『お母さん……お母さん、どこ……』
テレビの中の天国は、階層を上がるに連れて少しずつ装いが変わってきた。お伽話の宮殿を思わせる建物の作りは変わらないが、色鮮やかな花々は姿を消し、空気の色も変わっていった。最初は白く清浄だったのが、上るにつれて赤色に染まってきたのだ。それは菜々子の状況を暗示しているように思えた。
そして時々聞こえてくる菜々子の声が、救助に向かう特別捜査隊をより駆り立てていた。
「ナナチャン……待ってて! 今行くクマ!」
特にクマだ。だが着ぐるみの足は走るには不向きである。この謎の人外は四ヶ月ほど前に虚空から『人間』を生やしたが、野獣の背中に翼は生えていない。
「ああ、絶対に助けるぞ!」
先頭を行くのは責任者の足立とリーダーの悠である。クマは最後尾だ。遅れまいと必死で走る弟子に、師は振り返らずに声だけで答える。
『何でいなくなっちゃったの……何で菜々子置いてったの……』
「菜々子ちゃん……やっぱりお母さんのこと……」
「うん……でもだったら、なおさら助けないと!」
「生田目も菜々子ちゃんの近くにいるのかもしれません……とにかく急ぎましょう!」
そして特捜隊の女性陣も負けじと走る。現実であればとうに体力が尽きている距離を、ペルソナの恩恵と菜々子を案じる気持ちでもって、疲れも見せずに駆け抜ける。実際のところ、特捜隊は余力十分である。群がってくるシャドウの大半は足立が倒したからだ。結果的に体力を温存できている。
そして足立はと言うと、内心で焦っていた。
『やだよ……帰ってきて……』
(まずいな……)
特捜隊は菜々子の声を聞くごとに決意を新たにする。だがシャドウワーカー稲羽支部の副支部長は、声の内容よりも声が聞こえてくること自体に危惧を抱いていた。なぜならテレビのダンジョンで聞こえてくる声は、被害者本人ではなくシャドウの声だからだ。マヨナカテレビの録画放送で見た限りでは、いつもそうだった。だが足立は自分があれを見ていることを知られるわけにいかないので、少年たちに忠告はできない。
変に口を滑らせてはなるまいと、足立は夏頃から意識するようになっていた。すっかり板についた慎重さが、足立から言葉を奪っていた。
『怖いよ……どこにいるの……お母さん……。助けて……お父さん……』
「また菜々子ちゃんの声……先輩! 足立さん! もうそろそろ近いよ!」
「センセイ、アダッチー、急ぐクマ!」
お伽話の宮殿を駆け抜け、踏み越え、多大なシャドウを葬り去った果てに、七人は天国の最奥に辿り着いた。そこでは黄昏を思わせる赤色が消えて、白い清らかさが戻っていた。木の蔦のようなもので作られた吊り橋の先に、夢そのもののように空中に浮かぶ島がある。島は小高い丘になっており、天使の像を中心に据え、その周りを花が埋め尽くしている。花は色の薄いもの、濃いもの、鮮やかなもの、控え目なものなど個性溢れる彩りに満ちていた。
そして花の丘の天使の像の前に生きた天使がいた。雰囲気からすると場違いな、作業着を着た男と一緒に。
「お……お兄ちゃん!」
「菜々子!」
丘を登る階段の手前の吊り橋で、七人の救出部隊は立ち止まった。順番は走っていた時と同じで、前列が悠と足立。中に千枝、雪子、直斗。後列がクマとりせだ。
「動くな生田目! 警察だ!」
「け、警察!? う……嘘だ! お前たち、この子を殺す気なんだろう! この子は僕が救うんだ……」
作業着の男、生田目太郎は菜々子を腕の中に抱えている。両腕を使って少女の小さな体を押さえつけている。菜々子は子供の弱い力で生田目を振りほどこうとするが、もちろん自力では逃げられない。ただ霧が覆う世界にあって、肉眼を必死になって凝らす。
「お兄ちゃん……お姉ちゃんたち……」
眼鏡をしていない茶色の瞳には、『兄』と『姉』たちの姿がかろうじてそれと分かるくらいに映っている。しかし──
「お、お父さんは……?」
「お父さんは……いないの?」
生田目に抱えられた菜々子の言葉を、特捜隊の後ろで上がった声が引き取った。同じ声で。小学一年生の女児の子供らしい可愛い声が、七人のペルソナ使いたちを挟んだ二ヶ所で上がった。最後尾にいたクマが振り返ると──
「で、出たクマー!」
もう一人の小学生がそこにいた。身長は百二十から三十センチくらいで、髪を頭の横で結び、ピンクの長袖と茶色のスカートを履いた少女だ。生田目に捕らえられている小学生と全く同じ姿である。顔、体格、服装の全てが同じだ。目の色さえ同じだった。
「菜々子ちゃんのシャドウ!? まず……!」
