10月7日の放課後の時間、結実は稲羽市立病院を訪れていた。ただし病気や怪我をしたわけではない。昨日未明に行われたデビュー戦で、結実は負傷していない。結実ができるのは回復と補助のみで、戦闘能力のない完全な後方支援型である為、敵の目の前に立つ機会がなかったのだ。敢えて言うなら戦いの最後の局面、仲間の顔をした敵が現れた時か。一条の顔をした者に流星錘を飛ばされたが、あれは召喚器を弾いただけで体には当たっていない。たとえ当たっていたとしても、死なない限りは自分で治せる。
死なない限りは──
(お父さん……)
用がないはずの病院を訪れた理由はこれだ。ここは8月に父親が亡くなった場所である。もちろん葬儀はとうに済ませているのだが、墓地ではなくこちらに来た。ここは父親が死んだ直後、結実自身が目覚めた場所でもあるから。
(私がもっと早く……一日でも早く目覚めていたら……)
母と自分を捨てた父。憎んでいたはずの父。死に目に会えず、最後の言葉も聞けなかった父。そして自分の力。あと一日でも早く目覚めていれば、父を助けられたかもしれないのに、そうならなかった酷すぎる時に目覚めた力。或いはそうではなく、父が死んだからこそ得られたのかもしれない力。つまりは父の命と引き換えにしたもの。
結実は病院の廊下を歩きながら、自分の力の特性と目覚めた意味や由来について考える。しかしいくら考えても、結論は一向に得られない。同じところを巡り続けている。
もし結実に死者の蘇生が可能であったなら、こんなに悩むことはなかった。力を得たのは、父を生き返らせる為。意味はその一点のみで十分だった。しかし結実はそんな都合の良い力を持っていない。致命傷でなければどんな傷でも一瞬で癒せる力も、死人には何の効果もないのだ。シャドウワーカー本部にも蘇生の力を持つ者はいない。
ただ特別課外活動部の時代においては、死人が生き返った例はある。しかし稲羽支部の高校生組、つまり組織上は末端の構成員に過ぎない結実は、そこまで詳しい情報を教えられていない。自分が力を得た理由や自分がいる意味は、自分で考えるしかない。
(私の力は……何の為にあるの?)
普通に考えれば、特殊部隊の仲間たちを支援する為だ。別にそれは悪いことではないし、欠かせないものでもあるのだろう。ただ堂島には──
(人生……)
結実はジュネスの駐車場で堂島になぜ戦うのかと聞かれ、『自分の人生を守る為』と答えた。その意味は夏祭りで彼氏に語ったことだ。演技している時は、その役の人生を生きているような気がしていた。小沢結実などではない、別の人生を。だがペルソナに目覚めたことで、本当に違う人生が開かれたような気がしたのだ。おかげで部活にはさっぱり出なくなった。
要は結実が戦う理由は自分の為であるわけだ。それはある意味で若者の特権のようなものだ。しかしそれだけで良いのかとの思いも、年若い少女にはある。
(人生……生きてること、死なないこと……)
初めての戦いを詳しく思い返してみた。それは衣装を着てスポットライトを浴びる演劇とは違った。本物の戦いだった。本物だった『はず』である。
怪物たちとの戦いで一番多くの傷を負ったのは、支部長だっただろうか。それに次ぐのはクラスメイトの少年で、その次はその親友。いや、副支部長は最後に皆を庇って全身血塗れになったので、彼が一番だろうか。いずれにしても自分は全ての傷を癒した。跡も残さず、服さえ元通りにした。それこそ怪我の演技をしていたように、本物ではなかったようにしてしまった。だがそれも死なない限りはである。
「……」
