タロットにはいくつかの版があるが、その中で最も一般的なマルセイユ版と呼ばれるカード群がある。その十九番目に挙げられる太陽のカードには、人の顔を持ち、光線を放つ擬人化された太陽が描かれている。言うまでもなく太陽は世界における光の源泉であり、光そのものだ。時には造物主と同一視されることさえある貴い存在でありながら、同時に旱魃や飢饉をもたらす破壊的な一面もあるのが太陽だ。
そうした二面性を端的に表しているのは、寓意画で太陽の下に描かれる二人の子供だ。この二人は双子であり、かつ性別が異なると見なされている。つまり二人の子供は相反する性質を持ちながら、互いに干渉しつつ、かつ共存する状態を表しているのだと解釈される。
なお前世紀の終わり頃から、ある企業グループは人間の秘められた可能性についての研究を行っており、『仮面』と名付けられたその能力をタロットの大アルカナに基づいて分類している。ただし少数の例外を除いて、確認できている『仮面』のアルカナは魔術師から刑死者に至る十二と、ゼロ番目の愚者のみである。この点から、十三番目の死神以降のアルカナに属する人間がいるとすれば、それはもう人間の範疇から外れてしまっていると見なされる。
例えば常人では銃を持っていても倒せない怪物を、素手や刃物で葬り去れるくらいのことは、容易くできる。それが当然なのだと見なされる。
「ははは……あーはっはっは!」
稲羽市を流れる鮫川は細いながらも魚が多く、釣り人たちの間では密かな人気を得ている。中でも川の主と呼ばれる大物を釣り上げることは、多くの釣り人の目標とされている。その目標を達成するには、雨が降って増水した時期が狙い目だ。そしてこの日の夜明け前、雨が上がって間もない頃の鮫川河川敷に一人の少年がいた。ただし少年がその手に持っているものは、釣竿と魚籠ではなかった。そして釣っているのは魚ではなかった。
持っているのは二本の刀で、釣っているのは影だ。いや、釣るのではなく、狩っていた。
「ヤベえ、ヤベえぜ! マジでシャドウがうろついてやがんぜ!」
一人で哄笑する少年の周囲には、人はいなかった。それ以前に、生物と断定できるものもいなかった。いるのは地面を這い回る黒い影が数体と、それらを覆い隠している濃い霧だ。日はまだ昇っていない。しかも白い闇が視界を遮っている。それにも関わらず、少年は一瞬も迷わずに影から影へと跳躍を続けている。二本の刀を一見するとメチャクチャに、だが無駄のない動きで振り回しながら。
左の刀を払い、右の刀を振り下ろす。大抵の影は最初の一手で横にさばかれ、仕留め損なっても二の手で縦に両断される。三の手で右の刀を振り上げ、四の手で左右同時に振り下ろす。そこまでやれば、影はここ数日続いた雨に散らされた桜さながらに、儚くなってこの世から消える。もののたとえではなく、本当に消える。
少年が解体している影は、斬ると消えるのだ。それは黒い泥の塊めいた不定型な体で、河川敷の砂利の上で自らの体を引きずるように這い回っている。少年を敵と見なすや、体の横合いから生えた手と言うか触手を叩き付けるのだが、少年にはかすりもしない。たとえ影が背後から襲っても、そこにも目があるような少年は半歩動いただけでかわしてしまう。その次の瞬間には逆襲の刀が左右どちらかから、または両方から殺到する。
そうして切り裂かれた影は、黒い煙を一瞬だけ発して白い闇に溶けてしまうのだ。太陽の光を浴びた影は、居場所を世界のどこからも失うように。そんな一方的な殺戮が数分ほど繰り返されて──
「もう片付いちまったか。おい! 次はどこだ!」
鮫川河川敷の桟橋近くで、数十体はいた影をあっという間に蹴散らして手の届く範囲から一掃した後、太陽の少年は一人叫んだ。影はいなくなり人は元より他にいないのに、なぜか少年は一人で喋った。そして背後を振り返った。あたかも目の前にいる誰かが背後の空間を指差して、それに釣られるように。迷いなく、間違いなく。