背後に現れた菜々子の瞳は金色ではない。茶色だ。しかし前方の花の丘にいる方が本物で、後方の吊り橋に現れた方はシャドウ。優れた情報系能力を持つりせは、突如現れた存在の正体を一目で見破った。ペルソナ使いでない者がテレビに入ると現れるもの。これまでの被害者と同じだ。
「お父さん……どうして来てくれないの?」
「くっ……」
悠は後ろを振り返りつつ、刀の束を握る右手に力を込めた。そして歯噛みした。シャドウが出れば戦うのみ。余計なことを言われる前に先手必勝で叩きのめす。悠はクマの影と戦った時、シャドウを相手にする際の方針を決めた。直斗の影と戦った時もそうした。だが今は、今だけはさすがにそう思い切れなかった。相手は菜々子である。しかもシャドウの証明である金の光を、可愛らしい顔の中心に据えていない。無論、りせが言うのだからシャドウには違いないはずだが、それでも問答無用で斬るのは躊躇われた。
「菜々子、いらない子なんだ……だから来てくれないんだ」
「そんなことはない!」
躊躇うから、悠はシャドウと話をしてしまった。それが最初のミスだった。
「お兄ちゃん……駄目だよ。お兄ちゃんだって、いつか菜々子を捨ててくんだ」
言いながら、シャドウは両手で目を覆った。涙を零すように。もしくは目の色を隠すように。
「そんな……」
そんなことはないと、悠は言いたかった。しかし咄嗟に言葉が出て来なかった。菜々子を捨てるつもりなどもちろんないが、いつかは別れなければならない。いや、いつかではなく近い将来だ。八十稲羽を離れる日は四ヶ月と少し程度の、ごく近い未来でしかない。だから否定の言葉がすぐには出て来なかった。
その僅かな躊躇が二つ目のミスだった。致命的なミスだった。
「だって……菜々子、可愛くないもん」
「は……?」
菜々子は可愛くない。そういう暴言か気遣いを、菜々子は5月に言われたことがあるが──
「結実お姉ちゃんみたいにかっこよくないし、あいお姉ちゃんみたいに美人じゃないもん。お兄ちゃんの彼女には、なれないもん」
話が急にずれて、雰囲気がおかしなことになった。花で彩られた美しい限りのテレビの中の天国に、とても嫌な空気が流れ始めた。シャドウが本体ではなく他人を詰る。4月の雪子の時にもあったケースだが、あれより感じが悪い。
「鳴上君、君ね……火遊びはよせって言わなかったっけ?」
隣に立つ足立が声をかけてきた。駄目な子供に呆れ果てたと言わんばかりに。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
「いや、君が小沢さんと付き合ってるのは知ってるよ? それだけなら別にいいけど、あいお姉ちゃんって……もしかして海老原さん? あの子にも手を出してたの?」
何か白い視線が突き刺さってくるのを、悠は唐突に感じた。種類は四つほどだ。足立は白い少女たちを順繰りに見回し、ため息を吐いた。
「子供ってさ、親が浮気すると傷つくんだよね……。君は親じゃないけど、兄でも同じだろうね。大好きなお兄ちゃんが最低な六股ハーレム野郎じゃさ……。いくら可愛くたって、小学一年生にはいかんともしがたいね……」
人間存在に希望や幻想を持たない足立は、ダンジョンの美しさを根拠にして菜々子を『清らか』だと思わないようにしていた。そしてその心構えは正解だった。案の定、これまでの被害者と同様に菜々子のシャドウが出た。そして出た責任は悠にある。刑事とシャドウワーカーの仕事で多忙を極めている堂島にも、もちろん責任はある。だが悠の方が重い。足立はそう判断した。
「違います! 誤解です!」
確かに誤解である。浮気をしているのは本当だが、結実とあいの二人だけだ。六股もかけてはいない。そんなどこぞの『完璧超人』のような離れ業は、悠は挑戦もしていない。
「ち、違いますって! えと……雪子とりせちゃんと直斗君はどうか知りませんけど、あたしは鳴上君と付き合ってません!」
「でも好きなんでしょ? そんくらい、見りゃ分かるよ」
そう、見れば分かる。足立は刑事として観察力は鋭い方だが、別に足立でなくても分かる。特捜隊では当の女性陣は全員が分かっている。男性陣も陽介は分かっているし、完二とクマもある程度は。千枝、雪子、りせが悠に寄せる好意は、とても分かりやすいものだ。例外はまだ付き合いの浅い直斗だが、この話の流れでは一緒くたになるところである。
