テレビの中のフロンティアを悠たち三人は歩いた。もっとも開拓者と言うには、軽装もいいところだ。武器になりそうなものと言えば悠が持つゴルフクラブ一本だけで、陽介は手ぶらだ。そして地図はない。道案内はいるが。
「お前、何でそんな離れたところにいるんだよ。いざとなったら、逃げる気じゃないだろうな」
眼鏡で視界は広がっても、結局は何も見えなかった。と言うのも、スタジオを出た先には、何もない空間がただ広がっているばかりだったのだ。上下左右はただの白色だ。眼鏡が効いていないのではない。眼鏡を外せば、風がない中でも微細に動く霧そのものが目に入る。つまり隠されていて見えないのではなく、見るものがないのだ。砂漠を歩くようなもので、地上には目印の類が何もない。もちろん頭上に太陽や月もない。どの方角に向かっているのかはおろか、真っ直ぐ歩いているのかさえ定かでなくなってくる。それでも迷わず歩けているのは、道案内がいるからだ。
「そ、そんなことないクマよ! ただ、あんまり近くにいたら、キミたちの活躍の邪魔になるから……」
ただ本来は先頭を行くべき道案内は、後ろからついてきている。前を行く二人は、あからさまな疑いの視線を向ける。
「だ、大丈夫クマ! 今は霧が出てるから、シャドウはキミたちを襲わないクマ……多分」
「そのシャドウってのは、何なんだよ」
「とっても危ない奴らクマ」
クマの着ぐるみの表情に怯えの色が現れた。道すがらの説明によると、この世界には元々クマとシャドウしかおらず、シャドウは友情を育むような相手ではないらしい。言葉も通じなければ、そもそも意思の疎通さえできない。シャドウでない者を見れば、所構わず襲ってくる。そんなところだった。
「でも霧が出てる間は、そんなに酷く暴れたりしないクマ。霧はこないだ晴れたばっかりだから、しばらくは大丈夫クマ……多分ね。きっと。メイビークマ」
「こないだ……?」
その時、風景が一変した。まさしく『何もないがある』状態だった空間に、突然色と形が現れたのだ。ただし心和むようなものではなかったが。
「花村、クマ。ここは……?」
「な、何だよここ……町の商店街にそっくりじゃんか……一体どうなってんだ!?」
そこはまさに稲羽市中央通り商店街だった。ただしいつの間にかテレビの外に出ていたわけではない。建物の外観こそ本物のようだが、空の色が違う。一点の曇りもない完全な黒と、原色の赤。昨日行ったマンションのドアと同じ色で空全体が直線的に、いくつも分割されていた。ドアと同様に、来訪者を歓迎する趣はそこにはない。
「最近おかしな場所が出現しだしたクマよ。色々騒がしくなって困ってるクマ」
「おかしな場所って……てか、町の色んな場所の中で、何でここなんだ?」
「何でって言われても、ここにいる者にとってここは現実クマ」
「どういう意味だよ……」
陽介とクマのやり取りに悠が口を挟んだ。ここにいる者にとって、ここは現実。それはこの世界は、決して夢や幻ではないという意味なのか、それとも別の意味なのか。韜晦や諧謔は得意ではなく、観念的な思考にも慣れていない悠はクマの言葉を理解できなかった。しかし詳しい説明を求めても、クマが答えられるかは非常に怪しい。
「よく分かんねえけど、ここがうちの商店街なら、この先は確か小西先輩の……」
立ち止まった悠を置いて、陽介は駆け出した。風景の異様さや、クマの説明の要領の得なさにも構わない。ただ想い人と縁のある場所、そうと思われる場所へと向かった。悠とクマはそれを追う。
「やっぱり……」
陽介が走った先にあったのは、予期しえた場所だった。現実の商店街では、北の端近くにある個人商店の一つ。早紀の実家である酒屋だ。『コニシ酒店』と書かれた看板が掲げられ、店の脇には自動販売機が二つ並び、反対側にはビールのケースがいくつか重ねられている。それだけなら現実にもありそうなものだが、看板の下、本来なら店の出入口のあるはずの場所は、赤と黒の円形模様だった。
「先輩、ここで消えたってことなのか? 一体何が……」
陽介は早速、店の中へ入ろうとした。昨日も異様なマンションの扉をくぐったのだ。赤と黒に不気味さを感じはしても、それだけでは陽介の足は止まらない。まして早紀の死に関係するとなれば、一刻も早く確かめたかった。だから三人の先頭に立って店に入ろうとした。しかし──
「ちょ、ちょっと待つクマ! そ、そこにいるクマ!」
クマが引き留めてきた。元より大きな着ぐるみの目を、二つ合わせれば顔の半分の面積になりそうなくらいに、大きく広げて。
「いるって、何がだよ」
(う……!?)
