ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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悔いる人々(2011/10/6)

 堂島家に悠が居候するようになって、そろそろ半年になる。月日が進むにつれて、悠が夕食を作る機会は増えていた。始めたのは堂島が出張に行ったゴールデンウィークで、当初は週の半分くらいだった。しかし夏頃から頻度を増していき、比例して腕も上げていっている。家庭教師などの夜間のアルバイトがある日でも、行く前に料理をして菜々子に食べさせてから向かうようにしている。もちろん自分と堂島の分も作る。

 

 堂島が姉から息子を預かってくれと頼まれたのは、今年の春先だ。当時はどうしようかと思ったものだが、今となってはいてくれて助かる甥だ。もっとも多感な若者らしく、時には馬鹿なこともする。具体的に言うと4月にジュネスで模造刀を振り回した件と、7月に事件現場に侵入しようとして、マスコミのインタビューで過激な発言をした件だ。その時には、堂島は保護者として説教をくれてやった。だがそういう不祥事はどちらかと言えば例外である。そんなよくできた甥に、叔父は聞かなければならないことがあった。

 

「あー……悠」

 

 今日の夕食は豚の角煮だった。口の中でとろけるように柔らかい、なかなかの逸品だった。それを三人で食べ終えて片付けも済んだところで、叔父は甥に声をかけた。ちなみに娘は風呂を使っている。そうしろと父親が言ったのだ。

 

「何?」

 

「……コーヒーでも淹れよう」

 

 堂島は妻の生前は家事を任せきりだった。だが結婚する際に、家事に関して妻と一つ約束をしていた。コーヒーを淹れることだけは夫の仕事にすると。堂島はそれを妻の死後も、悠と同居してからも律儀に守ってきた。この半年の間に毎日とは言わないが何度も淹れている。

 

「ありがとう」

 

 今日はアルバイトに行く予定がない甥は、テーブルの席についた。男二人だけのキッチンで、叔父は密かに甥を観察する。湯を沸かし、コーヒーカップを棚から取り出しながら、背後の様子を伺う。

 

(見た感じ、おかしなところはないな……)

 

 昨晩のシャドウワーカー稲羽支部の任務において、堂島以下六人のペルソナ使いはこの家の周りで戦い、多大な苦労と引き換えに退けることに成功した。しかしそれで『めでたしめでたし』とはならない。シャドウが出たということは、『声』をかけられた者がいる可能性が高い。もっとも昨晩はこれまでの霧の日と違って、誰も外に出てこなかった。だから世界の裏側に招かれた者は幸いにもいなかったと考えることも可能だが、都合のいい推測だけで決めつけてはいけない。最低限、確認だけはせねばならない。

 

 やがて堂島は二つのコーヒーカップを手にして席に着いた。自分の分はブラックで、悠のはミルク入りで砂糖はなしだ。苦い飲み物を一つ口に含んでから、堂島は話を切り出した。

 

「最近、変わったことはなかったか?」

 

「変わったことって……例えばどんな?」

 

 対する悠は表情を変えずに問い返した。高校生の甥は刑事の叔父に話したことはないが、変わったことなら4月からいくつも経験している。直近の出来事で言えば、先月救助した直斗が今日から学校に復帰したので、特別捜査隊に新加入させたばかりだ。もしや警察の協力者でもある探偵について、叔父は何か勘付いたのかと一瞬心配になった。

 

 もし一学期の頃に同じことを言われれば、悠はきっと動揺を大きく表しただろう。だが遊び気分を捨てた今は、少しは腹芸もできるようになっていた。とは言え、もしもっと直接的に突っ込まれれば顔色の一つくらい変えてしまったかもしれない。例えば『白鐘って奴、知ってるだろう。あいつから何を聞いた?』とか。だが刑事にしては漠然としすぎる物言いが、高校生の平静を保たせていた。

 

 平和な食事の後に突然始まった『尋問』に、悠は腹の中で警戒を始めた。果たしてプロの刑事は、どのように自分を追及する気かと。だが決して漏らすまいと。

 