演技とは違う、本物の人生。それは本物の重みがあるもの。演技で流した涙は簡単に収まるが、本物の涙はそうはいかない。自分では止められない。自分はそれを、入院した時に知ったはずである。
病院の廊下をあてもなく歩き続けて、やがてある角に至った時、結実は自分の体が震えているのに気付いた。それは恐怖や緊張の演技とは違う、本物──
「これ……ホント? え、計り間違えてない?」
しかし姿を現した本物の感情を遮るかのように、聞き覚えのある声が廊下の角の向こうから届けられてきた。視線の向ける先を内面から外に転じると、見知った顔がそこにいた。見た途端、体の震えは収まった。
「鳴上君……?」
いたのは彼氏だった。今日ここで会うことを約束はしていない。していないにも関わらず、なぜか鉢合わせてしまった。昨日の未明、会う約束をしていないのに、図らずも彼氏の自宅へ行ったように。
「小沢」
「どうしたの? どこか怪我でもしたの?」
もしそうなら言ってほしい。どんな怪我でも、すぐに治してあげるから──
と言うことはできない。シャドウワーカーは存在自体が秘密のもので、部外者に明かせることはないのだ。当の彼氏自身がシャドウに『声』をかけられて、世界の裏側に招かれでもしない限り。
「してませんよ。先輩はちょっと検査に来ただけです」
彼氏に代わって返事をしたのは、花火大会で一緒になった一年後輩の少女だった。それで初めて気付いたが、悠は一人ではなかった。廊下の向こうに花火大会で会った他の面々と、更にもう一人がいた。八人で輪になっている。
シャドウワーカーと同じく存在自体が秘密であるペルソナ使いのチーム、特別捜査隊である。リーダーの悠を始めとして、昨日に新加入したばかりの直斗まで全員が揃っている。病院に来たのはクマについて調べる為と、ペルソナやテレビの世界の霧が体に悪影響を及ぼしていないか、直斗の発案で精密検査をすることになったからである。ちなみに『計り』云々は、とあるメンバーのスリーサイズについてりせが驚いたのだ。
「そう……」
「君は? どこか悪いのか?」
「ううん、ちょっとね……お父さんのこと思い出しただけ……」
「……」
悠がシャドウワーカーを知らないのと同様、結実も特捜隊を知らない。季節が秋を迎えたこの時期にあってなお、二つの秘密の輪は互いについて知らないのだ。ただ結実の事情については、悠はある程度知っている。長い間義絶の状態にあった父親が戻ってきて、8月に亡くなり、それについて結実が苦しんでいたこととか。
「私、帰るね」
「送ってくよ」
僅かながら知っている事情に後押しされて、悠は結実に寄り添った。仲間たちを置いて。
「ん……ありがと」
そして結実も受け入れた。二つのチームのメンバーの大半に関係を知られている二人は、輪から離れて去っていった。そうして置いていかれた特捜隊の輪の端、悠がいた場所から見てちょうど正面の位置から声が上がった。
「あの、天城先輩」
直斗だ。悠が去って空いた穴の隣に立つ雪子に呼びかける。
「ん? 何?」
「今月、有里湊さんは泊まりに来られましたか?」
そして一見すると脈絡の見えない質問をした。
「え、有里さん? ううん、しばらく来てないよ……って、こういうこと、あんまり人に言っちゃいけないんだけど……」
「はい、済みません」
個人情報を聞き出した直斗は、帽子のつばに手をかけて謝った。
直斗がこの病院で検査を受けるよう手配したのは、皆の健康を案じた他にもう一つ理由がある。殺人事件とは別の『事件』について調べようと思ったからだ。しかし当ては外れた。
(昨日は意識不明で搬送された人はいなかったし、有里さんも来ていない……どういうことなんだ? 僕の考えすぎだったのか?)
