ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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正義の戦い(2011/10/6)

 つい先ほどまで降っていた雨が、ジュネス八十稲羽店の駐車場のそこかしこに水たまりを作っている。そのいくつかを跳ねながら、ゆっくりとしたスピードで道路から入ってきた一台の車が、出入口近くの区画に駐車した。営業時間をとうに過ぎた深夜の時間帯であるので、他の車はない。まるで本来いるべき温かい家を出て、孤独で寒い外にわざわざやって来たような車から、スーツを着た一人の男が降りてきた。堂島だ。アタッシュケースを一つ持っている。

 

「どうもっす」

 

 駐車場に他の車はない。しかし人はいた。堂島は自家用車から降りてすぐ、横合いから若い男の声で呼びかけられて振り返った。

 

「おう、早い到着だな」

 

 声をかけてきたのは一条だ。学校の衣替えはまだだが、制服の上着をしっかり着込んでいる。堂島のスーツもそうだが、一条の学生服の下には召喚器が仕込まれているのだ。

 

 今日は8月13日以来、約二ヶ月ぶりとなるシャドウワーカー稲羽支部の作戦日だ。だが連絡していた集合時間よりやや早いせいか、他の者はまだ来ていない。霧が出る直前の最後の数分間となった普通の時間に、電灯に照らされた二人は雑談を始めた。

 

「ちょっと久しぶりですね。9月は霧、出なかったですし」

 

「ずっと出ずにいてくれりゃあ、良かったんだがな」

 

「そっすね……」

 

(む……)

 

 堂島は眉をぴくりと動かした。一条は言葉では同意している。だが内心は違う。違うことが声の響きの中に伺えた。一条の同級生などの一般人であれば分からない程度の微かなニュアンスだったが、刑事の耳には聞き分けられた。

 

「一条」

 

「はい?」

 

「お前は何の為に戦うんだ?」

 

 酷く漠然とした問いに、高校生は一瞬目を見開いた。

 

「え? そりゃあ……町や家族を守る為っすよ」

 

「違うだろう」

 

 再び嘘を聞き分けた堂島は一歩踏み込んだ。この二人は8月の花火大会でも話をしたが、今日はその続きが始まった。

 

「悪いが……お前たちの経歴なんかは調べてあるんだ。お前は養子で、一昨年妹ができたんだろう?」

 

 警察が人員を採用する時は、本人や親族に犯罪歴がないか身辺調査が行われる。犯罪者やその身内を抱えては、業務の遂行に支障が出る可能性があるからだ。そして警察と深い関わりのあるシャドウワーカーにおいても、同様の調査はされる。新人が加入する際には、桐条グループと公安によって過去は調べられる。かく言う堂島自身も、5月の加入時には職歴や家族構成を調べられている。そして稲羽支部の支部長である堂島は、足立を含む部下たちの経歴その他の情報を本部から渡されている。

 

「……ええ」

 

 一条は腕を組み、堂島から目を逸らした。堂島の言う通りなのだ。一条は家族を守るつもりで戦っているのではない──

 

「旧家って色々面倒なんですよ。普通の家じゃ信じらんないようなこと、マジであるんですって」

 

 家族に対する、または家業に対する思いは人それぞれだ。反発する者もいるし、誇りに思う者もいる。一条は前者である。ただその気持ちを、こうもはっきりと口にするのは珍しい。それは見方を変えると、一条は堂島に気を許しているとも言える。二ヶ月前に一度、一緒に戦っただけの関係にしては、かなり深く。

 

「血が繋がってないと、なおさらなんです」

 

「血が繋がっていれば、家族か?」

 

「そりゃ綺麗事って奴ですよ」

 

 血の繋がりのない家族は、血の繋がった家族とどれだけ違いがあるのか。良識のある人間ならば、『違いはない』と答えるだろう。だが複雑な事情のない普通の家庭で育った人間がそう言っても、現実に体験している人間には届かない。そして届いていないことを、一条は仮面の扱いが巧みな方であるにも関わらず、敢えて隠そうとしていない。つまり一条は本音で話している。

 

「そうじゃない。逆だ」

 

 そして堂島も本音で応じている。

 

「血の繋がった親子兄弟の間で起きる事件が、この世にいくつあると思う?」

 

「……」

 

 一条は黙った。堂島は世間の無責任な評論家でも、社会派のテレビ番組で弁舌を振るうコメンテーターでもない。刑事だ。世の中で無数に起き続ける様々な事件を、一条の年齢よりも長い期間に渡って捜査してきた。綺麗事とは対極に位置する、紛うことなき現実を見続けてきた人間だ。現実に裏付けられた重さが、堂島自身に現実感を与えている。

 

「たとえ事件にならなくても、とても家族じゃない家族なんか、山ほどいるぞ」

 

 家族かどうかは、血縁だけでは保証されない。血が繋がっていても家族でない者たちが、それを証明している。堂島はそう考える。例えば自分のような──

 

「……済みません」

 

 堂島はもちろん具体的な例を挙げてはいない。だが一条は堂島の短い言葉に、真率の響きを聞き分けた。自分の稚気が急に恥ずかしく思えてきて、腕組みを解いて頭を下げた。

 