「そっちかあ! 次のエモノはエーモノかあ!?」
少年は両手の刀を下げ、切先を後ろへ向けて固定し、上体を低くして走った。かなり独特なフォームだが足は速い。雨で濡れた砂利道を音も立てずに滑るように、しかし風の速さで疾駆する。自然の風が息を潜めて霧を払わずにいる中で、少年自身が風となる。悪い視界、濡れた足元、大きさが一定しない砂利石。走るのに適さない要素がこれだけ揃っていながら、少年は転ぶかもなどとは考えない。そして事実、転ぶなどあり得ない。
「ん……何だよ」
走りながら再び少年は言葉を発した。相変わらず周囲に人はいない。彼は携帯電話を持っているのでも、無線機を使っているのでもない。しかし誰かに声をかけられて、それに答えるように口を動かした。
「んだとお……? けっ! 構いやしねえ! 見られたんなら、そいつもバラしちまえばいいだけだ!」
物騒なことを叫びながら、少年は駆け続けた。そして程なくして次の獲物に近づいた。白い闇に隠されて肉眼では見えないはずだが、それがそこにいることを少年は分かっていた。なぜなら彼は『教えられている』から。そして近づけば、見えなくても『感じられる』から。
「死にやがれええ!」
低い体勢で走りながら、少年は両腕を大きく広げた。そして間合いに入る直前の一歩で、機械仕掛けのような速度で回転していた足の動きを急激に変化させた。足元の砂利を、更に細かく砕かんばかりに右足を強く踏み込んだ。それと同時に上体を左に捻り、全身を回転させた。そして袖をまくったシャツから覗く、束ねた鋼のように鍛え抜かれた右腕の筋肉が、野生の獣も慄く咆哮を発した。
──
少年は振り上げた右の刀の切先で、獲物を引っかけるように跳躍した。その高さは少年自身の身長を超えるほどだ。最高点に達する前に、刀の先で影は裂けた。
今度の獲物は、先ほどの泥の塊のような不定型な影とは形が大きく違っていた。四肢をついて這いをする人間の赤子の姿で、頭頂部から蘭に似た花が生えている。人に近い姿形をしているのだが、やはり影である。その証拠は二つある。赤子ではあり得ない、成人男性ほどもある体の大きさ。少年の刀の一撃で両断されるや、煙となって霧に溶けてしまう死に際。悲鳴の一つも上げる間もなく、影は掻き消えた。
「あ……」
影の代わりに声を上げたのは、一人の少女だった。ただし何か意味のある言葉ではなく、事切れる直前の最後の呻きのようなものだった。花の咲いた影が消え、霧だけが覆う河川敷の砂利の上で、少女は仰向けに倒れていた。年の頃は十代後半くらいで、高校の制服と思しき服を着ている。肌は白く、髪は背中まで届くウェーブした金髪で、どちらも手入れが行き届いたものだった。もっとも二刀流の少年は、少女の容貌などに気を留めはしない。気を留めるのは少女の様子だ。
「こいつ……?」
少年は右手を返し、横たわる白磁の頬を刀の腹で叩いた。脅すような行いだが、少女を傷つける意図はない。ただ少女の状態に不審を覚えていた。と言うのも、目を開けたまま倒れていたのだ。しかしその瞳は虚ろだった。何かを見ているようで、何も見ていない。霧に隠されているからではなく、本当に何も見ていない。そうかと言って、死んでもいない。少女は息だけはしている。少年はもはや体の一部と化した刀でもって、少女の呼吸を感じ取っていた。
「おい、この女、どうしちまったんだ。頭イカレちまったのか?」
少年は再び独り言らしき言葉を発した。しかし実は独り言ではないのだ。影を追って霧へと消えるはずの言葉は、そこにいるもう一人が漏らさずに受け取っている。どんな小声も逃さない。
「影人間……? そっか、これがか」