そんな分かりやすい者たちであるから、菜々子にも分かっているのだ。麗しい人々に囲まれた『兄』にとって、自分は飽くまで『妹』でしかないのだと。本当は従兄で結婚もできる『兄』の、恋人にはなれない。
「だから……菜々子はここにいるの。ここでお母さんと一緒に暮らすの」
『兄』への絶縁を通告すると共に、もう一人の菜々子は顔から手をどかした。一度隠された目を再び露わにした。すると影が光を放っていた。よくある古い手品のように、顔が変わっている。
金の瞳は人外の証だ。シャドウの証明。即ち語る言葉は『真実』である。だが──
「ナナチャン! ダメクマ!」
シャドウ相手に議論は不要。リーダーがその方針を貫けずにいる間に、かつて影が語る恐ろしい言葉から庇ってもらった者が動いた。師の教えに従うように、自ら望んで誤った道を突き進むように、クマは菜々子の影へと駆けた。まるで野獣の背中に翼が生えたように、野の花になぞらえた少女のもとへ飛び込んだ。
正体不明のけだものは目を広げ、両手を広げ、口を広げた。そして菜々子の影を口の中に入れた。
「クマ!?」
食った──
クマはシャドウを飲み込んだ。首のジッパーを開けて、着ぐるみの中に入れたのではない。虚空に通じる口を大きく開けて、頭から食べてしまった。
金の瞳の女児はどうなったのか。着ぐるみの中にいるはずの、青い瞳の美少年に抱きしめられているのか。それとも目に見えない場所へ、虚空の彼方へ送られたのか。レントゲンにも映らない、科学が見通せない人外の胃袋で消化されているのか。まるでシャドウが本体を殺すように、ワニが小鳥を飲み込むように、完全なる愛のように、クマは菜々子のシャドウを食べた。
「ああっ……!」
花の丘から悲鳴が上がった。本物の菜々子だ。自らの存在から分離したものを食べられてしまった少女は、大きく身じろぎした。体から力を完全に失い、膝から崩れ落ちる。抱える生田目も釣られて体勢を崩した。
「ちっ!」
──
瞬間、ガラスの割れる音が響いた。足立だ。マガツイザナギが召喚され、風よりも音よりも速い電光の動きを見せた。振り返った悠たちが声を上げる暇もない、一瞬の隙を突いた急襲だ。
血に塗れた暗黒のイザナギは、花の丘に続く階段を一足飛びに乗り越えた。右手の矛を突き出せば生田目の顔面を刺し貫ける間合いに入る。だがさすがの足立も、犯人よりも被害者を優先した。闇に潜むペルソナは、凶器を持っていない左手で菜々子の襟首を掴む。それと同時に生田目を蹴り飛ばした。
「うがっ……!」
「菜々子!」
生田目は仰向けに倒れ、ペルソナは蹴りの反動を利用して使用者の前まで戻ってきた。そして姿を消し、奪い返した少女は使用者の手の上に落ちた。だが実銃と召喚器で両手が塞がっている足立は、いつまでも菜々子を抱えてはいない。隣にいる被害者の『兄』にすぐ手渡した。
「ほら、持ってて」
「か、返せ……! その子は僕が救うんだ!」
花の丘に残された生田目は立ち上がった。マガツイザナギの蹴りを受けても生田目は死んでいない。気を失ってもいない。常人とは異なるペルソナ使いの耐久力を身に付けている。
「俺が、俺が……!」
生田目は本人さえ知らないことだが、ペルソナ使いになる素養を持っている。テレビの霧に我が身を映したことはなく、現実の霧でシャドウに襲われたこともないままに。特捜隊と稲羽支部で各々最強を誇る、愚者と道化師の二人と同等の素養があるはずなのだ。その素養に引き寄せられるように、赤と黒の影が生田目の周囲に立ち込めた。
「!……先輩、まずいよ! シャドウが集まってきてる!」
これまでの被害者のシャドウが怪物に変じるように、街灯に夏の虫が集まるように。生田目に力を与えた『誰かさん』、即ち超常の中でもより超常に属する上位者の号令によって召集されるように、生田目の周囲にシャドウが集まってきた。
「俺が……救うううぅ!」
最強のペルソナ使いにさえなり得る者が、正しく目覚めもしないまま力を暴走させるとどうなるか。その答えを生田目は示した。洪水さながらに荒ぶる影の大群は、作業着を着た男を翻弄し、打ちのめし、蹂躙した。
そして一体の巨大な怪物が花の丘に降臨した。
それは天国めいた場所には、今ひとつそぐわない姿だった。天使の翼も輪もない。身長は四メートルほどもあるが、日焼けしたように赤黒い頭部が、体全体からはアンバランスに大きい。袖や裾があちこち裂けて、穴だらけのボロボロの服を身にまとっている。手には一本の棒を持っているが、武器にするように構えてはおらず右の肩に担いでいる。棒の先には小さな袋がくくりつけられていて、リズムを刻むメトロノームのように左右に揺れている。どことなく『旅人』を連想させる姿である。
