ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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女と人形(2011/10/21、10/22)

 二学期の中間試験は10月14日に始まって20日に終わった。特別捜査隊は試験一週間前の週末を、バンドの練習とジュネスのイベントで潰してしまった為、直前の勉強量は十分でなかった者が多かった。しかし試験は元より直前の追い込みよりも、普段の積み重ねがものを言う。その点、悠は二学期からは勉強をまめにやっていた。例えば今月上旬の雨や霧の日はマヨナカテレビの確認の為に遅くまで起きていたが、その時間が来るまで勉強して過ごした。そして何も映らないことを確認した後も勉強を続けたものだった。

 

 そうして十分な準備をした上で試験に臨み、確かな手応えと共に終えた翌日。21日の金曜日。悠はりせと一緒に下校した。下駄箱の前で遭遇したので一緒に帰ろうと、りせが誘ってきたのだ。

 

「今度は前よりはできたと思うな……先輩に教えてもらったし!」

 

 二人が話しているのは試験期間中の日曜日、16日の出来事だ。特捜隊の二年生組と、りせと直斗を加えた六人でジュネスのフードコートに集まって勉強したのだ。もっとも話が盛り上がってしまった為に、あまり勉強にはならなかったが。何に盛り上がったかと言えば、特捜隊内部の人間関係だ。陽介と千枝、完二と直斗は付き合ってしまえばいいと、りせが煽ったのだ。当人たちは否定していたが。

 

 その日のりせに、特捜隊の女性陣を悠から遠ざけようとの意図があったのかと言えば、決して否定はしなかっただろう。

 

「こないだのライブ、楽しかったよね! ああいう企画、またやらないかな」

 

「陽介に言えば何か考えてくれるかもしれないな」

 

「そしたら先輩、また曲書いてくれる? 今度は私が歌詞書くからさ……」

 

 休業中のアイドルは作詞の経験はない。国語は『2』なので、語彙に自信があるわけでもない。だがもし次のイベントがあったら、本気で書くつもりでいる。なぜかは言うまでもない。

 

 りせは押しが強い。悠の周囲にいる女の中で、一二を争うくらいに強い。そうして二人して試験の出来や先々週のライブイベント、その他の他愛もない話をしながら、商店街のマル久豆腐店の前に辿り着いた。すると店の前にスーツ姿の男が一人いた。

 

「りせちゃん!」

 

 二人が近づくと男は振り返ってきた。眼鏡をかけた三十代後半から四十歳くらいの男だ。

 

「え……井上さん!?」

 

 相手が誰か気付くと、りせは体を震わせた。そして悠の陰に半身を隠し、袖を掴んだ。

 

「貴方は……もしや鳴上さんですか?」

 

 しかし男は意外な反応を示した。身を隠した少女ではなく、隠れる衝立に使われた少年に注目した。しかも名前を知っている。

 

「どちら様ですか?」

 

 だが悠はこの男を知らない。特捜隊と学校関係以外で、悠はりせと共通の知り合いはいないはずである。誰何すると、男は姿勢を正して軽く頭を下げた。

 

「失礼しました。私、久慈川りせのマネージャーをしていた井上実といいます」

 

「なぜ俺のことを?」

 

「先日ジュネスで行われたイベントで、演奏しておられましたよね。申し訳ありませんが、あの後で店の方に話を伺ったのです」

 

「まさか井上さん……こないだも来てたの?」

 

 りせは意外そうな顔をした。だがむしろ来て当然かもしれない。何のかの言っても、『りせちー』が歌うのだ。所属している芸能事務所に話は伝わるはずだった。

 

「ああ、驚いたよ。あの日は君と会って話をするつもりで来たんだけど……」

 

 こんな片田舎まで足を運んで見に来てみたら、ライブの模様に驚かされたというわけだ。想定外のものを見せられた井上は、その日は結局りせに会いに来なかった。そしてあれから十日以上の間を置いて、再びやって来た。その目的は──

 

「りせちゃん、復帰するつもりはないのかい?」

 

「しない……休業って言ってたけど、決めたの!」

 

 言うが早いか、りせは袖を掴んでいた手を悠の腕に回した。

 

「私……私、高校卒業したら、彼と結婚するんだもん!」

 

 そして啖呵を切った。

 