クマは気付いている。しかし陽介は気付いていない。普段とあまり変わらない表情で振り返ってきたのが、それを証明している。そして悠は何かを感じた。最初は首の後ろだ。チリチリと産毛が逆立つ感覚。次いで胃の辺りを襲った、棒でも突き入れられたようなキリキリと収縮する痛み。そして膝だ。僅かにではあるが、震え始めた。これらの感覚を引き起こすものを、人はこう呼ぶ。恐怖──
「……シャドウクマ! 襲ってきたクマ!」
悠が突然感じ始めた予感に応えて、恐怖の化身が現れた。コニシ酒店の出入り口、異界の中でもその深淵へと続いている扉から、青色の顔が出てきた。数は二つ。それらはどろりと不快な音を発しながら、粘ついた黒い塊を顔の後に従えて、異界の表面に這い出てきた。
「う、うわああああ!」
陽介は腰を抜かし、地面にへたり込んだ。扉から現れた黒い泥の塊は、異界の地面に落ちるや、びしゃりと液体のような音を立てた。そして青い顔、実は仮面を上に向け、引っ張られるように立ち上がった。その高さは陽介と悠の身長を大きく超えており、小さな人間を嘲笑うように巨体を見せつけてきた。
「ク、クマ! ど、どうすれば……」
具現化した恐怖を目の当たりにして、悠は慌てた。こうした事態は予想し得たはずなのに、今になって慌てた。
「か、かかか……」
しかしクマも似たようなものだった。虚空に通じている口を半開きにして、意味をなさない音を発している。その間に、恐怖は更に形を変えた。
──
何も見えない闇の中で、ただその災いを広く大きく拡散するのに適した不定形な姿から、シャドウは姿を変えた。己が『見えている』相手に対して、より具体的な、象徴的な恐怖を与えんとするように。立ち上がった黒い泥は、青い仮面を中心として球形にまとまった。そして球は横向きに回転し、仮面の裏の顔を見せてきた。
(これが、シャドウ……!)
影の裏側は球が裂けて口になっており、そこから舌を出していた。本体を三周はできそうな、長い長いその舌は、きっと嘘を吐く為にある。もっとも嘘以前に、怪物が言葉を持っているとも思えないので、ただ貪る為だけにあるのかもしれない。いずれにしても、悠は立ち尽くしたまま動けなかった。陽介も腰を地面につけたまま動けなかった。そしてクマは──
「か、神は
何かよく分からないことを口走った。それを悠は耳には入れていたが、意味は分からなかった。そんなことよりも、眼前の口に戦慄していた。『口』であることが重要だった。もしこれが剣や槍などの刃物でも、もちろん相当に恐ろしかったはずだが、口であることは恐怖の他に後悔をも呼び起こすから。
『こないだ放り込まれた人のように、食べられてしまう』
悠は昨日、クマにそう言われていたのだ。それにも関わらず、悠はそれを恐れる気持ちが湧いてこなかった。なぜか? 陽介はまだ分かる。想い人の死。これまでの人生で間違いなく最も辛い出来事を経験した少年は、恐怖を凌駕するある気持ちを抱いていたとしても不思議はない。しかしなぜ、悠までもが恐れなかったのか。単に勇敢であるからか。それとも愚かであるからか。
だがとにかく、クマが口走ったところの『試練』はやって来た。耐えられるとはとても思えず、逃れる道があるとも思えない形で。もう体は動かない。ゴルフクラブなど何の役にも立たない。頭さえ働かない。しかし──
『貴様らは何者だ!』
「うっ……!?」
考えることをやめた頭に、聞き覚えのある声が響き渡った。まるでヘッドホンで聞いている音楽を急に大音量にしたような、頭痛を感じずにはいられない猛烈さで。口の悪い教師が今年最初の授業で放った問いだ。これに答えられる者は、この世に決して多くはいない。そして悠は答えられないし、答えられる者も知らない。しかし──
『我は汝』
問いに答える者が、ここにいた。どこに? 悠の中に。
(俺は、お前)
遥かな太古、人類が文明の曙を迎えた頃から、無数の人間たちの間で問われ続けてきた問い。『私は何者だ』または『お前は何者だ』。五感を通した現象でしか物事を認識できない人間が、現象の背後に隠された実体を掴もうとすること。もしかしたら、それは徒労かもしれない。月に吠えることと同様に、不可能を望んでいるに過ぎないのかもしれない。
しかし現に今、悠に語りかけている『もの』がいる。それは一つの答えを囁いている。囁く者。語る者。その主体は確かに一つの答えだった。今まさに試練の口が開いているのに、深淵が己を飲み込まんとしているのに、悠はただ告げられる『答え』に聞き入っていた。その間、他の一切は停止していた。悠の認識の中でも、外でも。まるで時間が停止したように──