「ふん……こっちが化物になったか」
足立は階段を一段進んだ。少年少女たちから顔を隠すように、振り返らずに声だけで指示する。
「菜々子ちゃんを連れて逃げろ! こいつは僕に任せて!」
足立は菜々子救出作戦の責任者であるのだが、ここに来るまでの戦いでは少年たちに指示はしなかった。ほとんど全ての敵を自ら叩き潰してきたから。最初の指示は撤退命令だった。
「足立さん! いくら貴方でも、一人じゃ無理です!」
しかし悠は逆らった。菜々子は抱えたままで、刀は床に突き刺している。
「あたしたちもやります! こいつ、絶対許さない!」
千枝が名乗り出た。雪子も扇子を構え、直斗も拳銃を取り出す。誰も逃げるつもりはない。
この種の大物シャドウは概して強敵である。陽介の影は悠が一人で倒したが、戦いが容易だった一学期の頃は今となっては参考にならない。生田目のシャドウかペルソナか、何だかよく分からないが、とにかく現れた巨大な『生田目』はきっと強い。足立の強さは驚くばかりだが、それでも一人で戦わせるわけにはいかない。しかし──
「!?」
振り返った足立の形相に、悠は思わず息を飲んだ。他の高校生たちと人外も、一緒になって硬直する。
「足手まといだっつってんだよ、クソガキども」
いつもの飄然とした、お調子者の若い刑事はそこにいなかった。口の端が下がり、眉根が寄せられた悪人面をしている。足立にしても、この顔を作ったのは随分と久しぶりだった。7月に煮物の縁を叩き切った時も、この顔は作らなかった。いわば裏の顔を初めて見せられた少年たちに、動揺や怯えの色が浮かぶのを確認してから、足立は再び前を向いた。
「こいつは大人のマジって奴だ。ガキが見るもんじゃない」
次の雨の夜には、またマヨナカテレビの特撮ヒーロー番組が放送されるだろう。だが足立透主演のその回は、これまでの子供向けの冒険活劇とは毛色の違うものになる。十代の若者たちからなるヒーロー戦隊が力を合わせて怪獣を倒すのではなく、一人のアンチヒーローが犯罪者を殺戮するのだ。残酷な映像は誰にでも見せられるものではない。対象年齢に制限がかかる。
「マガツ」
左手の召喚器を撃って、魔人のペルソナを出現させた。血塗れたそれは矛を地面に突き刺し、立ち上げた炎の渦で使用者を包み込んだ。膂力、魔力、耐久力、敏捷性の全てを強化する補助魔法だ。これにて準備は完了である。法的には酒を飲めず、旅館の有料放送も見られない高校生たちを置き去りにして、一人で階段を一歩二歩と進む。『ガキは引っ込んでろ』と背中で語る。
しかし事態はもう、子供たちだけ逃げられる状況にはない。
「先輩! シャドウがどんどん集まってるよ!」
「くっ……!」
見回してみれば、特捜隊はいつの間にかすっかり取り囲まれていた。花の丘に通じる吊り橋の上にも、手すりの向こうの空中にもシャドウがいる。『神の号令』によって召集されたシャドウは、生田目の『許容量』を超える相当数が集まっていた。これでは逃げようと思っても難しい。まして菜々子を抱えながらでは。
数秒の逡巡の後、悠は決断した。
「トランぺッター!」
場所に合わせたつもりはないが、天使めいた姿のペルソナを召喚した。ただし天使と言っても日本で一般にイメージされるような、それこそ菜々子のように可愛らしいものではない。顔は髑髏だ。手にはラッパを持っている。
悠は5月から特定のペルソナを創造するよう、マーガレットから依頼されることがあった。今呼び出したこれは、最後だと言われて創造したものだ。有里との間に築かれた審判のコミュニティの恩恵を受けている。今の悠が使える中で最も強大なペルソナでもある。だが今はこれを攻撃には使わない。
死の天使のペルソナは、世界の終わりを告げるラッパを吹き鳴らした。すると七色の光の玉が三つ、螺旋を描きながら天から降りてきた。光は生田目の足元で弾けて包み込む。足立が使った全能力を強化するものと対になる、最高レベルの補助魔法である。敵の全能力を一気に弱化できる。
「里中と天城は足立さんを援護するんだ! 直斗とクマはこっち! 菜々子とりせを守ってくれ!」
「う、うん!」
「分かりました!」
特捜隊の個々の戦力を比較すると、最も強いのはリーダーの悠で、それに次ぐのは千枝と雪子だ。しかし悠は菜々子を抱えているので攻撃は可能な限り控え、回復と補助に専念する。直斗とクマは、非戦闘員付きの悠と情報担当であるりせの護衛だ。そして一学期に絆を極めた二人は、足立に協力させて攻撃に回す。特に雪子は火炎の他に回復も得意なので、足立の邪魔にはなるまいとの考えもあった。