 一条は堂島に気を許している。その最初の契機は、一条にとっての事の発端であるシャドウに襲われた7月の霧の日だ。アパートの門前で腰を抜かした一条のもとまで、最も早く辿り着いたのは堂島だった。一条自身はペルソナ覚醒に伴う記憶障害を起こしたせいで、あの夜の出来事をほとんど覚えていない。しかし意識の表面に出てこなくても、無意識の領域に何かが残ることはあり得る。

 

「堂島さん……俺のこと調べてあるんなら、俺の生みの親が今どうしてるかも、ご存知ですか?」

 

 そんな霧に隠された記憶に後押しされるように、一条は尋ねた。その表情には、ある期待が浮かんでいる。

 

「居所とか分かります?」

 

 あの日、一条はシャドウの『声』を聞いて霧の中に誘い出された。それは誰の声だったのか、誰を装っていたのか、一条自身は知らない。記憶がないのだ。だが堂島には推測できる。あの時、前後不覚の状態に陥った一条は堂島に抱えられながら、うわ言で両親に呼びかけていた。その『両親』は、きっと今の両親ではない──

 

「既に亡くなっている……ということしか俺は知らん」

 

 桐条グループと公安による身元調査では、一条の実の両親についてはそこまでしか調べられていなかった。だが一条にとっては、それさえ初めて知ったことだった。

 

「そう……ですか……」

 

「済まん」

 

 堂島も頭を下げた。

 

「いえ……」

 

「お前はまだ若い。何の為に戦うかなんて、簡単に決められるもんでもない。町だの国だの言っても、実感は湧かんだろう」

 

 戦う目的を戦う前から決められるのなら、それに越したことはない。だがそういうものを持てるかどうかは、巡り合わせである。目的のない者は戦う資格がないとも、目的のある者は戦う資格があるとも、一概に言えはしない。一条は無論、堂島も知らないことだが、特別課外活動部の時代からはっきりした戦う目的を持たない者は何人もいた。

 

「だが家族の為……嘘でそういうことを言うな。そしてできるのなら……嘘にするな」

 

「……はい」

 

 そうして刑事と良家の養子は、互いに視線を外した。年若い少年は、できて一年ほどの商業施設に身を置きながら、古い実家がある方角を見やる。

 

(幸子……)

 

 養子の気持ちは複雑だ。家を取り仕切る祖母と、自分を孤児院から引き取った両親に対しては特に。だが妹は──

 

 一条は間もなく白い闇を吹き出す黒い闇を見つめながら、今度は堂島に問い返した。

 

「堂島さんは、お嬢さんや甥御さんの為に戦うんですか?」

 

「……そうありたいと思っている」

 

「おーい、一条! お、堂島さんもお疲れっす!」

 

 そこへ通りから長瀬がやって来た。まるで話が一段落したタイミングを見計らったように、ちょうどよく。

 

「お疲れです」

 

「こんばんは」

 

 それから間を置かずに尚紀が来て、結実が来た。高校生組はこれで全て揃った。残るは一人だ。

 

「む……来たか」

 

 一台の車が通りからやって来て、堂島の車の隣に駐車した。八人乗りのバンだ。エンジンが切られると運転席のドアが開いて、スーツ姿の一人の男が降りてきた。足立である。

 

「お疲れっすー」

 

「遅いぞ。お前が最後だ」

 

「済んません……夜に運転するの、久しぶりだったもんで」

 

 足立はばつが悪そうに頭を掻いて、相棒兼上司に謝った。今日はこの六人で全員である。有里は本部の仕事があるとのことで、今日の作戦には参加しない。ただしこれまでのパトロールで使用した、シャドウの探知機を搭載した車だけは稲羽に置いてある。管理しているのは、運転免許は持っているものの自家用車を持っていない足立だ。それに乗って、足立は自宅からここまで来たのだ。

 

「さて……小沢」

 

 全員揃ったところで、堂島は高校生の一人に向き直った。メンバーの紅一点で、8月から新加入した結実だ。覚醒から大分間を置いたが、結実は今日が初参加である。

 

「はい」

 

「俺たちの仕事は遊びじゃない。命の危険だってある。もし遊び気分や躊躇う気持ちがあるのなら、今すぐ家に帰るんだ」

 

 堂島は7月は尚紀に、8月は一条と長瀬に同じことを言った。ただし今日の堂島は以前の二度ほど表情に怖さがない。泣く子を黙らせるか、更に泣かせる鬼は出てきていない。それは結実が女であるからか。それとも高校生の新加入はもう三度目なので、慣れてしまったのか。

 

「私、やります」

 

「なぜだ?」

 

「自分の人生を守る為です」

 

 人生──

 

「そうか」

 

 娘と稲羽支部の部下たち、そして甥とその友人たちが一堂に会した、8月終わりの花火大会を思い出した。この背の高い少女が甥と何やら仲が良さそうにしていたところを、堂島も目撃している。守りたいものが『人生』であるとの結実の答えには、一条が『町や家族』と答えた時と比べて、嘘の響きが伺えなかった。それはもしや、甥を念頭に置いているのか──

 

 だが堂島はそれ以上深く追及しなかった。視線を少女から外し、部下の男たちを見回した。

 

「お前たち……聞いているだろうが、小沢のペルソナは一人では戦えん。俺たちが守ってやらんといかん。いいな」

 