霧が出る日に高校生が意識不明で倒れ、病院に担ぎ込まれるという『事件』が、4月から連続して起きている。公式には事件扱いされていないが、直斗は注目していた。しかし昨日は霧が出ていたものの、病院関係者に聞き込みをしたところ、運び込まれた人はいなかった。そして過去に三人の高校生を搬送した大学生も、今月は稲羽に来ていない。それはどういうことなのか、直斗にはまだ分からなかった。
「それにしても……小沢結実さん、鳴上先輩とお付き合いしてたんですね」
取り敢えず分かったことと言えば、過去に入院した高校生の一人が、自分を助けてくれた先輩と意外な関係にあることくらいだった。
「直斗君、誰が付き合ってるの……?」
「はい?」
「誰が、誰と?」
直斗は特捜隊に加入はしたものの、チーム内の人間関係にはまだ詳しくない。悠と個人としてのコミュニティも始まっていない。だからりせから言われたことの意味を、一瞬理解できなかった。
「……」
「……」
理解できたのは数秒後だ。特捜隊の先輩たち、その女性陣から無言の気迫が放たれている。
(え……)
直斗は考えなければならない事柄を、非常に多く抱えている。何ヶ月も前から追っていた連続誘拐殺人事件について、自ら被害者の一人となり特捜隊の一員となったことで、新たに得た情報は多大なものだ。事件そのものだけでなく、テレビの世界、そこで蠢くシャドウ、それに立ち向かうペルソナという数々の超常現象についても興味は尽きない。そんな群れをなした事案たちに加えて、特捜隊内部の人間関係の一端を垣間見てしまった。
「な、何でもありません!」
人間の認知資源は有限である。いくつもの事柄を同時に考えて、その全てを前に進めるのは至難の業だ。かくして直斗は現実の霧の日に起きている『事件』について、深く考える余裕を失ってしまった。
「そ、それより! この検査結果では、僕らに健康上の問題は見つかりませんでした! だからこれはもう必要ありません! シュレッダーに入れてきます!」
そう言って全員の検査結果を記した書類をクマからひったくり、走り去った。急激に険悪化した雰囲気から逃げたわけである。
「えーっと……まあ、みんな健康で何よりだな!」
重苦しくなった雰囲気を、陽介が逸らしにかかった。
「そ、そうだね! 帰ろ帰ろ!」
そして千枝が同調する。リーダーとその彼女に思うところは山ほどあるのだが、何も口にせず、場を切り上げた。自分の感情から目を背けるように、皆がその場を後にする。ただ一人を除いて。
「あの女の子、ユミチャン……だったクマ?」
クマだ。
「ん? ああ……」
他の皆が去っていく中で、陽介だけがその場で振り返った。腕を組んで、同居人に応じる。
「センセイは……いいクマね。女の子と付き合えて……」
「え、そりゃあ……」
「ヨースケもいいクマね……。人間のヨースケは、人間の女の子と何でもできるクマ……」
クマのこの指摘は正確性を欠いている。悲しいかな、相棒と違って陽介は異性と何でもできるほど人気者ではない。そしてそれ以上に、今の陽介はそもそも彼女が欲しいとか、そういう願望を持っていない。以前はあったが、一学期の終わり頃から薄れ始めたのだ。そして9月2日にある決意を表明して以降は、ほぼ完全に消えた。特捜隊は綺麗どころが四人もいて、しかも全員が誰とも『特別な関係』を築いていないのだが、陽介は誰にもそちら方面の興味を抱いていないことがそれを証明している。
「……」
しかしそれをクマに言ってやったところで、仕方のないことである。陽介が抱えている問題は、飽くまで心理的なものだ。つまり人間の力で乗り越えられるものだ。だがクマはそうとは限らない。
「クマは……何も映んなかったクマ……」
今日の精密検査では、誰にも特に異常は見つからなかった。ただクマの場合は異常を見つける以前に、そもそも何も見つけられなかったのだ。レントゲンを撮っても何も映らなかった。何度撮影してもぼやけてしまう。医師は機械に異常があるかもしれないから、別の病院で再び受けることを勧めたが、原因は機械にあるのではないことは明白だ。