「その……何だ。空耳というか、夜中に何かの声を聞いたりしなかったか?」

 

 しかしそんな警戒は全く無意味だった。

 

「?……いや? 何の話?」

 

 悠は『きょとん』と擬音を発しそうな顔を見せた。わざとではなく、自然に。相手が何を言っているのか、まるで分からないのだ。顔を作る必要を感じなくなり、ただ自然に反応した。

 

「あー……最近、若い奴が病院に担ぎ込まれたりしててな……。そいつらがな、空耳とか何とか……」

 

「そんなの、俺は全然ないけど……」

 

 厳密に言うと、悠は亡き恩師の幻聴を聞くことはある。だが入院が必要になるレベルではない。だからこれは嘘ではない。

 

「そ、そうか。ならいいんだ……忘れてくれ」

 

 堂島はコーヒーカップを煽った。苦くて熱い大人の飲み物を、水のように勢いよく喉に流し込む。

 

(うぐ……)

 

 当然ながら堂島の口の中は酷い状態になり、顔を顰めた。内心の疑問や混乱が顔に出ようとするのを、コーヒーを一気飲みしたせいのように装った。そして急いで席を立ち、キッチンの流しにカップを置く。甥に背を向け、顔を隠した状態で考えを巡らせる。

 

(悠は声を聞いていない……? いや、記憶障害を起こしたって可能性も……)

 

 我ながらムチャクチャな聞き方だったと思う。もっとやりようがあったはずだ。だがそれでも分かることはあった。堂島は演技や芝居はどうしようもないが、観察力には自信がある。悠が嘘を吐いていないことは分かった。

 

 八十神高校の生徒ばかりシャドウに狙われる事態に、あの高校は呪われているのかと考えた。だから昨晩の被害者は甥なのではと思ったのだ。しかし被害者が連続して出ていること以外には、特に根拠があるわけでもない。むしろ馬鹿馬鹿しいくらいの話だ。学校とは何の関係もないことは、十分あり得る。そうすると昨晩のシャドウは、誰にも『声』をかけなかったのか。もしくは悠が忘れているだけか。

 

 それとも『声』をかけられたのは悠ではなく──

 

「お父さん……?」

 

 菜々子がやって来た。一人で入っていた風呂から上がり、寝間着に着替えている。瞼は重そうに下がっている。話している間に、時計の針は9時を指していた。

 

「ああ……早いとこ寝なさい」

 

「お兄ちゃんばっかり、ずるい……」

 

 菜々子は眠そうにしながら、それを我慢している。普段より細められた目で、『家族の会話』をする父親と従兄を見比べる。

 

「菜々子もおはなしする……」

 

「いや、だがな……」

 

 堂島は『お前とはいつも話しているじゃないか』とは言わない。春以来、堂島は菜々子を悠に任せきりだった。その主な要因は本業が忙しいからだが、同時期から始めた副業がそれに拍車をかけている。シャドウ対策の現場に臨むのはいつも深夜で、元より菜々子は寝ている時間帯だが、副業は実戦だけではない。スマートフォンから得られるシャドウワーカーの資料を読んだり、公安へ報告を上げたりもする。特に夏以降は稲羽支部に高校生が立て続けに加入した為、彼らにも気を回さなければならなくなった。正直なところ、堂島は二つの仕事だけで手一杯なのだ。

 

 だがそれもこれも、全てはお前たちを守る為なんだ。どうか分かってくれ──

 

 堂島はそう言いたかった。裏の仕事は家族にも決して言えないことだと分かっていながら、つい口をつきそうになった。しかし父親が秘密を暴露する前に、甥が席から立ち上がった。娘の前まで歩み寄る。

 

「菜々子、昨夜は遅くまで起きてたんだから、今日は早く寝ないと」

 

 悠はよくできた甥だ。叔父の真実は知るはずもないが、まるでその苦衷をフォローするように娘を宥めてくれる。それは助かる。だが宥める言葉の内容に、堂島は引っ掛かりを覚えた。

 

(昨夜……?)