「はい」

 

「うっす!」

 

「了解です」

 

 かくして結実は稲羽支部に迎えられた。堂島は持っていたアタッシュケースを開き、用意された召喚器と眼鏡を新入りの少女に手渡した。眼鏡は紫のハーフフレームタイプで、他の皆のものより女性向けらしいデザインだった。ちなみに結実は冬物の制服を着ており、男たちと違ってジャケットはない。その為、召喚器の携行にはショルダーホルスターではなく、一見するとウェストポーチ風の腰に巻くタイプのものを使う。

 

 結実が召喚器の装着を終えた頃、ちょうど日付が6日に変わった。そして天気予報の通りに霧が出始めた。

 

「出てきたぞ。皆、眼鏡をかけろ」

 

 季節は秋を迎え始めており、気温は日々下がり続ける。夜であればなおさらだ。元よりある寒気に追い打ちをかける、白い闇がどこからか湧いて出てきた。実戦の前の緊張感をより高め、遊び気分を冷やす。眼鏡をかけて視界を確保しても、体に感じる寒さは変わらない。

 

「小西、始めろ」

 

「はい」

 

 支部長である堂島の命令に応えて、情報担当の尚紀は上着から召喚器を取り出し、額に当ててガラスを割った。イナバノシロウサギと呼ばれる動物のペルソナが現れ、尚紀の周囲をぴょこぴょこと跳び回る。他の五人は各々スマートフォンを手に取って、探査の結果が出るのを待つ。

 

「出ました」

 

 稲羽支部は霧の日のパトロールに際して、尚紀の探査結果を車のカーナビと各隊員の端末に表示させるようにしている。尚紀が初めて作戦に参加した7月以来、いつもそうしてきた。なぜかと言うと、稲羽支部の戦闘地域は町全体に及ぶので、集合場所であるジュネスから現場に向かうのは車を使う。当然ながら尚紀は運転できないので、こういうシステムが開発されたわけであるが──

 

「な……!?」

 

 光点が表示されている地図上の位置を確認した途端、堂島は目を見開いた。今日はずっと冷静でいたが、大人らしい貫録は消え失せた。一瞬にして、傍目にも分かる驚愕と動揺に覆われた。

 

「ここって……堂島さんちじゃないすか!」

 

「え……そうなんですか!?」

 

「マジっすか!?」

 

 探査した尚紀を含めて、驚きの声がいくつも重なった。稲羽支部の高校生組四人は、堂島宅にはまだ行ったことがない。

 

「菜々子……悠!」

 

 堂島はシャドウワーカー本部を無条件に信頼しているわけではない。しかしだからと言って、深夜の副業をしない選択肢は堂島にはなかった。シャドウを放置していては、いつ娘や甥に被害が及ぶか分からないからだ。つい先ほど一条と話した通り、それこそが堂島が戦う最大の動機だった。だがまさか、本当にその時が来るとは思っていなかった。危機をあらかじめ覚悟しておくことと、現実に危機が発生することは別である。

 

「急ぎましょう! みんな、乗って!」

 

 六人は大急ぎで車に乗り込んだ。運転席に足立が、助手席に堂島が飛び込む。高校生四人は二列ある後部座席に乗り込む。ドアが閉められるのも待たずに、足立はキーを回してエンジンを起動した。影時間にも稼働する特別車両は、急発進の甲高い排気音をマフラーから轟かせ、すぐに動き出した。タイヤで水たまりを蹂躙しながら、ジュネスの駐車場から一気に飛び出した。

 

 

 車に搭載された特別製のカーナビには、稲羽市の地図が映し出されている。レーダーよろしく全体が緑色に発光し、バーが回転している。その一角、自分たちが向かう先に光点が浮かんでいる様を、堂島は食い入るように見つめ続けた。それが消えるか、せめて場所を変えてはくれないかと。だがどれだけ待っても期待は現実にならない。シャドウ反応を表す印は地図上の堂島宅から動いていない。ならばシャドウの狙いは──

 

(悠なのか……?)

 

 堂島が知る限りで、霧の日にシャドウに襲われた人間はこれまで九人。その実に半分以上、六人が八十神高校の生徒だ。あの高校は呪われているのかと、8月の霧の日には思った。もちろん馬鹿馬鹿しい思いつきに過ぎないので、本気で検討したり本部に報告したりはしなかった。だが今晩の被害者が甥だとしたら、いよいよ『呪い』を疑わねばならないかもしれない。

 

「堂島さん、もうすぐですよ!」

 

 隣の運転席から声をかけられて、堂島は我に返った。甥は心配だが、今は余計なことを考えている暇はないのだ。車は法定速度の二倍を超える猛スピードで、自宅近くの見慣れた道路を疾走している。もう間もなく到着するはずだ。

 

「よし……小西、状況は?」

 

「玄関前の道路にシャドウがいます。泥の奴が三匹。アルカナは正義。外に出ている人はいません」

 

「……もう目視できます! 停車します!」

 

 言うが早いか、足立はブレーキを強く踏み込んで車を急停止させた。警察官にあるまじき乱暴な運転である。普段の堂島なら確実に雷を落とすところだが、今はもちろんそんなことを気にしている暇はない。シートベルトを急いで外し、霧の中へと真っ先に飛び出した。