(ナナチャン……)
心に留めている一人の人間に、科学が見通せない人外は思いを馳せる。人間と人外の間にある壁は、どれだけの高さがあるのか。人間の力で乗り越えられるのか、不可能なのか。存在自体に根差す差異を、自分は乗り越えられるのか。クマは悩む。
「な、なーに! 気にすんなよ! 次があるさ!」
「次……」
本来なら、こういう時はコミュニティの主である悠がクマをフォローしてやるべきである。しかし悠は結実に連れて行かれてしまった。こうなると悠に次いでクマと縁の深い陽介が何とかするしかないのだが、陽介では上手くいかないところがある。たとえ同じ言葉であっても言うのが悠か陽介かでは、クマの受け止め方に違いが出る。不条理にも。
弟子と親友と仲間たちを良くない雰囲気に放置した悠は、結実と一緒にバスに乗って市街地まで戻って来た。稲羽市立病院は町の外れにあるので、徒歩ではなかなか行き来できない。夜の清掃アルバイトにも、悠はバスで通っている。
慣れた乗り物から降りた悠は、商店街のバス停を見上げた。雲が赤く血のように広がる夕暮れの秋の空に、停留所名を記した丸い板が穴を空けている。悠はここへ来るたび、こうして見上げるのが習慣になっていた。6月に海で釣ったものを連想させるから。
(先生……)
稲羽市連続誘拐殺人事件はまだ終わっていない。直斗が誘拐された際の経緯は昨日に聞いているが、かの探偵も犯人に直接繋がる情報は持っていなかった。新たに分かったことと言えば、犯人は男で単独犯であろうということくらいだ。
諸岡の仇を取れないことは、悠はもう分かっている。だがそれでも事件は解決せねばならない。諸岡の為にも──
「……」
しかし思考は中断された。一緒にバスから降りた結実が手を繋いできたのだ。寂れた街並みに人影はない。すぐそこにあるガソリンスタンドにも人影はない。秋を迎える午後の涼しい風の中で、二人は秘密のようにそこにいる。
「小沢?」
「ねえ……君の家、行ってもいい?」
「!……」
「この時間なら……叔父さん、まだ帰ってないよね?」
この時、結実は口を滑らせた。悠は自分の家族構成を結実に伝えていないのだ。両親ではなく叔父と同居していることを、結実に話した覚えはない。それなのに、結実はなぜか知っている。しかし悠はその不自然さに気付かなかった。突然激しい運動を開始した心臓に煽られて、それどころではなかったのだ。
バス停で恩師に思いを馳せてから、少々の時間が過ぎた頃。悠は初めて自室に異性を招き入れた。もちろん菜々子はこの部屋に何度も来たことがあるが、家族でしかも小学一年生の女児は除外して考えるべきだ。年の近い女を部屋に上げたのは、これが初めてだ。八十稲羽に来る前はもちろん、来てからも。
悠と結実は部屋のソファーに並んで腰を下ろしていた。ソファーは小さなもので、二人が並んで座ると肩が当たりそうになる。現に若い男女は、夏用の制服の短い袖が触れ合っている。季節はこれから秋が深まり、肌寒さを感じ始める頃だ。だから八十神高校は衣替えが近い。半袖の夏服を着る期間は今週までだ。明日の土曜日には役割を終える薄い布が、二人の間を別っている。
いや、明日までなどと言わず、すぐにでもこの服は着なくなる。そういう状況に、若い二人はいる。
「……」
しかし二人の視線は出会わない。言葉も交わさない。悠はソファーの向かいにある電源を入れていないテレビを、黙って見つめている。今日の天気は曇りで時刻もまだ夕方の早い時間なので、ただの黒い箱をいくら眺めたところで何も映りはしない。映らないのに、悠はテレビを見ている。
「……黙らないでよ」
「……」
結実が声をかけても、悠は振り返らない。依然として黒い画面を見つめている。しかしマヨナカテレビは映らないし、『鏡の少年』も瞬きをしない。ここにいるのは完全な意味で二人だけである。邪魔する者はいない。言い方を変えると、助け舟は来ない。
「もう……私から言わせるつもり?」
女の声に小さくない不機嫌さが混じった。すると悠は連想的にあることを思い出した。
(我か通はむ君か来まさむ……だったっけ?)