 

「……? 菜々子、ゆうべはちゃんとねてたよ?」

 

「え? 起き出してたじゃないか。夜中の12時頃」

 

 12時──

 

「!……」

 

 堂島の顔から血の気が引いた。元からあった状況証拠に悠の証言が結び付いて、一つの疑問が氷解した。いや、当然想定すべきであるのに目を背けていたものが、有無を言わせぬ形でもって己の存在を主張してきたと言うべきか。

 

「誰かがピアノ弾いてるって……覚えてないの?」

 

「ピアノ……」

 

 菜々子は俯いた。表情を暗くして両手で頭を抱えた。まるで急な頭痛に襲われたように。或いは失った何かを取り戻そうとするように。昨晩見た夢を思い出そうとして、できずにいるように。菜々子の仕草の意味が、堂島には分かる。分かるだけに余計に戦慄する。お前の疑惑は正しいのだと、目を逸らすなと、明らかになった真実そのものが堂島を追い詰める。

 

「菜々子? 大丈夫?」

 

 しかし堂島に背を向けている悠は、叔父が窮していることに気付いていない。床に膝をついて従妹の顔を覗き込む。

 

「ね……ピアノひいて?」

 

 菜々子は自分の頭から手を離し、悠の袖を掴んだ。か弱い力でありながら、振りほどくことは誰にもできない。そんな力で従兄を誘う。

 

「たんたらたんたら……って」

 

 対する従兄は空いている方の手を頭に持っていき、困ったように軽く掻く。

 

「しょうがないな……叔父さん、いい?」

 

 ここでようやく悠は振り返ってきた。床に膝をついて、菜々子に捕まったままで、夜の遅い時間に演奏する許可を求める。その表情には少しの困惑がある。少しである。従妹の不審な様子を案じるのと、近所迷惑になるのではとの心配から生じる小さな悩みだ。

 

 悠とは対照的に、堂島は激しい懊悩に襲われていた。四十年を超える歳月をかけて積み上げてきた人生の全てが、脆くも崩れ去ろうとしているように。恐怖そのものが実体化し、何もかもが奪われようとしているように感じていた。堂島は刑事として、事件によって人生の何かを奪われた人を何人も見てきた。妻が死んだ時には自らその当事者になった。その再現のような事態に慄きながら、全力で平静を装った。

 

「あ、ああ……いいぞ」

 

 演技が不得意な堂島にしては、声を出せただけでも上出来だろう。

 

 

 娘と甥がキッチンから去ると、堂島は床に倒れ込みそうになった。まるで自分の足元でだけ地震が起きて、地面に開いた深淵に飲み込まれてしまうようだった。世界がぐるぐると音を立てて回っている。目眩がする。自分の寝室に行こうにも、そこまでの僅かな距離さえ歩ける自信がなかった。ふらつく体を、椅子の背もたれでかろうじて支える。震える膝を無理に動かして椅子の前に回り、落下するように座り込んだ。

 

(菜々子なのか……)

 

 衝撃的な結論だった。幼い一人娘がシャドウの声を聞いた──

 

(こういうケースはどうなるんだ? 声を聞いたが、外に出なかったってのは……)

 

 堂島を始めとする稲羽支部の面々は『声』を聞いて霧の中に身を置き、シャドウを自分の目で見て、そして覚醒した。長瀬は違うが、取り敢えずそれは置いておく。考えなければならないのは菜々子だ。『声』を聞いただけでペルソナに目覚めたのか。適性を得たのか。今の時点では何とも言えないが、調べる方法はある。尚紀に引き合わせてもいいし、影時間の再現装置を本部から借りて、象徴化するかどうか試すこともできる。

 

 だが問題はそこにあるのではない。今後の菜々子はどうなるかだ。次の霧の日も、菜々子はシャドウに誘われるのだろうか。昨晩は悠が止めてくれたようだが、次もそうなってくれる保証はない。

 

(それとなく話して、注意させるってわけには……)

 

 それができるなら話が早い。しかし具体的に何と言うか考え始めると、堂島の思考はすぐに行き詰まる。

 

(駄目だ駄目だ! 霧の日はお化けが出るから、外に出るなとでも言うのか!?)

