秋が己の存在を強く主張し始める10月、その二度目の土曜日である8日は風の強い日だった。放課後の時間、特別捜査隊は八十神高校の屋上に集合した。彼らが特捜会議を開催するのは、多くの場合がジュネスのフードコートだが、ここに集まることもある。ただし今日の集まりは、事件とは直接関係ない。召集をかけたのはリーダーの悠ではなく、サブリーダーの陽介だった。
「頼む! 助けてくれ! お前らだけが頼りだ!」
八十神高校は来週から衣替えで、薄着をするのも今日が最後である。冷たい風を季節のずれた服越しに浴びながら、陽介は仲間たちに頭を下げた。ついでに手も合わせる。
「今週末……空けてくれ!」
陽介が拝み倒そうとしているのは、本人以外の仲間たち全員である。ここはジュネスではなく学校だが、いつもの赤と青の着ぐるみに身を包んだクマもいる。クマは二学期から時々学校に紛れ込んでくるのだ。
「今週末……もしかして、中止になった稲羽署のイベント絡みですか?」
陽介の突然の申し出の意図を最初に察したのは、新人の直斗だった。さすがは探偵と言うべきか、勘が鋭い。
「そう、それ……」
話によると、明日の日曜日にアイドルの真下かなみが稲羽署で一日署長をする予定だったのだが、中止になってしまったらしい。そこで困ったのがジュネス八十稲羽店だ。警察のイベントに便乗してセールを企画していたのだが、完全に裏目に出てしまったわけである。警察の中止発表が遅かったことが、事態をより悪くした。早い段階から準備を進めていて、既にセールに向けた発注も大量に出してしまっているので、今さら『残念でした』では済まされなくなってしまったのだ。こうなった以上、何か別の企画が必要になる。
「で、その……久慈川さんには、何だ。ジュネスでイベントなど……歌とか?」
「それ……私にかなみの代わりをやれってこと?」
話を振られたりせは、気が進まなそうな顔をしている。真下かなみは、りせと同じ事務所に所属するアイドルだ。つまり後輩である。りせにすれば、後輩の不始末(こうなったのは警察の段取りが悪かったからと、ジュネスが先走ったからで、後輩自身に責任はないが)の尻拭いをさせられるように感じるところだ。
「……やっぱ、駄目?」
陽介の交渉は不調である。すると見かねた悠が口を挟んだ。
「陽介、本当にまずい状況なのか? 冗談じゃなくて?」
アイドルのイベントが一つ流れた程度で、あれだけ大きな店の経営が危うくなるものなのか。悠にすれば、いささか大袈裟に聞こえる。悠は陽介を信用していないわけでは決してないが、一応確認してみた。すると陽介の顔に影が差した。
「ああ、前もちょっと話したかもしんねえけど……うちの店って、そんなに余裕あるわけじゃねえんだよ」
陽介が言っているのは、先月に尚紀がジュネスを訪れた時のことだ。ジュネス全体、更には日本の流通業界全体に言える話だが、将来を楽観視できる状況ではないのだ。もちろんアルバイトの身に過ぎない陽介は、店の経営状態を正確に把握しているわけではない。しかし漏れ聞こえてくる話はある。特に気掛かりなのは、家での父親の態度らしい。
「最近、親父が妙に優しくてさ……。また転校……とか言い出す前振りじゃねえかって……」
便乗セールの失敗一つだけで、ジュネス八十稲羽店そのものが潰れることはないにしても、大きな赤字を出すのは色々とまずい。具体的に言うと、店長である陽介の父親の立場は確実にまずくなる。父親は雇われ店長の身なので、責任問題に発展すれば首が飛ぶくらいのことはあり得る。
(これは何とかしてやらないといけないな……)
悠は考える。陽介は相棒だ。苦境を助けてもらったことは何度もある。だが思い返してみると、陽介が苦しい時に助けた覚えはあまりなかった気がした。7月には身勝手なアルバイト仲間を怒鳴りつけたが、あれは悠自身の事情もあってそうしたことだ。ならばそっとしておいてはならない。夏以降の悠は行動的でいるよう心掛けているが、今日は特にそうせねばならないと感じた。
では今の相棒の苦境において、自分ができることと言えば──
「ピアノなら弾けるし、ベースも持ってるが」
りせが歌うのなら、その手伝いをすることだ。と言うより、渋るりせをその気にさせることだ。交渉事は味方が多い方が強い。陽介の頼みだけでは気が進まなくても、悠が同調すれば違う反応も引き出せる。
「え? 先輩、そうなの?」
