ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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可愛い女(2011/11/5)

 男はみんな可愛い女が好き──

 

 安易な考え方ではあるが、あながち間違ってはいない。なぜなら『可愛い』の定義は広いから。顔やスタイルなど、容姿だけを指して使われる言葉ではない。性格や言動など、人間を形作る要素は何でも『可愛い』と言い得る。そして何をもって可愛いとするかは人それぞれで、しかも同じ人でも時と場合によって変わる。一見すると醜いものでも、見ようによっては可愛くなるものもある。人であれ、物であれ。万人が認める観念的な領域の醜さなど、そうそうあるものではない。万人が認める可愛さと同じで。

 

 

「どこだ、ここ……?」

 

 密度の高い白色の空間で、長瀬は目を覚ました。周囲を漂っている白いものは霧だ。昨日と今日は雨が降っていたが、霧が出る予定はなかったはずだ。長瀬は特殊部隊に加入して以来、仲間たちと同様に天候に気を配るようになったので、予報は確認している。だが今日に限って予報が外れ、霧が出たのか──

 

(ヤベえな……眼鏡がねえ)

 

 霧が出ればシャドウが出る。だがまずいことに、視界を確保できていない。長瀬は特殊部隊員の証を持ち歩いていないのだ。普段は家に置いてある。しかもそれだけではなく、他にも色々なものが手元にない。しかし自分の置かれた状況を、それ以上考える暇はなかった。

 

「あんた……長瀬?」

 

 後ろから声をかけられて振り返ると、そこに人影があった。霧に隠れて顔さえはっきり見えないが、声で誰なのかは分かった。

 

「エビ? あ、そっか。俺、お前を追っかけて……変な野郎がお前をさらおうとしてて……」

 

「あたし……あんたに肉あげて、店出て、それから……」

 

 言いながら、あいは周囲をきょろきょろと見回した。

 

(ここ……どこだっけ? 何か見覚え、あるみたいな?)

 

 長瀬と同様、あいの視界も白によって覆われている。しかし白い空間にところどころ配置された影が、何とはない既視感を覚えさせた。あいの胸の高さくらいの仕切り壁らしきものが、いくつも並べられている。

 

「何なのよ、これ……」

 

 だが見覚えがあるからと言って、落ち着くわけではもちろんない。むしろ覚えがあるのにほとんど見えないこの状況は、余計に不安を掻き立てる。

 

「ねえ、どこなのここ!? 何であんたがいるの!? 何がどうなってんのよ!」

 

「知るかよ!」

 

「男でしょ! 何とかしてよ!」

 

「ったく、これだから女ってのは……」

 

 女嫌いだった少年は、9月に過去に決着をつけてトラウマを克服した。その翌日には昔からの親友と今年からの友人と一緒に、三人で合コンに出かけたりもした。隣町にまで繰り出したその時は特に収穫はなかったが、それでも異性への偏見はなくしたつもりだった。しかしふとした弾みで、昔の口癖がついて出た。

 

 その言葉に誘われるように、女の声がやって来た。

 

「怖いよねえ……守ってほしいよねえ……」

 

 長瀬にとってはそろそろ聞き慣れてきた声が、背後からやって来たのだ。正面にいる相手と言い合いをしていたはずなのに、霧の向こうから同じ声が届けられてきた。

 

「エビ?」

 

「何よ?」

 

「あんたは可愛いんだから、男はあんたを守って当然よねえ……」

 

「エビ、お前どこにいんだ?」

 

 同じ声が二ヶ所から上がっている。長瀬のすぐ近くと、距離は判然としないがとにかく少々離れた向こう側から。

 

「あたしはここよ! 見えないの!?」

 

「見えねえんだっつの!」

 

 サッカー部員とマネージャーの気楽な言い合いはここまでだった。部活ではいつものことである雰囲気は、次の言葉で掻き消された。

 

「でも駄目なの。一条には振られて、悠には浮気されてるの」

 

「あ? 一条と鳴上が……何だって?」

 

