シャドウワーカー稲羽支部の戦いは、始めた当初は災害救助や有害鳥獣駆除のようなものだった。だが今日はそんな領域をとうに超えている。家の表と裏で二正面作戦を強いられてからは、激しさを増した。特に表の玄関側だ。最も頼れる副支部長が裏手に回ったので、代わって支部長が高校生たちの前に立っていた。
「ふん!」
堂島は警棒を振りかざし、天秤のシャドウを叩き伏せた。タヂカラオは物理的な攻撃に特化しており、堂島自身もその恩恵によって自らが振るう打撃も威力が出る。もし堂島が足立と戦えば、まず間違いなく勝てない。それは本人も分かっている。しかし膂力と耐久力に限定すれば、そうそう劣りはしない。相手に力が通じるなら堂島は活躍できる。しかし通じない相手も中にはいる。
「む……何だ、あれは?」
玄関から見て道路の右手側に、一際巨大なシャドウが現れた。金属質な装甲で全身を覆った人型、と言うよりロボット型のシャドウだ。見た目は子供向けの特撮やアニメのヒーローロボットのようで、ふざけていることに肩に『正義』と書かれている。身の丈は二階建ての堂島宅の屋根を超えるほどで、ガシャガシャと音を立てながら、大きな歩幅で一歩二歩と近づいてくる。
だがどれだけの巨体であろうと、サイズだけの話ならどうと言うことはない。対シャドウ戦において最も問題になるのは、まず実力。それは体長や体重とは無関係だ。そしてその次に問題になるのは──
「そいつは……打撃が効きません! 弱点もありません!」
耐性である。特定の攻撃が物理法則を超えて有効無効になる、耐性の不思議をどれだけ活用できるか。それが対シャドウ戦の鍵を握るのだ。指揮官の腕の見せ所もそこにある。
(ったく、自分の不器用さが恨めしいぜ……)
こういうタイプのシャドウが出ると、堂島としては非常に困る。自分の力ではどうやっても倒せないのだ。ならばどうするか?
「一条! 俺が奴を引き付けるから、その隙に氷を撃て!」
「はい!」
この局面では、足立以外では最も魔法的な力に優れた一条に任せるのが最善だ。堂島は前に立って巨兵のシャドウの攻撃を引き受け、防御に専念する。それが基本となる。しかし──
「また新しい奴が来やがったか!?」
長瀬の叫び声で振り返ると、今度は道路の左手側から新手がやって来た。体の大きさだけなら、右手側の巨兵に匹敵するサイズの巨人だ。装いは巨兵とは対照的に古典的なもので、釣鐘型の鎧を身にまとい、手には長剣と天秤を持っている。
「こっちも打撃が効きません! 弱点は……電撃です!」
まずい状況である。長瀬は火炎の魔法も使えるが、得意とするのは打撃だ。つまり現状で主力にせざるを得ない攻撃手段が通用しない敵に挟まれてしまった。
「小西、裏手はどうなってる!」
「足立さんが蹴散らしてますが……これは! こっちにいた小粒なのが向こうに流れていきました! 残りは二十匹くらいです!」
「ぬう……!」
堂島は奥歯を噛み締めた。自分とは対照的に多彩な力を持つ相棒ならば、二体まとめてでも倒してくれるだろう。しかしないものねだりをしても仕方がないのが現実というものだ。敵が接近している以上、今から相棒と持ち場を入れ替えるわけにもいかない。
「長瀬、左の奴を足止めするんだ! 倒さなくてもいいから、足立が戻るまで時間を稼げ! 小沢は長瀬の速さを補助しろ!」
「うっす!」
「はい!」
若者への指示を終えると、堂島はロボットめいた巨兵のシャドウに改めて向き直った。ちょうどそのタイミングで、巨兵は身の丈ほどもある大剣を、からくり仕掛けのような角のある動きで振り下ろしてきた。
「ぬん!」
気合の掛け声と共に、長さが六十センチ程度の警棒で大剣を受け止めた。対シャドウ戦において武器の大きさや重さはほとんど関係ない。ビルの鉄骨並の巨大な武器を現実に叩き付けられれば、原形も残さず潰されてしまうだろう。しかしシャドウの攻撃ならば、ペルソナ使いは真っ向から受けられる。
「エビス、撃て!」
防御に徹する堂島の陰から、一条は氷の弾丸を放つ。一発では終わらず、二発目を即座に放つ。しかし──
(きっついな……)
一条は召喚器を一旦頭から下ろして、息を吐き出した。巨兵のシャドウに氷結属性の攻撃は効いている。だが一つや二つでは倒しきれない。弱点ではないので怯みもしない。何発撃てばいいのか、先が見えないくらいだ。
(バスケじゃこんな無理したことなかったな……)
今日の一条は、得物としている流星錘をほとんど使っていない。多勢の敵に対抗する為、稲羽支部は当初から堅いフォーメーションを組んでいるからだ。仲間が密集していると、紐を介した武器は同士討ちの危険があるので使いにくい。だから今日はペルソナに魔法を撃たせてばかりだった。おかげで疲労はかなり来ている。ペルソナ能力にも限界はあるのだ。得意の氷も無限に撃てるわけではない。やり過ぎれば、いずれ力尽きるはずだ。
(けど、負けてらんねえか)
修学旅行で行った小料理屋で仲間たちと話したことを思い出す。霧の日にシャドウに襲われペルソナに目覚める人は、知り合い繋がりで芋づる式に来るようだと。言った時は冗談のつもりだったが、こうして支部長の自宅前で戦っている今になってみると、正解なのかもしれないと思う。つまり今日の被害者は皆の共通の友人である悠ではないかと、一条は疑っているのだ。そして友人を案じる気持ちと共に、もう一つの懸念を抱いていた。
(幸子……)
ペルソナ使いの知り合い繋がりで来るのならば、最も親しい人が狙われる日も来るかもしれない。妹だ。霧の煙る稲羽に住んでいる限り、いつかきっと妹もシャドウに襲われる。ならば自分はどうするか?