案の定、りせは食いついてきた。
「お、さすが相棒! つか何、実はバンドの経験とかあんの!?」
悠は今まで音楽の話を特捜隊の皆としたことはない。ピアノが弾けることも言っていない。それは別に隠すつもりがあったのではなく、単に話題に出なかったからだが。転校から半年も経った今になって、悠は初めて自分の趣味に関する事実を明かした。
「バンドはしたことないが、そこそこ弾けはする」
「じゃ、決まりね! 私が歌うから、みんなはバックで!」
話は決まった。しかし言い出した陽介を含め、特捜隊の大半は顔をひきつらせた。
「え? み、みんな……?」
「当然でしょ。鳴上先輩がやるんだから」
繰り返すが、話は決まりである。仲良し八人組は、流れが一つできると全員巻き込まれるのが常だ。アイドルのバックバンドでも何でも、リーダーがやるとなったら全員がやるのだ。例外はない。引き返す道もない。
ジュネスのイベントに参加することが決まってから数十分後。楽器を持っている者は自宅に取りに行って、そうでない者は吹奏楽部などから借りて、特捜隊は実習棟の一階にある音楽室に再集合した。各々自分の道具を持って、譜面台の前に立つ。
「おお! 何かそれっぽくね?」
急遽結成された即席バンドは、見た目は意外と様になっていた。編成はギターが陽介、ベースが悠で前列の左右に立つ。中列にトランペットの千枝とサックスの雪子。後列は完二が中央でドラム、向かって右側の直斗がキーボードだ。そしてクマは左側。担当はコンガやボンゴなど、打楽器を色々である。バンドと言えば四人か五人編成が最も一般的だが、特捜隊は八人いるので楽器の数も多くなる。
「うん、見た感じ悪くないかも。時間ないし、練習始めましょ!」
ボーカルとして最前列の中央に立つりせは、バックバンドの側を向いて、皆を促した。いわば指揮者役だ。しかし──
「音、出ない」
「これ、壊れてんじゃん? 何かスースー言うよ?」
いきなり暗雲が漂ってきた。二つの管楽器は、奏者の手からそもそも音が出てこない。
「この紙に書いてあるオタマジャクシは、何者クマ?」
「……」
沈黙が痛い。言うまでもないが、見た目が様になることと実演できるかは全く別である。そもそも音楽の経験がある者からして、十分ではない。りせと悠の他には、直斗がピアノを習っていたのと陽介が少々かじっているだけである。ちなみにキーボードは悠も弾けるが、直斗は鍵盤楽器しかできないとのことだったので、そちらは後輩に譲った。
「やっぱ転校するのか、俺……」
「まあとにかく弾いてみよう。取り敢えず陽介、イントロ始めて。俺が合わせるから」
心配する陽介を励ますように、悠は堂島宅から持ってきたエレキベースに手をかけた。目は譜面台に置かれたスコアを追う。曲はりせの持ち歌の一つだ。アイドル歌手が歌う曲らしく、華やかで明るい曲調のものである。低音を奏でるベースパートは、五線譜上で踊る音符の数からして少ない。弾ける──
「よーし。じゃ、ワン、ツー、スリー、フォー!」
りせの掛け声で、まず陽介がエレキギターを弾き始めた。このボディが黄色い弦楽器は借り物ではなく、陽介が昔自分で買った私物である。陽介はギターを本格的に習ったことはないのだが、ピックが弦を弾いて出る音は何とか揃っている。楽譜が指示するテンポには届いていないが。
「……」
本来より長い間を置いてようやく自分のパートが来ると、悠は手を動かした。すると思った通りに弾けた。楽譜通り、綺麗に。ギターがミスをしても構わずに、導入部を弾ききった。
「相棒、上手いな……」
「いや、と言うかな……」
悠は更に手を動かした。譜面に書かれたベースパートを、一人で続けて弾いてみた。
「先輩、すっげ……」
ベースと同じリズムパートを担当する完二は、感嘆の声を漏らした。
練習を始めて三十分ほどした頃、皆が悪戦苦闘する中で、悠は自分の持ち場をさっさと仕上げてしまった。最初から最後まで完璧に。この曲のベースパートは全体的に単調で、技術的には特に難しくなかった。
「ちょっと失礼……」
皆の練習が途絶えたところで、一人で弾いてみた。ただし趣向を変えて。ギターパートを低音にアレンジして、更にテンポを上げてみた。
「わあ……先輩、凄い!」
素人たちを指導していたりせが、驚いたように拍手をしてきた。同じ曲でも音域を変えると、雰囲気は大きく変わる。何度も歌って耳慣れたはずの、自分の曲の新しい側面を不意に聞かされて、感じ入ったようだ。