 

「タヂカラオ!」

 

 そして即座に召喚器を抜き、ガラスを割った。現れた制服警官のペルソナはいつにも増して力感に溢れて、両の拳を軽く握って腰を深く落とす。次の瞬間、巨体を跳ね上げてシャドウの群れへと吶喊した。

 

 ──

 

「うっわあ……」

 

 声を上げたのは新加入した結実だ。堂島のペルソナは鈍重そうだが、攻撃に移る際の瞬発力は凄まじい。相撲の立会いにも似た突撃に続いて、二本の剛腕を目にも止まらぬ速さで振り回す。あまりの速さに、手先は拳なのか張り手なのかは見えない。それどころか、手が敵に直接触れたかどうかも見えない。見えたのは、家の玄関前にたむろっていた泥濘たちが、文字通り霧消するところだけだった。

 

「堂島さん!」

 

 最初の敵を一瞬にして蹴散らした支部長の元へ、部下たちが集まった。

 

「小西、シャドウはどれくらいいる?」

 

 振り返った堂島は、一息つく間もなく状況を確認する。霧の日の傾向から判断すると、出会い頭のシャドウを倒しただけでは終わりにならない。家族を狙う怪物は、きっとまだいる。そんなありがたくない予想を込めて、部下に尋ねたが──

 

「集まってきてます。数は四十、いや五十……」

 

「何だと!?」

 

 まだ終わっていないことは予想した通りだったが、数字は外れていた。これまでの霧の日では、同時に出てくるシャドウは大抵が一体から四体程度で、多くても十体ほどだった。だが尚紀の探査結果は、霧が晴れるまで一晩で狩り尽くす数に匹敵する。それが一度に押し寄せてくると言うのか──

 

「いいえ……まだ来ます! どんどん増えています! 今までにない数です!」

 

 見てみれば道路の側溝から、向かいの家の敷居から、電柱の陰から電線から、黒い泥濘がいくつも湧き出し始めている。そして玄関を背にして右手側へ首を巡らせてみれば、短い上り坂になっている道路の向こうから、大量の黒い塊が近づいてきているのが分かる。何十体ものシャドウが押し合いへし合い溢れかえり、道をすっかり塞いでしまっている。

 

(今日に限って……!)

 

 堂島は歯噛みした。身内が狙われている今日に限って。しかも最大戦力の有里が不在で、全ての指揮を自分が取らねばならない今日に限って、大挙してのシャドウのお出ましというわけだ。

 

(有里さん……貴方の力は不可欠だって言うのに! 来ない途端にこれだ!)

 

 間の悪すぎるシャドウワーカー本部を、特に有里を恨みたくもなる。しかし泣き言を言っても始まらない。こちらの人手が揃うのを、敵は待ってくれない。既に賽は投げられた以上、現有戦力で何とかしなければならない。腹を括って、部下たちに基本的な指示を出した。

 

「先陣は足立だ。お前はいつも突っ込みすぎるから、程々にしろよ!」

 

「分かってますよ!」

 

 足立は既に右手に実銃を、左手に召喚器を持っている。準備は万端だ。そしていつもは飄然とした顔に、普段とは違うものが浮かんでいた。まるで武装した凶悪なる犯人を前にしても、一歩も引かないと決意しているような。刑事であれば誰もが肝に据えておかなければならないもの、即ち覚悟を、堂島は初めて若い相棒の中に認めた。

 

「一条と長瀬は組んでいけ。互いの背中を守るつもりで戦うんだ!」

 

「了解です!」

 

「うっす!」

 

 鋭く返事をする二人組には、刑事の目から見ても遊び気分は伺えなかった。この二人は高校の部活を通じて甥と親しくしていることは、堂島も知っている。思いがけない友人の危機によって、俄かに本気度合いが増したのかもしれない。

 

「小沢は全員に補助をかけろ。小西はシャドウの解析だ。それから新手が出たらすぐに言え! 見落とすなよ!」

 

「はい!」

 

「必ず、全部見つけます」

 

 少ない街灯と車に備え付けられた照明に照らされて、黒い泥はじわじわと忍び寄ってくる。中には宙に浮いて球形にまとまり、何かの形を取り始める個体もいる。六人のペルソナ使いとシャドウの群れ。両者の距離はもうごく僅かだ。霧に蠢く怪物たちは言葉を持たず、自我も持たない。それでいて殺気は放たれてくる。緊張感が音を立てて満ちてくる。

 

「みんな、今日の作戦は絶対に失敗できない! 一匹も逃がしちゃ駄目だ!」

 

「皆、頼むぞ!」

 

 副支部長の発破がけと支部長の宣言で、稲羽支部の四度目の戦いが開始された。本部の応援がない中で、初めて支部隊員のみで戦うことになった。フォーメーションは先頭に足立、左右の斜め後ろに一条と長瀬、全体を見渡せる中央に堂島。尚紀と結実は堂島の後ろで、家の引き戸のすぐ傍だ。

 

 

「マガツ!」

 

 六人の先頭に立つ足立は、右手で実銃を撃ち、左手で召喚器を撃つ。二丁の拳銃を交互に撃つだけでなく、時によっては同時にも撃つ。銃弾、落雷、竜巻でシャドウの群れを薙ぎ払う。ただしやみくもにはやらない。