(家はお前が継げばいい。お兄ちゃんがお前を守ってやるさ!)
一条はシャドウワーカーの任務に遊び気分を抱いていることは否定できない。実家に対する思いも複雑だ。祖母と両親には特に。だが妹は違う。生まれたばかりの妹だけは違うはずだと、信じていい。信じることを自分に許していい。妹を守るとの思いは、きっと嘘ではない。昨日までは嘘でも、今は違う。そう信じて召喚器をこめかみに当てる。
肌に感じる銃口は冷たい。その冷たさを頭の奥まで浸透させる。熱気が籠る戦場にあって、一人だけ水を浴びているように。氷の柱が頭の中心から伸びて、背骨を通って足まで抜ける。揺るぎない力の柱は浮ついた少年の背筋を伸ばし、地に足をつけさせる。少年はそんなイメージを抱いて巨兵のシャドウを見据えた。召喚の儀式に入ってから、ここまでで時間にして三秒かけた。
やがて四秒が過ぎる。そして五秒目で、一条は引き金を絞った。
「エビス!」
頭上に顕現した優雅な青年のペルソナは、短い鞭を掲げる。だが弾丸は発さない。生み出された冷気は渦を巻き、局所的な吹雪となって巨兵を猛然と襲った。
──
ビシッと空気が張り詰める音が、堂島宅前に響き渡った。巨兵のシャドウは全身を白く染め、動きを止めた。凍りついたのだ。このシャドウは氷結に弱いタイプではないが、一条の渾身の一撃は耐性の有利不利を超えて効いた。時間をかけて集中した氷結の魔法は通常の倍以上の威力を発揮し、しかも敵の動きを封じてみせた。
こうした集中力を込めた一撃は、シャドウワーカー本部では隊長の美鶴が得意とする戦法である。一条の力の性質は元より美鶴と似ているが、全力以上を尽くさねばならないこの局面において、同じ必勝法を身に付けたのだ。
「堂島さん! 今なら打撃が効きます!」
「おう!」
尚紀の声に、堂島は振り返らずに答えた。
一方で長瀬は、家の左手側から現れた釣鐘型の巨人を相手に奮戦していた。頭上から振り下ろされる大剣に対して、棍を横に構えた防御の体勢を取る。太さが三センチ程度の棍は、巨大な敵の武器を防ぐにはいかにも頼りなく見えるが──
「よっと!」
剣と棍が触れる瞬間、長瀬は体を回転させた。力尽くで防ぐと見せて、軽くいなしたのだ。狙いを外した剣の横を長瀬は飛びすさり、同時に召喚器を抜いて炎の弾丸を放つ。
「コトシロヌシ!」
一条もそうだが、長瀬は元より敏捷性に優れている。結実の補助魔法も受けているので、そう簡単には捕まらない。巨人の剣を棍でいなし、振り回される天秤を防ぎ、巨体の突進をかわす。しかし攻撃の手段は乏しい。
「くっそ! せめて火に弱え奴だったらなあ!」
長瀬は堂島ほど不器用ではないが、親友ほど強力な魔法は撃てない。打撃が効かない敵に一人で立ち向かうのは、かなり分が悪い。そこへ──
「シロウサギ!」
尚紀の声が鋭く響いた。兎のペルソナは口をかっと開き、隠された牙を剥き出した。ただし牙はごく小さい。草をすり潰すには不向きで、肉を噛みきるには力不足だ。何の為にあるのか分からないくらいの、おまけのような武器だ。
「撃て!」
兎の牙の間から雷、と言うより静電気が放たれた。相手が人間であれば指が痺れる程度の何ともか弱い一撃だが、巨人のシャドウは仰向けに倒れた。そこへ間を置かずに、もう一発静電気を放つ。それで巨人は動かなくなった。弱点を連続して突かれると、大抵のシャドウはこうなる。
「小西君、凄いじゃん……」
「やるじゃねえか」
学校の先輩で組織の後輩二人が称賛するが、尚紀は厳しい表情を動かさない。
「足止めしただけです。きっとすぐ起き上がります」
「お前たち、大丈夫か!」
そこへ巨兵のシャドウを倒した堂島と一条が駆け寄ってきた。左右に一旦別れた者たちが、再び堅い陣形を組む。すると長瀬が声を上げた。
「げっ……また同じのか!?」
玄関から見て左手側の道路の向こうから、二体のヒーローロボットが近づいてきた。倒れたまま身動ぎを始めた巨人も入れると、強敵のシャドウが三体も揃ってしまったわけである。小粒なシャドウは玄関側から姿を消しているが、状況は良くない。
「小西、足立は!?」
「……今、向こうのが片付きました! 足立さん、戻ってきてください!」
『了解!』
足立は玄関側の五人から、かなり離れた位置にいる。しかし尚紀の能力をもってすれば会話は可能だ。情報系ペルソナは敵の探知や解析だけでなく、味方との通信もできる。
「よし……小沢、今のうちに皆の手当てを! あいつが戻るまでの辛抱だ!」
「はい、キサガイヒメ!」
全員の回復を一手に引き受ける結実も、この日何度ペルソナを召喚したか、もう数えてもいない。しかしまだ力尽きはしない。傷を癒す光を仲間たちに浴びせ、地につけた足に力を与える。
「さあ来い!」
堂島が再び前に出た。三体の強敵を前にして、若者たちの盾になるべく身構える。
(これで何とかなるかな……?)