「先輩がこんなに弾けるんなら、一曲だけなんてもったいないわ」
そして話が飛躍した。
「ちょ、マジすか!?」
「一曲で精一杯だって……これ、音出ないし」
「ライブって言ったらアンコールは付き物よ? お客さんに不満持たせちゃ駄目」
千枝と雪子が止めに入ったが、りせはその気になってしまっている。すると比較的弾ける方である直斗がフォローを入れた。
「ではベースがメインで、他のパートは簡単な曲とかないんでしょうか」
「んー……そうね。私の持ち歌、ベースメインのはないわ」
一口にバンドが演奏する曲と言ってもテイストは様々だ。ベースを前面に出す楽曲は、もちろんこの世にいくらでもあるが、アイドルとしてのりせが歌う曲にそういうものはなかった。
「お前、普段何聞いてんだ? 洋楽とかコピーで弾けたりしねえ?」
「いや、そういうのは……」
陽介の振りに、悠は少し困った。悠の音楽の素養はクラシックが基礎で、ロックやポップスには詳しくない。そしてそれ以前に──
「それNG。他の人の曲だと、逆に大事になっちゃう」
「文化祭とは訳が違いますからね」
高校の文化祭ならまだしも、ジュネスのような大きな施設で他人の曲を歌うとなると、権利関係の問題が発生する。特にりせは休業中とはいえプロのアイドルなので、コピーバンドはできない。
「うーん、どうしよ。この曲をアレンジするってのも……いや、そうすると歌詞と合わないかな……」
「あのー……二曲やるって、もう決まりなんすか?」
「……」
りせが悩んで、千枝が控え目に突っ込む中で、悠は黙っている。紺のストラップで肩に吊るした、自分の楽器に目を落とす。これは犯人によってテレビに落とされた翌日、7月18日にマリーに薦められて四六商店で買ったものだ。あの日、マリーは何と言っていたか──
(伴奏しろ……)
ベースにせよギターにせよ、悠はそれまでこの種の楽器を手に取ったことはなかった。しかし『なぜか』買ったその日からまともに弾けて、菜々子にも聞かせた。当時は菜々子と気まずい雰囲気になっていたのだが、音楽のおかげで仲を修復できたようなものだった。
「……」
悠は顔を上げた。視線の先には音楽室の天井があるが、それは目に入らない。古い校舎の壁や屋根を越えた先にある稲羽の空、そして空の更に向こうにある天上を見る。何かが住まうという異界を見上げると、応じるように『何か』が降りてきた。
「!……」
降りてきたのだ。自分の内面から湧いて出たものではない。目に見えない何者かが天からやって来て、自分の中に入り込む。そんな感覚を覚えた。マリーに言わせれば、『言葉が勝手に溢れてくる』という状態だ。
人はそれを芸術的霊感と呼ぶ。
悠は顔の位置を元に戻した。そしてマリーとの思い出の一つである楽器を改めて見る。これは弦の振動を電気的な信号に変換する為の、機械仕掛けの道具ではない。自分の体の一部だ。いや、心の一部と言うべきか。テレビの中で振るっている刀さえ、自分自身との親和性においては及ぶまい。いっそこれでシャドウを叩き伏せることだってできるかもしれない。特捜隊はテレビの外ではペルソナを使えず、どうすれば使えるようになるのかも分からなかった。だが実はこうすれば──
そんなことを思った瞬間、悠の両手が閃いた。弦を押さえる左手と、弦を弾く右手。その両方が凄まじい速さで踊った。
──
練習が中断された音楽室に、ベースラインが響き渡った。二曲目をどうしようかと悩んでいた皆は、新たな音楽の出どころに一斉に振り向く。
「先輩……それ、なんて曲?」
りせは目を丸くしている。だが悠は後輩と目を合わせない。依然として、刀の代わりになりそうな楽器を見ている。本当は素人のはずの俄かベーシストの脳裏には、音の洪水が降りてきていた。ベースで出せる音も出せない音も、まとめて鳴り響いている。
「タイトルは……『ピエロ』だ」
まとまっているのだ。一つのフレーズを閃いて、それをテーマにして各々のパートを考え、前奏や間奏を足して曲を組み立てるのではない。初めから組み上がった状態で、いきなりやって来たのだ。詩で言えば、主題を決める前に全文が出来上がってしまった。絵画で言えば、デッサンをする前に額装までされた完成品が空から降ってきたようなものだ。
「他のプロの歌手やバンドの曲だと駄目なんだよな」