「みんなあんたより綺麗じゃなくて、可愛くない女にばっかり持ってかれるの。何でなの?」

 

「な、何で……?」

 

 あいは思わず謎の声の言葉を繰り返した。なぜ自分の秘密を、この声は知っているのかと。あいの失恋と彼氏の浮気を知っているのは、当の彼氏くらいのはずである。噂の伝播速度が極めて速い田舎の学校にあってなお、他人には知られていない。それなのに、顔を見せない声だけの女は知っている。まるで彼女の恥を彼氏が言いふらしでもしたように。

 

「だって本当は、あんたはちっとも可愛くないから。デブでドン臭くて貧乏で、菌がうつるってみんなに避けられるの」

 

 体が震えた。何かの細菌に襲われて熱病に罹ったように震えた。ダイエットに成功してくびれた腰の、そのずっと奥の方から熱い何かが湧き上がってきた。まさか彼氏はこんなことまで言いふらしたのかと。だとしたら、許しておけないところである。

 

 あいは彼氏の浮気を責めてはいないが、これはさすがに駄目だ。頬の一つくらい、思いきり張ってやらなければ気が済まない。と思いきや──

 

「誰からも愛されて、みんなが守ってくれる菜々子ちゃんとは大違い……あんたもあんくらい可愛ければ、今みたいなつまんない青春は送ってなかったのにね!」

 

 体が更に震えた。ただし今度は熱くない。冷たい何かが化粧をした頬を伝うのを感じた。これは彼氏が言いふらしたわけではないはずだ。彼氏の可愛い従妹のようであればと、そう思ったのは本当だ。二週間前の雨の日、家出した可憐な少女と初めて会った時、確かにそう思った。しかしあいはそれを誰にも言っていない。この世で自分自身しか知らない、いわば究極の秘密をこの声の主は知っている──

 

「な、何よ……何言ってんのよ! あんた誰!?」

 

「ああ、一人だけいたっけ。あの春の夜に変な化物からあたしを守ってくれた、あのカッコいい男……。でも駄目ね、人違いだって!」

 

 暴露を続ける謎の声は、遂に本人さえ知らない秘密まで明かした。無意識の闇から湧いて出た存在は、失った記憶さえ引き出せるように。

 

「ざ……ざけてんじゃないわよ!」

 

 あいは長瀬の傍から離れ、霧の中を駆けた。これ以上喋らせてなるものかと、白い闇を走って声の主に近づいた。大胆にも。

 

 走っているうちに分かったことがあった。何となく見覚えのある場所だと思っていたが、ここは隣町の沖奈にあるファッションショップだ。新作が出るたび買いに来て、店員にも顔を覚えられている馴染みの店である。仕切りのように見えたのは、ワンピースやスカートを吊り下げたラックだった。そして走った先は試着室だ。カーテンは開いている。

 

 試着室だから奥には鏡があった。ただし普通の姿見ではない。もちろん常に持ち歩いている愛用のコンパクトでもない。誰もが認めるであろう『可愛い』姿は、そこに映っていなかった。

 

「い……」

 

 映っていたのは、とうの昔に切り捨てて誰の目にも触れないように隠した過去だ。夢では今でも見ることはあるが、現実ではもう何年も見ていないもの。家が裕福でないことを示すような古着を着た、小学校高学年くらいの小太りの少女がそこにいた。

 

「いやああぁぁ!」

 

 あいは床にへたり込んだ。思いもよらないものを見て、何より見たくないものを見て、立っていられなくなってしまった。

 

「エビ!」

 

 そこへ長瀬がやって来た。トラックで誘拐されそうになったマネージャーを助けようとしたように、今また助けに来た。腰を抜かしたあいの前に立ち、訳の分からない話を並べる何者かを見た。長瀬にとっては見知らない顔の少女だ。声は知り合いに似ているが顔は全く違う。特に違うのは目だ。金色に光っている。その光が少女の周囲だけ霧を吹き払っている。

 

「誰だ、お前!?」

 

「見て分かんないの? ……って、そうよね。分かるわけないわよね! あんたは嘘のあたししか見てないもんね!」

 