戦列の最後尾で、尚紀は密かに一息ついた。玄関側と裏手で別れてから、戦いは激しさを増した。少しだけだが自分も手ずから戦った。だが再び足立と合流できれば、戦闘の効率は大幅に上がる。シャドウは数こそ多いものの同じ一つのアルカナばかりなので、バリエーションは乏しい。堂島の指揮によって、相手に応じた戦法が確立されてきているので、これなら乗り切れるかと思えた。しかし──
(あれ……剛毅?)
今日のシャドウは正義のアルカナに属するものばかりだった。だが峠を越えたかと思った途端、尚紀は違うアルカナを感知した。巨兵と巨人が集まっている方の反対側、玄関から見て右手の短い坂の上から剛毅のシャドウが現れた。
「な!?」
数は二体。いや、『二人』と数えるべきだろうか。人の姿のシャドウだ。
「よお、えらい楽しそうだなあ、俺?」
「現金な野郎だよな? 女に振られて二年も腐ってたくせによ!」
そして喋った。自我を持たず言葉も持たないはずのシャドウが、悲鳴や雄叫び以外の言葉を喋った。しかも皆がよく知っている声で。
「え……?」
親友の声を聞き分けた一条と長瀬が、尚紀に次いで反対側を振り返った。堂島と結実はその次だった。
「え……? 一条君と長瀬が二人……?」
二人の八十神高校二年生がそこにいた。制服を綺麗に着込んだ秀麗な少年と、学校指定のジャージを着た精悍な少年だ。ただし元からいた方と違って、後から来た方は霧の中でも眼鏡をかけていない。その両の瞳は金色に光っている。
金の瞳の双子、もしくは霧に映った鏡像の出現──
深夜の特撮ヒーロー番組では、もはやお馴染みのシーンである。しかしその番組を見たことがあるのは、稲羽支部では足立一人だけである。堂島と高校生組の四人は、番組の存在さえ知らない。予告やライブなら噂を小耳に挟んだことはあるが、実際に見てはいない。だから眼前で何が起きているのか、五人は咄嗟の推測も立たなかった。
「お、俺らと同じ顔……?」
一条は困惑していた。良家の養子は仮面の扱いが巧みな方なので、困惑の表情くらい容易に作れる。だがこの時は振りではなく、本当に訳が分からなくなっている。霧の中に突然『鏡』が現れて、そこに自分の姿が映るなど。もしくは自分に双子がいたなどとは、想像もしていなかった。
「何だ、てめえら!?」
戸惑う一条とは対照的に、長瀬は昂ぶっている。長い棍を構えて新手の『敵』に啖呵を切る。
「お前、アホか? 見りゃ分かんだろうが。俺はお前だよ。長瀬大輔さ」
敵である。鏡像であれ双子であれ、突如現れた何者かが優しい存在であるとは、長瀬には到底思えずにいた。現れた時に言われたセリフが、その主な根拠だ。
「俺が二人もいるわけあるか!」
「おーい! 何の騒ぎ……え、ええ!?」
ここで足立が家の裏手側から戻ってきた。数十体のシャドウを狩り終えて、庭を駆け抜けて来たのだ。だが『かていさいえん』と書かれた看板の前で立ち止まって、予期せぬ事態に目を瞠る。
(まさか……一条君と長瀬君のシャドウ!? ここで出るの!?)
「楽しいよなあ……家には居場所がねえもんなあ……。だって本当の家族じゃねえんだからさ! お前は家を継ぐ為だけに拾われたんだ! でもそれももうおしまい……幸子がいるんだから、お前はいらねえんだ!」
「ざっ……けんな! そんなわけねえ!」
「だからお前はアホだっつってんだよ! ペルソナだのシャドウだの、マンガみてえなのがマジでいるんだぜ! なら俺がもう一人いたって何もおかしくねえだろうが!」
「一緒にすんじゃねえ!」
(うっわ! 面倒な……!)