「!?」

 

 この時、悠は一瞬だけ驚いた顔をしてしまった。夏以降は少しは腹芸もできるようになっているものの、身体的接触付きの不意打ち攻撃に耐えるのは、さすがに無理だった。『そんな話は聞いてない』と、口よりも態度で言ってしまった。

 

「……本当なんですか?」

 

 すると案の定、井上は突っ込んできた。りせではなく、悠に。

 

「……ええ」

 

 もちろん嘘である。悠はりせと何の約束もしていない。ただ話を合わせたに過ぎない。しかしそれもどれだけ意味があっただろうか。眼鏡の下にあるマネージャーの目は、かなり鋭い。井上の眼鏡は霧を見通すことはできない普通の眼鏡だが、見え透いた嘘くらいなら見破れるはずだ。

 

「そうか……残念だ」

 

 しかし井上は『嘘だろう』とは言わない。顎を引いて眉間に手をやり、眼鏡の位置を直した。俯いた姿勢のまま、話を続けた。

 

「りせちゃん、君が本当の自分に悩んでいたことは知っている……。あのステージを見て、僕はずっと考えていた。君は答えを見つけたのか、それともより深い悩みに捕らわれたのか……」

 

 ここで井上は顔を上げた。眼鏡の下にある目は、とても優しいものだった。

 

「……後者だったようだね」

 

「え……?」

 

 あの日、りせはロック歌手のように歌っていた。観客には受けていたが、井上には違って見えていたのだ。稲羽に住んでいない井上は、りせのマヨナカテレビを見ていない。だがもし見ていたら、ジュネスのステージに立ったボーカリストに、ストリップ劇場のダンスポールにしなだれかかる女子高生が重なって見えたことだろう。

 

 アイドルとして努力していたりせの姿を、最も近いところから見ていたマネージャーは、少女は過去を無理に脱ぎ捨てようとしているように見えたのだ。それは『本当の自分』を見つけたのとは、違うもの──

 

「君には……光があった。他の子がどんなに望んでも行けない高みへ、君は行けたはずだった……」

 

 井上の言いようは過去形である。そして視線を再び悠に戻す。目の形は相変わらず優しい大人のものだ。

 

「鳴上さん、どうか彼女をよろしくお願いします。できる範囲でいいですから……支えになってやってください」

 

 結婚するとの少年少女の話を、大人はもちろん信じていない。恋人の関係にあるとさえ思っていない。その上で、井上はりせを悠に任せてきた。できる範囲でとの条件付きで、依存する傷ついた少女の支えになってくれと。ただの高校生として、できる範囲でいいからと。

 

「じゃあ、僕はもう行くよ。今日はロケ地の下見でこっちに来たんだ」

 

「ロケ……?」

 

「そう、君が降りたあの映画……後任はかなみだよ。僕は今、彼女の担当をしている」

 

「……」

 

 りせの顔に影が差した。同時に悠に回していた腕を解いた。

 

「元気でね……」

 

 井上は踵を返して去っていった。アイドルのマネージャーは商店街の通りをひたすら真っ直ぐ歩くばかりだ。悠から腕を離したりせが、数歩だけ追っても変わらなかった。井上は足を止めず、振り返りはしない。脱ぎ捨てようとした過去は、今になって向こうから立ち去った。自分から走って追いかけない限り、もう戻ってこない。

 

「今さら……何だって言うのよ……。遅いっつーの、バカ……」

 

「……りせ」

 

 声をかけると、過去を追いそうになった少女は振り返ってきた。その目には光るものが浮かんでいる。

 

「!……」

 

 光る目。と言っても、金色に光るシャドウの瞳ではない。秋の太陽が涙に反射して光っているだけだ。それを認めた瞬間、悠の脳裏にいつか聞いた言葉が蘇った。りせのシャドウの狂態ではない。霧の鏡に我が身を映したことのない、ある女優の言葉だ。

 

 演技で泣けば、簡単に収まる──

 

「や、何で……涙なんか出んのよ……」

 

 では今のりせの涙は演技なのか、そうではないのか──

 

「わ、私……失くし……ちゃった……。何か、分かんないけど……全部、失くしちゃった……」

 

 悠が急な悩みに襲われている間に、りせは両手で目を覆った。光る目を男から隠して、肩と声を震わせる。

 

「先輩……お願い、ここにいて……」

 

 揺れる言葉で揺さぶってくる。一瞬、ほんの一瞬、悠は足を進めようとした。しかし──

 

(いや……駄目だ!)