ここでようやく悠はりせの側を振り返った。その表情は自信に満ち溢れている。対シャドウ戦の指揮を取り、チーム全体の意思決定も行う者。即ち『リーダー』の顔だ。そこから連想されるのは、試験は毎回学年トップを取り、スポーツは何をやらせてもエース級で、音楽や料理などにおいても非凡な才能を持つ、そんな超人高校生だ。
「う、うん……」
テレビの劇場で助けられた時から、りせはそういうイメージを悠に持っていた。だが7月の期末試験で悠は極端に良い成績を取っていたわけではなかったので、色眼鏡で見てはいけないと思い直したのだった。しかし今日、イメージが復活した。
「じゃあ自分で作れば問題ないわけだ」
悠は楽器を肩にかけたまま、音楽室の隅にある棚の前まで歩いていった。探してみると、目的のものはすぐに見つかった。
「お、おい相棒! まさか今から書く気か!? てか、お前って作曲もできんの!?」
陽介が言うが、悠は答えない。無言で棚から五線譜の束を取り出し、音楽室の端にある教壇まで歩む。それからベースのストラップを肩から外して、『得物』を教卓に立てかけた。その所作には、どこか芝居がかったところがあった。まるで時代劇に登場する武士が、刀を鞘ごと帯から外して床に置くような。幼い頃から親しんでいた自分の一部を、肌身から離すように。しかし離しながらも依然として自分の一部であるような、現実の人と道具の位置とは異なる距離感を演出していた。
「一曲目の練習、続けて」
教卓の椅子に座りながら、悠は皆に声をかけた。一人のプロと六人の素人たちを置いて、自分の作業に取り掛かった。
(書ける……)
天から降りてきたものを五線譜に写し取る作業を開始して数分後。悠は自分自身に驚いていた。作曲はこれが初めてだ。しかし書ける。なぜか書けてしまう。メインとなるベースパートは早々に書き上がり、続けてギターパートに取りかかったが、そこでもペンが止まらない。頭に降り注ぐ音の豪雨を一滴たりとも取りこぼすまいと、手は驚くべき速さで動いている。
(俺って実は天才だったのか?)
人は何かの拍子に新しい自分を発見してしまうことはある。だがまさか音楽で発見するとは、悠は夢にも思っていなかった。子供に簡単なピアノ曲を聞かせてやる程度の、趣味レベルのものしかないと、自分自身を見なしていた。だが実は天才だったのかもしれない。
指先で譜面を追うだけのアマチュアピアノ弾きは、4月以来の充実した日々を経て、遂に表現する『心』を得た。そして今日この日、隠れた才能が一気に開花した──
人の人生をドラマチックに描く伝記作家ならば、そんな風に書き記したかもしれない。悠も心云々とは思わずとも自分自身に驚きつつ、ちょっと得意になっていた。
「ふう……」
また一枚の楽譜を書き終えてから、悠は息を一つ吐いて首を軽く回した。少々わざとらしく。テレビの中で、怯んで総崩れとなったシャドウの群れを一掃すべく、刀を構え直した時のように。まな板に乗せられた具材をどうさばき、どう料理するか。眼前に置かれた大理石の塊にどうノミを入れて、どんな彫刻をこの世に出現させるか。全てのプランは頭の中で完成している。
あとは作品を創造する過程そのもの、諸岡に教わったギリシャ哲学風に言えば、デュナミスをエネルゲイアにするのを楽しめばいいだけだ。そんな熟練のマイスターのような、あらゆる要素を掌に乗せた全能者の余裕を伺わせながら、悠は首を回した。そして次の五線譜を手に取った。
なお、悠が書いている間、他の皆はりせの指揮で一曲目の練習を続けていた。時々リーダーを不安そうに見やることはあったが、声はかけずにいた。かけられる雰囲気ではなかったのだ。当のリーダー自身も自分の世界に浸りきっていたので、間違いだらけの演奏に気を散らされることはなかった。
時間にして約三十分後。譜面を走り、跳躍し、華麗に踊り続けたペンはようやく止まった。悠は教卓一面に広がった楽譜を集め、四隅を揃えて束にした。トントンと軽やかに響く音を立てて。するとそれに反応したか、りせが振り返ってきた。
ベーシストは教壇から降りて、書き終えたばかりで手の温度も残っているバンドスコアをボーカリストに手渡した。映画のチケットでも渡すように、あっさりと。
「はい」
「も、もうできたの……? 一晩で一曲書いちゃう人とか、いるって聞いたことあるけど……」
「書き写しただけさ」