 

「腕の奴は風に弱いです! 天秤は打撃で! 魔法はほとんど効きません! 状態異常はどれにも効きます!」

 

 足立は尚紀が叫び続けるシャドウの解析結果に従い、最適な手段を選んで放つ。そして堂島は解析を耳に入れつつ、他の高校生たちにもう少し具体的な指示を出す。

 

「長瀬、棍で攻める時は深入りするな! この数だ、囲まれたら終わりだぞ! 一条は氷に弱い奴以外には、混乱を仕掛けて同士討ちを誘え! 無駄撃ちしてる余裕はないぞ!」

 

 二人の大人と二人の若者たちは、繰り返し押し寄せるシャドウの群れを受け止め、押し返し、叩き潰して戦う。ペルソナの矛、鉄籠、鞭、そして剛腕が唸る。炎、氷、雷、風が前後左右に飛び交い、その隙間を縫って精神攻撃も舞い踊る。シャドウが消える際に発する黒い煙はいくつも重なって、白い闇の下で火災のように広がっていく。

 

 その様を戦列の最後尾から見つめながら、結実は思う。

 

(生き抜くことが全て……)

 

 雲霞の如き異形の大群と、それに立ち向かう四人の男たち。その姿は、今年の夏まで練習していたある劇を、現代の女子高生に思い起こさせる。実在した戦時中の女学生たちの物語だ。結実は主役を張る予定だったのだが、父の帰郷と入院によって練習ができなくなり、心ならずも役から降りねばならなくなった。当時は酷く悔しい思いをしたものだったが、今になって新たな『役』を与えられた。

 

 ステージを照らすスポットライトもなければ、舞台映えする衣装もない。その代わりに、霧を貫く眼鏡を顔にかけている。そして超常の兵器を携えて、戦場の『舞台』に立つことになったのだ。

 

「うぐっ!」

 

 前線で体を張る四人の男たちの一人で、クラスメイトの少年が呻き声を漏らした。地面から腕だけが生えているような姿の怪物が、長瀬の前に立ちはだかっている。ロボットアームめいた手に持った巨大な剣を叩き付けてきたのを、長瀬はかわし損ねて負傷したのだ。ジャージが肩から袖まで裂けて、その下から血が噴き出している。

 

 結実は拳銃の形をしたものを両手で持って、銃口を自分の顎に当てた。そして目を閉じる。まるで祈りを捧げるような、拳銃自殺の姿勢を取る。だがもちろん結実は自殺しようとしているのではない。その手にあるものは、ありふれた殺しの道具ではないのだ。人を殺す為だけではなく、生かす為にも使える。

 

(生きる為には、人も生かさなければならない……!)

 

 夢想が現実に転化したステージで、結実は何度目かの引き金を引いた。

 

「キサガイヒメ! 助けてあげて!」

 

 金糸で刺繍をした豪華な振袖をまとった、女のペルソナが出現した。それは長い袖を巡らせ、光の粒をクラスメイトに向けて放つ。

 

 結実のペルソナ『キサガイヒメ』は隠者のアルカナに属し、能力は回復と補助に特化したものだ。一方で攻撃能力はないに等しく、完全な後方支援向きだ。軍隊で言えば衛生兵か輜重兵のようなものである。シャドウワーカー本部にも、こういうタイプのペルソナ使いはいない。ゆかりや天田は回復が得意だが、それなりの攻撃手段も持っていた。

 

 しかしキサガイヒメは攻撃できない代わりに、回復の効果は高い。打ち身や切り傷は言うまでもなく、火傷や凍傷、骨折も物の数ではない。体に穴が空こうが、致命傷でない限りは一瞬で治してしまう。離れた位置にいても届くし、一度に複数人を手当てすることも可能だ。

 

「凄え効き目だな。服まで元通りだぜ」

 

 ペルソナの回復魔法を浴びた長瀬は、あっという間に癒えた自分の体を確かめた。そして棍と召喚器を手に、再び敵に立ち向かう。戦線から脱落するところだったのを、結実によって引き留められたわけだ。戦争で言えば補給を受けたのに近い。前線の戦力がいくらあっても、補給のない軍隊は長丁場の戦いには勝てない。今日からそれを得た稲羽支部は、継戦能力が大幅に向上したのだった。

 

 

 二年前に港区で繰り広げられていた戦いについて、堂島はある程度は聞いている。普段の影時間にはタルタロスを探索し、月に一度の満月の夜には小粒なシャドウとは一味も二味も違う大物と戦っていたと。

 

 翻って稲羽支部の戦いは、特別課外活動部が行ってきた二種類の戦いのいずれとも性質が異なっている。敵を探し出して殲滅し、被害者がいれば保護するのが目的だ。迷宮を探索するのではなく、特定の個体を標的とするのでもない。つまり明確な目標に向けて邁進する類の戦いではないのだ。霧が出てから晴れるまでという、ある程度一定した時間を戦い抜くこと。それが稲羽支部の任務だ。言うなれば、時間制の持久走のようなものである。

 

 堂島は部下たちを指揮し、自らも警棒とペルソナでシャドウを叩き伏せながら、『耐久レース』の経過に手応えを感じていた。

 

(俺たち、意外といけるか……?)