 霧の鏡に映った少女は顔を歪めた。ただし怒ってはいるのではない。他人がいることが嬉しいのだ。『嘘』の姿しか見ていない男に、『真実』を見せてやるのが嬉しいのだ。

 

「あたしは海老原あい。サッカー部のマネージャーよ!」

 

「や、やめて……やめて! 見ないでえ!」

 

「エビが二人もいるわけあるか! ……って、そうか!」

 

 言いながら、長瀬は閃いた。同じ人間が二人もいるわけがない。これと似たようなことを、以前に自分の口で言った覚えがある。胸が悪くなるので思い出すことはなかったが、遠い昔のことではないので、まだ忘れてはいない。これまでの人生で最悪の口の悪さを誇った、金の瞳の二人組だ。

 

「てめえ……こないだ出てきたクソ野郎みてえなのだな!」

 

 今からちょうど一ヶ月ほど前。先月6日未明、霧の中で特殊部隊の上司と友人の自宅前で戦った時の出来事だ。あの晩、自分と親友の姿を真似た敵が現れた。

 

 テレビの霧の中に金の瞳のシャドウが出現する。それは現実の霧の中に同じ顔の存在が出現することとは違う。似てはいるが、真実は全く異なる現象である。しかし情報系の能力を持たない長瀬には、両者の区別などつかない。つかないから躊躇も逡巡もない。幼い少女の姿であることも関係ない。容赦なく断定する。

 

「エビのニセモンだな!」

 

「!……」

 

 へたり込んだままのあいは息を飲んだ。そして眼前の男の背中を見る。汗臭い部活に巻き込んで、その後も面倒ばかり持ってくる男。鬱陶しさにかけては、これまでの人生で出会った中で最高レベルの男。それでいながら、この時ばかりは普段と違って見えた。逞しく、精悍で、頼り甲斐のある男の背中がそこにある。子供の頃からずっと求めていた、守ってくれる男──

 

「そ、そうよ……。あんたなんか……あんたなんか……」

 

 本人よりも他人が先んじてシャドウを否定する。事件を追ってきた特別捜査隊では、過去に二度あったケースである。それがここでも再現された。

 

「あんたみたいに可愛くないのが、あたしなわけない! ニセモンよ!」

 

 そして他人の助けを得た本人も否定した。

 

「ふふふ……あはは……酷い女ね! 彼氏がいるってのに、あっさり乗り換えるんだから! 可愛くないのは顔だけじゃない……あんたなんか、こっちから願い下げよ!」

 

『可愛くない』と決めつけられた少女は、金の瞳を更なる喜びに変えた。それと同時に、周囲の霧の色が変わり始める。それは引き返せない領域まで来たことの証である。人間の力ではもはやどうやっても元に戻せない、決定的な亀裂が入った。白から黒へと変わった霧そのものが、若い青春のエネルギーや勢いなどでは到底修復できない、深い溝である。

 

「あたしは、あたし! もうあんたじゃない!」

 

 鏡像は『自我』を宣言した。そして閃光が走った。黒と赤の光が四方に放たれ、本体の腰を完全に砕けさせる。あたかも自らを切り捨てた本体を、存在ごと乗っ取ろうとするように。

 

「あ、ああ……」

 

 襲ってきた影の毒気に当てられて、あいは頭を床に投げ出した。気を失ったのだ。それに代わって立ち現れたのは、蹄のある四つ足の怪物だった。いや、球体に足がついていると言うべきか。白い胴体ははち切れんばかりに丸々と膨らんでいて、空気を過剰に吹き込んだ風船を連想させる姿だ。それが黄色い布きれをいくつも巻き付けて、宙に浮いているのだ。そして風船の中心にある顔は、高校生の美少女のそれと同じである。金髪で縁取られた額の中央には、灰白色の石が埋め込まれていた。

 

「我は影……真なる我」

 

 これまでの七つの先例と同じ言葉でもって、影は名乗りを上げた。

 

「けっ! やっぱシャドウかよ!」

 

 対する長瀬はジャージの襟を左手で掴み、右手を懐に差し込んだ。しかし──

 

(やっべ……!)

