事会が始まった。
荒垣の小料理屋は小さな店だ。カウンターが十席弱と、小上がりの座敷が一つあるばかりである。六人の客は全員靴を脱いで、座敷に上がって卓を囲んだ。
「聞いた時は驚きました。まさか皆さんが修学旅行で月光館学園と交流するなんて」
「有里さんたちの出身校だったんですね。凄い偶然ですよね」
「まさかとは思いますけど……有里さん、うちの学校に手を回して、交流会するよう仕向けた……とかじゃないですよね?」
「まさか」
尚紀の疑いを有里は笑って否定した。事実として、有里は八十神高校と月光館学園のどちらにも裏工作はしていない。本部と支部の出身校が交流することになったのは、ただの偶然である。二年前に有里が部活の合宿で稲羽市を訪れ、天城屋旅館に宿泊したのと同様の偶然だ。たとえ裏で何か仕組まれているものがあろうとも、それはきっと人間の理解力が及ばない領域の話である。
「けどまあ、今週は霧出なくて良かったぜ。下手すりゃ旅行どころじゃなかったな」
「でも予報だと来週は雨が多いみたい……霧、出るのかな?」
「小沢は次がデビュー戦か」
「また誰か新しい奴が出てくんのかな?」
そしてこれもまた人間には分からない話である。霧が出る時期は、近づけば一般向けの天気予報でも分かる。しかし霧から湧いて出るシャドウが誰を襲うのか、次に世界の裏側に招かれるのは誰なのか、それらは予期できない。
「分かりませんけど、毎回ですもんね。出てくるかもしれませんね」
「またうちの学校からか?」
「かもな。順番からすると、最初が堂島さんと足立さんで、次が小西。そんで俺、長瀬、小沢だろ? 何か知り合い繋がりで、芋づる式に来るって感じじゃね?」
「んじゃ次は小沢の知り合いか?」
「え? 誰だろ……演劇部の子とか?」
「はいよ、お待ち」
高校生たちがめいめい思い付いたことを話していると、大皿を持った荒垣がやって来た。刺身の盛り合わせだ。旬のものを中心に十種類近くの魚の群れが、皿の上で峰が立ち並ぶ山脈を成している。
「お前ら、遊び気分でやってると、いつか火傷するぜ」
そしてまるで刺身の添え物のように、忠告も届けられてきた。
「こんなふうにな」
荒垣は自分の右の頬を右手の親指で示した。そこには火傷の跡がある。ペルソナ使いの傷は、普通は回復魔法で跡も残さず消せる。しかし荒垣の火傷は『なぜか』消えていない。
これは昨年の1月末、特別課外活動部の時代における最後の戦いで負った傷である。相手はシャドウではなく人間のペルソナ使いだった。災害救助や有害鳥獣駆除とは本質的に異なる、人間同士の戦いだ。その結果、荒垣が背負わねばならなくなった、業そのものを表す傷が顔に残っている。
「……」
はしゃいでいた子供たちの間に沈黙が降りた。箸を手に持ったまま、身動ぎするのも憚られる重い空気が、隠れ家の店に漂う。
シャドウワーカーの隊員はシャドウやペルソナに関する情報を教えられているが、範囲は部隊における地位に応じたものになっている。つまり組織の内部で情報の格差があるのだ。そして稲羽支部の高校生組は、かなり制限されている。例えば過去のシャドウ対策の経緯については、当時の舞台は影時間にだけ現れる巨大な塔で、人員は高校生ばかりだったことくらいしか聞いていないのだ。荒垣に傷を負わせたのは何者で、戦いはどれだけ厳しいものだったのか、想像する手掛かりもない。そんなところで先輩に古傷を見せられると、反応に困ってしまう。
「俺たち、遊びでやってはいません」
笑い声の消えた空間で、最も若い声が最初に上がった。尚紀だ。