 

 稲羽市のシャドウ対策に本部の知見、技術、戦力は不可欠。堂島が公安にそう報告したのは先月である。だが有里がいない中でも、稲羽支部はシャドウの大群相手に十分渡り合っている。その要因は色々ある。最大のものは足立だが、四人の高校生たちの活躍が堂島の予想を大きく超えているのも見逃せない。

 

 特に新加入した結実だ。これが初めての実戦でありながら、得体の知れない怪物たちを前に恐怖はおろか、緊張する様子さえ見せず、堂々と自分の仕事をしていた。負傷者を手当てするだけでなく、補助魔法と呼ばれる系統の力を繰り返し使い、男たちの膂力や魔力を底上げしてくれる。

 

 しかし戦場の局面は時々刻々と変わっていく。ある時は良くても、良い状態がずっと続くとは限らない。何しろ相手のいる話なのだから。その相手の動きを、四方に網を張っていた情報担当が察知した。

 

「シャドウが家の裏側に現れました!」

 

「何!? 数は!?」

 

「二十、三十……集まっています! こっちと同じくらいいます!」

 

「くっ……!」

 

 まずい状況である。こうした建物の防衛戦においては、敵が攻めてくる方角が重要になる。一方面だけを守っても、他の場所から突破されれば意味はなくなる。堂島宅の裏手に勝手口はないが、シャドウが窓を破って侵入する可能性もないとは言えない。二手に別れるしかない。では誰を裏手に送り、誰が玄関側に残るか。人選を誤ると作戦の失敗に直結する。

 

 新たに立ち現われたこの重要な局面において、堂島は瞬時の決断を下した。

 

「足立、一人で行けるか」

 

「任せてください! 堂島さんこそ、僕抜きで大丈夫っすか?」

 

 若い相棒は即答した。普段はともかく、こういう時は頼もしい限りである。

 

「ふん、誰に向かって言っている!」

 

 正直に言えば、足立抜きで玄関側を支えきれるかは、かなり難しいところだ。高校生たちは意外なほどに頑張っているが、それは最大戦力である足立が六人の先頭で大きく構えていたからこそでもある。だが選択の余地はない。一人でシャドウの群れに対抗し得るのは、稲羽支部では足立しかいないのだ。変わりゆく戦局に対応するには、これまで有利に進められた布陣を崩す必要もある。

 

「庭を通っていけ!」

 

「はい! 尚紀君、危なくなったら、すぐ知らせるんだよ!」

 

 足立は玄関前の道路から、低い塀を乗り越えて堂島宅の庭に入った。そこは堂島の亡き妻が、生前に家庭菜園をやろうとしていた場所だ。夏の頃から妻の思いを甥と娘が引き継いで、色々な野菜を作っていた。堂島も早く帰ってきた日には、手入れや収穫を手伝ったこともある。そんな家庭の平和を象徴する庭を、銃を持った相棒は全速力で踏み越えていった。戦争になれば田畑など蹂躙されるしかない。

 

「俺が前に出る。お前ら、気合入れていけよ!」

 

 しかしそんな感傷に浸っている暇はない。堂島は警棒を持つ手に力を入れて、自ら先頭に立った。

 

 

 一方で足立は堂島宅の庭を走る。ちょうど実銃の弾丸を撃ち尽くしたところだったので、走るついでに再装填を行った。

 

「よっと」

 

 左手の召喚器はホルスターに戻さず、小指をトリガーガードに引っ掛けておく。残りの指を使って予備の弾丸をスーツのポケットから取り出し、右手の実銃に込める。随分と器用なことをしながら、足立は庭を駆け抜ける。再装填を終えたそのタイミングで、庭の一番奥まで辿り着いた。走る足は止めず、実銃のグリップを塀の上に押し当てて、それを支点に軽く跳躍して乗り越えた。そして空中で左手の召喚器を持ち直し、こめかみに当てる。

 

「マガツ」

 

 家の裏手側の道路に降り立つと同時に、マガツイザナギを召喚した。ただしシャドウを蹴散らす為に呼んだのではない。血に塗れた魔人のペルソナは矛を地面に突き刺した。同時に炎に似た光が使用者の足元から立ち上って、渦を巻きながら体を覆う。その勢いは激しく力強い。炎が消えると、足立は体に力が漲るのを感じた。

 

「よっし、準備万端!」

 

 今のは膂力、魔力、耐久力、敏捷性の全てを一気に強化するという、最高レベルの補助魔法だ。しかし全員にかけて回ると手間なので今日の戦いでは足立はこれを使わず、補助は結実に任せていた。だが単独で戦うこの局面では、非常に効率的である。

 

 足立は着地した姿勢から膝を起こし、充実感のある目をシャドウの群れへと向けた。ざっと数えて四十体近くいる。しかし足立は余裕を崩さない。相棒とは対照的に緊張さえしない。なぜか? 答えは簡単だ。足立は強いからである。今日のレベルの敵なら、ほぼ無傷で殲滅できる自信がある。

 

(おーおー、来るわ来るわ。大漁だねえ?)