 

 勇敢な少年は今になってようやく気付いた。懐は空っぽだ。眼鏡と共に特殊部隊員の証である召喚器を持っていないのだ。武器の三節棍もない。あんな物騒なものを、学校に持っていくわけにはいかないから。つまり視界は最悪な上に丸腰であるわけだ。ペルソナも召喚できない。いくら何でもこれでは戦えない。部活と違って実戦は根性だけではどうしようもない。

 

「どいて!」

 

 しかし準備が整っていようがいまいが、敵は待ってくれない。宙に浮いた影が前足を振るってきた。だが──

 

「うおっと!」

 

 数本の髪の毛が床に落ちた。落ちたのはそれだけだ。襲ってきた蹄付きの打撃を、長瀬は腰を屈めて寸前でかわしたのだ。そして上体を元に戻すと、手を伸ばせば触れられそうな位置に金の瞳があった。顔の造作は先ほどと変わっているが、瞳の色は同じだ。

 

「どきなさい! 邪魔しないなら見逃してあげるわ!」

 

 それは助かる。こんな可愛くない女、好きにしてくれ──

 

 などと長瀬は言わない。思いもしない。

 

「ざけてんじゃねえ!」

 

 怪物と丸腰で正対しながら、長瀬は啖呵を切った。サッカーでディフェンスをするように、足を肩幅に開いて腰を落とした。倒れたあいを体を張って庇う。根性だけではどうしようもないこの局面において、なおも突っ張った。

 

「はっ! あたしはね! あんたみたいな汗臭いの、大っ嫌いなのよ!」

 

「勝手にしろ! うちのマネージャーにゃ指一本触れさせねえ!」

 

「じゃ、あんたから死になさい!」

 

 かくしてシャドウとペルソナ使いの話し合いは、本体相手のそれより早くあっという間に決裂した。あいの影は空中で馬のように棒立ちになり、長瀬の頭に向けて前足を叩きつけてきた。だが──

 

「遅え!」

 

 初撃に続いて、長瀬はまたも影の蹄をかわした。ペルソナは使用者の体から飛び出てきて、敵を叩き伏せるだけではない。使用者自身の身体能力にも影響を与えるのだ。長瀬は自分のペルソナから膂力と耐久力の他、敏捷性の恩恵も受けている。眼鏡がなくても、これくらいの至近距離なら動きは見える。

 

「このっ! ちょこまかしてんじゃないわよ!」

 

 影は続けて前足を振り回し、後ろ足でも蹴ってくる。対する長瀬は細かなフットワークで打撃をかわし、時には両腕も使っていなす。サッカーとは勝手がまるで違う、格闘技的な動きには慣れていない。だが影は動きが速くない。そして長瀬は反撃するつもりがないので、防御に専念すれば何とかなる。

 

(一条たちが来るまで、粘るしかねえ!)

 

 攻撃の手段がない以上、時間を稼ぐ以外にない。ここがどこなのかは分からないが、霧が出ているなら仲間たちはシャドウ対策をしているはずだ。ならば自分を探し出して、きっと来てくれる。そう信じてシャドウの攻撃を素手で凌ぎ続けた。それを十手ほど繰り返して──

 

「こんの……いい加減にしなさい!」

 

 業を煮やした風船めいたシャドウは、遂に体ごと突進してきた。瞬間、長瀬は冷や汗が背中に浮かぶのを感じた。これはまずい攻撃だ。よけることはできるが、自分が身をかわせば後ろで倒れているマネージャーのもとへシャドウを通してしまう。そうさせてはならない。

 

「ぬおおぉ!」

 

 長瀬は吠えた。シャドウの突撃をかわすのではなく受け止めるつもりで、腰を深く落として身構えた。だが──

 

 ゴツンと鈍い音がした。

 

「な、何!? いきなり何!?」

 