「足立さん! 私たちも戦います!」
雪子に声をかけられて、足立はもう一度振り返った。意図して作った悪人面はもう引っ込んでいて、普段の顔を見せている。寝癖の残る頭に左手、ではなく召喚器の銃身を差し込んで擦る。
「しょうがないねえ……」
言い終えるや、再び生田目に向き合う。そして頭に当てたままの召喚器の引き金を絞った。
「ぶっ飛べ!」
足立の掛け声に合わせてマガツイザナギは激しく吠えた。創造神にして禍津神という矛盾した存在の呼び声に応えて、天から紫色の光の玉が降りてきた。悠の審判のペルソナが世界の終わりを告げる者なら、この光は世界の終わりそのものである。万能魔法と呼ばれる系統の力の、その上位に属する秘術だ。先月の霧の日には、足立はまだこれを使えなかった。しかし今日はある後悔と決意によって、殻を一つ破っていた。
「うがあああ……!」
最初の一手で最大の攻撃を受けた生田目は悲鳴を上げた。肩に担いだ棒がずり落ちそうになり、先端の袋は激しく揺れる。
「ひ、ひえええ……!」
「二人とも僕の前には出ないで。巻き添え食らうよ?」
「は、はい!」
刑事は二人の女子高生にごく簡単な指示をした。そうして前列と後列に別れた戦いが始まった。
生田目は本人の素養によるものか、それとも集まったシャドウの力によるものか、多彩な力を持っていた。火炎、氷結、電撃、疾風の四属性を、いずれも広範囲に展開して放ってくる。直斗や足立と似た全方位型だ。棒を担いでいない左の掌から、様々な魔法が生み出される。
「マガツ!」
だが敵の多様に対して、足立はいちいち応じはしなかった。生田目がどんな魔法を放ってきても、補助魔法で底上げした巨大な万能の光で押し返す。万能魔法はどんな相手でも効く。同じ力でない限りは防げず、同じ力でなければ押し返せる。力の性質を利用して、足立は戦いを優位に進めていた。
「雪子、行ける!?」
「いいよ、千枝!」
千枝と雪子はタイミングを合わせてペルソナを召喚し、生田目に追撃を浴びせる。足立は少女たちの援護を敢えて拒まずに、好きにやらせた。
(そういやこの子らって、彼との絆ってのでペルソナを変えたんだっけ)
親友同士の二人を横目に見ながら、足立は戦いの最中にも考えを巡らせる。7月のマヨナカテレビの録画で見たりせとクマの影戦の時から、千枝と雪子のペルソナの名前と姿はそれ以前から変わっていた。足立はそうなった原因をもちろん聞いていないが、『絆』と呼ばれるものの効果であろうと推測している。その根拠は──
(実は僕も似たようなもんなんだよね……)
悠との間に結ばれている道化師の絆だ。足立は他のペルソナ使いと違って、絆を教える『我』または『彼』の声が聞こえる。それによって自分が強化された自覚もある。
足立のペルソナは『悠に』与えられたものではない。だがペルソナ同士の関係は極めて深い。タロットの愚者とトランプのジョーカーのように。地域や時代によって呼び名は変わるが、実は同一の存在である二柱の神のように。同一人物の表と裏のように。そして戦いを始めて一ヶ月も持たずに使えなくなった悠のイザナギと違って、足立のマガツイザナギは強い。足立はワイルドになる素養があるのに、なっていないからであるように。本来は複数のアルカナに分配されるべき絆の力が、ただ一つの可能性に収斂したように。
悠と足立の絆は、特捜隊や稲羽支部の他の面々のそれとは一線を画している。放課後の時間を共に過ごすとかの表の交流ではない、存在の根源に関わる領域における繋がりの深さが違う。それが力量にも表れている。
「もう一発!」
足立はもう何度目か数えてもいない万能の光を浴びせて、生田目を追い詰める。
なお、悠との関係の特殊性においては、実は生田目も同じである。しかし自分が主のコミュニティを築いておらず、悠のコミュニティの担い手でもない生田目は『恩寵』を受けていない。結果的に、生田目は足立に及ばない。
(足立さん、ムチャクチャだな……)
戦列の後方では、菜々子を抱えた悠が前方で行われている戦いに舌を巻いていた。足立は万能魔法の連発で、生田目の反撃さえ強引に押し返してしまっている。万能魔法そのものは悠も使えるが、あんな攻防一体的な戦法はできない。特捜隊では強い方の二人を援護に向かわせたものの、そんな必要はなかったかもしれないくらいだ。
(だが……何とかなるか?)