「有里さんも荒垣さんも……俺たちよりずっと強いんでしょうね。貴方たちなら、きっと俺たちより上手くやれるんだと思います」
尚紀も特別課外活動部の詳細は知らされていない。最年少のメンバーは、当時は小学生だったということは6月に有里から聞いているが、それくらいだ。
「でも稲羽は俺たちが守ります。何もない、つまんない町ですけど……故郷ですから」
尚紀は稲羽支部で最年少である。しかしまるで高校生組のリーダーのように、皆を代表して話している。そして上級生の三人は黙って聞いている。こうなっているのは、尚紀は四人の中で最も早く目覚めた為もあるが、本人の性格も影響している。強面の男が相手でも物怖じしないところとか。
「そうか」
そんな少年の答えを受け取って、荒垣は作務衣帽子を少し目深に下ろした。
「オッサンくさいこと言っちまって悪いな。まあ食え」
そうして荒垣は調理場に戻った。戻りながら、考える。
(このガキ、小西っつったか。故郷がどうとかマジで思うほど殊勝な奴には見えねえが……まあいいか。オッサンが二人もついてることだし、ガキしかいなかった俺らの時よりマシか)
荒垣は観察力が鋭い方だ。かつての戦いでは『愚者』の仮面さえ看破したこともあったくらいである。その目で見れば、尚紀の決意表明を鵜呑みにはできないところである。しかしここで敢えて説教を垂れて、正してやらねばならないと感じるほどの危うさは伺えなかった。
そうして食事が再開されたところで、出入口の引き戸が開いた。店先に暖簾は出ていないはずであるのに。
「先輩、こんばんは」
「おう、来たか」
小柄な女が店に入ってくると、荒垣が応じた。
「済みません、遅くなって」
「山岸だ。シャドウワーカーの非常任組の一人だが、うちでバイトもしてる」
「初めまして、皆さん。お話は伺ってます」
入って来た女は稲羽支部の面々に挨拶してきた。旧特別課外活動部の一員で、現在は工学系の大学に通っている山岸風花である。料理が趣味で、今年から時々荒垣の店で手伝いをしているのだった。
手伝いである。料理に毒を盛りに来たのではない。
八十神高校にはどんな簡単な料理でも駄目にしてしまう、呪いか宿命のようなものを背負っている女子生徒が何人かいて、この場では長瀬がその被害を被ったことがある。そして『呪い』は地域や時代によって限定されるものではないらしく、暗黒の料理人は月光館学園にもいたのである。しかし使命を終えれば呪いも終わるのか、毒料理の元祖と言うべきその人は、高校三年生の頃から徐々に改善の傾向が見えてきた。
「味噌の量、間違えんなよ」
「はい」
「お注ぎしましょうか」
「ああ」
出された刺身を食べ終え、次いで焼き物が出てきた頃、高校生たちの話し声が一瞬途絶えた。テレビや音楽のない静かな店に、火をかけられた鍋が煮立つ音と、猪口に酒を注ぐ音がさざ波のように広がる。
「何かいい雰囲気……」
静けさが己の存在を主張する店内を、結実は改めて見回した。料理は言うまでもないが、店そのものもいい。それに加えて、結実は人にも良い雰囲気を感じていた。具体的に言うと座敷にいる夫婦と、何やら浅からぬ縁があるように見える調理場の二人だ。
「いいね、大人って感じ。鳴上君も誘えば良かったな……」
自分も交際している異性のいる身として、結実は二組の男女に憧憬を覚えた。修学旅行の班は秘密の仲間たちと組むことになったが、今日は彼氏も誘ってここに一緒に来れば良かったと思った。
「ああ、そうだな……」
微笑みが添えられた結実の呟きに、隣に座る一条が答えた。そして反対側に座る有里に話しかけた。
「月光館学園って綺麗どころが集まるんすかね?」
「ん?」