 影の突撃は寸でのところで、壁に頭をぶつけるようにして止まった。着流しをまとった精悍なビジョンが、あいの影と長瀬の間に立ちはだかっていた。巨大な鉄籠を横に構えていて、突進してきたシャドウを籠の底で受け止めた。生身の長瀬に代わって攻撃を防いでくれたわけだ。

 

「出せた……!」

 

 いや、『代わって』ではない。表に出ているのは長瀬自身だ。炎を操る剛毅のペルソナ、コトシロヌシである。あいを守る為、長瀬は覚悟を決めた。その途端、使用者の決意に応えるようにペルソナが自ら飛び出てきたのだ。

 

 テレビの中の世界は現実の霧の日とよく似ている。どちらの霧も同じ眼鏡で見通せて、同じようにシャドウが蠢いている。しかし全く同じではない。その違いは、ペルソナと使用者の親和性に表れている。具体的に言うと、現実の霧では召喚器がなければ召喚できないペルソナ使いも、テレビの中では出せるようになるのだ。そして使用者の危機において、名前も呼ばれず召喚する意志さえないままで顕現した。

 

「撃て!」

 

 好機を逃さず、長瀬は『自分自身』に命令した。コトシロヌシは炎を籠から生み出す。だから籠の中に敵を入れられれば、まさに袋のネズミである。これまでの霧の日の戦いでは、そういう形に持っていけたことはなかったが、幸運にも敵の方から罠に飛び込んでくれた。

 

「あっつ……!」

 

「ぶん投げろ!」

 

 更に続けてペルソナを動かす。蒸し焼きにされたシャドウがのたうつ籠を、コトシロヌシは大きく振りかぶった。そして渾身の力を込めて中身を外へと放り投げた。籠に詰めた魚を床にぶちまけるように。

 

「うわああぁ!」

 

 あいの影は地面に叩きつけられたボールが飛び跳ねるように、霧が漂う床を転がっていった。元々球形に近い体形であるだけに、眼鏡のない長瀬からは見えないくらい遠くまで行ってしまった。そしてコトシロヌシは姿を消した。

 

「よし……エビ!」

 

 長瀬は身を翻し、倒れたあいに駆け寄った。そして気を失ったままの少女を両腕で抱え上げた。大変な努力を払って体重を落とした少女は軽く、簡単に持ち上げられた。そして影を投げ飛ばしたのとは反対の方向へ走った。霧で周囲はほとんど見えないが、構わず走った。逃げるつもりなのだ。

 

 召喚器なしでペルソナを出せることは分かった。そしてあのシャドウは力こそ強そうだが、速度はそうでもない。頑張れば一人でも何とかなるかもしれないが、あいを庇いながらでは戦えない。いつ流れ弾が当たるか分からないのだ。それでなくても、そもそもシャドウの狙いはあいだ。ならば戦うよりも逃げるべきだと、長瀬は判断した。

 

 無理と思ってからが勝負。部活においてはそれが長瀬の信条だが、守らねばならない人がいるこの局面では、蛮勇を選ばなかった。しかしこの選択は良い方向には進まなかった。

 

「舐めてんじゃないわよ!」

 

 投げ飛ばされたあいの影は、起き上がって再び空中に浮かんだ。そして吠えた。

 

「死ねっ!」

 

 掛け声と同時に、今のあいと同じ顔の前で影の魔力が凝集した。シャドウとペルソナは根源を同じくするものである。つまりペルソナができることはシャドウにもできる。力は瞬時に形を成し、影に背を向けて走る長瀬を追った。力の種類は長瀬の親友と同じものだ。

 

「あがっ!」

 

 局所的な吹雪を背中に受けた長瀬は、つんのめって前のめりに倒れた。だが抱えていたあいから手は離さない。少女の体を叩きつけてはならないと、倒れながらも両腕を持ち上げて、立てた肘から床に落ちた。受け身が全く取れなかった為に、痛みが余計に体に響く。

 

「クソ……こいつ、魔法もできんのか!」

 

 不覚だった。シャドウの短い四つ足を振り回す打撃や、体当たりの突撃は間合いが近い。動きも遅い。だから足に自信がある自分なら逃げきれると判断したのだが、甘かった。

 

(しかも……よりによって氷かよ!)