いつぞや聞いた和歌だ。その意味は『今も昔も、男から攻めていかなければいけない』とか、そんなところだったはずである。つまり押されっ放しでは男が廃るということだ。慣れない事態に陥ってしまっているが、ここは自分がリードしなければ──
そんなことを考えながら、悠は結実の側へ顔を向けた。向けたまさにその瞬間、視界を塞がれた。そして次の瞬間、言葉も塞がれた。
「……」
視界を塞いだのは間近に迫った女の顔であり、言葉を塞いだのは女の唇なのだが、悠はよく分からなかった。男からは何も言えず、女も言葉を用いないまま場面は展開した。
「……」
自室の天井を見つめながら、悠は考える。二人で寝るには狭いこの布団は、いつから敷いてあったのかと。朝起きたらすぐに布団をたたむ習慣はある。だから初めから敷いてあったのではない。すると誰が敷いたのか。
(いや、俺が自分で敷いたに決まってるよな)
そのはずなのだが、その時の記憶はなかった。何か柔らかいもので口を塞がれてから現在に至るまで、時間的には約一時間程度だ。その間に自分の身に何が起きたのか、よく分からなかった。とは言っても、記憶が完全に抜け落ちているわけではない。
自分が何をされたのか、そして自分が何をしたのかは覚えている。ただ何となく、夢で見た出来事のような気がしていた。夢なら覚めたらすぐに忘れるはずだが、ある日に限って鮮明に覚えていたように、この一時間の出来事を覚えていた。吹きすさぶ風に翻弄されて、鉄の枷で雁字搦めにされていた。炎を吹き上げる池に飛び込んで、外から内から襲い来る熱に焼き滅ぼされまいと、全身に力を入れて耐えた。そうしたとにかく暴力的な、熱を持った何かに襲われたことを覚えていた。
そうしたこの一時間における主たる出来事だけで、悠は脳の容量が一杯になってしまい、事の準備段階は記憶から押し出されたのかもしれない。日頃からずっと期待しているくせに、いざその時が来ると緊張の余りに訳が分からなくなってしまう。一言で言うと、狂う。初心な少年にはよくあることだ。
何はともあれ、狂気を伴う焦熱は体から過ぎ去った。つまりは押し負けて、流されて、終わってから我に返ったわけだ。そうして悠は横になったまま首を回し、隣にいる人の側へ顔を向けた。すると今度は目も口も塞がれなかった。ただすぐ傍に結実の顔があった。
舞台の虚空を鋭く見据える切れ長の目は閉じられ、聴衆の耳を激しく叩く口には、軽く握られた手が添えられていた。その口が悠の目の前で動いた。
「私……貴方を守るから」
(?……)
何を言われたのか分からなかった。事に及んだ男女にとって、理性や記憶が曖昧になるのはよくあることだ。事を終えた後で、何かしら語り合うのもよくあることだ。しかし今の言葉は珍しい。男が女に言うのはともかく、女が男に言うのはめったにない。しかも前後の脈絡がまるで見えない。演劇であれば、何の為に挟まれたセリフなんだと脚本家に突っ込みがいくところだ。
「小沢?」
「あ……」
名前を呼ぶと、結実は目を開けた。ごく短い距離を置いて、二人の視線が出会う。
「ね……一昨日の夜、何してた?」
そして枕語りが始まった。
「一昨日?」
「5日から6日にかけて……」
「別に……勉強してただけだよ。いや、菜々子が夜中に起きだしてたな」
「菜々子って……妹さんだっけ。てか、従妹?」
「ああ。寝ぼけてたみたいだったから、絵本読んで寝かしつけた」
「そう……」
結実はうつ伏せになり、悠から目を逸らす。そして一人考える。
(彼じゃなかったんだ……)
6日未明の戦いはこの家の周囲で行われた。8月に自分が呼ばれたように、あの夜は悠がシャドウに呼ばれたのではないかと、結実は思っていたのだ。新たに世界の裏側に招かれるのは、目覚めたペルソナ使いの知り合い繋がりで来るのなら、悠は最もあり得るとの考えもあった。だから確認してみたのだが、違っていた。声をかけられたのは彼氏の従妹で、支部長の娘。家から出てこなかったのは、彼氏が止めたから。
堂島は昨日同じことを確認した際、次の霧の日も菜々子はシャドウに狙われるのかと、激しい懊悩を感じた。しかし菜々子とほとんど会ったことのない結実は、そこまで思い至らない。