『汝は我』
(お前は、俺)
これが『実体』なのか。それは悠には分からない。倫理の授業を一度受けただけで自ら学んだことのない悠は、自分が何者なのか、そもそも考えたことがない。しかし実感はある。これこそが己なのだという、満たされる感覚。その実感を表す言葉は──
(アイデンティティ……? いや、違う……と思う。これは……)
問いを聞いたのと同じ授業で学んだ言葉が思い出されたが、違うと思った。これこれの理由によって、自己同一性とは異なっているとか、明晰な論理でもって否定しているのではない。ただ違うことは分かった。なぜ分かるのか? それはこれを指し示す言葉には、より相応しいものがあるのだと、告げている『もの』がいるからだ。
「ペルソナ……」
答えを告げる『もの』の言葉を、悠は繰り返した。そしてその『もの』の名は──
「イザナギ!」
時は再び動き出した。青白い炎を噴き上げて、紫電をまき散らして。黒い外套らしきものに身を包み、長柄の刃物を携え、白い鋼鉄の仮面で顔を隠した存在が悠の頭上に現れ、時をも動かした。
「あ、あ、あ……アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み……」
流れる時間の中に戻った悠の傍らで、クマがまたよく分からないことを口走った。だが悠はもう聞いていない。頭上から下りてきて二体のシャドウに対峙する存在、ペルソナの背に全ての感覚が固定されていた。それはいかにも男らしく、頼もしかった。肩から立ち上る燐光が目にも見えそうだ。邪魔するものも退屈なものも、何もかもをまとめて粉砕してくれる。そんな期待を抱かせてくれる、力の化身だ。
「行け!」
悠が一声叫ぶやペルソナ、名をイザナギは右足を一歩踏み込むと同時に、右手に持った長柄を横薙ぎに払った。周囲を漂っているはずの、霧ごと掻き消さんばかりの力感溢れる斬撃は、口のシャドウを真っ二つに叩き切った。重たい鉈で軟らかい果物を割るように、ろくな抵抗もなく。いともあっさりと。
「よし! 次は……」
残る一体のシャドウへと悠は視線を移した。それに合わせてイザナギもシャドウを見る。先ほどは恐怖の化身として、そこに現れたシャドウ。しかし今となっては、相手が誰かも知らずに獅子に挑んだ挙句、前足で軽く引っ掛けられて転げ回る哀れな野良猫も同然だ。長く伸ばされた舌は、深淵を覗きに来た人間を貪ることは、もはやできない。それどころか深淵の旅人が携えた矛に巻かれて、叩き伏せられる為の取っ掛かりでしかないのだ。
イザナギは長柄をゆっくりと振り上げた。己の力を見せつけるように。そして愚かにも噛みついてきた矮小にして下賤なる輩に、身の程を思い知らせる為に長柄を振り下ろした。そんな無造作な一撃で、シャドウは舌も口もまとめて潰され、滅ぼされた。
「ふう……」
悠が一息つくと、イザナギは振り返ってきた。背面からは黒い外套としか見えなかった上着は、正面から見ると男子学生が着る詰襟を連想させる作りだった。ただし裾は膝まで届く長さで、一昔前の応援団長が着そうな代物だ。それに合わせたように額には鉢巻を巻いている。顔は白い鉄仮面に覆われていて、表情は外からは見えない。しかし目庇から覗く金色の光は、悠を真っ直ぐ見ていた。そしてそれが一度明滅した。瞬きをするように。
「俺はお前……」
これは昨日ジュネスのテレビに映っていた、瞬きをする少年だ。そこに思い至って、悠は確信できた。白い仮面の下にある顔は、自分と同じに違いないのだと。即ち諸岡が放った問いに対する、一つの答えがこれだ。
「それで、お前は俺か」
悠の認知を受け入れるように、イザナギは頷いた。そして青い光の粒を全身から放ち、その光に溶け込むように姿を消した。そして一枚のカードに結晶した。それがひらひらと舞いながら手の上に落ちてきた。カードは掌から少しはみ出すくらいの大きさで、裏面を向けている。古典的な舞踏会で用いられそうな仮面が、そこに描かれている。
「……」
カードを受け取った悠は沈黙した。口の端をほんの僅かに吊り上げて。
テレビの世界、喋る着ぐるみ、シャドウ、そしてペルソナ。もうどこから驚けばよいのか、それさえ分からない。いや、もう驚く機会はとうに逸している。賑やかな都会から、コンビニもろくにない片田舎に流れ着いたわけだが、放浪した先でこんな面白いものを見つけてしまったからには、頬が緩んでしまう。
(ふ、ふふふ……)
いかん。笑うな。昨日ジュネスで皆から顔を隠して笑った時とは違うのだ。花村とクマが見ているんだぞ──