これは冗談や諧謔ではなく、本当だ。悠がしたことは、天から降ってきた完成品を写しただけである。つまり、ただ手の運動をしたに過ぎない。頭を捻って無から有を絞り出したのではない。創造の苦しみはおろか、推敲さえ必要なかった。単純な筆写作業に時間はかからない。
目を丸くしている後輩の脇を通り抜けて、悠はバンドの後列まで歩いた。自然と。おもむろに。道端で偶然出会った知り合いに挨拶をするように。
「じゃ、ちょっと弾いてみるから。直斗、キーボード貸して」
「は、はい!」
直斗は慌てて場所を譲り、悠は鍵盤の前に立った。自筆の楽譜は譜面台に置かない。全容が頭に入っているので、必要ない。
(弾ける……)
まず一息入れて、改めて頭の中でイメージを再現する。それは昔から弾いてきたクラシックのピアノ曲とも、菜々子が好きなジュネスのテーマとも全く異なる感覚のものだ。だが弾ける。弾けることを確信しながら、悠は両手を鍵盤の上にかざした。
最初は左手で、低音のトリルを響かせる。それを数秒続けてから、右手で高音を奏でる。ただしそちらは音の数からして控え目で、左手から発する音の方がずっと激しい。この曲は低音が主体で、高音は一部を除いて装飾的な役割しかない。
「イントロはここまで。次の小節からボーカルが入る」
悠のキーボード演奏は五分ほどで終わった。奏者が鍵盤から全ての指を離すと、重低音が揺らした音楽室の空気は静寂に取って代わる。
「……」
静寂である。拍手はない。七人のバンド仲間は全員が目を丸くしており、口を半開きにしている者も何人かいる。クマも着ぐるみの目を大きく広げていて、瞳は点になっている。
「詩と賛美と霊の歌とをもて語り合ひ、また主に向かひて心より且うたひ、かつ賛美せよ……」
エフェソス人への手紙が引用されたが、誰もそれに反応はしない。奇妙に重い沈黙の中、リーダーは表情を変えずに一言添えた。
「……以上だ。何か質問は?」
「ブ……ブラボークマ! ブラビッシモ!」
聖職者モードから復帰したクマが、最初に叫んだ。それから一瞬間を置いて、思い出したように拍手が上がり始めた。パチパチと手を鳴らす小さな音がゆっくりと、まばらに音楽室に響く。しかし段々と速く、大きくなっていく。
「か、かっけえ……ロックだ!」
「鳴上君、凄い! マジでカッコよすぎ!」
「びっくりしちゃった……。声も出ないって、こういうことなんだ」
特捜隊の二年生組を始め、全員が夢中で手を叩いている。初の自作曲の披露だったわけだが、上々の反応に悠は頷いた。そしてバンドの顔である、りせと視線を合わせた。若い歌手を指導する年季の入った作曲家のように。
「実際の演奏ではもちろんドラムや管も入るけどな。曲の基本的なところは、今やった通りだ。イメージは掴めたか?」
「うん! わ……ヤバい。何か凄いワクワクしてきた!」
りせは両手を握って、その場で飛び跳ねた。休業中とはいえプロのアイドルとして、元より緩い気持ちで引き受けたつもりはなかったが、ここに至って本気の度合いが更に上昇した。『大好きな』先輩が作ってくれた曲を、自分が歌う。昨日までは思ってもいなかった夢のようなシチュエーションにテンションが上がり、頬まで熱くなってきた。
「二曲目、これで行こう! みんな、やるよね?」
改めて言うまでもない話だ。やることはとうに決まっている。
「ここまでしてもらったからには、やるしかありませんね……」
直斗は目を閉じて頷いた。特捜隊では新人で、悠とは個人としてのコミュニティもまだ始まっていない直斗さえ、すっかりその気になっている。やらない選択肢などあるわけがない。
「よっしゃあ! 先輩の為、俺も大マジで叩くっす!」
「よーし! クマも大マジメでやるクマよー!」
かくして高校の仲間たちを寄せ集めて作った即席バンドは、気持ちが一つになった。技術が未熟であろうとも、ステージに立つのが初めてであろうとも、そんなことはもはや関係ない。できるできないの問題ではなく、とにかくやる。それも完璧に仕上げる。愚者の絆に巻き込まれた者たちは、リーダーの顔に泥を塗るわけにはいかないのだ。
この日、特捜隊は下校時刻を大幅に過ぎた時間まで、教師に注意されるまで音楽室で練習を続けた。各々楽器を持ち帰って家でも練習した。そして翌日の日曜も同じ場所に集まって、朝から晩まで練習したのだった。来たるべき戦いに向けて、必勝を期したわけである。