この戦いでは、悠は補助と回復に専念してきた。菜々子を抱えながらでは、動きは大幅に制限されるから。周囲に湧き出るシャドウも、クマと直斗がよく防いでくれている。このまま押し切れそうな勢いだ。と思いきや──
「!?」
チャキ、と金属的な音を間近で聞いて、悠は首を巡らせた。今のは銃の撃鉄が起こされた音だ。銃と言えば足立の得物である。だがここには銃を使う者がもう一人いる。直斗だ。銃口は悠の顔に向けられている。
──
瞬間、悠は身を屈めて至近距離から発射された弾丸をかわした。
「直斗!?」
日本では警察官以外は銃を持てない。探偵は警察とは違うので銃を持つ権利はない。だから直斗がテレビの中で使う武器は、実銃ではなくモデルガンである。しかしペルソナ使いの戦いにおいては、現実の武器の優劣はあまり意味がない。玩具の銃からどういうわけか弾丸が放たれ、しかも当たり所が悪ければ致命傷にもなり得る。
「直斗君!? これは……駄目! 操られてる!」
りせが警告するのとほぼ同時に、炎と氷が飛んできた。シャドウが集まっている側面や後方ではなく、前方から。
「千枝先輩と雪子先輩まで!? ま、まずいよ!」
千枝と雪子は敵に背を向けて、吊り橋まで駆け戻ってきた。二人の目の色は普段の茶色と黒ではなくなっていた。その奥の花の丘では、生田目が身を伏せて声を張り上げるように両手を口の前で揃えていた。棒の先にある袋は開かれていて、そこから一匹の白い犬らしきものが顔を出して吠えていた。あからさまに何かの術を使っている様子である。
「鳴上君! あたし、君を守りたいのに! 君はあたしを守ってくれないの!?」
「どうして一緒にいてくれるのって!? 私を好きだからじゃないの!?」
金色に光る少女たちは、夏の初め頃にも言っていたセリフを繰り返した。言ってほしかったが、言ってもらえなかったセリフも追加して。
「この女の敵め! 貴方みたいな人がいるから、僕はカッコいい男の探偵でいられないんだ!」
男装した金色の少女は、コミュニティと呼ばれる絆をまだ極めていない。未だ分岐点にも至っていない。しかし敵にはなっている。理屈は訳が分からないが。
「センセイのモテモテがアダにー!?」
ペルソナ使いでない者がテレビに入るとシャドウが出る。シャドウを受け入れるとペルソナになる。しかしペルソナになってもシャドウとしての性情は消滅しない。簡単に言うと、生田目は少女たちの内面に潜み続けていた『本心』を表に出してみせたわけだ。まるでテレビの世界の法則そのものか、絆の不条理を操るように。
「どどど、どーするクマ!? ユミチャンエビチャンを捨てて、チエチャンユキチャンナオチャンに乗り換えるクマかー!?」
「無茶言うな!」
クマの案は無理な話である。千枝と雪子との関係は今さら変えられない。直斗とはまだこれからだが、何事もなく友人のままでいられればと思っている。そもそも今の状態では、『付き合ってくれ』だの『君が好き』だの言っても無駄である。この局面で悠に取り得る手段は──
「クマ、菜々子を頼む!」
気を失ったままの菜々子をクマに手渡した。そして床に刺した刀を抜いて身構える。
「どりゃー!」
顔面に向けて飛んできた回し蹴りを、刀の腹で受けた。次いで飛んできた猛火を防ぎ、首を曲げて銃弾をかわす。悠は一対一なら彼女らの誰にも負けはしない。しかし三人同時に相手をするのは、かなり難しい。まして反撃ができないのでは。
「ああ、もう! こんな時に、みんなして何やってんのよ!」
「ホント、何やってんだろうねえ? だから逃げろっつったのに……」
階段に立つ足立は振り返り、吊り橋を見下ろしてぼやいた。眼下では悠が三人の少女に襲われていて、クマは菜々子を抱えて慌てふためいている。りせは声を張り上げているが、誰も耳を貸していない。突然降って湧いたコントによって、『大人のマジ』という雰囲気はどこかへ行ってしまった。
(けどまあ、放っとくわけにもいかないか。堂島さんに頼まれてるし?)