笑いをこらえるのが、これほど大変だとは知らなかった。羞恥の念とは、何と弱く儚いものであるのか。それに比して、体の中から襲い来る笑いの衝動の、何と抑えがたいことか。いや、もうここまで来たら笑い出すのが普通だ。遊園地でジェットコースターに乗ったら、笑うか怖がるかが正しい反応だ。気難しい担任の教師でもあるまいに、顰め面を装うのは無粋というもの。少しくらい羽目を外しても許されよう──
「すっげ、なんだよ今の!?」
自ら羞恥を手放して、衝動に降伏しようと思った矢先、いつの間にか足腰を立ち直らせていた陽介が駆け寄ってきた。
「ペルソナ……つったか!? なあ、俺も出せたりすんのか……?」
「さ、さあ?」
少なからず興奮しているようで、早口にまくし立ててくる陽介の勢いに、笑いの衝動は流されてしまった。笑う代わりに、聞かれたことの答えを考えた。
悠と同じことが陽介にもできるのか。それは分からない。そもそもなぜ自分にこのようなことができたのか、悠自身にも分からなかった。諸岡の授業で聞いた言葉が頭に閃いたが、それならば陽介も受けているはずだ。ならば──
(いや、さすがにそれはないだろう……)
無茶な結び付けに己で突っ込みを入れると、クマが駆け寄ってきた。
「落ち着け、ヨースケ。センセイが困ってらっしゃるクマ!」
「セ、センセイ?」
「いやはや、センセイは凄いクマね! クマは全くもって感動した!」
「いや、先生って……」
先生。一般には学校の教師を意味する言葉だが、場合により作家や政治家への敬称として用いられることもある。だが悠はそのいずれでもない。敢えて言うなら──
(これを教える先生……かな?)
自分にもできるのかとの陽介の問いかけから連想して、悠はそんなことを思った。つまりペルソナと呼んだ力の使い方を、少年たちに教える教師だ。と言っても、どうすれば良いのかは悠にも分からない。差し当たっては、力の証拠品らしきものを調べるくらいだ。そこで手元に目を落とし、カードを裏返して表を見ようとした。
しかしまるで見計らったように、悠の視線が落ちると同時にカードは青い光を発し、表に描かれた絵柄は光に眩んで見えなくなってしまった。そしてカードそのものも光の中に消えてしまった。眼鏡をかけていると見えない霧に溶け込むように。
(あ……いや、なくなったわけじゃないか)
カードそのものは見えなくなった。しかし確かに『ある』。目には見えなくても、実感があるのだ。その実感に任せて『ペルソナ』または『イザナギ』と声に出せば、いつでも呼び出せる確信があった。
「こんな凄い力を隠してたなんて……シャドウが怯えてたのも分かるクマ! もしかして、この世界に入ってこれたのも、センセイの力クマか?」
「多分、そうだと思う」
悠は頷いた。テレビに入ることとペルソナがどう関係するのか、それは分からない。ただ無関係ではないのだろうと、悠は何となく考えた。何となく、である。両者の関係を詳細に考えるのは、時間と空間の関係を考えるようなもので、膨大な知的資源を要求しそうだと漠然と感じていた。だから深く考えてはいなかった。
「よし、何とか進んでけそうじゃん! 捜査再開、頑張っていこうぜ!」
「ああ、行こう」
楽しげな陽介の物言いに促される形で、悠はテレビの世界とペルソナの関係を一旦頭から追い出した。そして再びコニシ酒店を、正しくはそれを模した、映画やドラマの撮影セットのようなものを見た。シャドウが現れる前と変わらず、赤と黒で作られた境界が浮かんでいる。来訪者を誘うように、動いている。
境界を越えた先は、一言で言うと異様な場所だった。普通の酒屋らしき店舗の外観に比して、中は非常に広かった。特に天井は、十メートルはあろうかと言うほど高い。その広すぎる空間のどこからか、囁き声が聞こえてきた。
『ジュネスなんて潰れればいいのに……』
『ジュネスのせいで……』
「な、何だ!?」
「どこから……」
陽介と悠が上下左右を見回すが、人はもちろん、シャドウの姿もない。どこかにスピーカーでも隠されているのか。しかしそれを探す間もなく、聞こえてくる声が変わった。
『何度言ったら分かるんだ、早紀!』
街角で主婦が声を潜めて、しかし霧の隙間から漏れ出るような噂話は、誰に隠すつもりもない大声に変わった。
「これ……先輩の親父さんの?」
『金か? それとも男か!? よりによって、あんな店でバイトなんかしやがって!』
「何だよ、これ……俺にはこんなこと、一言も……」
(これが、現実……?)