太陽を象徴とする少年は先ほどから一人で話しているようでいるが、実は本当に『他人』と会話していたのだ。彼は傍目には見えない『もう一人』に、目を開けたまま意識を失っている少女の状態について聞いて、返ってきた答えを繰り返したのだ。ちなみに河川敷を走っていた時は、彼の脳裏には『シャドウに襲われている人間がいる』との言葉が届けられていたのだった。
その時、河川敷に一陣の風が吹いた。地上を支配する霧に恐れをなしたように、息をすることを止めていた風が、突然その仕事を再開した。それによって顔に十字の刻印が押された少年の顔が、白い闇の中から露わになった。ただし外からは見えないもう一人の姿は、露わにならなかった。
『間もなく霧が晴れる。すぐにここを離れるべきだ』
「ちっ……もう終わりかよ」
少年は舌打ちした。だが言われたことには従って、左右の刀を手の中で一回しすると、腰に巻いた上着に差した鞘に納めた。そして踵を返し、元来た道を戻っていった。河川敷に倒れたままの少女には、もう見向きもしない。
「ま、いっか! 霧が出たらシャドウも出るってんだろ? まだまだ楽しめそうじゃんか! ははは!」
少年は楽しそうに笑っている。十代半ばくらいの年頃からすれば、数年は幼いくらいに無邪気に。授業の合間の休み時間の終了を告げるチャイムに軽く不満を漏らしたものの、すぐに次の休み時間を楽しみにするように。だが脳裏に届けられた次の言葉が、子供らしい笑顔を消した。
『いや、今後は注意すべきだ。影人間が出たとなれば、桐条が動くぞ』
「クソ虫どもか……あのクソ野郎のクソ溜めか!」
言いながら少年は両の拳を握った。刀を持ち慣れて皮膚の厚くなった若い手が、鉄の硬さを帯びた。足元の石を拾えば、粉々になるまで握り潰せるに違いない。現代日本で普通に生きてきた同年代の少年と比較して、いや、戦乱の続いた時代の武人などから見ても、異常の域に達した力が込められている。
『まずは情報を集めることだ。この町で何が起きているのか、桐条がどう動くか……次に霧が出るまでに調べなければならないことは、山ほどある』
「ああ、任せときな! 僕ってハッキングは得意だからなあ! ハッカーハカセにハカセらんねえ謎はねえってな! なんつって!」
太陽の少年が河川敷から立ち去って数分後のこと。東の空から昇る自然の太陽に追い立てられて、稲羽市を覆った霧は晴れた。そして夜の間はずっと隠されていた一人の少女の遺体が、衆目に晒されることとなった。河川敷ではなく、町のとある電柱の上で。遺体の名は小西早紀と言った。
「なあ、お前ら……」
生徒の突然の死を受けて開かれた、臨時の全校集会が終わった後。校舎の二階に続く階段の前にいた悠と千枝に、陽介が話しかけてきた。早紀の死を告げられてから表に出てきた決して薄くない憔悴の色を、整った顔に浮かべながら。
「あのクマが言ってたの、覚えてるか? こないだここに放り込まれた人みたいに、食べられちまうって」
そんな言葉から始まった陽介の話を、悠は黙って聞いた。
陽介は多少濁したり、わざと曖昧にしたりして、早口ながらもいささか回りくどく話した。早く言いたいのに説明するのが難しい。あけすけに言うのは躊躇われる。しかし言わずにはいられない。そんな焦りに後押しされて結果的に長くなった陽介の話は、要約すれば二つの見解だ。
一つ目は『アナウンサーの山野真由美と早紀は、マヨナカテレビに映っていた』。そして二つ目は『昨日に三人が迷い込んだテレビの世界に、死んだ二人も行ったのではないか』。その二つから導き出されるのは──
「山野アナと小西先輩は、向こうに放り込まれて殺された……。そう言いたいのか?」
三番目の見解は悠が口にした。ただし疑問形で。自分の中に未だ残っている、常識に配慮するように。
「……馬鹿げてるって思うかもしれないけど、無関係とは思えないんだ」
(馬鹿げてる……かな?)