 

 稲羽支部の一員として戦わせるのは論外。注意もできない。菜々子はまだ小学一年生なのだ。口止めさえ覚束ない。せめて『声』を聞いたのが、高校生の悠であれば──

 

(それも駄目だ! 姉貴に何て言えばいいんだ! 貴女の息子は超能力者になりました。町を守る為に化物退治をさせます? 冗談じゃない!)

 

 そう、冗談ではないのだ。なぜか?

 

「!……」

 

 卒然と疑問が湧いて、堂島は息を飲んだ。なぜ悠は駄目で、尚紀はいいのか。一条は、長瀬は、結実は? 足立以外の稲羽支部の部下たちは、悠と何が違うのか。

 

(俺は……とんでもないことをしてるんじゃないのか?)

 

 昨晩の戦いは自分一人ではどうしようもなかった。あの数のシャドウを一人で倒すのは不可能だ。足立と二人だけでも無理だっただろう。複数の方角から攻め寄せられれば、足立とは持ち場を分担せざるを得ないのだ。自分が受け持った玄関側だけでも、一人では無理だった。

 

 一条と長瀬がいなければ、物理的な攻撃が効かない敵が現れるだけで手詰まりになる。結実がいなければ、継戦能力が大幅に下がる。手足の一本も折られればそこまでだ。そして尚紀がいなければ、そもそもシャドウを見つけられない。稲羽支部の部下たちは誰もが不可欠な人材だ。昨晩はそれを思い知らされた。だがそれで良いのか?

 

(高校生に何をやらせてるんだ……)

 

 町をシャドウから守る為には、皆の力が必要だから。やむを得ないから。それを言い訳にして、大切なことから目を背けていなかっただろうか。思い返せば、6月の尚紀の加入に自分は反対した。しかし有里に言いくるめられ、情報系ペルソナ使いの有用性から結局は容認してしまった。そしてその後の新加入では、そもそも反対さえしなかった。

 

 無関係な未成年を使って、企業犯罪の後始末をさせるなど言語道断──

 

 5月に桐条グループの過去の話を聞いた時は、激しい義憤を感じた。だが今はどうなのか。警察の裏の仕事を高校生にやらせている自分は、過去の桐条とどれだけ違うのだろうか。

 

(俺は……)

 

 そこへピアノの旋律が届けられてきた。出所はキッチンから家の奥に続くドアの向こう、妻の遺影とピアノが置いてある仏間だ。

 

(この曲……?)

 

 亡き妻と違って、堂島は音楽には疎い。だが何となく聞いた覚えがあるような曲だった。椅子に座ったまま、半ば開いたドアから漏れてくる音楽に耳を傾けた。音を文字に書き起こせば、こんなところだ。

 

 タンタラタンタラ、タン、タラタラタラ、タンタラタンタラ、タラタラタラララ──

 

 堂島は曲名を知らないが覚えのあるこの曲は、パッヘルベルのカノンと呼ばれている。親しみやすい曲調と演奏の容易さから、子供の演奏会でもよく弾かれる。この家のピアノの亡き持ち主も、近所の子供たちに何度も教えたことだろう。

 

「……」

 

 昨晩は戦争があった家で、今日は妻の思い出が演奏されている──

 

「お兄ちゃん、すごいね!」

 

 やがてピアノは終わった。廊下を越えて聞こえてくる菜々子の声と拍手の音は、元気なものだった。先ほど見せていた頭痛か失った記憶の苦しみは、もう菜々子から去ったようだ。意識の表面に出てこない、無意識の闇に眠っていた母親の思い出を、従兄に再現してもらって苦しみが喜びに変わったように。

 

「菜々子もひく!」

 

 クラシックに続いて奏でられたのは、堂島もよく知っている曲だった。テレビのコマーシャルでよく流れている、ジュネスのテーマだ。

 

「エヴリデイ、ヤングライフ! ジュ・ネ・ス!」

 