左手の召喚器を持ち上げて、銃口をこめかみに当てた。そして力の形象化を始める。思い浮かべるのは荒野だ。薄暗い夜に乾いた風が吹きすさぶ荒地。所々で枯れ木が幽霊のように枝を伸ばして、迷い込んだ人間を誘う。遠くから獣の遠吠えが聞こえてきて、それに応じるうめき声が墓石の下から上がる。そんな遊園地のお化け屋敷にありそうな、ベタベタな情景を思い浮かべた。
「マガツ」
禍津神が顕現し、その名に相応しい力を放った。眼鏡をかけていると見えない白い霧を、汚すように侵食する黒い靄だ。ただしそれが向かう先は敵である生田目ではなく、味方のはずの三人の少女だ。元の可愛らしさを金の瞳で台無しにしている顔へと靄は流れ、まとわりついた。
「い、嫌あああ!」
「な、何これ! 来ないで!」
「くっ……あ、あああ!?」
靄を呼吸した三人は悲鳴を上げて崩れ落ちた。もう悠を襲うどころではない。三人揃って腰が砕けて、立つこともできずにいる。
「これは……恐怖!? 足立さん、何したの!?」
「しばらくそっとしときなよ。それが効いてるうちは操られないだろうから」
マガツイザナギは状態異常と呼ばれる系統の魔法も使える。今のは恐怖心を与える精神攻撃だ。しかし足立にとっては、シャドウの群れは雷や風で薙ぎ払った方が手っ取り早いので、今まで使ったことはなかった。だがこの種の攻撃は敵を殺さずに制圧するには有効である。心はともかく、体に傷はつかないから。
そうして『援護』がいなくなって、一人になった足立の脳裏に囁く声があった。
「ん?」
振り返ると、生田目はまだ腹這いになっていた。袋から頭だけ出している犬は、生身の耳には聞こえない声で鳴いている。生田目は少女たちを操った術を、今度は足立に仕掛けているのだ。しかし──
「無駄だよ。そんな子供だましが効くかっての」
何を囁かれても足立の心には波風一つ立たない。生田目のこれは酷く特殊なものだが、精神に作用する攻撃の一種であることには違いない。そして足立は操られた千枝たち三人を恐怖で塗り潰したように、精神攻撃はより強力な攻撃によって上書きできる。つまり強い方が勝つ。
それに加えて、そもそも足立は生田目と『同格』である。だから何も起こらない。仕掛けられたのが悠でも効かなかっただろう。
「もうそろそろ、ケリつけよっか……」
悠の女関係がぶり返したことで、戦いの雰囲気はすっかり緩んでしまった。だが今日の足立は、元より遊ぶつもりはない。全ての決着を付ける為にここに来たのだ。気を取り直して、左手の召喚器をこめかみに当てた。ただしすぐには引き金を絞らず、旅人の怪物を見据える。
二人の死者を出した稲羽市連続誘拐殺人事件。事の発端は足立で、エスカレートさせたのは生田目だ。初めから真相を知っていた足立にすれば、刑事として生田目を捕まえ、事件に幕を引くのは簡単なことだった。それでいながら何もしなかった。菜々子が拉致された今となっては、それを後悔する気持ちはある。道化師らしくない話であるが。
だがそれもこれも、全ては今日までである。4月以来の『奇しき運命』に、今こそ決着を付ける──
召喚器の銃口を肌で感じながら、足立は生田目を見る。愛人を殺され、職も希望も失い、絶望のどん底に落ちた男を。
(こいつが死のうがどうしようが、知ったことじゃない)
足立は時間をかけて敵を見つめた。同時に自分を見つめる。見つめることで、自分の心が動くのを制する。心を虚無に落とす。召喚の儀式に入ってから、ここまでで三秒かけた。
(警察による確保の過程で被疑者死亡……そんだけだ)
やがて四秒が過ぎた。召喚器は実弾こそ出ないが、やはり『銃』である。超常の銃撃でもって胃に凝る吐き気や、脳に巣くう同情を撃ち殺す様をイメージする。そして五秒目で引き金を絞った。