悠は一度沈黙した。陽介の言葉を心の中で反芻しながら、考えてみた。マヨナカテレビは運命の人を映すと言われているが、実はそうではなくこれから死ぬ人を映す。死に方はテレビに放り込まれて。それは都市伝説によくあるバリエーションのようなもので、原形も派生形も等しく馬鹿馬鹿しい話だ。常識で考えれば。しかし──
「それで、どうするんだ」
馬鹿げているかどうか、結論を出す前に質問を重ねた。どんな回答が返ってくるか、半ば予想はできていたが。
「俺、もう一度行ってみようと思う。確かめたいんだ。どうして先輩が、死ななきゃいけなかったのか……」
「よ、よしなよ……。事件のことは、警察に任せた方がいいって!」
千枝は止めたが、陽介はその場から走り去った。準備するものがあるらしく、ジュネスへ先に行くと言い残して。残された悠と千枝は顔を見合わせた。
「取り敢えず、ジュネスに行こう」
「……そうだね。花村、放っておけないね……」
今週は多少の中休みはあったものの、ほとんど雨続きだ。これは体にいいからたくさん取りなさいと言って、教育方針を少々間違えている母親が子供に大量に飲ませる牛乳のように、今日も雨が降り続いていた。その中を陽介は走り、悠と千枝は歩いた。雪子は家業の手伝いが忙しいらしく来なかった。
余談だが、この日の朝、鮫川河川敷で倒れているところを発見された一人の女子生徒がいたのだが、そちらは全校集会では話題にならなかった。口の軽い生徒たちの間でも、特に噂にはならなかった。意識不明で病院に担ぎ込まれたのだが、やはり『逆さ吊りで死亡』に比べれば、インパクトはどうしても小さいから。かの女子生徒は校内では目立つ方で、早紀よりも知っている人は多かっただろうが、それでも話題にならなかった。今はまだ。
ジュネスの二階にある家電売り場は、今日も人の入りが少なかった。一階の食料品売り場は、この時間帯なら夕食のメニューを考える主婦たちで賑わうのだが、毎日消費する食料品と違ってテレビやパソコンを毎日買う人はいない。まして人が入れそうな大型テレビが並ぶ区画では、右手にゴルフクラブ、左手に十メートルはあるロープを持ち、しかもそれを腰に巻き付けている高校生がいても、見咎められずに済んでいた。
「来てくれたのか!」
「馬鹿を止めに来たの! ねえ、マジやめなって、危ないよ」
「ああ……けど一度は帰ってきたろ? あん時と同じ場所から入れば、またあのクマに会えるかもしれない」
「そんなの、何も保証ないじゃんよ!」
陽介と千枝は口論を始めたが、悠はそれには加わらなかった。二人の言い分を耳には入れていたが、口は挟まなかった。その代わり、昨日出入りし今は陽介がその前に立っているテレビの右手側、数歩離れた位置にある肖像に目をやった。
「おい花村、あれは……」
「ああ、お前も気付いたか。昨日見たポスター、あれだ」
悠が指差した先には和服姿の演歌歌手がいた。もちろん本物ではなく、とある有名家電メーカー製の最新型テレビの宣伝用パネルとしてそこにいた。
「え……あ、ホントだ! 昨日は顔なくて分かんなかったけど、柊みすずだったんだ……」
「そう。死んだ山野アナの不倫相手だった議員秘書の、奥さんな」
不審な死を遂げた一人が、恨んで当然であろう人のポスター。これは一つの状況証拠だ。犯罪の立件には至らなくても、都市伝説を馬鹿馬鹿しいと常識が一蹴するのを防ぐ歯止めにはなる。逆に常識の方をこそ蹴り飛ばして、非常識な世界へ飛び込む踏み台にさえなる。
「鳴上……頼む。俺を連れてってくれ」
陽介は既に踏み台に足を乗せている。そして悠にも乗るよう促してきた。それを断って常識と日常の中で、相変わらずの退屈なテレビ番組でも見続ける道を選ぶ理由を、悠は己の中に見出さなかった。
「俺も気になってたところだ。行ってみるか」
「ありがとよ! お前なら、そう言ってくれるって思ってた!」
「ちょ、鳴上君まで何言ってんの!?」
「里中も行くか?」
「何でそうなるわけ!?」
客観的に見れば正しいのは千枝だ。『向こう側』が早紀の死に関わっている可能性は、確かにある。一顧もせずに否定することはできないくらいに。しかし同じテレビから入ったとしても、今日も昨日と同じ場所に出るとは限らない。たとえ出られても、クマに会えるとは限らない。早紀を殺した何者かを見つければ、と言うより鉢合わせれば、早紀と同じ目に遭う。証拠品の類を見つけたとしても、テレビの世界がどうなどと警察が取り合うわけがない。