 

 ペルソナは特定の能力に特化したタイプが大半だ。堂島は物理、一条は氷結と状態異常、長瀬は火炎と物理、そして結実は回復と補助。だが足立は物理、電撃、疾風、万能、状態異常を使いこなし、おまけに補助までできる。それでいて昨日のマヨナカテレビに登場した直斗の鏡像と違って、決して器用貧乏ではない。使える力の全てにおいて、特化型と同等以上の領域で行使できるのだ。

 

 全方位型かつ強力という、極めて珍しいタイプのペルソナであるマガツイザナギを持つ足立は、一人でシャドウの大群を相手取ることもできる。ワイルドのペルソナの中にも、こんな便利なものはめったにない。そしてワイルドをも凌ぐ、ある長所が足立にはある。

 

(この数を独り占めか。みんな、ごめんね?)

 

 ペルソナの成長が著しく速いことだ。足立が実戦の場に立つのは、4月に初めて召喚した時から数えてまだ五回目だ。たったそれだけで、かつて過酷な一年を戦い抜いたシャドウワーカー本部のペルソナ使いたちに迫りつつある。

 

 こうした道理に合わないほどの急激な成長は、実は過去に前例がある。特別課外活動部の時代において、有里が築いていたコミュニティの担い手の一人で、運命のアルカナを持っていた男だ。

 

 コミュニティと呼ばれる絆によって、主であるワイルドは強化される。だが担い手の側も強化される場合がある。有里が築いていた絆の担い手たちは、強化されたのは運命の男だけで、他のペルソナ使いたちには何も起こらなかった。悠の場合においては、特別捜査隊の仲間たちは全員強化されている。ただしその幅は有里の運命の男ほどではない。稲羽支部のペルソナ使いは足立以外には何も起きていない。そして足立の成長速度は運命の男を凌ぐ勢いだ。

 

 なぜそうなったのか。それは各々がペルソナに目覚めた要因と、ペルソナ同士の神話的な関係による──

 

「そんじゃ、やりますか」

 

 道化師の絆の『恩寵』を受けている足立の戦力は、稲羽支部の中で突出している。それだから、今日は一人で一つの方面を任された。そしてますます他の皆との差が広がるのだ。

 

 

 家の裏手側で足立が縦横無尽に暴れ始めた頃、六人中五人が残った玄関側では、尚紀が解析を終えた合間に敵シャドウの種類に考えを巡らせていた。

 

(正義ばっかりだな)

 

 7月に一条を助けた時は、現れたのは剛毅のシャドウばかりだった。8月の結実の時は隠者ばかり。そして救助した彼らが得たペルソナのアルカナは、襲ってきたシャドウと同じだった。偶然と言うにはいささかできすぎている。つまり霧の日のシャドウは、自分と同じアルカナの人間を狙っていると考えられる。そして今日は正義ばかりだ。

 

(それってつまり……)

 

 尚紀は振り返って、堂島宅の二階を見上げた。道路に面した窓のカーテンは閉められているが、部屋の灯りは点いている。今まで堂島にも、同居している悠にも誘われた機会がないので、上がったことはない。誰の部屋なのかは分からないが、今そこにいる人はきっと正義のアルカナを持っている。それは推測できる。

 

 ただ群れをなす正義のシャドウたちが狙っているのは、堂島の娘なのか甥なのか。二人のどちらであるのかは、尚紀にも判然としない。尚紀は悠とは学校の内外で何度も会っているし、菜々子も花火大会で顔は見たが、それだけでは分からない。ペルソナ使いであるかどうかは情報系ペルソナで詳しく調べればともかく、肉眼で見ただけでは分からないのだ。まして未だ目覚めていない素養があるだけの人を、それと判定するのはかなり難しい。影時間の再現装置を使って、象徴化するかどうか試せばすぐに分かるが。

 

 

 

 

 尚紀が見上げた堂島宅の二階、電気がまだ点いているのは悠の部屋だ。日付が変わった深夜の時間に、悠は机に向かっていた。勉強しているのだ。八十神高校は来週から中間試験が始まるので、それに備えているのである。昨年までの悠は、試験前日でもない限りは夜遅くまで勉強などしなかったが、今はしている。

 

 一学期の期末試験は、試験の直前に様々な騒動があってろくに勉強できなかった。その為、大半の科目が平均点そこそこだったが、倫理だけはそれ以前から勉強していたので非常に良い成績を取れた。努力と結果が結びついた実績を得た悠は、向学心も芽生えたのだ。

 

 更に言うと、夏休みの宿題は終わり際まで残して徹夜で片付けたが、そのせいで翌朝に頭が朦朧として花火大会でトリプルブッキングをしてしまった。あの失敗を繰り返さない為にも、一夜漬けはもうやめようと決心していた。ついでに言うと、ある生意気な中学生の家庭教師のアルバイトを、先月からするようにもなった。かの塔の中学生はかなり優秀なので、勉強しておかないと教えるどころか恥をかくことになりそうという、高校生としては情けない事情もあった。

 

(ん?)