霧の中から湧いて出てきた口の悪い方は、元からいた方を詰る。テレビの中ではお約束の双子漫才が、現実の霧の中でも立ち現われた。そしてこの後の展開はテレビでは毎回同じだ。図星を指された金色でない片割れが、金色の片割れを否定する。時には救出に来たヒーロー戦隊が、金色でない方を煽って唆すこともあるが、とにかく二人は決裂する。そして──
「落ち着いてください! それはシャドウが化けているだけです! 相手にしないでください!」
しかし尚紀の声によって、足立の思考は遮られた。
(え……? いや待て。落ち着け僕。一条君と長瀬君はもうペルソナ使いになってるんだ。またシャドウが出るなんて、おかしいじゃないか)
既にペルソナ使いになっている者たちは、テレビに入っても自分のシャドウが出ることはない。それは悠を始めとする特別捜査隊の面々が実証している。もっとも現実の霧とテレビの中は全く同じとは限らないので、これは番組のお約束とは違う事態である可能性もある。例えばペルソナとシャドウは根源が同じなので、シャドウが新たに出るのではなく、ペルソナがシャドウに戻ったとか。
「そういうことか……好き勝手言いやがって! お前なんかが俺なわけねえ!」
「そうともよ! てめえは一条じゃねえ! てめえも俺じゃねえ! ニセモンだろうが!」
(言った……でも……)
「分かんねえ奴だな! 俺は何でも知ってんだぜ! 例えばよ……お前はどうして目覚めたのかとかな! アレだろ? 鳴上の席隣で、持ってかれてるの! そういう恥ずかしいこと、お前は考えてやがんだろ?」
「いーや、俺らはお前らさ! だから分かんのさ! お前は今だって手ぇ抜いてんだ! マジでやって、失敗したらカッコ悪いからなあ! テキトーにごまかしてりゃ、そのうち誰かが何とかしてくれっからな!」
禁句が言い放たれても、四人は相変わらず言い合いを続けている。テレビ番組では、否定された金の鏡像は怪獣に変身する。しかし一条と長瀬の『鏡像』は変身しない。よってこれはテレビの事態とは違う。そして──
「黙れ! 来い! エビス!」
「うっせえ! コトシロヌシ!」
金色でない方が召喚器でガラスを割った。二人の頭上には、着流しをまとったいつものペルソナが現れている。各々相方と同じ顔をした相手に、氷と炎の弾丸を放った。
「ぬるいぜ!」
「涼しいくらいだな!」
すると金色の二人は位置を入れ替え、自分と同じ顔の相手から放たれた攻撃を受ける形を取った。本物の二人が得意とする、各々の耐性で互いを庇い合う戦法だ。見事な連携プレーだが、足立が注目するのはそこではない。
(二人ともペルソナを出せた……ってことは、ペルソナがシャドウに戻ったのでもない。なら本当にただの偽物か)
「足立! ボサッとしてんな!」
ここで堂島の喝が飛んできた。見れば相棒兼上司は、ヒーローロボットの剣を警棒で受けつつ、地面を滑るように後ろ向きで近づいてきた。
「は、はい!」
「お前はこっちのデカブツをやれ! 殴ったり撃ったりは効かねえから気を付けろ!」
「了解っす!」
足立はささやかな家庭菜園からようやく出て、相棒と入れ替わりに普通のシャドウと対峙した。そして偽物の二人に対して、高校生二人と刑事一人の三人で相手をすることになった。しかし──
「オッサンは引っ込んでろよ! あんたはいちいち鬱陶しいんだよ!」
『一条』は左手で召喚器を持ち、右手で流星錘を振り回している。本物も偽物も、これが本来の戦闘スタイルだ。まず左手が先に動いてガラスを割る。
「う……!?」
高校生たちを追い抜いて先頭に立とうとした堂島は、急に膝をついた。その前方では『一条』の頭上に現れた『ペルソナ』が、普段は腰帯にくくりつけている小さな魚籠を手に取って、口を堂島に向けている。
「ち、力が入らん……!」
堂島はその場で地面に両手をついた。立ち上がろうとするが、手足が震えて思うようにいかないでいる。
「衰弱です! 小沢さん、解除を!」
「う、うん!」
堂島の身に何が起きたか、尚紀は瞬時に察知した。一条は氷結以外にも、敵の精神や神経に作用する魔法を得意としている。本物は今日の戦いで何度も敵シャドウに使っていたが、偽物も同じことを堂島にやったのだ。だが結実のペルソナは外傷だけでなく、この手の症状も癒やせる。結実は召喚器を両手で捧げ持ち、自分の顎を撃ち抜こうとするが──
「遅い!」
「あっ!」
結実の召喚器は弾き飛ばされた。『一条』が続けて動き、右手に持った流星錘を飛ばしたのだ。本物が持つものもそうだが、一条の武器は間合いが遠い。距離が離れた後列の敵をピンポイントで攻撃することも可能である。
「てめえ! 女を狙ってんじゃねえ!」
ここで長瀬が動いた。棍を手に『一条』に迫ろうとするが──
「おっと!」
『長瀬』が立ちはだかってきた。六尺の長さがある棍同士が衝突し、力比べが始まろうとしたところで──
「食らいな」
「あぐっ!」
すかさず『一条』が三度動いた。長瀬が弱い氷結の魔法を放ち、膝をつかせた。一条と長瀬は昔からの親友同士である為か、同じアルカナを持つ為か、連携が上手い。それは偽物同士であっても同様だ。二人がかりであっという間に長瀬を制した。