 

 悠は奥歯を強く噛んだ。りせの涙と井上の頼みを、まとめて噛み潰した。

 

『よろしく』とは含蓄の多い言葉である。悠は8月にも病院でこう言われたことがある。その時は縁結びの死神の呪いもしくは祝福によって、一つの特別な関係を築いてしまった。しかし井上は普通の人間だ。死神を自称することはもちろんないし、そういう宿命を与えられてもいない。二人の人間の間を普通の人間が取り持っても、魔術的な効果を発揮するようなことはない。何より8月と今では、悠の置かれている状況が異なっている。

 

(落ち着け悠。問題が多すぎる……)

 

 何が問題かと言えば、結実だ。悠と結実の関係は、とうに仲間の全員に知られている。ましてりせは特捜隊の中で最も鋭敏なのだから、気付いていないわけがない。現に秘密が暴露された花火大会の日から、りせは結実への対抗意識を露わにしていた。二週間前に病院で精密検査を受けた際、偶然鉢合わせた結実を悠が送るところも見ている。もしかしたら、その日に部屋に上げたことさえ勘付いているかもしれないくらいだ。

 

 もしここでりせに寄り添えば、『特別な関係』になってしまったら。りせは必ず結実と決着をつけに行く。つまり壮絶な修羅場が立ち現れる。適当にごまかすなどどうやっても不可能な、本気の争いが起きる。下手をすれば、あいも巻き込まれるかもしれない。最悪の場合は千枝や雪子まで一緒になって、テレビの中で演じられたシャドウの狂態が再現される。それは特捜隊の崩壊にさえ繋がりかねない。

 

(第一、浮気をしていいものじゃない)

 

 悠はどちらかと言えば気が多い方だ。美少女がいれば目移りしてしまう。だがそれも健康な青少年として、普通の範囲内に収まる程度のものだ。決して異常に女好きなわけではない。良心の呵責だってある。

 

「先輩……」

 

 りせはまだ目を覆っている。覆っているから、今のりせの瞳は金色に光っているのかいないのか、分からない。りせの涙は演技なのか本物なのか、悠には分からない。だがどちらであっても同じだ。人にはやって良いことと悪いことがある。りせに寄り添ってやりたい気持ちは確かに湧いてきた。だが今となってはどうしようもないのだ。たとえりせの方から抱き着いてきたとしても、引き剥がさねばならない。

 

「君は……何も失くしてなんかいないさ。仲間たちがいるんだから……」

 

 戦いや人生に抱いていた遊び気分は、恩師が死んだ日に捨てた。だが捨てたからこそ、りせはそっとしておくことしかできない。たとえシャドウの幻を見なくても。

 

「君を必要としている人は、ちゃんといる……」

 

「う、うん……」

 

 やがてりせは手を顔からどかした。改めて見たその目は光ってはいない。涙はもう収まっている。それは簡単に収まったのか、精一杯の努力を払って無理に収めたのか。寄り添わなかった悠には判断できない。判断したくもない。

 

 りせが特捜隊に加入したのは、諸岡の遺体が上がった7月10日だ。その日は悠にとっての転機でもあった。特捜隊に遅れてやって来たりせは、千枝や雪子と違って悠のリーダーとしての仮面以外の顔も見る機会があった。それが同月に悠が失踪した際には役に立ったのだ。そしてこの二人には、どちらもアイドル即ち偶像であるという共通点が存在する。

 

 だからりせは、真の意味で悠の『特別』になることも可能だった。しかしここに至って道は絶たれた。真の特別はおろか、ただの特別も一緒に絶たれた。

 

 もし悠が結実と特別な関係になっていなければ、もしくは諸岡が死んでいなければ、違う道もあったかもしれない。しかしそんな仮定に意味はない。『もしも』の想像は現実に化けはしない。悠とりせの間には、恋愛の絆は太陽に先を越されたという現実があるばかりである。

 

 そうして一つの現実を思うと、悠はもう一つの現実も見た。

 