 

 長瀬のペルソナは火炎に強く、氷結に弱い。そしてペルソナが抱える長所と弱点は本体も同じだ。シャドウの攻撃を生身の体で受けた場合も、ペルソナが受けるのと同じように耐性の不思議が適用される。一発で長瀬は立っていられなくなってしまった。

 

「手こずらせてくれたわねえ? 覚悟はできてんでしょうね?」

 

 倒れたまま首を捻って振り返ると、シャドウが空中を浮遊しながら近づいてきた。澄ましていればただ綺麗な顔は、唇の端が吊り上がって目尻が下がった何とも嬉しそうな形に歪んでいる。その顔の前で白い渦が巻かれた。再び氷を放ってくる気だ。この体勢ではかわせない。

 

「エビ……!」

 

 長瀬は自分の下にいる本物のあいを見た。少女は気を失ったままだ。シャドウの冷気に当たらせてはなるまいと、自分の位置をずらした。マネージャーの綺麗な顔も手足も、少女の細い全身を自分の下に隠し、影から庇った。次の瞬間、吹雪が襲ってきた。

 

「うがあっ……!」

 

 凄まじい痛みが背中に突き刺さった。愛用のジャージは裂け、皮膚や肉は切り刻まれるようで文字通り血が凍る。意識が飛んで命も手放しそうになる。だがそれでも長瀬は本物のあいを離さない。その様が影の神経を余計に逆撫でする。

 

「あんた、何でそいつを庇うの! そいつはあたしなのに!」

 

 剥き出しになった『大嫌いな男』の背中に、影は飛び乗った。前足を叩きつけ、後ろ足で踏みつける。そのたびに肉がきしみ、血が噴き出し、蹄が汚れる。

 

「何でなのよ! 何とか言いなさいよ!」

 

「エビ……死ぬな……」

 

 だが影の問いに、長瀬は返事をしない。本物のあいに覆いかぶさり、気を失った少女を胸の中でひたすら庇う。心臓から湧き出るペルソナの炎で温めて、シャドウの氷から守るように。自分の熱を分け与えるように。長瀬は自分がどうして力を得たのか知らない。ペルソナは何の為にあるのか分からない。目覚めた脈絡が何も見えないまま、訳も分からず背負った力。それはこの為にあるのだと言うように。

 

「もういい……もういい! マジ死んで!」

 

 男の背に乗っていた影は、再び空中に浮き上がった。真上から見下ろしながら、魔力を顔の前で集中させる。『自分』とそれを守る男をまとめて殺す。殺せるだけの力を、シャドウとしての存在の奥深くから呼び起こし、撃ち放つ──

 

 だが寸前で霧の向こうから何かが飛んできて、影の後ろ足に当たった。それに留まらず、何かが絡みついた。

 

「長瀬!」

 

 飛んできたのは小さな金属の塊、分銅である。そこから紐が伸びていて、一方の端には眉目秀麗な少年がいる。シャドウワーカー稲羽支部の一人、一条だ。

 

「このっ……離れろ!」

 

 シャドウの足に向けて飛ばした流星錘は狙いを誤らなかった。一条は紐の端を両手で持って、親友にとどめを刺そうとする影の足を引っ張る。それと同時にペルソナの名を呼んだ。

 

「エビス!」

 

 召喚器なしで呼び出されたペルソナは鞭を掲げ、吹雪をシャドウに向けて放った。だが──

 

「一条じゃないの! 何であんたまでいるのよ!」

 

 全力を込めた冷気は当たったはずだ。しかしシャドウに堪えた様子はまるでない。逆に紐が絡まった後ろ足を振り回し、一条を引き倒そうとする。どちらかと言えば非力な一条は影の力にすぐに負けそうになって、前へとつんのめる。そこで細身の高校生よりずっと太く、力感に溢れた腕が割って入った。

 

「あんた、菜々子ちゃんの……!?」

 