妻帯者の未成年は、日本酒を注いだ猪口を手に振り返った。顔は少しばかり赤い。
「昨日お迎えの挨拶してくれた生徒会長さんも、えらい美人でしたよ」
今年の月光館学園の生徒会長は女子だ。知性が伺えるスピーチと滑舌の良さ、そして清楚な容貌から、一条は思わず『俺史上空前の眼鏡美人』という印象を持ってしまった。もし想い人が眼鏡をかけた顔を見ていれば、さすがにそこまでは思わなかっただろうが。
「生徒会長……?」
有里は酒に弱い体質ではないが、飲み始めて一年程度と経験が少ないので、加減を誤ることもある。先月の出張ではかなりの深酒をして、テレビが勝手に点く幻を見た(と本人は思っている)くらいだ。今日はあの日より量は少ないものの、結構来ていた。料理に合わせて飲む日本酒が、妻の酌もあって思っていたより進んでしまっていた。その為つい口が滑った。
「ああ、千尋か」
普段の有里は妻以外の女を下の名前では呼ばない。例外はシャドウワーカーの隊長である美鶴だが、あれは名字で呼ぶと父親やグループ名とかぶるからだ。だが内心では違う。高校時代にちょっとした関係にあった女たちは、誰でも下の名前で呼び捨てにしている。それが思わず漏れた。
──
カツンと鳴る音が二つ、隠れ家に重なった。調理場で風花が包丁をまな板に打ち付けて、座敷でアイギスが箸で皿の底を突いたのだ。
「……」
一瞬の後、トントンと鳴るリズミカルな音が調理場に戻った。風花はすぐに具材を切る作業に復帰した。しかしアイギスは動かない。箸が突き立てられた皿を、じっと見つめている。
「……」
ここで『主人は手が早いですから、気を付けてくださいね』とでも言えば、笑い話にすることもできた。しかしアイギスはそういう柄ではない。夫が何かやらかすと、本気で応じるタイプだ。もしここが店ではなく自宅であったら、血を見るレベルで本気対応するところである。
「……」
俄かに生まれた沈黙が痛い。一条はきょろきょろと首を左右に巡らせる。
「あの……俺、何かまずいこと言いました?」
「いや……君のせいじゃない」
失言をした酔っ払いの腹から、酒は蒸発した。ここに鏡はないが、自分の顔色はきっと赤から青に変わっているのだろうと感じられる。こういう時、どうすれば良いか?
「鍋だ、熱いぞ」
最も容易なのは、他人に助けてもらうことである。強面な容貌に反して人情の機微に鋭敏な荒垣が、まるで座敷の注意を逸らすような絶妙のタイミングでやって来た。もうもうと湯気を上げる、大きな鍋を両手で抱えている。
「お、凄いっすね! いただきます!」
「わ、おいしそう!」
出てきたのは、角切りにした牛肉に野菜や豆腐を添えて、甘味噌で仕上げた鍋だった。文明開化の時代に流行した料理を、現代風にアレンジしたものである。味噌の香りが湯気に乗って座敷を満たし、食事の雰囲気は急に改善された。中でも大食漢の長瀬は、あっという間に元気を取り戻した。
「まあ食え。アイギスも若いのに遠慮しねえで、しっかり食いな。お前は二人……じゃなかったな。三人分必要だろう?」
「はい……ありがとうございます」
微妙な雰囲気を一瞬作った食事会に、再び平和が戻った。それを見届けてから、荒垣は調理場に戻った。
(馬鹿は死ななきゃ治らねえっつうが……)
荒垣は高校時代の付き合いから、以前の有里が築いていた『ちょっとした関係』の数々を、大体知っている。例えば店を手伝ってもらっている後輩と、話に出た今年の生徒会長とやらは、その『関係』にあったこととか。そうした諸々の事実が、当時の仲間たち全員にバレていたことも知っている。知っているだけに呆れと心配が半々になる。