 ピアノに合わせて菜々子の歌声も聞こえてきた。そこに憂いの色はない。

 

「上手くなったね」

 

「えへへ……お兄ちゃん、ギターひいて!」

 

「ああ、いいよ。ベースだけどね」

 

 悠は7月にどこからかエレキベースを買ってきていた。それは堂島も知っているし、菜々子に聞かせてやっていることも知っている。だが娘と甥のデュオアンサンブルを自分の耳で聞いたのは、これが初めてだった。

 

「ワン、ツー、スリー、フォー!」

 

 ピアノがメロディーを奏で、エレキベースが低音で伴奏する。妻が死んで以来ずっと絶えていた音楽が、古い家に蘇っている。

 

 堂島は席から立ち上がった。足はもう震えない。妻を思い出してしまうので、堂島はこれまで悠と菜々子が演奏しているところに身を置いたことはなかった。だが今は、今だけは聞きたいと思った。ドアに手をかけて廊下に出る。足音を殺して、密かに。

 

「……」

 

 だが仏間に向かう途中で足を止めた。どんな顔をして娘と甥の前に出ればいいのか、分からなくなってしまったのだ。自分が今どんな顔をしているのかも分からない。もしここに鏡があったとしても、恐ろしくて見られない。

 

「……」

 

 堂島は廊下の中ほどで向かう先を変え、家族から離れた。自分以外に誰も使う者のいなくなった孤独な寝室に入った。一人で寝るには広いベッドに腰を下ろして、深く項垂れた。警棒と召喚器を何度も握り、昔以上に皮膚が厚くなった無骨な手で、頭を抱える。

 

 自分は父親としてこの家を、この音楽を守らなければならない。だが高校生を四人も戦わせている自分に、そんな資格があるのだろうか。自分は彼らの家族に顔向けできるのだろうか。しかしやらなければ菜々子が──

 

(千里……俺はどうすればいいんだ……)

 

 寝室のドアは半開きになっている。そこから聞こえてくる明るい音楽の中で、堂島は悩む。

 

 悩むあまり、堂島は昨晩の作戦の詳細を本部に報告しなかった。戦いのあった場所、現れたシャドウの数、『声』を聞いた人間がいたかどうか。それら全ての真実を伏せてしまった。

 

 

 

 

 春以来ずっと続いていた堂島の懊悩が、とうとう極まった頃。堂島の相棒もまた小さくない悩みに襲われていた。仕事を終えた足立は自宅のアパートで、机とセットの椅子に腰かけて一人考え込む。

 

(何だったんだろう、あれ……)

 

 何に悩んでいるかと言えば、昨晩の作戦で起きた出来事についてである。ただしシャドウに『声』をかけられた被害者について悩んでいるのではない。悠は既にペルソナ使いになっていることを知っている足立にすれば、昨晩『声』をかけられたのは菜々子であろうことは、事の初めから察しがついていた。ジュネスの駐車場で尚紀の探査結果を確認した時から。

 

 道化師を悩ませているのは、昨晩の戦いの最後に現れた二人のシャドウについてだ。

 

(一条君と長瀬君のシャドウ……じゃなくて、シャドウが化けた偽物か)

 

 本人から生まれた本物のシャドウか、どこからか湧いて出た偽物か。足立にとって、それはさほど大きな問題ではない。問題なのは偽物の言動だ。

 

(昨夜の奴ら、何かごちゃごちゃ言っててお互い熱くなってたけど……あれって二人の本音だったのかな?)

 

 本物と偽物の四人の言い合いは、足立は一部しか聞いていない。ただ聞いた限りだと本物の一条と長瀬は、図星を指されて怒っていたような印象を受けた。まさにテレビの中で金の瞳の鏡像が現れた時のように。ただし特殊部隊の仲間たちの本音が何であろうと、それがどんなに恥ずかしいものであろうと、足立は何とも思わない。二人とも若いのだから、格好の悪い悩みを抱えていたところで、ごく当たり前のことだ。

 

 足立が気にしているのは、自分の身に同じことが起きた場合である。

 

(もし僕の偽物が現れたら……何を言うんだろう?)