「ふん!」

 

 堂島だ。一条が端を持っている流星錘の紐の中ほどを、右手で掴んでいる。そして渾身の力を込めて引っ張り返した。堂島は膂力においては一条は言うに及ばず、長瀬にも勝る。そしてあいの影にも勝った。綱引きの勝負は一瞬で決着し、あいの影は長瀬から引き離された。

 

「花村! 二人の前へ!」

 

「はい!」

 

 堂島の指示の下、もう一人の高校生が動いた。本来は堂島の部下ではないのだが、指示には従う。姿勢を低くして、テレビの中のファッションショップを風の速さで駆ける。そして被害者の二人とシャドウの間に割って入った。

 

「次から次へと……! あんたら、何なの! 何で邪魔すんの!」

 

 影は悪態を吐くが、誰もそれに返事はしない。答えの代わりに叫ばれたのは、ペルソナの名前だ。

 

「来い! タケミカヅチ!」

 

 やはり堂島の部下ではない金髪の少年が、走りながらペルソナを呼び出した。巨体のビジョンは空中に浮いている影に向けて吶喊し、体当たりを食らわせる。

 

「ああっ……!」

 

 影は色とりどりの服を吊るしたラックに突っ込んだ。その弾みで足に絡まった流星錘が外れ、更に遠くへ転がっていく。影は被害者の二人から完全に距離を置かされた。邪魔する者たちを倒さない限り、本体と『大嫌いな男』には手出しできなくなった。

 

「長瀬! しっかりしろ!」

 

 その間に、堂島は倒れた二人の前に膝をついた。そして高校生の部下の有様に、眼鏡の下の目を見開いた。長瀬のジャージの上着は背面がほぼ完全になくなっている。若い男の剥き出しの背中は、傷害や殺人事件の被害者を連想させる状態だ。

 

「小沢、手当てを!」

 

「は、はい! 酷い……!」

 

 稲羽支部の回復担当もクラスメイトの惨状に目を瞠った。長瀬の背中は血塗れで、痣だらけで、凍傷のように霜まで降りている。だが慌てている場合ではない。

 

「キサガイヒメ!」

 

 結実は即座にペルソナを召喚した。やはり召喚器は使わず、一声呼んだだけで和装の女のペルソナが現れた。刺繍が施された袖を振り、治癒の光を放つ。

 

「あんたら……絶対許さない!」

 

 そうこうしているうちに、まき散らされた服の下から影が浮き上がってきた。戦いはこれからだ。前に出た二人の高校生は、各々得物を手に身構える。そして二人の一歩後ろで、堂島は膝を起こして立ち上がった。長瀬は心配だが、手当ては結実に任せるしかない。殺すことしかできない自分の仕事は、シャドウを倒すこと。それだけだ。

 

「小西! 奴の特性は!?」

 

「アルカナ女帝、氷結は無効、火炎が弱点です!」

 

 既に解析を済ませていた稲羽支部の情報担当は即答した。ただその結果に、特別捜査隊から応援として派遣された一人、陽介の口から文句がついて出た。

 

「よりによって火かよ! 使える奴いねえじゃん!」

 

「打撃は効きます! 力で押し切ってください!」

 

「ふん、そいつは話がはええな」

 

 応援のもう一人、完二はパイプ椅子を軽く振って足元の床に打ち付けた。テレビの中でも外でも、殴り合いは得意とするところである。

 

「一条は長瀬たちを守れ! 花村と巽は俺と攻めに回るぞ!」

 

 かくして布陣は決まった。攻撃要員が三人と防御要員が一人。そして回復役と情報役が一人ずつ。別々に活動していた二つのチームのメンバーを混ぜ合わせた、即席のチームである。しかし人数は揃っていて、攻守のバランスも悪くない。指揮を取る堂島のもと、六人のペルソナ使いは一体のシャドウと対峙した。

 

 なお、六人のアルカナは法王、魔術師、皇帝、剛毅、隠者、刑死者である。愚者はいない。いないところで、初めて被害者が生んだシャドウと戦うことになった。

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