クマが言うには、この世界は『現実』らしい。そして立ち現われたのは、他人にも一言二言だけで察せられる、軋むような家庭内の不和。早紀とは一度しか会ったことのない悠にも、胃の辺りに凝るものが生まれそうな嫌な雰囲気だ。そして早紀と縁が深かった陽介は悄然としている。想い人の現実に、そして自分はそれを知らなかった事実に。
「取り敢えず、何かないか探してみよう」
「あ、ああ……」
小西家の一幕が終わったところで、平常心を少なからず失っている陽介を、悠は促した。そして店に入ってすぐ左側にある、壁一面に備え付けられた冷蔵ケースを見てみた。それは高すぎる天井に届くほどの背丈があり、一升瓶なら千本は収納できそうなサイズだ。店の奥では、清酒の樽を何十個も積み上げて作った塔が、絶妙なバランスを取りながらいくつも林立している。これなら商品の種類と量においては、ジュネスを軽く凌駕できるだろう。もっとも場所が場所だけに、質においては試飲するのも躊躇われるが。
「これは……」
「何かあったか?」
「ああ、前にバイト仲間とジュネスで撮った写真だ」
レジカウンターの前にいた陽介の下へ、悠とクマは歩み寄った。そこには切り裂かれた写真の断片がいくつも散らばっており、その一つを陽介は手に取っていた。写っているのは早紀と陽介だ。二人並んだその絵は、切られずに残っている。そして二人とも笑顔でいる。付き合いの浅い悠は、まだ見たことのない笑顔だった。
「何で、こんなこと……」
何がこんなことなのか。皆で撮った写真が切り裂かれていることか、それとも自分たちの間は裂かれていないことか。もしくはジュネスの写真が切り裂かれていることか。何を嘆いているのか、陽介は最後まで言わなかった。
『ずっと、言えなかった……』
突然聞こえてきた、それ自体が内包した悲しみの重さで覆いかぶさるような女性の声が、頭上から陽介を捕えたから。
「この声、先輩!?」
『私、ずっと花ちゃんのこと……』
「え……? 俺のこと……?」
私、貴方のこと──
このように前振りされれば、次に来る言葉は誰でも予想できる。映画でもドラマでも、無数の物語で何百回も繰り返し言われてきた。台本は読まなくても分かるというものだ。生きている人から面と向かって言われるのではなく、死んだ人からの遺言として語られるのもありだ。とても分かりやすく、感動的で、誰にでも受け入れられる悲劇の脚本だから。しかし──
『……ウザいと思ってた』
この世界の入り口はテレビ番組の撮影スタジオのようで、移動した先にあるのは映画のセットか何かのようである。しかしそれは見た目だけの話で、クマが言う通り一つの『現実』なのだ。現実は物語ほど甘くない。そして物語ほど分かりやすくもない。
「ウ、ウザい……? う、嘘だろ? こんな……」
コリント人への第一の手紙にある『試練』の聖句は、様々な意味に解釈できる。人には試練を乗り越える力が必ず備わっているとも、絶望的な状況にあっても希望を失うなとの意味にも取れる。また『遁るべき道を備へ給わん』とは、乗り越える道が必ずあるとの意味かもしれないし、たとえ試練から逃げても、慈悲深い神は許してくれるとの意味かもしれない。だから陽介にも逃げ道が用意された。
「悲しいなあ、可哀想だなあ、俺……。てか、何もかもウザいと思ってんのは自分の方だっつーの、あはは……」
陽介自身の声と姿でもって、逃げ道は示されてきた。
「あ、あれ? ヨースケが二人、クマ?」
店の奥、酒の池を作って泳げそうなほどに巨大な樽の脇に、一枚の鏡があった。ただしそこに映る姿は目が金色だった。イザナギの鉄仮面の奥で光るものと同じ色だ。
「!……」
「お、お前……誰だ!?」
悠とクマの傍に立つ陽介と、鏡に映った陽介。昨日にジュネスで、悠は瞬きをする少年と出会った。同じように陽介も出会ったのだ。ただし悠の場合とはいくつか異なる点がある。一つ目は、陽介の姿を映している鏡は電源の入っていないテレビ画面ではなく、霧の世界そのものであること。そして陽介の像は瞬きをするのではなく、瞳から金の光を放つことで陽介との違いを示している点が、二つ目の違いだ。