 

 大体想像はつく。『この人殺しが』とか何とかであろう。事実であるし目を背けるつもりはないが、他人には聞かれたくない話だ。

 

 偽物がなぜ現れたのかは分からない。いつでも現れ得るものなのか、昨晩は何かの原因があって現れたのかも分からない。だが霧の日のパトロールを続けていれば、いつかきっと足立の偽物も出るのではないか。そんな気がしてきた。ならばどうするべきか?

 

(パトロールをやめさせるとかは……できるかな?)

 

 稲羽支部の活動を妨害する方法はないか、考えてみた。例えば昨晩の戦いはかなり激しかったが、危険性を指摘してやるのはどうだろうか。特に高校生組には、もうやらせるなと意見を言うことはできる。

 

(いや、駄目だ。僕や堂島さんが高校生を使うななんて言ったって、有里君が認めるとは思えないし……。たとえ認めても、有里君本人がまた出張ってくるだけだ。第一、堂島さんは絶対にやめやしない……)

 

 霧の日にシャドウが出る限り、稲羽支部を止めることはできない。足立は副支部長という肩書はあるが、本部から見れば幹部でもない一隊員だ。足立の意思だけでは、どうしようもない問題である。下手にやれば自分の立場を悪くするだけだ。

 

(それに坊やたちはどうだ? もし堂島さんが影時間の再現装置を使って、菜々子ちゃんが象徴化するかどうか試せば……その場に坊やもいれば……あいつらがやってることがバレる。そうすると……)

 

 悠たち特捜隊はどうだろうか。彼らがシャドウワーカーより優位にあるのは、ただ一点。山野と早紀の死が殺人だと知っていることだ。堂島が特捜隊の存在を知り情報を共有して、事件の真相に今より近づけばどうなるか。それは真実を明らかにして、足立を追い詰める契機にならないか。

 

(……脅迫状でも書いてみようかな)

 

 メモ用紙とボールペンを手に取って、文面を考えてみた。もちろん本当に出すとなったら、筆跡から差出人が割れないようパソコンで書いて印字する。指紋が残らないよう手袋もする。だがまずは下書きだ。

 

(えっと……)

 

 しばらく考えると二つの文が浮かんだ。推敲もせずに、取り敢えずそのまま書いてみた。

 

『コレイジョウ、タスケルナ』

 

『ヤメナイト、ダイジナヒトガイレラレテ、コロサレルヨ』

 

(いや、駄目だろうなあ……こんなの見たって、あいつらがやめるとは思えないな)

 

 書いた途端、自分で駄目出しをする。

 

 特捜隊の面々の考え方は、足立にも大体分かる。こんなものを送り付けられたところで、事件から手を引く選択肢を選ぶとは思えない。全員集まって相談するなりして、ますますのめり込むだけだろう。内心で何を思うにせよ、顔を突き合わせて話し合えば結果は見えている。互いが互いを後押しして、結束をより強くする。その光景が目に浮かぶようだ。

 

(何でこんなことになったんだろう……)

 

 思わずため息が出た。どうしてこんなことになってしまったのか。どうして悩まねばならないのか? 決まっている。崖から落ちたからだ。忘れもしない4月14日。稲羽署の保護室にあったテレビに早紀を落としたからだ。人を殺してしまったからだ。全てはそこに端を発しているのだ。

 

(何であんなことしたかなあ……)

 

 11日に山野を落としたからではない。早紀を殺さなければ、生田目はきっとマヨナカテレビと殺人を結びつけはしなかった。そして何より、早紀が死ななければ尚紀がペルソナに目覚めることもなかった──

 

(……って、え?)