それらの諸々の危険や危険を冒す価値のないことを知らず、否、知っていても顧みず、崖へと向けて自ら踏み出す。その種の行動を人はこう呼ぶ。蛮勇。もしくは軽挙妄動。
「いや、いいよ。里中には他に頼みたいことあるし。これな。んで、お前にはこれ」
陽介は腰に巻かれたロープの端の一方を、千枝に手渡した。そして悠にはゴルフクラブだ。命綱と武器のつもりだろう。
「よし……じゃあ行こうぜ」
「ああ、ぐずぐずしても、しょうがないしな」
「ちょ、ちょっと待ってってば!」
焦る千枝の声を聞きながらも、悠はさっさと踏み台に乗った。昨日は足を滑らせて落ちたのだが、今日は自ら進んで崖へと身を躍らせた。
悠は一人だった。孤独という意味ではなく。友人は多い方ではなく、家族とも親密とは言えないが、だからと言って孤独と寂寥のうちに生きてきたつもりもない。ただ自分の行動を決める時、横から口出しをする相手はいなかった。
例えば姿は見えないものの、体か心のどこかに確かに存在していて、軽挙を諌めたり宥めたりしてくれる、自分自身に極めて近い存在などはいなかった。この先に待ち受けている苦難を既に知っていて、取り返しのつかない過ちを犯さずに済むように、密かに先回りして苦労を背負ってくれる、未来から過去に戻ってきた者もいなかった。ついでに言うと、神様か何かかの手引きによって世界の外からやって来て、本来はあり得ない不正な力を笠に着て、傲慢に振る舞い、独善に満ち、訳知り顔で説教を垂れ、目についた美少女たちを片っ端からものにするような、都合のいい男もいなかった。
要するに、禁じられた遊びに手を出すのを止める者は、悠の周囲にはいなかったのだ。八十稲羽に来てからの新しい友人たちと言えば、進んで手伝うか、たとえ止めても強くは止めないか、そのいずれかだ。保護者の叔父に至っては、遊びの存在をそもそも知らない。そして勇気を萎えさせ、決意を鈍らせ、己が生死の境に今まさに立っているのだと悟らせてくれる、あの身の毛もよだつくらいにありがたい、貴重な感情。即ち恐怖も、悠は『なぜか』感じてはいなかった。恐怖を知らないのではないはずなのに。
「いてて……」
「ここは……上手くいったみたいだな」
踏み台から勢いをつけて飛び降りた先は、見覚えのある場所だった。もちろん霧だかスモークだかに覆われてほとんど見えないのだから、見覚えと言っては正しくないかもしれない。だがとにかく全くの未知の場所ではなかった。昨日に滑って落ちた、あのスタジオだ。来る前から予想しえた最初の問題、即ち昨日と同じ場所には出られないかもしれない危険は、無事にクリアできた。ただし出口になる三段積みのテレビは既に片付けられたのか、ここにはなかった。
「お!? やったか! ちゃんと場所と場所で繋がってんだ!」
「キ、キミたち、何でまた来たクマ……」
そしてあの謎の着ぐるみ、クマもいた。二人の再訪に早速気付いて、こちらが呼ぶまでもなく霧の向こうからやって来た。ぴょこぴょこと足音を立てて。これにて二つ目の問題、クマに出会えないかもしれない危険もクリアできた。順調な滑り出しだ。しかし──
「わーかった! 犯人はチミタチだクマ!」
「って、おい! 今、何つった!? 犯人!?」
「最近、誰かがこの中に人を放り込んでる気配がするクマ。そのせいで、こっちの世界はどんどんおかしくなってきてるクマ……」
滑り出したところで、急につまずいてしまった。幸先よく現れてくれた着ぐるみは、勝手に話を進め始めた。
「キミたちこそ、ココへ人を入れてる奴に違いないクマアァァ!!」
「ちげーよ! そんな危ねえことするか!」
「証拠あるクマか!? 放り込んでるの、キミらじゃないって証拠!」
無茶な理屈である。ないことを証明するのは、あることを証明するより遥かに困難だ。これを俗に悪魔の証明と言い、それをしろと求めるのは無茶振りと言う。しかしそんな人間の論争における基本的な決まり事を、着ぐるみに求めるのも無理な話である。そして想い人を失ったばかりの陽介に、冷静な対応を求めるのも難しい話である。だから議論はしばらく平行線が続いた。