「お、俺は、そんなこと、思ってない……」
「ははは! よく言うぜ!」
そして最大の違いは、陽介の鏡像は悠のそれほど優しくないことだ。言葉は荒く責め立てるようで、容赦がない。商店街もジュネスも田舎暮らしも、目に映る退屈なもの全てがウザいのだろうと、躊躇なく断定する。
「俺には全部、お見通しなんだよ。だって俺はお前……。お前の影なんだからな! お前は単に、この場所にワクワクしてたんだ!」
「!……」
陽介は言葉を失った。そして悠も失った。
そうなのである。『悠は』この世界にワクワクしていた。瞬きをする少年に誘われて、ジュネスのテレビに頭を入れた時からずっと。爛れた都会から辺鄙な田舎に飛ばされたわけだが、そこで見つけた非日常に驚き、興奮し、楽しみを見出した。だがそれは悪いのだろうか?
異世界などというものが現実に存在して、好奇心を刺激されたからと言って、それは悪いことだろうか。フロンティアに心躍らせることは、果たして開拓者の罪だろうか。選ばれた者のみに与えられる力に自尊心をくすぐられるのは、死に値する罪だろうか。
『選ばれた者』
そこに滑稽な響きを聞き分けてしまうのは、やむを得ない。口に出してはとても言えない。言えば赤面を禁じ得ない。しかしそれは恥ずかしいと同時に、とてつもない魅力だ。世間一般の人々の中から選ばれた一握りの人間として、世にも稀なる力を手に入れ、しかもそれを振るう舞台までも用意されている。これでどうして健全なる青少年がワクワクせずにいられようか。枯れた老人でもなければ、不感無覚の高踏派を気取ってもいない、高校生の悠と陽介がその誘惑に抗えようか。
しかし悠に、そんな穏やかな反論の言葉は浮かんでこなかった。責める言葉は受け入れがたいものだ。たとえ正しくても。そして悠が固まっている間に、陽介は熱くなっていた。鏡に映った像と一緒になって。
「カッコつけやがってよ……あわよくばヒーローになれるって、思ったんだよなあ?」
もしここで鏡像に同意していたら、陽介はもっと楽になれた。想い人に袖にされる、人生で最も辛いことを乗り越える方法は、いくつかある。例えば長い時間や新しい恋だ。相手を射止められなかった現実を受け入れて、前を向くこと。しかしそうした辛い方法よりも、ずっと楽な方法がある。
「大好きな先輩が死んだって言う、らしい口実もあるしさあ!」
好きな相手の悪い点を見つけ、相手を嫌うこと。更に言えば、元から好きでなどなかったと思うこと。危険を冒して未知の領域に踏み込む、その勇気を自らの内から絞り出す理由や目的から、遊びの口実にまで貶めることだ。それが『試練』から逃げる道だ。
「ふっ……ざけんな! お前なんか知らない!」
しかし陽介は逃げなかった。逃亡の道を示されても、選ばなかった。
「お前なんか、俺じゃない!」
そうとも。こいつは俺じゃない──
「ふふふ、あっはっは! ……ああそうさ」
金の瞳は大きく歪んだ。その言葉をこそ待っていたように。否定されることを望んで、わざと挑発して、そして思惑通りに進んだ成功者の笑いを上げた。
「俺は、俺だ! もうお前なんかじゃない!」
鏡像は『自我』を宣言した。そして鏡の中から抜け出てきた。
自我のある影の周囲に、更なる影が立ち込めた。広大な店の空間のそこかしこから、形をなさない泥のシャドウが湧き出てきて、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように影の下に集結し始めた。泥自身は自我を持たないが故に、自我の光に集まる。それは黒と赤、異界の境界を象徴する色の禍々しい光だ。悪夢の閃光は四方へ広がり、空気を沸騰させ、触れるものを腐らせる毒に満ちた瘴気へと変えた。
「あ、ああ……」
瘴気に当てられた陽介は、その場に崩れ落ちた。それに代わって立ち現われたのは、体高が四メートルはある巨大な怪物だった。下半身は四つ足の緑色の体で、カエルを連想させる姿だ。上半身はカエルに跨る人型で、黄色い手袋をはめた異様に大きな手を左右に揺らしている。
「我は影……真なる我」
影は名乗りを上げた。だが悠はそれを耳に入れていなかった。
(こいつ……!)