「こういう時に、他の女の名前を言うもんじゃないわよ」
ただ話を切り上げるつもりで冗談を言うだけだ。
「……」
結実の冗談に、悠は答えない。言わせたのは結実なのだが、そこを突っ込みもしない。と言うか、突っ込んでも無駄である。
「今日は許してあげるけど、次は駄目だからね」
「……悪かった」
長い時間を過ごした二人はやがて部屋から出た。着る機会はもう明日までしかない夏服に身を包んで、堂島宅の階段を下りる。暗くなり始めているので、家まで送っていくつもりで。そこで──
「お兄ちゃん……?」
玄関前で一人の同居人と鉢合わせた。堂島はまだ帰ってきていない。だがこの家の住人は、元より叔父と甥以外にもう一人いる。
「菜々子……」
「……」
小学一年生の女児は、無言で憂い顔を浮かべている。年に不相応なくらいに。これは悠には覚えのある雰囲気である。7月5日、七夕の短冊を書いた時だ。あの日、菜々子は途轍もなく答えづらい質問をしてきた。言うなれば、今日はその回答を示したようなものである。それは幼い従妹を酷く傷つけるもの──
「あら……こんにちは、妹さん」
だが菜々子がはっきりした反応を示す前に、結実が先に動いた。女子にしては高い背を屈め、長い足を折り曲げて菜々子と視線を合わせる。
「お久しぶり。花火の時も会ったよね」
結実は笑顔でいる。一見すると、優しく笑っている。だが体を屈めながらも背中は伸びているような、芯の通った佇まいを十歳年下の女児に見せている。結実は二学期以降、演劇部に全く出なくなっているが、こういうところは今でも女優である。決して女児を威圧しているのではないが、『大人』を表す気配を言葉以外のもので示している。
「えっと……」
「小沢結実です。菜々子ちゃん、だよね? よろしくね」
「結実……お姉ちゃん?」
「ふふ……ありがとう」
菜々子が『お姉ちゃん』と呼ぶのは、何も結実だけではない。千枝と雪子は堂島宅を訪れたことがあるが、その際にも彼女たちを『お姉ちゃん』と呼んでいた。つまりは単に年上の女性という意味だ。そのニュアンスを知ってか知らずか、結実は笑顔を大きくする。そして『妹』の頭を撫でる。
「ここまででいいわ」
やがて結実は立ち上がった。まるで撫でていた菜々子の頭を支えにするように、上体をすっと伸ばして立つ。もちろん女児の頭を押さえつけたわけではなく、演技でそう見せただけだ。その所作には、ある種の凛々しさがある。
「今日はありがとう……それじゃね」
そうして去っていった。家まで密やかにやって来たと思ったら、局所的な嵐を巻き起こして、最後は堂々と去っていった。悠はもちろんだが、菜々子もすっかり翻弄されてしまったわけだ。
「お兄ちゃん……」
玄関の引き戸が閉まると、菜々子は悠を見上げてきた。日は既に大きく傾いており、夕闇が家の奥深くまで忍び寄る中で、『妹』は秋の虫が鳴くより微かな声で『兄』に尋ねる。
「結実お姉ちゃんが、お兄ちゃんのかのじょなの?」
答えにくい質問である。だが違うとは言えない。言えば確実に嘘になる。そういう状況に、悠は今日から置かれたのだ。事がここまで至った以上、もはやピアノを弾いてごまかすのも通用しない。
「……ああ」
長い間を置いて、悠は頷いた。
玄関から自室に戻ると、布団の脇に置かれたゴミ箱が目に入った。意識したわけではなく、不意に目に入った。そこには三ヶ月ほど前に、ジュネスで買っておけと足立に勧められたものが、無造作に捨てられていた。正しくは、その使用済みのものが捨てられていた。何なのか分かった途端、悠は額に手を当てた。
(俺って奴は……)
炎の雨に打たれた夢うつつの状態であっても、年長者の助言にはしっかりと従っていたのだった。そんな自分自身の小さな周到さに、悠は呆れた。事を終え、女も帰った今になって呆れた。そして少しだけ安堵した。高校卒業直後に籍を入れたらしい、とある知り合いの青年の轍は踏まなかったのだと。
だがもちろんそれだけでは、事は収まらない。
(しかし……何か色々とまずいな。菜々子もだが、里中に天城にりせ……。いや、一番まずいのは海老原かな……)