(海老原とは別れよう。何を言われるか分かったものじゃないが……仕方ない)

 

 八十稲羽に来てから半年以上の月日が過ぎた。その間に失敗はいくつかしでかしている。中でも七夕の日、なし崩しであいと付き合うようになったのは、指折りの失敗だった。もちろんあいが嫌いになったわけではないが、彼氏彼女の関係(客観的に見れば、そう呼べるものでさえないが)を、これ以上続けることはできない。二週間前に結実と深い仲になった以上、もう他の女に食指を動かす訳にはいかない。やれば破局が待っているだけだ。

 

 実のところは、そうとは限らないのだが──

 

 

 

 

 りせが多くのものを失い、悠が一つの決心をした日の翌日。22日の土曜日は午後から雨が降り始めた。夕方の時間に、悠の『彼女』は一人で鮫川の土手を歩いていた。

 

 彼女と言っても結実ではない。別れようと悠が決心した方の人、あいだ。

 

 今日はサッカー部の練習があって、マネージャーの仕事をしていたのだ。普段は雨が降ると練習はなくなるのだが、二年生のリーダー格の少年が顧問を焚きつけて、今日は雨でも練習することになったのだ。そして当然ながら用具は雨に濡れた。その為、片付けには普段以上に時間がかかった。おかげですっかり遅くなり、今日は土曜日であるのに下校は秋の早い夕闇に追いつかれた。

 

 薄い通学カバンを右手に持ち、左手で傘を差して歩きながら、あいはふと足を止めて川を見た。地上を流れる水は天の水を吸って、普段よりも量が増えている。

 

(春はここで倒れたんだっけ……)

 

 早紀の遺体が上がった4月15日、あいは鮫川の河川敷で倒れた。夜が明けた頃に発見され、病院に担ぎ込まれたのだ。医師によれば原因は不明で、昨年初めまで社会問題になっていた無気力症かもしれないとの話もあった。おかげで家族にも随分と心配をかけてしまった。

 

(何だったんだろう、あれ……)

 

 本人は覚えていないが、あいはあの日、現実の霧に蠢くシャドウに襲われたのだ。そしていわゆる無気力症、シャドウワーカーが言うところの影人間になった。当時は特殊部隊の設立前で、桐条グループや公安の人間も稲羽にいなかったので、誰にも守ってもらえなかったのだ。だが実はそれは大きな意味のある出来事だった。同月12日に倒れた綾音に続く二人目の影人間が現れた為に、世界の裏側に属する者たちが稲羽に注目するようになったのである。つまりあいは、シャドウワーカー稲羽支部が設立された契機の一つなのだ。しかし本人はそれを知らされていない。

 

 知らない間に運命を動かしてしまった不運な少女は、自分を襲った災いについて考えることはできない。できるのは自分自身についてだけである。

 

(あたし、何やってんだろ……)

 

 サッカー部の練習は週に三回ある。マネージャーは途轍もなく面倒だが、留年の危機にある身としては出ないわけにはいかない。そして面倒なのは部活ばかりではない。

 

 思い起こせば、今年は嫌なことばかり続いた気がする。入院中の記憶はほとんどないが、退院後も楽しい思い出は少ない。夏にはクラスメイトに失恋した。話を聞いてもらった他の男子と半ば勢いで付き合うようになったが、特にデートもしていない。下手をしなくても、このまま自然消滅しそうな感じがしている。そうやって関係がまるで進まないでいる間に、『彼氏』は別の女子と付き合い始めた。

 

(あんなダッサイ子の、どこがいいんだか……)

 

 かの女子と話したことはほとんどないが、顔は知っている。夏に失恋した時もそうだったが、どこをどう押せば自分より可愛く見えるのか、理解に苦しむような顔だ。だから噂を聞いた時は驚いた。男は可愛い女よりも、そうでない女の方が好きなのかと、この世の道理を疑ってしまうくらいに。しかしあいは彼氏の噂に驚きはしても、彼氏を責めてはいない。

 

 傘の中棒を肩にかけ、薄暗い空を見上げた。午後から降り始めた雨は、まだやむ気配がない。

 

「雨か……」

 