 

 ここまで考えて、ふと気付いた。どうしてこんなことになったのか。なぜあんなことをしたのか。陥った苦境に悩み、そうなった原因を探してしまう。今さらどうしようもないことでありながら、原因を考えてしまう。そうした感情を、人はこう呼ぶ。

 

 後悔──

 

(俺は……)

 

 足立は心底から驚いて、口を手で覆った。卒然と悟ってしまった。自分自身の『本性』を。

 

 自分は後悔している。何を? 殺したことを。転落した崖の底で上を見上げて、どうしても登れない絶壁に爪を立てて、唇を噛むように。

 

 足立透は道化師。イゴールにそう評され、自分でもそう思っていた。真の顔は他人に決して見せないまま、世界を嘲笑う者。何をしようと何も感じず、明日世界が終わると言われても何とも思わない者。罪悪感も良心の呵責もない者。即ち罪の『ない』者。いかなる『契約』もせず、誰にも縛られず、何からも自由である者。

 

 だがそうではなかった。古い酒の瓶底に溜まった澱のように、後悔は心の底に確かに存在していた。先行きに不安を覚えた途端に、自分自身の深いところにあったものが不意に、思いがけず、唐突に表に出てきてしまった。酒瓶を冷蔵庫から取り出したら、その弾みで澱が踊って全体に広がり、酒をまずくするように。

 

「……」

 

 だが自分自身を制御できないのは、足立にとって屈辱である。道端で硬いレンコンを吐いてしまうようなものだ。今ここでは胃に凝るものはない。今は感じていない気持ちの悪さを予防するように、いずれ再来する吐き気を今から堪えるように、奥歯を噛みしめる。そして考え直す。現実の味で後悔を塗り潰す。

 

(……やっちまったもんはしょうがない。大丈夫、よっぽどの大ドジ踏まない限りバレやしない。僕は上手くやってみせる)

 

 崖から落ちた日ではなく、今日の自分を省みた。急な不安を覚えたのはなぜか? いつか霧の日に、足立自身の偽物が出るのではないか。そう思いついたからだ。だが偽物が必ず出ると決まっているわけではない。むしろ根拠の乏しい憶測に過ぎない。そして出たところで、それで全てが終わりになるわけではない。やり方次第だ。

 

(僕の偽物が出たって大丈夫だ。シャドウが化けてるだけってのは、尚紀君の証言がある限り絶対だ。何を言われたって相手にしなければいいだけだ。事件にケリつけるんなら、生田目を犯人に仕立てればいい。あいつの方が僕よりずっと怪しいんだ。誰だってあいつを先に疑うはずなんだから、そこを上手くやればいいだけ……)

 

 高校生たちにはそれで十分なはずだ。堂島は疑うかもしれないが、どうせ山野と早紀の殺しに証拠などないのだ。偽物が何を言おうとも、とぼければいいだけだ。ただの言いがかりと変わりはしない。そんな下らない『中傷』などより、気にしなければならないことは他にあるはずだ。それはもっと現実的な問題だ。即ち──

 

(それより僕の偽物が出たら、強さは僕と同じってことになるんじゃないのか? そっちの方が問題だぞ……)

 

 足立の強さは稲羽支部では突出している。当然ながら足立自身もそれを自覚している。他のメンバー全員とまとめて戦っても勝てる自信がある。それはつまり、仲間たちを皆殺しにできる敵が現れ得るということに他ならない。

 

(もし出たら……堂島さんたちだけじゃ絶対無理だ。僕がやんないと駄目だろうな……)

 

 偽物の足立に対抗できるのは、本物の足立だけだ。たとえその頃に稲羽支部と特捜隊が合流していても同じだろう。有里がいれば別だが、あの足立自身と通じるところのある小悪党にして最強のペルソナ使いは、もう稲羽に来ない可能性もある。そうすると足立が自分で何とかするしかない。

 

(最悪、尚紀君だけでも守ってやんないと……)

 

 そう、足立は尚紀『だけ』は守らなければならないのだ。昨晩一条と長瀬の偽物が放った合体技から、『尚紀を』庇ったように。なぜか?