──
一際大きな破砕音が響いて、マガツイザナギが顕現した。ただ魔人の様子はいつもと少し違っていた。待たされた間に力を溜め込んだように、その力が漏れて霧を焦がすように、赤い雷電を周囲に散らしている。右手の矛は逆手に持ち、両足を前後に広げ、腰を深く落とした姿勢で構えている。赤い鋼鉄の仮面から零れる金の光は、眩しいほどに鮮やかだ。
「やれ」
使用者の命令の下、魔人は動いた。低い体勢から膝を伸ばし、腰を伸ばし、逆手の矛を右下から左上へ斜めに振り上げる。切先から光の筋が伸びて、霧の空間に金色の線を引く。魔人は最後に手首を返し、凶器を更に大きく振って光の筋をより長く伸ばす。矛が振りきられた瞬間、光線はその数を増やした。
──
空気を切り裂く真空とは違う、独特の音楽が奏でられた。マガツイザナギの血の矛から生み出された光線は、無数に枝分かれして足立の前方一面を切り裂いた。斬撃の波動が蜘蛛の巣のように広がり、蝶の一匹さえも逃がさない密度で網を張る。極めて広い範囲を触れないままに切り刻んで、空間ごと凶器に変えてしまう秘技。回避はどうやっても不可能だ。
「ああああ……!」
生田目は網に捕まった。上下左右、四方八方から襲い来る光の刃に斬られ、打ちすえられ、血を噴き出す。元より破れていた服は穴を広げ、担いだ棒は切り刻まれ、袋は中身もろとも八つ裂きになる。全方位から袋叩きにされれば、人は倒れることさえ許されない。もはや斬られると言うより握り潰されると言った方が正しい有様である。子供にはとても見せられない、一瞬の惨劇だ。
だが拷問のような斬撃はいつまでも続きはしない。矛を振りきったマガツイザナギが姿を消すと、光の蜘蛛の巣も消えた。切り刻まれた生田目は服も棒も袋も失い、本体を覆っていた全てが剥がれ落ちた。そして最後に、作業着を着た男の姿が再び露わになった。
「……」
時間をかけて集中力を高めた渾身の斬撃で、足立は生田目を制した。だがまだ終わってはいない。こめかみに当てっ放しだった左手の召喚器を下げ、人の姿に戻った男を無感動に見る。
「く、くそう……何で……」
「……」
生田目の問いに、足立は言葉では答えない。言葉の代わりに右手を持ち上げた。
足立の戦闘スタイルは二丁拳銃である。利き手でない左手は召喚器で、利き手の右手は実銃だ。今日の戦いでは左手ばかり使っていたが、ここで右手を使うことにした。警察官だけが持てる『特別』の証明を片手で構えた。一見すると無造作に、だが正確に狙いをつける。照準は生田目の胸に合わせる。心臓だ。
(引き金は引くんじゃない。絞るんだ。指に力はいらない)
警察の訓練で習った射撃の基本を、心の中で繰り返した。女子供でも容易く人を殺せる兵器を、一人の犯罪者に向けた。
「せ、先輩! 足立さんが……!」
だが引き金を絞る前に、背後から悲鳴が上がった。足立は振り返らないが誰かは分かる。りせだ。口を両手で覆っている。恐怖に襲われた少女三人はまだ自分を取り戻していない。そして着ぐるみは小学生を抱えたまま、背を向けた。
「ナナチャン! 見ちゃダメクマ!」
足立は依然として、照準の間から生田目の心臓を見つめている。それにも関わらず、背後で何が起きているのか手に取るように分かる。今まさに人を殺そうとしている為に、映画やドラマであればリアリティがあり過ぎて放送禁止になるシーンを演じようとしている為に、目で見なくても感じられる範囲が最大限に広がっていた。背中に目がついているとは、こういう状態のことを言うのであろう。
「さよなら」
大勢の目撃者がいる前で、足立は右手の指を動かした。
「足立さん!」
まさにその瞬間、悠の声が上げられた。人の声に重なって、銃声が響き渡った。