「エビス! げっ……!」
親友を助けるべく、一条がペルソナを召喚した。短い鞭を掲げて、氷結の魔法を放つ。だが生み出された弾丸はごく小さい。しかも遅い。『長瀬』は首を軽く傾げて、顔面に向けて飛んできた小さな氷をかわした。
「バーカ、どこ狙ってんだ?」
「くっそ……ここでガス欠かよ!」
一条は足から急に力が抜けて、地面に片膝をついた。今日は事の初めから魔法を撃ち続けていたのだ。一条は魔力の容量も多い方だが、連発に次ぐ連発でとうとう限界が来た。もう氷は撃てない。
「んじゃ、死にな。ホンモンさんよ!」
偽物の二人は各々召喚器を用いて、『ペルソナ』を召喚した。着流しを着た二人の分身は、各々自分でない方の本物へ向けて鞭と鉄籠を掲げる。弱点の火炎と氷結を放つ気だ。今の状態でまともに受ければ、冗談ではなく本当に命の危険もある。万事休す──
「シロウサギ!」
兎の牙がまたも光った。『一条』に灯火を、次いで『長瀬』に氷の豆鉄砲を食らわせる。
「どわっ!」
「てめっ……!」
ペルソナ使いとシャドウは大半が何らかの弱点を抱えており、突かれると威力の大小に関わらず怯む。尚紀が放った火と氷はごく小さなもので、学校の先輩の偽物を倒すにはほど遠い威力しかない。針で刺したようなものだ。だが妨害には十分だった。後列からいきなり放ったことも不意打ちになった。偽物たちは本物の自分たちから一瞬目を離し、小賢しい本物の後輩を睨む。
「どこ見てんだ、バーカ!」
その瞬間、本物の一条が動いた。ペルソナの魔力が底をついても、全く戦えないわけではないのだ。膝をついたままで召喚器を持っていない右手を閃かせて、流星錘を飛ばす。狙いは『長瀬』だ。低い姿勢から放たれた分銅は、偽物の左足に絡まった。一条はそれを思い切り引いて転ばせようとするが──
「てめえ、ウゼえぜ!」
『長瀬』は本物と同様に膂力に優れている。紐が巻き付いた足を強引に動かし、一条を逆に引き返す。
「くっ……!」
一条はペルソナから膂力の恩恵はあまり受けていない。綱引きの勝負は一瞬でついた。負けた一条は、膝立ちから腹ばいの姿勢になるが──
「そりゃてめえだろ!」
本物の長瀬が動いた。地面から跳ね起きながら、両手で棍を回転させる。左手を支点に右手を添える形だ。そして膝から起き上がる動作が、そのまま打撃の勢いとなる。
「あがっ!」
咄嗟の技は綺麗に決まった。『長瀬』は下から飛んできた棍に頬を思いきり叩かれ、たたらを踏んだ。そして長瀬はまだ止まらない。不意を突いた一撃を決め、棍を振り上げた体勢のままで『一条』を見据える。間合いは二メートル以上ある。棍を突き出しても届かない距離だ。対する『一条』は召喚器を頭に当てようとしている。苦手な氷を放つつもりであろう。この体勢では防御は難しい。ならば──
長瀬は振り上げた棍から右手を離し、左手一本で端を持って『一条』に向けて振り下ろした。間合いはやはり遠い。だが棍に勢いが乗った瞬間、長瀬は持ち手の左手を鋭く捻った。
「うお!?」
『一条』は打撃を頭に受けた。届かないと思っていたところへ棍が伸びてきて、まともに当たってしまったのだ。次の瞬間、紐で繋がれた長さ六十センチほどの棒が、ことりと音を立てて地面に落ちた。
長瀬の棍は普通の六尺棒ではない。カンフー映画や武侠小説でよくある、三本の棒を紐で繋いだ三節棍だ。しかし扱いが極めて難しい武器なので、長瀬は普段は一本に継ぎ合わせて使う。だがこの局面において、瞬時の判断で得物を本来の形に戻したのである。紐の分だけ間合いが遠くなり、敵に届いた。もちろん本来の使い方に慣れていないので、威力は期待できない。しかし正面から対峙しながらの不意打ちにはなった。そしてそれで十分である。
「死ぬのはてめえらだ! ニセモンが!」
分解された三節棍をそのままに、長瀬は右手で召喚器を素早く抜いた。こめかみに当て、渾身の気合を込めて召喚する。
「やれ! コトシロヌシ!」
長瀬のペルソナは大きな鉄籠を武器として使う。格闘家らしき逞しいビジョンは得物を脇に構えて、傍目にも分かるくらいの激しい気迫を漲らせる。狙いは依然として自分のすぐ傍にいる、自分の偽物だ。
「ぐわっ……!」
横薙ぎに振り回された鈍器は、『長瀬』を見事に捉えた。あるだけの力を込めた会心の一撃は、大柄な少年の体を弾かれたボールのように吹き飛ばした。ちょうどその方向にいた『一条』も巻き込んで、剛毅の偽物二人は地面を転がる。
「長瀬! 一条!」
ここで堂島がやって来た。見てみれば、結実も一度飛ばされた召喚器を拾っている。神経を衰弱させる状態異常攻撃で参っていた支部長を立ち直らせたのだ。
「ぶっ飛べ!」
そして玄関から見て左側の道路では、マガツイザナギが二体の巨兵のシャドウに向けて紫色の光を放っていた。電撃に弱い巨人のシャドウは早々に赤い稲妻で滅ぼした。残った弱点のないヒーローロボット二体を、切り札でもって一気に片付けに入ったのだ。耐性の不思議によって銃弾もペルソナの矛も受け付けないシャドウの装甲も、万能の力の前では紙切れ同然だ。何者であろうと防げない光は巨兵を包み、沸騰させ、見る見るうちに崩壊へと導く。