 あいは校内の噂には詳しいので、彼氏の浮気についてはそれで知った。その他にも深夜のテレビ番組についての噂も聞いている。雨の日の午前0時に電源を入れていないテレビを見ると、運命の人が映るとか何とかだ。馬鹿馬鹿しいので試したことはなかったが、この雨が真夜中まで続くようなら、やってみようかとの思いもある。

 

 運命の人──

 

 それはきっと彼氏ではない。たとえマヨナカテレビの噂が本当だとしても、悠は映らないだろうと、あいは思う。では誰が映るのか。

 

「ん?」

 

 運命を漠然と考えていると、不意に人影があるのに気付いた。川とは反対側の広場の奥にある四阿(あずまや)に、一人の人間が座っている。いや、一人の幼い少女が座っている。小学校低学年くらいの女児だ。あいは考え事を中断して、そちらへ向かった。

 

「お嬢ちゃん、こんな所でどうしたの?」

 

 あいは校内では悪い噂も多い。援助してくれる『パパ』がいて、ゴールドカードを貰っているとか何とか。しかし世の噂は大抵が当てにならないように、あいの噂も多くは真実でない。カードを持っているのは本当だが、それは家が裕福で父親(『パパ』ではない)が作ってくれたからだ。化粧や服装に関しては単なる趣味、と言うより中学生の頃からファッションを学ぶ為に読んだ雑誌が、こういうスタイルを勧めていたからに過ぎない。

 

 つまりあいは決して不良ではない。遅い時間に女児が一人でいれば、声の一つもかける。優しい笑顔も見せる。

 

「……お姉ちゃん、だれ?」

 

 女児は顔を上げてきた。その顔はとても可愛らしいものだった。しかし頭の横で結んだ髪の毛は雨に濡れている。幼い少女は傘を持っていない。雨をよける道具の代わりに、一冊の本を小さな膝の上に載せていた。

 

「怪しい人じゃないわよ」

 

 あいは傘をたたんで四阿に入り、少女の隣に腰かけた。

 

「お父さんやお母さんはどうしたの?」

 

「お母さんはいない。お父さんは……」

 

 雨に濡れた女児は膝に置いた本の角を、小さな手で握った。小さな力で本が歪む。もしくは本の角で、小さな手が傷つく──

 

「菜々子、いえでしてきた……」

 

 母を亡くした子供、菜々子は事情を明かした。壁に落書きをしたとか、食器を割ってしまったとかの悪戯を明かすように。その罰を本の角で受けようとするように。内気そうな女児は、見知らぬ年上の女性に『罪』を告白した。

 

 しかしあいの反応は、菜々子の想像力が全く及ばないところにあった。

 

「へえ……よくやったじゃん!」

 

「え……? よくやったの?」

 

「そうよ。そんくらいしてやんなきゃ!」

 

 あいは菜々子の濡れた頭に手を置いて、華やぐ笑顔を見せた。あいは菜々子が知る他の女性、例えばりせや雪子に千枝、更には結実とは異なる方向性を持っている。色とりどりの鮮やかな光が、若さのエネルギーで弾け飛ぶような雰囲気。一言で言うと派手なタイプだ。菜々子から見ると、これまでいなかった種類の『お姉ちゃん』である。

 

「大丈夫、お父さんはそのうち迎えに来るわよ。菜々子ちゃんみたいに可愛い子を放っとく親なんて、いるわけないんだから」

 

 そうなのだ。人はみんな可愛い女が好きな『はず』なのだ。それが世の道理であり、真実であり、正義なのだ。あいはそう考える。ではなぜ一条に振られ、悠に浮気されているのかと言うと──

 

 菜々子を見るあいの笑顔に、ふと影が差した。

 

(あたしも昔から、こんくらい可愛ければなあ……。そしたら今頃もっと……)

 

 菜々子のように可愛い容貌に生まれついていれば、人生は違っていた。今のようなつまらない青春は送っていなかった──

 

 あいはそう思う。しかしこの自嘲は正しいとは言えない。過去がどうあれ、過去の姿は目に見えないから。テレビに放り込まれでもしない限り、過去の『真実』は現実に転化しない。ましてあいは稲羽の出身でさえない。中学に上がると同時に、家族と引っ越してきたのだ。だからあいの過去の姿を知っているのは、本人の他には両親くらいである。稲羽の住人にとっては、『可愛くなかった』頃のあいの姿は記憶の中にさえ存在しない。