「大体なんだよ、そのふざけたカッコ! いい加減、正体見せやがれ!」
とうとうキレた陽介が、クマの頭を掴んで取り押さえた。そして首、正しくは首に当たる部分につけられたジッパーのファスナーを掴み、一気に引いた。すると──
「うおわっ!」
「か、空っぽ……!?」
それまで黙っていた悠も、思わず声を上げた。驚くべきことに、クマの着ぐるみの中には誰もいなかった。空洞なのだ。人間もそれに類するものも、歯車や電気コードなどの機械的な機構さえない。壺や甕のように内側に無を抱いた、外側だけの存在だ。しかも首が外れて孤独になった胴体は、手足を無闇に動かして慌てる素振りを示している。取り外された頭の方と言えば、驚いた陽介が床に投げ出した状態のまま、瞬き一つしないでいる。
「お、お前……何者だ?」
さすがに驚いた悠は質問、というか疑問を口にした。四日前に授業で聞かれた問いを、あり得ない存在に向けて放った。ただし授業では恫喝のように聞かれたが、聞く側に回った悠はそのようにしなかった。突然口を開けた虚空に、言い知れぬ薄ら寒さを感じてしまって、言葉に勢いが生まれなかった。
やがてクマの胴体は生き別れた頭を探し当て、本来あるべき場所に戻した。その表情には、悲しみが伺えた。
クマは着ぐるみでありながら、なぜか目も口も動く。言葉よりも確実に起源は古い、人間が自分を表現する為の最も原始的な手段の一つ、『表情』をクマは持っている。本来は当然あるはずの中身が行うべき行為を、中身のない存在は外側だけでやってのけている。
「クマは……クマクマ」
しかしクマの言葉は、表情ほど豊かではなかった。
「答えになってないぞ……」
そうなのだ。何者かとの問いに対して、名前だけでは答えにならない。そうかと言って、年齢や出身地を付け加えても答えにはならない。もし倫理の授業でそう答えようものなら、前歯が飛び出るほどの勢いをつけられた教師の罵声が飛んでくるだけだ。答えとして十全なものにするには、もっと別の言葉が必要だ。そして別の言葉を生み出すには、悠もクマも、陽介も持たない何かが必要になる。
「そ、そんなこと言われても……クマはただ、ここに住んでるだけ……。ただここで、静かに暮らしたいだけ……クマ。ここは、昔はもっとキレイで、いいところだったんだクマ……」
「な、何だよ……。どうも調子狂うな」
陽介が自分の額に手を当てながら、口を挟んできた。実際、調子の狂う相手である。冗談のようにふざけた姿なのだが、表情と声に含まれる響きには真摯なものがあった。
「キミたちが犯人じゃないって、信じてもいいクマよ? でもその代わり、本物の犯人を捜し出して、こんなことをやめさせてほしいクマ。このままじゃクマの住むここ、メチャクチャになっちゃうクマ」
「……」
悠は黙った。話がつまずいて迷走を始めた時、クマは言っていた。こっちの世界は、どんどんおかしくなってきていると。そしてこの世界にあるものは、見渡す限りの霧、霧、霧だ。これをそっとしておく選択肢は、『なぜか』浮かんでこなかった。
「……」
陽介も黙った。何かのきっかけによって変わってゆく世界。その巨大で、強力で、止める手立てなど想像もしづらい変化のうねりの中で、渦に飲まれて沈んでしまう人は確かにいる。そして一人沈めば、周囲の人間も一緒に沈むものだ。陽介自身も無関係ではいられないその変化に、大きな影響を受けていた人について、陽介は心当たりがあった。だから沈黙を続けた。
「そしたらクマは……ヨヨヨヨ……」
クマはとうとう泣き出した。もっとも本当に目から涙を流しているのかは、両手で頭を抱えて俯いてしまったので、傍からは見えない。しかし泣き声に含まれている真なる感情の響きは、涙というそれ自体は生理的物質に過ぎないただの液体の代わりを、十二分に果たしている。
「おい、どうする?」
異邦人の少年二人のうち、沈黙を破ったのは陽介だった。そして選択を悠に預けてきた。
「……」
預けられた悠は、もうしばらく沈黙を続けた。決断を迫られるのは正直に言えば面倒だ。しかし陽介が悠に預けるのは道理だ。昨日ここに来たのも、今日ここに来たのも、悠がいればこそだ。陽介は一人では、そもそもこの世界に入ることさえできない。つまり決めるのは悠一人だ。横から口出しする存在はいない。いるのは泣き出したクマと、この世界そのものだ。