「ふう……」
シャドウが砕け散ると、足立は小さく息を吐き出した。8月にこれを行った時は反動の疲労感で思わず膝をついてしまったが、今は大丈夫だ。体に跳ね返ってくるものはあるが、十分耐えられる。もう少し経験を積めば連発もできるようになりそうな感じが、今からしている。
「足立さん!」
そこへ尚紀の声が届けられ、足立は振り返った。金の瞳の偽物二体はまだ坂道の中ほどにいて、本物の二人と支部長が対峙している。そこへ向けて、最大戦力の副支部長も駆け出した。
「うん、今行くよ!」
今日の稲羽支部は敵が多すぎたので、ある程度場所を分けて個別に戦わざるを得なかった。しかしここに至って、六人全員がまとまって戦う体勢が再び整ったわけである。剛毅の偽物たちとの戦いは先手を取られてしまった。だが凌いで反撃して、何とか立て直した。そこへ足立が加われば、形勢は完全に逆転する。
「けっ! しゃあねえなあ……」
「ふん、見せてやるぜ! 奥の手って奴をなあ!」
この時、剛毅の偽物二人は手を伸ばせば触れ合うくらいの距離にいた。向かって左側に『一条』、右側に『長瀬』だ。こうなったのは偶然だが、それが仇となった。
『一条』は左手の召喚器を、『長瀬』は右手の召喚器を持ち上げた。ただし銃口を向ける先は自分の頭ではない。隣り合って立つ相方のこめかみに当てた。
「む……?」
二人の偽物と対峙する堂島は怪訝な顔をした。召喚器は他人に向けても意味はない。死を覚悟することが基本のペルソナ召喚は、自分で自分を撃たなければ効果はないのだ。仲間の頭を撃っても光や影は出てこない。普通のペルソナ使い同士でやっても、という但し書きがつくが。
──
ガラスが割れる音が二重に響き渡った。すると一体の『ペルソナ』が、基本を無視する形で出現した。
「な……!?」
並び立つ二人の偽物の間に現れたのは、エビスでもコトシロヌシでもなかった。その姿には優雅や精悍と言うべきところは、まるでないのだ。恰幅の良い福々しい体で、空中に胡坐をかく姿勢で現れた。得物も鞭や籠ではない。右手に小さな木槌を持ち、左手に大きな布袋を持って肩に担いでいる。そして顔、ではなく仮面は満面の笑みを浮かべている。正月に絵を枕の下に忍ばせておくと良い夢が見られると言われる神々の、その一柱のような姿だ。
「こ……これは危ないです!」
情報担当の尚紀は、途轍もない危険を瞬時に感じ取った。おかしな方法で召喚されたこの『ペルソナ』は、元の一条や長瀬のそれとはまるで違う。堂島よりも、足立よりも上だ。下手をすると7月に見た有里のペルソナにさえ匹敵しかねない、格がまるで違う戦力を感じた。
同じアルカナに同時に目覚めた二人のペルソナ使いは、二人揃うと単純な足し算以上の力を発揮する。それは普通の見方においては、連携が上手いということだ。だが実はそんな次元の問題ではなかったのかもしれない。追い込まれた偽物の二人は、足し算どころか掛け算の力を出して見せた。
一条と長瀬は一人ずつなら並の力しかない。二人揃うと並よりは良くなる。そして真の意味で力を合わせると、一挙に最強の一角にまで上り詰める。
「みんな、伏せてえ!」
戦列の最後尾から足立が躍り出た。走りながら赤と黒の魔人を呼び出し、仲間たちの前に立つ。対する『福の神』は小槌を振りかざした。そこから湧いて出てくるのは、宝船に満載された黄金のような光だ。富や権力を象徴するもののようであるが、実態は違う。光は渦となって、壮絶な破壊をもたらす。
『うわああああぁぁ!』
戦場から少々離れた住宅街の一角。皆月は依然としてスマートフォンを覗きこんでいた。画面には、偽物が切り札として放った光の渦に飛び込んだ若い刑事が映し出されている。光は刃のように、杭のように、また鉄槌のように、ありとあらゆる方角から刑事を痛めつける。顔、手足、胴体に無数の傷が刻まれ、黒いスーツは袖も裾も裂ける。黄金の眩しい光の中で、鮮血が現代絵画の模様のように吹き出す。時間にすれば一秒もない瞬時の間に、若い刑事は文字通りの満身創痍となって倒れ伏した。
『足立! このっ……!』
次いで画面にもう一人の刑事が映し出された。拳銃の形をしたものをこめかみに当て、鈍重そうなペルソナを呼び出した。金の瞳の二人組へと吶喊し、剛腕でもって叩き伏せた。それで終わった。
「ふーん……思ったより頑張ったじゃねえか。馬鹿とハサミは使いようっつーけどよ。下らねえ友情ゴッコも、ああやれば意外といけんな」
太陽の少年は創面に小さな笑みを浮かべた。皆月は普段笑う時は、顔の造作を思いきり崩して哄笑することが多いが、この時は目を細めて微笑んだ。父と呼んだこともある男が、何かの実験に成功した際に科学者として微笑むように。