 

 過去そのものは消えるものではない。しかし時間の経過や、居場所を変えることの影響を受けないわけではない。人の絆と同様に、断ち切れる過去というものも存在する。現にあいの過去を知らない菜々子は──

 

(きれいな人……菜々子もこれくらい、びじんだったらなあ……。そしたらお兄ちゃんだって……)

 

 こう思うのだ。二週間ほど前、『兄』は『彼女』を家に連れてきた。凛々しいというか格好いいというか、とにかく自分にないものをいくつも持っている女性だった。自分もかの『お姉ちゃん』のようであれば、もしくは名前も知らない眼前の女性のように美人であれば、『兄』の自分を見る目も違ったものになっていたであろうに──

 

 二人は互いに互いのようであったらと思いながら、口には出さずにいる。そうやって不意の沈黙が十歳差の少女たちの間に降りた頃、沈黙とは無縁の存在がやって来た。

 

「ナナチャン!」

 

「あ、クマさん!」

 

 何かの動物を模していると察せられ、見なされ、推し量れる喋る着ぐるみ。ジュネスのマスコットだ。目を細めた嬉しそうな笑顔を、あってなきがごとしの首の上に乗せて、ぴょこぴょこと飛び跳ねながら近づいてきた。短い両手は菜々子を抱きしめようとするように、前へ伸ばされている。しかし野の花に届く前に、その歩みは止まった。菜々子と並んで座っている少女に目を留める。

 

「ビューリホーなナオン……はっ! 分かったクマ! チミ、ナナチャンをユーカイしたクマね!」

 

 クマは世間のゆるキャラと異なり、表情を動かせるという謎の特技を持っている。細められた目は一瞬大きく見開かれ、次いで見知らぬ少女をきっと睨みつける。

 

「さてはさては! 向こうに人を放り込んでるのも、チミクマかぁ!?」

 

 早紀の死について調べる為、4月15日に悠と陽介がテレビの世界を再訪した時もそうだったが、クマは思い込みが激しいところがある。初対面のあいをいきなり犯人扱いする。しかし勘違いをいくら並べ立てても、あいには通用しない。

 

「何あんた……キモ」

 

 4月の陽介と違って、あいはクマと言い合いをしない。まともに取り合いもしない。あいは役者としては悠や陽介より上である。先月にサッカー部のマネージャーに任命された時は長瀬に押し負けてしまったが、クマ程度なら一蹴できる。

 

「バ、バッサリ斬られたクマ……」

 

 カウンターパンチ一発で、着ぐるみはノックアウトされた。地面に両手と両膝をつく。すると菜々子がフォローを入れてきた。

 

「クマさんだよ。ジュネスにすんでるの」

 

「クマ?」

 

 ジュネス八十稲羽店がマスコットを雇ってから、三ヶ月以上が過ぎている。しかし着ぐるみがいるのは主にフードコートで、クマは他の売り場では人の姿で働いている。あいはジュネスに行きはするが、フードコートにはそう頻繁には行かない。カロリーを気にする乙女は、油や炭水化物の多い食事を敬遠するのだ。だからあいは、謎の着ぐるみを見るのは初めてだった。

 

「熊には見えないけど」

 

「情け容赦ない追い打ち! これはリセチャン以上クマ!」

 

 着ぐるみは濡れた地面をのたうち回った。仲間たちに色々と難しい女は何人もいるが、あいは彼女らと比べても手厳しい。

 

「で、何なのあんた。菜々子ちゃんを迎えに来たの?」

 

「そ、そーだったクマ……。クマ、センセイとパパさんにお願いされて、ナナチャンを探してたクマ!」

 

 クマはぴょんと音を立てて地面から跳ね起きた。つやのある着ぐるみの毛は、雨や汚れを弾いている。

 

 今日の菜々子は堂島にある頼みがあったのだが、言い出そうとしたそのタイミングで、都合悪く仕事の電話がかかってきたのだ。それは堂島家ではいつものことではあるが、春以来の積もり積もった不満がとうとう限度を超えた。それで雨の中、菜々子は家出したのだった。堂島と悠はさすがにそっとしておかず、菜々子を探して家を出た。血相を変えた堂島がジュネスにやって来て、居合わせた陽介が事情を聞き、アルバイト中だったクマも一緒に探しに出たというわけである。