(この馬鹿、出張先で女作ったりしてるようには見えねえが……万が一してたら、命の危険があるかもな)
そんなことを思いながら、荒垣は『呪い』から解き放たれた後輩に手伝ってもらって更に料理を作る。デザートまで出して皆が満腹になるまで食べさせた頃には、夜は大分更けていた。
有里は小料理屋を出る際にタクシーを一台呼び、アイギスだけを乗せた。身重の妻を先に帰らせた夫は、歩いて高校生たちを宿まで送って行くことにした。どこの町にも裏側というものはあるが、ポートアイランドにもよそ者は立ち入るべきでない、不良やチンピラの溜まり場はある。土地勘のない四人組が殺伐とした裏路地などに迷い込まないよう、夜の町を案内したのだ。ちなみに食事の支払いは、当然ながら有里が全額持った。
そうして八十神高校の生徒たちが宿泊しているという、ホテルの前まで辿り着いた。建物を見上げると、有里は既視感を覚えた。
(ここって……)
ホテルが立ち並ぶこの街路は白河通りと呼ばれている。有里にとっては馴染みのある場所である。初めて来たのは一昨年の7月で、当時は酷く恥ずかしい思いをしたものだが、今となっては妻との思い出の一ページである。その翌年の2月以降は何度も通っていた。週に一回くらいは、必ず来ていた。
しかしフランス語で花畑を意味する名前を冠していた思い出の場所は、名前と装いを当時から若干変えていた。若干である。本質は変わっていない。門前の看板には一応シティホテルと書かれてはいるが。
(そう言えばあのホテル、クリスマスでも予約なしで入れたよな……いつの間にか潰れて、改装していたのか?)
「はは……何か知らないすけど、こういうとこなんすよ。俺らの宿」
一条が苦笑しながら説明してきた。すると『こういうとこ』に泊まっている者たちが、通りの反対側からやって来た。それも大勢。
「おや、彼は……」
やって来たのは八人だ。そのほとんどは有里は知らない顔だった。しかし先頭に立っている少年は知り合いだった。
「あれ、貴方は……」
そして先頭の少年、悠も相手に気付いた。意外なところで意外な顔に会ったと、驚きの表情を浮かべる。しかし──
「あー、有里さんらないれすかー!」
悠に先んじて、完全な酔っ払いが最初に声をかけてきた。千鳥足を変に回転させて、細い体を揺らしながら近づいてきた。
「君は確か……天城屋の?」
制服の上に赤いカーディガンを羽織った少女、雪子である。顔は服より鮮やかな朱色に染まっている。
「やっだもう! どうしてこんな所にいるんれすかあ?」
女の中にはアルコールで魅力が増す者もいる。だが雪子はそうではない。黙っていれば麗しい限りの容色を、自分で台無しにしてしまう。実家の旅館に何度も宿泊している常連の顔は見分けたが、口は目ほど仕事をしない。呂律がまるで回っていない。旅館にクレームが行っても仕方のないレベルの、完全な酩酊状態である。
「こら、雪子! いい加減に戻りなさい!」
そこへ千枝が飛んでやって来た。足がもつれて男たちにしなだれかからんばかりの親友を、腰に手を回して支える。
「里中さん……? まさか飲んできたの? まずいって!」
酔っ払いとその親友の有様に、一条は慌てた。高校生が修学旅行で飲酒となれば、立派な不祥事である。発覚すれば停学ものだ。ホテル街を宿泊場所に選んだ問題教師であっても、これはさすがに見逃してくれまい。
「あ、う、ううん! ちょっと場酔いしただけ! ホントに!」
「場酔い……? それでこんなになるの?」
一条は怪訝な顔をするが、本当なのである。その証拠に酔っていない者たちもいる。その一人に、結実が声をかけた。