「仕方ないな」
そう。仕方がないのだ。ここはクマに出してもらわなければ出られない、一方通行の世界なのだから。ならばその頼みは、ある程度は聞かざるを得ない。フロンティアに心躍るのは開拓者の業のようなものだが、それでも原住民に配慮は必要だ。そうしなければ、誰にとっても良い結果はない。
「約束してくれるクマか?」
クマは顔を上げた。黒い大きな着ぐるみの目に涙の跡はなかった。
「ああ」
悠は重ねて肯定した。クマが現に泣いている証拠を見つけられなかったことは、決断を覆す要因にはならなかった。
「俺たちで犯人を捜せ、か……望むところだ。その約束、乗ってやるよ」
「じゃ、これあげるクマ!」
クマは急に元気を取り戻し、どこからか何かを取り出して、陽介と悠に手渡してきた。どこから取り出したのかはよく分からない。胴体にポケットがついているのかもしれないし、着ぐるみの中の虚空から取り出したのかもしれない。しかし何であるのかは、一見して分かった。眼鏡だ。
「かけてみるクマ!」
陽介のそれは、いつも首にかけているヘッドホンの色に合わせたか、オレンジ色のフルリムのセルフレームタイプだった。悠のそれは、フレームのタイプは陽介と同じだが色は黒で、レンズの形が若干異なっている。どちらもスクエア型だが、悠の方はやや吊り目の形をしている。人間二人はどちらも視力に問題はないのだが、取り敢えずかけてみた。すると──
「うお、すっげえ……視界が全然違う。かけてると、濃い霧がまるでないみたいだ……」
驚くべきことに、眼鏡をかけると霧が見通せるようになった。クマの青色と赤色の鮮やかさや、毛並みのつややかさもはっきり見て取れる。そしてスタジオのようと感じたこの場所は、まさしくスタジオであることも分かった。トラス構造の梁は頭上だけでなく、床の周囲にまで張り巡らされ、四方からスポットライトで照らされている。そして足元は──
(ん……?)
悠は気付いた。昨日ここに来た時は、床には白線が引かれていることくらいしか分からなかったが、眼鏡で霧を見通すと何の形なのかはっきりした。人を象っている。床には三つの白い同心円が描かれていて、それに沿うようにして、人の形がいくつも並べられているのだ。事件や事故の現場で、死体があった場所を特定する為に引かれる、現場保存用の白線を連想させるものだった。
「で、犯人捜すって、どうすりゃいいんだ?」
「それはクマにも分からんクマ。でも、この前の人間が入り込んだ場所は分かるクマ」
悠が足元を見ている間、陽介はクマから情報を聞き出していた。悠も小耳に挟んでいたので、当座のすることは分かった。クマの言うこの前の人間とは、高い確率で小西早紀のことだろう。つまり彼女が入り込んだという場所へ行くのが、最初にやるべきことだ。
「よし……俺は花村陽介だ。一応、名乗っとくぜ」
「鳴上悠だ」
「ヨースケとユーね! クマはクマクマ!」
取り敢えず今日の方針が決まったところで、三人は互いに名乗った。
「行くか」
「ああ、行こうぜ。何で先輩が死ななきゃいけなかったのか、犯人は何者なのか……。調べに行こう」
そうして三人は歩き出した。しかし──
「花村、ロープ」
十歩も歩かないうちに、陽介の足元からペタペタと音がするのに気付いた悠が一声かけた。陽介の腰に結わえられた、ロープの端が床を引きずっていたのだ。
「ん? そっか。クマには会えたし、もういらねえな……って、切れてやがる……」
陽介は頼りない命綱を手に取って、呆れ顔で切れ端を二、三度振り回した。悠がテレビ画面に触れると、波紋が広がって入れるようになる。しかし波紋が消えれば普通のテレビに戻る。それと同時にロープは切れたのだろうと察せられた。陽介は脇腹に置かれた結び目に手をかけ、無用となったロープを外した。そしてその場に放り捨てた。それはちょうど床に描かれた白い人型の上に落ちた。命綱を捨てて、先へ向かうことになったわけだ。
死を暗示する白線を越えて、三人は歩き出した。この日の夜明け前、太陽の少年が現実の霧の中を駆けたように、悠はテレビの霧の中を歩き出した。崖から落ちた先にあった、遊びの世界へと踏み出した。