悠は口にこそ出さないものの、影に激しい怒りを感じていた。体の下の方から炎が立ち上り、その熱が背骨を通り、頭を焼き焦がしている。熱は目からも溢れ出て、揺るがない視線となって影を睨みつける。悠は自分を怒りやすい性格ではないと見なしている。三日前に諸岡に言いがかりをつけられても怒らなかった。しかしなぜか今は憤りを止められなかった。まるで陽介の代わりに怒っているように。
「クマ! 花村を連れて下がれ!」
「何だあ……お前」
倒れた陽介を庇って自ら影の前に出た。剣呑極まる影の凄味にも、まるで動じない。声は震えないし、膝も笑わない。右手に持ったゴルフクラブを怪物に向けて、啖呵を切った。
「俺が相手だ!」
「そうかいそうかい……。いいぜえ、退屈なものは、全部ぶっ壊すだけだ!」
相手は先ほどの口のシャドウとは訳が違う。見上げるような巨体だ。体重は自分の何倍あるのか、考えてみるのも意味がない。しかし悠は怯まない。こんな怪物が現れれば恐れるのが当然で、逃げ出しても誰も文句は言うまい。しかしそんな気には『なぜか』ならなかった。
ゴルフクラブを左手に持ち替え、右の掌を上に向けて中空にかざした。すると案の定、望んだものがそこに現れた。全くもって便利なものだ。まるでカードの方こそ出番を待ち焦がれていたように、惜しげもなく出てきた。それは手の上で光を放ちながら、ゆっくりと回転している。裏面は仮面の絵で、表面は──
「ペルソナ!」
しかし悠は表の絵柄を確認せず、すぐさま右手を握り締めた。神秘のカードは手の中で弾け、燐光を放ちながら光そのものが具現化した。再び現れたイザナギは悠の怒りに乗って、長柄の穂先を下に構えて猛然と駆け出した。そして間合いに入るや、一息に振り上げた。
──
巨木に斧を入れたような、鈍い音がした。カエルの前足の股の下から、顎らしき部分を長柄で思いきりかち上げられ、影はたたらを踏んだ。そしてイザナギは再び姿を消した。どうやらペルソナは、長時間に渡って顕現し続けるものではないらしい。
「てめえ……!」
イザナギの先制攻撃は効いた。しかしそれだけでは、さすがに倒れはしない。影はまさしくカエルめいた水かきのある、巨大な掌を振り上げてきた。
「センセイ、危ない! よけてクマー!」
(あれ……? 遅い?)
クマの悲鳴が響く中、悠の頭に向けて打撃が飛んでくる。しかし悠にはその動きが見えていた。訳の分からない怒りで脳内の分泌物が過剰になって、感覚器官が鋭敏化されているのか。それとも影の手は本当に遅いのか。まるでビデオの再生速度をスローにしたようだ。悠はその場から軽く飛び退って、掌打をかわした。そして再びカードを手元に呼び出した。
「イザナギ!」
悠は知識としてはまだ知らないが、この名は日本神話に登場する神の名だ。召喚された『神』は長柄を両手で捧げ持ち、そして切先を敵へと向けた。すると何たる不思議か、一筋の青い雷光が中空より忽然と現れ、悪鬼の頭上に鉄槌を食らわせた。
神の名において、天より下された雷。そして雷は
「あぎゃっ!」
まさに電極を差し込まれた解剖用のカエルのように、影は激しく痙攣して巨体を横倒しにした。その弾みで積み上げられた酒樽の塔が崩れ、中身をまき散らしながら怪物の上に落ちた。
「いいクマよ! そのシャドウ、雷に弱いクマ!」
(よし……いける!)