 

 そうして町に出たクマは、父兄に先んじて菜々子を見つけたのだ。それはテレビの外では使えない『はず』の探知能力が、無意識のうちに働いたのか。それとも何かの宿命のなせる業か──

 

「センセイもパパさんも心配してるクマ。一緒に帰ろうクマ?」

 

「……」

 

 しかし菜々子は俯いて答えない。四阿の床に届いていない、自分の爪先を見つめる。すると今度はあいがフォローを入れてきた。

 

「あんたね、そんなんじゃ駄目よ。女の子誘うんなら、相手のことちゃんと考えないと」

 

「へ……へ? どーゆーことクマ?」

 

 クマは着ぐるみの目を丸くした。クマは色狂いだが、男女の駆け引きや女の扱いに詳しいわけではない。全くない。むしろ小さな子供と同じで何も知らない。ファッション雑誌で勉強したことさえない。

 

「菜々子ちゃんが何で家出したか、あんた知ってんの?」

 

「そっか……そークマね。クマ、突っ走りすぎたクマ」

 

 クマは気を取り直し、四阿に足を踏み入れた。するとあいはベンチの端に移動し、菜々子を促して中央に座らせた。そしてクマは菜々子を挟んで、あいの反対側に座った。着ぐるみはかなりの横幅があるが、あいの気遣いで何とか三人並んで座れた。

 

「ナナチャン、何があったクマ?」

 

「うん……しゅくだい。お本読んで、しるしもらうの。菜々子、お父さんに読んで、しるしもらおうと思ったの……」

 

 読書感想文ではなく朗読である。一人ではできない課題だ。

 

「じゃ、クマに読んでクマ!」

 

「クマさん……」

 

「読んであげなよ」

 

「……うん!」

 

 この日、菜々子は初めて笑った。そして学校で配られたプリントが挟まった本を開いて、膝の上に立てた。そして声を出して読み始めた。

 

「ふかいふかい森のおく、ほそいほそい川のそばに、ピンク色のワニがすんでいました……」

 

「ピ、ピンクのワニ? これまたアバンギャルドな……。プリチーアニマルはクマだけじゃなかったクマか!」

 

「チャチャ入れないで、黙って聞く!」

 

「は、はいクマ……」

 

 今は亡くなった作者が書いたこの童話を、実は菜々子は悠に一度読んでもらっている。しかし菜々子はそれを覚えていない。あいが4月にシャドウに襲われた記憶を失ったように、菜々子も失ったのだ。そうして『初めて』の絵本を、菜々子はクマとあいに読んで聞かせた。始めは朗らかに。

 

「……ピンク色のワニのことは、だれも思い出しませんでした。それでも、みずうみは、今日もきらきらとかがやいているのです。……おしまい」

 

 終わる頃には悲しげに。童話の筋は、変わった色である為に餌を取れずにいたワニに小鳥の友達ができたのだが、空腹のあまりにワニは誤って小鳥を食べてしまう。ワニは悲しみ泣き続け、やがて涙で湖ができる。そしてワニはそのまま死んでしまう。生まれた湖は、他の動物たちの憩いの場となる。ワニのことは知られないまま、というものだった。

 

「な、なんという……辛すぎるクマ! クマ、泣いちゃう! ヨヨヨ……」

 

 着ぐるみは目を覆い、丸い体を震わせた。まるで身につまされるように──

 

「クマさん……ごめんね?」

 

「ナナチャンのせいじゃないクマよ!」

 

 しかしすぐに立ち直る。泣きそうなくらいに悲しくなったのは本当だが、菜々子に謝られてはそうも言っていられない。流したことのない涙を、虚空から絞り出す暇はない。

 

「ふーん……随分暗いお話ね。まあでも、良かったんじゃないの?」

 

 あいは言いつつ、クマに目配せする。

 

「そ、そークマ! ナナチャン、花丸あげちゃう!」

 

「ほら」

 

 あいは通学カバンから赤ペンを取り出してクマに手渡した。気が利くものである。

 

「そんじゃーねー……ナナチャンはあ、とっても可愛くて、とってもいい子クマ! というわけで、花丸クマ!」

 