皆月は今年の冬か来年の春に実行予定の、ある計画を持っている。そこで手駒として使う予定の存在がおり、今晩はその実験をしたのだ。手駒がどれだけ役に立つか確かめる為、皆月は稲羽支部の戦いに軽く介入したのである。そして結果は上々だった。特に最後の一撃はなかなか面白かった。皆月の目から見ても、ちょっと感心するくらいの破壊力だった。
「もうすぐ霧が晴れるぞ」
実験がちょうど終わったタイミングで、もう一人の手駒が声をかけてきた。八十神高校の制服を着た、小柄で生意気そうな少年である。その傍らには二本足で立つ兎がいる。小動物のペルソナを操る者──
皆月の傍にいるのは尚紀だ。ただしその瞳は金色に光っている。
「おうよ、ご苦労さん」
「……」
皆月が一声かけると、金の瞳の尚紀は形を失った。黒い靄が周囲に立ち込めたと思ったら、その中に溶けるようにして消え去った。
「へっ……シャドウってな、後腐れなくていいなあ?」
姿が消える。そんな芸当は、普通の人間には不可能だ。霧に惑う有象無象のシャドウが滅ぶような消え方を、金の瞳の尚紀はした。その様に、皆月は再び目を細める。
尚紀のペルソナ、イナバノシロウサギは敵シャドウの探知と解析が主な役割だが、今日は何度か魔法を放ったように、戦闘能力も弱いながら持っている。そしてもう一つ、敵の探知を妨害するジャミング能力も持っている。尚紀と同じ刑死者のアルカナに属する、あるペルソナ使いと同じ力だ。だがそちらと違って、尚紀のジャミングは展開できる範囲が狭い。自分自身を中心として半径数メートルを隠すのが限度だ。
そして稲羽支部の任務においてはシャドウは見つけ次第殲滅するのみで、向こうから襲ってくるようなら、むしろ都合が良い。よってシャドウの認識を妨害すること自体の意味が乏しい為、今まで使ったことはなかった。
しかしジャミング能力は人間のペルソナ使いを相手にする場合、特に戦闘ではなく観察を目的とする場合、極めて有効である。だから皆月は使わせたのだ。尚紀の姿をした者に。
「足立さん、しっかりしてください!」
堂島宅の玄関前では足立が仰向けに倒れていた。本物の尚紀はその傍らに膝をついて、大人の男にしては細い肩を揺さぶっている。その周りを四人の仲間たちが囲んでいる。
「小西、落ち着け! 小沢、大丈夫なんだろう?」
「は、はい! 傷は全部塞がりましたから……」
そこで足立が身じろぎした。眼鏡の下の目をゆっくりと開け、実銃を持った右手を持ち上げて自分の胸に当てた。
「足立さん!」
「尚紀君……? 大丈夫……?」
「気が付いたか」
「堂島さん……。あっ! さっきの変な奴らは!?」
目を覚ました足立は、相棒の姿を見ると意識がはっきりしてきた。変な奴らと言っているのは、もちろん金の瞳の一条と長瀬のことだ。見慣れない『ペルソナ』が召喚されて、尚紀が大声で警告した。そして自分は全速力で駆けて皆を追い抜き、敵の目の前に躍り出た。覚えているのはそこまでだった。
「倒したぜ」
『一条』と『長瀬』が互いを召喚器で同時に撃つという変わった儀式によって呼び出された『ペルソナ』は、光の渦を放つとすぐ消えた。渦は足立が全て受け止めたので、他のメンバーには被害が及ばなかった。そこへすかさず堂島がペルソナを召喚し、金の二人をまとめて倒したのだ。倒された二人は普通のシャドウと同様に、黒い煙となって姿を消した。
「無茶しすぎだぜ、馬鹿野郎が……」
そして皆の盾になった足立は気を失ってしまった。本人は覚えていないが、魔人のペルソナよろしく全身血塗れになったのだ。足立がシャドウ対策で擦り傷以上の大怪我を負ったのは、これが初めてだった。だが結実の手当てにより傷は跡も残さず塞がった。ついでにボロボロになったスーツも一緒に復元した。
「はは……済みません」
足立はばつが悪そうに頭を掻いた。傍から見れば、危機的な状態にあったようにはとても見えない。
「だが……助かった。ありがとよ」
「本当ですよ……あ、霧が……」
堂島が相棒を労い、尚紀も続けようとした。しかし白いフレームの眼鏡をした少年は、途中で言葉を切って周囲を見回した。眼鏡を通すと見えない霧が晴れようとしているのを感じ取ったのだ。
「あ、本当だ……終わったのか……」
一条は眼鏡を外し、普通の夜に戻りつつある町並みを見回した。もう肉眼でも互いの姿が見えるようになってきた。次いで長瀬も外し、尚紀に尋ねる。
「シャドウ、どんくらい出たんだ?」
「さあ……百匹から先は数えてないです」
「はあ……」
やがて六人の誰からともなく息を吐く音が上がり、更にいくつも重なる。これまでで最大の大群を向こうに回して、持ち場の分担もして、遂にやりきったのだ。過酷な『耐久レース』を全員で完走したわけである。大きな安堵感と、困難を乗り越えた達成感が湧いてくる。
「みんな、ご苦労さん」
足立は実銃と召喚器をホルスターに戻した。眼鏡を外し、優しそうに細められた視線を高校生たちに送る。
「皆の頑張りのおかげだ。礼を言う……」