ペルソナは強い。重い長柄を軽々と振り回し、打撃の威力は十分だ。動きも風のようとはいかないまでも、敏捷性はなかなかだ。対するカエルの怪物は、巨体なだけに膂力はさぞかし強いだろうが、動きは鈍重だ。目に見えない余計な荷物でも背負っているのか、それとも異形の店に溢れかえっている酒を密かに浴びるほど飲んだりしたのか、とにかく鈍い。これではイザナギを捕まえられはしない。そしてなぜか絶好調の悠も捕まりはしない。
「てめえ……舐めた真似しやがって!」
影は降り注いだ酒樽の山を、カエルの手で払いのけた。木製の樽がコンクリートの床に当たって転がり、アルコールの匂いが広い店内に充満する。そしてカエルに跨る人型の上半身は、しとどに濡れた体を左右に揺らしている。両手を挙げて、ふらふらと。まるでふざけているように。都会では夜の駅などでよく見かける酔漢そのものだ。
(こいつ……マジで酔っ払ってるのか?)
悠は勘付いた。悪い酒、悪い怒り、悪い霧。目を曇らせ、頭を鈍らせ、ついでに足も引っ張る何かに酔って、シャドウは本来あるはずの力を十分に発揮できていないのだと。対してこちらは素面だ。これで負けるはずがない。
「もう一発!」
「どわっ!」
三度目の召喚の儀式を行った。イザナギは怒りの鉄槌を再び放ち、カエルの巨体は酒屋の床をのた打ち回った。長柄で打ち据えるのも効くようだが、この電撃の技と言うか術と言うか、まさにゲームでよくある感じの魔法めいた力は取り分け効いている。自分の手応えと相手の大仰な反応に加え、シャドウとこの世界には詳しいクマのお墨付きまであるのだ。効果は抜群と判断して良かった。だが悠は敢えて、ここでゴルフクラブを構えた。
(次はこれだな)
ペルソナが強いことはよく分かった。それでこっちも試してみる気になったのだ。右足を後ろに引いて腰を深く落とし、クラブを右脇に抱えて、グリップを相手に向けてヘッドを下げた。剣道で言うところの脇構えだ。その瞬間──
『面白い素養だ』
(!?)
脳裏に突然声が響いた。自己同一性に関する問いに答えた、イザナギの声ではない。似ていると感じないでもないが、別人の声だ。そしてこれは今この時に、声として聞こえたのではない。以前に聞いた言葉を不意に思い出したのだ。小さな稲妻が頭の中で閃いて、朧な記憶を一本の線で繋いだのである。そして悠は悟った。
(そうか、俺は……)
剣道など習ったことはないのだが、構えは不思議と体に馴染む。これは既視感とは違う。遠くない以前に、今と同じ構えを取ったことがあるからだ。こことよく似た霧が漂う謎の場所で、霧の先にいる人影に向けて、刀を振り下ろしたはずだった。そしてその人影は悠を気にかけていた。それを思い出した。思い出すと共に、悟った。
人を飲み込み、貪る深淵があると知りながら、前に進むことを恐れない。その理由が分かった。自分は『守られている』のだ。
悠は昨日テレビの世界に入って以来、特に危険を感じてはいなかった。薄気味悪く思うことはあったにせよ、命の危険があるとは考えていなかった。それは単に根拠のない楽観や、うるさく騒ぐ好奇心の陰に隠れていたのかもしれない。しかし実のところ、悠は誤っていなかった。まさしく危険など『なかった』のだ。構えを取ると同時に、悠はそれを悟った。
恐れるに足るものなど、田舎町の商店街風の撮影セットもどきには、そもそもありはしなかった。悠に試練を与えた『神』は、あらかじめ罪を定めて罰することまで初めから予定した上で無理難題を吹っかける、そんな不当さはない。なぜなら悠が倒せない敵は、ここにはいない。まさに乗り越えられる試練しか与えてこなかった。
蛮勇? 軽挙? それが何であろう! この優しき霧の世界は、愛に満ちている! 白い闇の向こう側から人を気にかけ、守ってくれて、願望までも叶えてくれる存在がいる限り、悠に敗北はあり得ない。神は愚か者をも愛してくれている。
今はまだ──