 

 世界史の年表を頭に叩き込んでいる合間に、悠は自室のドアの向こうで物音がするのに気付いた。ドアの向こうである。カーテンを閉めた窓の向こうではない。不在の叔父が戻って来たのかと一瞬思ったが、それにしては音が軽い。不審に思った悠は、試験勉強を中断して部屋を出た。

 

 二階の廊下には寝間着姿の従妹がいた。小さな体をふらふらと左右に揺すりながら、ゆっくりと、非常にゆっくりとした足取りで階段へ向かっていた。

 

「たんたらたんたら……」

 

 歌いながら。

 

「菜々子?」

 

 声をかけると、菜々子は立ち止まって振り返った。頭の横で結んでいる髪が、小さく揺れる。その下にある目は、瞼が何とも重いようで細められている。

 

「だれかが……うたってる」

 

「え?」

 

「ピアノひいてる……」

 

 不審な様子である。同居を始めて半年になるが、菜々子のこんな姿は初めて見た。

 

「たんたらたんたら、たん、たらたらたら、たんたらたんたら、たらたらたららら……」

 

(パッヘルベルか?)

 

 四拍子のリズムを刻む菜々子の歌は、悠も知っている旋律だった。有名な曲なので、菜々子の亡母の遺産の中にも楽譜はきっとあるだろう。

 

「菜々子、誰も弾いてないよ」

 

 悠は菜々子の下まで歩み寄り、膝をついて視線を合わせた。

 

 この家にピアノはある。だが元の持ち主が亡くなった今、弾けるのはこうして廊下にいる従兄妹たちだけだ。もっとも悠と違って、菜々子はジュネスのテーマしか弾くことはできないが。ちなみに悠は自分のピアノにそれほど自信があるわけではない。高校卒業後の進路は特に決めていないが、取り敢えず音大は選択肢にないし、プロの音楽家はもっとない。だが菜々子が歌っている曲くらいは弾ける。しかし今は駄目だ。

 

「もう遅いよ。寝よう」

 

 昼間なら弾いてやってもよいのだが、今は真夜中だ。ピアノの演奏などしては近所迷惑になるし、何より小学生の子供が起きていてよい時間ではない。堂島は外出中だが、万が一弾いている最中に帰ってきたら確実に雷が落ちる。

 

「やだ……」

 

 しかし菜々子は言うことを聞かない。相変わらず寝ぼけ眼のままで、再び階段へ向けて歩き出そうとする。

 

「しょうがないな……じゃあ、絵本でも読もう」

 

「えほん……?」

 

「うん。行こう」

 

 小さな背中を押すようにして、悠は歩き出した。押す手には結構な力が込められていて、小さな菜々子は抵抗できなかった。

 

「……うた」

 

 従妹は自分の部屋に向けて歩かされながら、なおも呟いた。だがそれに対する従兄の反応は、特になかった。

 

 菜々子と違って、悠には歌もピアノも聞こえていない。家のすぐ外では叔父と友人たちが大立ち回りをしているが、その音も聞こえていない。これまでの霧の日もずっとそうだったように、シャドウに『声』をかけられていない悠には、外で何が起きているか分からないのだ。ペルソナは原理的には現実でも召喚可能であると修学旅行でクマから聞いているものの、その術を身に付けていない悠は、現実においては普通の少年と変わらない。

 

 もしクマの眼鏡をかけて外を見れば、さすがに分かっただろう。しかし悠にその発想はない。以前のクマはテレビの外に出る発想がなかったように。

 

 そして悠が気付いていない事柄に、気付いている者はいる。

 

 

「へっ、相変わらず雑魚ども以下のゴミシャドウばっか集まってやがんなあ?」

 

 特別捜査隊はテレビの霧の中で戦い、シャドウワーカー稲羽支部は現実の霧の中で戦う。この二つの事実を両方知っている者は特捜隊にはおらず、シャドウワーカーでも足立だけだ。そして足立以外では、皆月とミナヅキだけである。

 

『タヂカラオ!』

 

 霧の中に身を置く皆月はスマホを覗きこんでいた。映っているのは、四十がらみの男が自分の頭を撃ち抜いてペルソナを召喚し、地面から生えた腕のシャドウを叩きのめすシーンだ。

 

「ゴミの相手ばっかじゃ、つまんねーよなあ? ゴミソウジはソウジてつまんねーって言うしなあ?」

 

 皆月はスマホに電源を入れていない。それにも関わらず、なぜか映っている。電気や電波を必要としない映像と言えばマヨナカテレビだが、これは別物だ。似てはいるが違う現象を見ているのだ。霧の漂う外で。

 

「けどよ、喜べ。今日はちょいと変わった出し物があんだ」

 

 今晩の戦場となっている堂島宅から一キロと離れていない、住宅地の一角に皆月は身を置いている。互いの目には見えないし声も聞こえないが、情報系ペルソナ使いの探査の網には軽くかかる距離だ。何もせずただそこにいるだけでも、尚紀には気付かれるはずである。だから7月と8月の霧の日には、皆月はミナヅキに止められて家の外に出られなかった。

 

 しかし今日は出ている。体を共有する存在に止められもせず、堂々と外に出ているのだ。それでいて、尚紀にも気付かれていない。

 

「てめえら……僕の計画の実験台になってもらうぜ」

 

 一人笑う皆月は誰にも気付かれていない。未だこの世の誰にも、その存在を知られていないのだ。だがこの世のものではない存在に対しては、そうでもない。

 

「……」

 

 例えば創面の少年の後ろに控えている、金の瞳の少年とか。更にはそれの『作り方』を教えた存在とかだ。

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