「鳴上君、こんばんは」
「小沢……一条たちと一緒だったのか?」
「うん、一緒にご飯食べてたの……ごめんね? 鳴上君も誘えば良かったな」
公然の秘密として彼氏彼女の関係にある若い二人は、改装された怪しげなホテルの門前で世間話を始めた。ちらちらと建物を横目で見ながら。場所の雰囲気と相まって、浮足立ちそうになってしまう。
そしてその一方では、尚紀が先輩と幼馴染に呆れていた。
「花村さん、何してんすか……。しかも完二まで。女の子酒で潰して、連れ込もうとしてるみたいっすよ?」
「ば、馬鹿言ってんじゃねえ! こんな奴連れ込むか! 酒なんか飲んでねえのに、勝手に潰れやがったんだ!」
「つか、俺こそ頭痛えよ……二日酔いになりそうだぜ」
連れ込み犯、もとい陽介と完二は、左右からりせに肩を貸している。美少女を抱えると言うありがたい状況にありながら、男二人は揃って顔を顰めている。
「あー……小西くーん? あはは、こんばんはー……クラブで打ち上げやってきたのー……」
不本意そうな男たちの間にいる、休業中のアイドルは顔を赤らめている。もしここに週刊誌の記者でもいたら、確実にスクープ写真を撮られるところである。
この『バカ軍団』たちは夕食を済ませた後で、ポロニアンモールにあるクラブに繰り出したのである。そこで王様ゲームや暴露大会をやって、大いに盛り上がったのだ。ただし酒は飲んでいない。飲んでいないにも関わらず、酔っ払いが二人も出来上がっている。アルコール抜きでこの状態になれるのだから、才能と言えるかもしれない。
「のわ! ダイスケ!」
「ん? お前……ジュネスのゆるキャラか? いつものふかふかはどうしたよ?」
「や、やっぱりクマの体目当てだったのね!」
特別捜査隊とシャドウワーカー稲羽支部は、互いにその存在自体を秘密にしている。しかし秘密であるだけで、別に対立はしていない。修羅場を演じることもあるが、今のところは血を見るほど深刻なものではない。かつての戦いにおいて血で血を洗った、特別課外活動部とその敵対グループと違って。しかし──
「有里さん……と仰いましたか。もしや有里湊さんですか?」
「ん? そうだけど、君は?」
「失礼しました。僕は白鐘直斗と言います」
「よろしく」
特捜隊とシャドウワーカーのいずれにも属していない高校生と、そもそも高校生でもない者がいた。探偵と大学生である。二人が会うのは、これが初めてだ。
「僕は例の事件について調べていまして、こちらの方々にもお伺いしたのですが……まともに取り合ってくれませんでした」
初対面でありながら、直斗はさっさと話を進める。
「事件?」
「稲羽市で起きている殺人事件です。事件が終わっていないのは明らかなのに、警察の捜査は縮小しているような有様です。本腰を入れている刑事が何人いるか……と言ったところです」
(この子……?)
二人が会ったのは初めてである。しかし有里は直斗の名前くらいは、実は以前から知っている。そして実際に会ってみると、文書からでは分からないことが色々と分かった。
「ところで……事件と言えば、稲羽にはもう一つ気になる事件があります。4月から高校生が五人、意識不明で入院しています。もっともいずれも外傷や不審者の目撃証言がない為、公式には事件扱いされていませんが」
「……」
直斗は話が早い。対する有里は表情を動かさない。
「最初の二人は長期間に渡って意識不明の状態が続きましたが、後の三人は搬入の当日に意識を取り戻しています。この事件には……敢えて事件と申し上げますが、奇妙な共通点があります。いずれも霧の日の早朝に発生しています」
霧──
(え……?)