 

 それは殺しを後悔しているからだ。即ち──

 

(あ……そうか。僕は……)

 

 この子を守らねばならない──

 

 尚紀が稲羽支部に参加した当初から、足立はそう思っていた。何が起きても何も感じない、不感無覚の道化師に打ち込まれた楔。後悔を悟った途端、ないはずの心に潜んでいたもう一つの真実を悟ってしまった。

 

(僕は尚紀君に殺されたいんだ)

 

 気付いてしまえば簡単なことだった。足立は自分の死を恐れてはいない。いないつもりでいる。だが誰に殺されるかは選びたいと思っている。今まで意識したことはなかったが。

 

 無論、死に色はない。どんな死に方だろうと、死はただの死だ。だが有象無象のシャドウに殺されるのではつまらない。悠や陽介に殺されるのは面白くない。堂島に殺されるのなら悪くはない。だが最も良いのは尚紀だ。なぜなら尚紀が足立を殺すことは復讐になるから。それも正当な。極めて正当な。

 

 復讐──

 

 この世界は本質的に無意味だ。人生も無意味だ。命に価値はない。そこに意味や価値を与えるのは何かの目的だ。復讐する者とされる者。真っ平らな虚無の王国にあって、その二人だけが虚無から逃れられる。そこまで悟って、足立は呆れた。

 

(何だよ……これじゃまるで中学生だ。鳴上君たちを笑えないな……)

 

 死の彼岸から吹く甘い風に酔うこと。これはロマンティシズムの典型だ。中学生から高校生くらいの青少年がかかりやすい、普遍的な病だ。

 

 若者の病気を恥じるように、足立は右手で目を覆った。銃を握る機会が増えた為に、掌の皮が心なしか厚くなったのを顔で感じる。これは戦う男の手、とでも言うのだろうか。食が細くて酒に弱い、相棒とは対照的な体でいるのに、春以来の戦いの日々で鍛えられてしまっている。死のうと思っても難儀しそうな体に、いつの間にかなってしまっている気がする。そんな力強い手の裏で目を開けると、机に置かれたメモ用紙が指の間から見えた。そこに書かれた文を改めて読むと──

 

(あ、違う。イレラレテじゃない)

 

 一つのケアレスミスに気付いた。この文面では、犯人は一人ではないと言っているようなものである。生田目に罪を着せるなら、『イレテ、コロス』と書かなければいけない。足立は顔から手を離し、メモ用紙を手に取った。そして書き直すべくボールペンを取ろうとしたところで──

 

「はあ……何やってんだろうね、僕」

 

 思わず声が出てしまった。脅迫状など書いて何になると言うのか。久保が自首した7月もそうだったように、足立は動かずにいるのが一番なのだ。それなのにこんなものを書いたことが、とてつもなく馬鹿馬鹿しくなった。ペンに伸ばした手を引っ込め、紙を握り潰す。

 

「……」

 

 足立は席を立ち、机の端に置かれた灰皿に手を伸ばした。足立は元々煙草をあまり吸わないので携帯灰皿で十分だったが、夏頃から増えたので買っておいた。だが今は一服するつもりなのではない。

 

 机から離れて、埃をかぶったキッチンへ移動する。足立は悠と違って料理をしない。やろうと思ったこともない。ジュネスで買ってきた惣菜を電子レンジで温めるか、カップ麺の湯を電気ポットで沸かす程度だ。稲羽に赴任して以来、ほとんど初めてここに立ったわけだが、もちろん食事を作るつもりなのではない。狭い調理スペースに灰皿を置き、そこに脅迫状の下書きを乗せた。そして換気扇を回して、ライターで火をつけた。

 

「……」

 

 灰皿の上で炎が踊った。小さな紙切れを燃やす炎は、とてもか弱い。尚紀のペルソナが起こす灯火のように。立ち上がる煙は細く、一筋も残さず換気扇に吸い込まれていく。滅んだシャドウが発する煙は、白い霧にすぐに溶けるように。

 

 見る見るうちに悪意は焼け崩れていく。小さな灯火が白い紙を舐めて、黒い灰へと変えていく様を眺める。眺めながら、足立は考える。

 

 あの少年の火で、自分は死ねるだろうかと──

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