堂島も眼鏡を外して、ようやく一息ついた。納得のいかないことや気に入らないことは色々ありつつも、シャドウワーカーの仕事を続けてきたのは、家族を守る為。今晩は思いがけず、心に秘めていた目的そのままの戦いが始まった。そして部下に犠牲者を出すこともなく、やり遂げたのだ。安心すると同時に、誇りたくなる充実感も湧いてくる。
しかし事はそれだけでは収まらない。
「ところで堂島さん、さっきの双子……ってか、偽物っすかね? あいつら、何だったんすか?」
「分からん。えらく特殊だったが、シャドウってのは間違いない……」
「胸糞の悪い奴らでしたよ!」
「ホントにな……思い出しても腹が立ちます」
支部長と副支部長の会話に、長瀬と一条が口を挟んできた。二人にすれば、まさに『胸糞の悪い』連中だった。自分を悪く言われるだけでも愉快ではないが、自分と同じ顔をした者に言われればなおさらだ。
「詳しいことは小西にも分からんそうだ。本部に報告する必要があるな」
「ええ、それと……」
今度は尚紀だ。だが話を始める前に一度振り返り、堂島宅を見上げた。戦いが始まってしばらくした頃も家を見たが、その時と変わらず二階の部屋の灯りは点いている。それを確認してから家の主人に視線を戻した。
「今日のシャドウは明らかに、お宅を狙ってました。鳴上さんか、お嬢さんか……どっちなのかは分からないですけど、ペルソナの素養があるんじゃないでしょうか」
一条と長瀬の偽物も問題だが、これも大きな問題である。これまでの霧の日では、町の住民の誰かがシャドウに『声』をかけられて外に出て、そしてペルソナ使いになったのだ。今日は家から出てきた人はいなかったが、同じ事態になっている可能性はある。人がペルソナに目覚める為の確かな条件は、未だ明らかになっていないのだ。ならば確認は必要だ。
「本格的に調べれば分かると思います。影時間の再現装置を使ってもいいですし……」
そして確認する方法はある。
「……考えておこう」
「あの……もしそれで、素養があったら……」
ここで結実が言ってきた。普段は凛々しいと評される吊り上った目に、不安の色が浮かんでいた。その目を尚紀も見上げた家の二階の部屋に送り、そしてまた堂島に戻す。付き合っている男の身内に。
「まずは確認だ。皆、今日は帰って休め。車で送ってやるから」
遅い時間に灯りが点いているのは、今年から同居するようになった甥の部屋である。だが堂島はそれをここで口にはせず、場を切り上げに入った。
家の外で始まった戦争は、家の中まで浸透してくることはなかった。シャドウが狩り尽くされ、その住まいとなる霧も消え去った頃。平和を享受している家の中では、二人の住人が一つの部屋にいた。
「……ピンク色のワニのことは、だれも思い出しませんでした」
悠は菜々子の部屋で絵本を読んでいた。試験勉強をしている最中に従妹が起き出したので、寝かしつける為、絵本を読んでやることにしたのである。菜々子は自分のベッドに入っていて、悠はその傍らで床に座り込んでいる。部屋の灯りはほとんど消えており、小さな勉強机のスタンドだけが頼りの薄暗い中で、悠はゆっくりとした口調で平仮名の多い文字を追っていた。
絵本のタイトルは『ピンクのワニ』だ。表紙に書いてある作者名は『かみきあきなり』である。
「それでも、みずうみは、今日もきらきらとかがやいているのです。……おしまい」
やがて絵本は終わった。何とも物悲しい、だが深い意味が隠されていそうな物語だった。童話は基本的には子供に読ませる為のものだが、大人が読んでも面白いものもある。中には大人も深く悩ませる、暗示に満ちた物語もある。悠は童話に特別な興味はなく、それが表しているものなど考えたこともないのだが、この絵本には少し心を動かされた気がした。幼い従妹に聞かせてやりながらも、自分でも何か考えそうになってしまう。
「さあ、もう寝よう……」
だがそれは深夜にやるべきことではない。悠は本を閉じて従妹を促した。しかし──
「菜々子?」
返事はなかった。小学一年生の女児は、いつの間にか小さな寝息を立てていた。
「お母さん……」
そして寝言を呟いた。可愛らしい寝顔をよく見てみれば、閉じられた目の縁は僅かながらに濡れているようだった。
(叔母さん……)
悠は菜々子の母、堂島千里に会ったことはない。顔は仏壇の遺影で見ただけで、人柄についてはほとんど知らない。今よりもっと幼い頃に亡くした菜々子は、母親の記憶はほとんどないので従兄に伝えることはできないし、堂島も亡き妻については、あまり語りたがらないから。
知っていることと言えば、近所の子供たちにピアノを教えていたことくらいだ。そんな縁の乏しい死者に向けて、悠は初めて心の中で語りかけた。
(貴女の娘は、とてもいい子ですよ)
十歳年の離れた従兄は従妹の寝顔に手を伸ばして、目元を指で軽く拭った。そして床から立ち上がり、絵本を勉強机に置いてスタンドの灯りを消した。闇に覆われた子供部屋から出て、灯りを点けたままの自室に戻った。
時刻は大分遅くなったが、朝はまだ遠い。
合体攻撃一覧:
千枝・雪子 『赤い女将と緑の成龍』
陽介・クマ 『ジュネスボンバー』
完二・直斗 『美女と野獣の狂演』
一条・長瀬 『プララヤ』