ここで悠が振り返った。結実と話している最中なのだが、ホテル街に突然降って湧いた重要なキーワードに耳が反応した。しかし直斗はクラブで『まともに取り合ってくれなかった』先輩に、気を留めてはいない。眼前の相手だけを見据えて、更に攻め込む。
「そして後の三人に関しては、より注目すべき事柄があります。彼らを病院へ搬送し、入院の手続きをしたのは同一人物です」
警察と強い繋がりのあるシャドウワーカーの副隊長である有里は、『殺人事件』の捜査において県警から派遣される形で特別捜査協力員として稲羽署に出入りしている探偵がいることを、それが眼前の高校生であることを知っている。だが探偵の方も有里を知っているのだ。霧の日に倒れた高校生が入院した病院を調べた際に、何度か名前を見かけたから。
「有里さん、貴方です」
直斗は核心に触れた。すぐ傍にいる悠が、会話には参加しないながらも聞き耳を立てているところで。
「鳴上君? どうしたの?」
「ああ、ごめん……」
しかし悠の盗み聞きは中断された。結実に声をかけられて、そちらを向かされた。人気者は一人の人間や、一つの物事に集中するのが難しいのだ。
そうしている間にも、初対面の二人の対決は続く。周囲が注目しようがしまいが、直斗はお構いなしだ。
「その貴方が、搬送した高校生と今日は一緒にいる……」
数時間前、クラブで特捜隊と暴露大会をやった際に、直斗は陽介から『空気読めなさすぎて、逆に面白い』と評された。まさにその通りで、少年探偵は空気など知ったことではなく、ひたすら真っ直ぐ突き進んでいく。帽子の下から覗く両の目を上目遣いにして、拳銃の照準を合わせるように謎の青年を撃ち抜こうとする。
「貴方はあの町で、何をなさっているのです?」
しかし空気を読めない程度では、有里には通用しない。
「天城屋旅館って知ってる? そこのお嬢さんの実家だけど、いい温泉があってね」
直斗と違って、有里は空気が読める方である。だが読んだ上で叩き壊すことに躊躇いはない。未だ親友に抱えられている、場酔いした少女を顎で示す。無精髭はおろか冷や汗の一滴も浮かべていない、滑らかな顎で。
「湯治の為だとでも?」
「君も一度行ってみるといい。美容にいいみたいだよ」
「!?」
直斗は帽子の下の目を見開いた。正面突破を図ろうとしていたところへ、思いもよらない方面からの反撃を食らい浮足立った。
「な、何を言って……僕は別に……」
そして有里は好機を逃さない。
「八十神高校って随分校則が緩やかなんだね。僕の母校でも、制服を着崩している奴は結構いたけど……」
有里は周囲に視線を巡らせた。するとワイシャツも着ていない、タンクトップ一枚の少年と目が合った。黒地のそれには髑髏の絵が描かれている。この場で最も制服を着崩している少年と、最も綺麗に着ている『少年』を見比べる。そして『少年』に一歩近づき、わざとらしく首を傾げた。
「でも男の制服着てる子なんて、さすがにいなかったな」
他人には聞こえない小声で囁いてやると、『少年』は降参した。男であれば美少年と評するべき整った顔を真っ赤にして。
「も、もう結構です!」
有里は荒垣の小料理屋では酒が入ったせいで、つい失言をしてしまった。しかし妻の無言の怒りを浴びたせいで、酔いはとうに吹っ飛んでいる。素面の状態であれば、秘密をうっかり漏らすようなミスはしない。プロの探偵とはいえ、やり方が真っ直ぐすぎる高校生の『少年』をあしらうくらい、大企業と国家権力の間で働いている有里にとっては難しくない。
そうしてひと仕事をやり終えると、目が合った少年が近づいてきた。
「ちょっとあんた、何なんすか。そいつに何か用すか?」
りせを放り出した完二だ。声も表情も硬い。傍からだと、有里がちょっかいを出して直斗が嫌がっているように見えたのかもしれない。妻にいつも浮気を疑われている、手の早い夫のように。もちろん事実は異なるが。
「ああ、悪いね」
完二の誤解を解くでもなく、むしろ乱入を好機と捉えて、有里は話を切り上げに入った。周囲を見回して、いかがわしい雰囲気の町並みを眺めつつ、尚紀たちと悠たちの姿も目に入れる。
「それじゃみんな、今日はお疲れ様」
有里は仕事上の部下とその友人たちの、どちらにともなく手を振って踵を返した。自分が担い手になっている、審判のコミュニティの主とは何の話もしないままに。
もし足立がいないこの場で、有里が悠と話をしていたら。それで審判の絆が進展したことを告げる、『我』または『彼』の声を聞いていたなら、有里は一つの真相を知り得たはずだった。そしてそこから芋づる式に、もっと多くの真相を引き出せた。だが有里はそれをしないまま、『少年』探偵を煙に巻いただけで、思い出のホテルの前から立ち去った。