 クマは本に挟まっていたプリントを受け取って、大きな花丸を書いた。かくして菜々子は課題を終えた。雨をよける小さな屋根の下で、『可愛い』三人は三人揃って笑顔になる。そうしていると、夕闇の覆う土手の方面から人影が近づいてきた。男が二人だ。

 

「あ、センセイ! パパさん!」

 

「お兄ちゃん、お父さん……」

 

 来たのは悠と堂島だ。

 

「え、悠?」

 

「海老原?」

 

 やって来た二人のうち一人に目を留めると、あいは驚いた。そして悠も驚いた。意外な場所で意外な相手と会った。特捜隊の仲間たちや校内の他のコミュニティの担い手たちと違って、悠はあいに菜々子を紹介したことはない。

 

「何、菜々子ちゃんって、あんたの妹だったの?」

 

「ああ……妹と言うか、従妹だ。それよりどうして君が?」

 

「学校帰りに見かけたから、ちょっとね」

 

「そうか……ありがとう」

 

 悠は礼を言った。そんな甥を脇目に、刑事にして特殊部隊の支部長は女子高生に注目した。

 

(この子は確か……。事件の被害者と菜々子がなぜ……)

 

 霧の日の事件の関係で、堂島はあいの顔と名前を4月から知っている。しかし会うのは初めてだった。半年前にシャドウに襲われた者と、『声』をかけられた娘が『なぜか』一緒にいる。これはただの偶然か、それとも違うのか。堂島は奇妙に嫌な予感を覚えた。しかしそれを押し殺して、あいに軽く頭を下げた。

 

「娘が世話になったようで……」

 

「どういたしまして。ほら、菜々子ちゃん」

 

 あいは菜々子の小さな背に手をやり、軽く押した。家族の方へと促された菜々子はベンチから下りた。しかし顔は父と『兄』ではなく、依然としてあいの側を向いている。

 

「う、うん……えっと……」

 

「海老原あいよ。お兄ちゃんとは高校が同じなの」

 

「ありがとう……あいお姉ちゃん」

 

「いいのよ。てか、まさか悠の従妹だったとはね……世間って狭いのね」

 

 あいは眼前の少年と少女を見比べた。付き合ってはいるものの、関係は一向に進展していない『彼氏』と、その『妹』で自分を『お姉ちゃん』と呼ぶ少女。小さな田舎町で起きた偶然の出会いに、少しばかり感じるものがあった。嫌なことが続いた今年にあって、珍しく楽しい気分になれた不思議な繋がりを、惜しむ気持ちが湧いてきた。

 

 あいは元々人付き合いに積極的ではない。しかし絆を厭うほど冷淡ではない。人との繋がりを切らずにいる方法も知っている。それは──

 

「そうだ! 今度うちの高校で文化祭やるのよ。聞いてる?」

 

 何か行動することである。彼氏にせよ友達にせよ、ただそう思っているだけでは何にもならない。そしてタイミングが良いことに、高校生と小学生が連れ立って何かをする為のイベントが近い日に予定されている。

 

「ぶんかさい……?」

 

「そ。一緒に回ろっか?」

 

「……うん!」

 

 そうして二人は一つの約束をした。

 

 菜々子とあい。この二人はどちらも悠との間には『我』が保証する魔術的な絆があるが、担い手同士の間にはない。しかし普通の人間同士としての普通の付き合いならば、誰でも可能である。コミュニティを束ねるワイルドも、自分がいないところで担い手同士が繋がりを持つのを止めることはできないのだ。

 

(参ったな……)

 

 止められないから、悠は少し困った。昨日りせに寄り添わない選択をした際に、あいとは別れようと決心したばかりだから。しかし今日はサッカー部の臨時雨天練習でマネージャーが捕まらず、その話はできなかった。そしてこの状況では、明日や明後日にもできなくなってしまった。

 

(話は文化祭が終わってからにするか……)

 

 八十神高校の文化祭は来週末、29日と30日だ。それが終わるまでは、悠はあいと別れ話をするわけにはいかなくなった。菜々子の為に。

 

 少女たち二人と男たち三人が各々家へ帰りついた頃には雨は弱くなり、真夜中になる前に上がった。




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