ペルソナが使用者に与える影響は、特性によって様々である。足立のペルソナであるマガツイザナギの場合だと、全方位型らしく足立自身の力や速度も向上させていた。しかし足立は拳銃を得物として使う為、警棒を使う相棒と違って腕力が上がってもあまり意味はなかった。グリップで敵を殴りつけることもあるにはあったが、大抵は本来の用途に沿って使っていた。もちろん映画でよくある早撃ちの勝負なども、シャドウ相手にやることはない。
そんな足立にとって、大きな意味のある身体能力の恩恵は精密動作性だった。つまり射撃の精度だ。元々得意であることも手伝って、対シャドウ戦では百発百中を誇っていた。拳銃はライフルなどに比べて狙いがつけにくく、しかも左手は召喚器で塞がっているので片手撃ちでやっていた。それでも常に的を外さないのだから、恐るべき正確さとしか言いようがない。
しかし菜々子救出作戦の最後の局面において、弘法は筆を誤った。
(しまった……外した)
菜々子の心が生み出した、テレビの中の天上楽土。その最奥にある花の丘を登る階段の中ほどの位置で、足立は自分の失敗を悟った。旅人を連想させる怪物から人の姿に戻った生田目へ向けて、足立は右手の実銃を撃ち放った。心臓を狙ったつもりだったが、撃つ瞬間に背後から大きな声を上げられた為に、手元が微妙に狂ってしまった。当たりはしたものの、的の中心から数センチずれていた。
(ま、いっか。あれじゃ助からないだろ)
狙いを外したのは声を上げられたからである。テニスやゴルフなどのスポーツ観戦においては、選手がボールを打つ瞬間は観客は静かにしなければならない。それが守られなかったので、つい外してしまった。何も急所に当てる勇気がなくて、寸前で怖気づいたわけではない。足立はそんなふうに思いながら、右手を下げた。
「足立さん!」
射撃を妨害した少年が駆けてきた。『妹』は謎の人外に預けたままで、一人でやって来た。
「……」
しかし足立は無言で両手の銃を左右のホルスターに収めた。悠は途中で立ち止まらず階段を上りきった。そして床に倒れた男を見る。
「何てことを……!」
「鳴上先輩! 足立さん!」
次いで直斗が来た。戦いの最中に生田目に操られ、更に足立の精神攻撃を受けていたのだが、事が終わった今は効果が切れた。立つこともできない恐怖感から復帰して自分を取り戻した少女は、急いでリーダーと責任者のもとにやって来た。そして目を瞠った。
「生田目……くっ!」
直斗の心で恐怖がぶり返した。ペルソナによる魔法的な力ではなく、現実の恐怖が襲ってくる。だがさすがは探偵である。流血の現場に身を置いた経験があるわけではないのだが、心構えはできている。少女探偵は仰向けに倒れた男の傍に膝をつき、男の口元に手をかざす。そして悠も膝をついた。
「直斗! どうなってるんだ!」
「……まだ生きています。でも……この傷では!」
生田目が呼吸をしていることは確認できた。だが浅く細く、まさに虫の息だ。銃弾は貫通しており、か細い呼吸に合わせて大量の血が流れ出てきている。白い石が敷き詰められた丘の床には、赤い水たまりが見る間に広がっていく。即死には至らなかったものの、完全な致命傷だ。あと数分もすれば、確実に命は尽きる。
「う……そ、何これ……」
「酷い……!」
千枝と雪子もやって来た。だが生田目の前までは行けなかった。これはサスペンス系の映画やテレビドラマとは全く違う、現実感が漲る『事件現場』である。錆びた鉄に似た血の臭いが漂い、半死人の虚ろな目は年単位で忘れられないトラウマを植え付けてくる。あらゆる感覚に訴えかけてくる壮絶なリアリティを前にして、二人の少女は口を覆った。今日食べたものを全て吐き出してしまいそうになる。
「足立さん! どうして……!」
悠の声には咎める響きがあった。今日の作戦の主目的は、飽くまで被害者の救助だったはずだ。同時に犯人も確保できれば、もちろんそれに越したことはなかった。しかしこれは行き過ぎだ。無論、ペルソナ使いとシャドウの戦いは命のやり取りなのだから、流れでこうなってしまうことはあり得る。だがこの惨状は、状況的にやむを得なかったとは言えない。
生田目は空間ごと切り裂くような斬撃の網で、ほぼ完全に力尽きていたはずだ。その上で足立は実銃を撃った。流れや勢いではない明らかな意図の下に、足立は生田目を『射殺』した。
「……」
高校生に呼ばれて応じるように、若い刑事は階段を上ってきた。二丁の銃はスーツの下に隠し終えていて、手ぶらで姿を現した。ただ右手は口元に、左手は胃の辺りに置かれている。惨劇を生み出した当人もまた、体の内部を何かに襲われているように。
だが足立は表情と姿勢に辛さを表しているものの、口元から右手をどかすと、それがなくなった。
「君たち、そいつを法律で裁けると思ってるの?」
「!」
悠は息を飲んだ。そして寒気に襲われた。目の前で倒れている男と違って、銃で撃たれてなどいないのに、体から血が流れ出るような寒さを感じた。
「テレビに人を放り込んで殺すなんて、公表できるわけないでしょ。まともな裁判で立証できるのは、せいぜい誘拐を何件かだけだ。それだって犯罪だけど、殺人に比べれば刑は大して重くない。死刑はもちろん無期懲役だって無理だ。ちょっとばかりお勤めするだけで、すぐに出てくる。そしたらまた同じことを繰り返すだろうよ……」
(そう……だ)
足立の主張に、悠は納得した。納得してしまった。これは悠自身、何度か考えて人と話し合ったこともある問題だから。話し合った相手は陽介だ。相棒との間で結論は出していなかったが、結論は初めから決まっていたとも言える。
(俺だって……犯人を殺すつもりだったはずだ)
法で裁けないなら、捕まえた者が手を下すしかない。悠がこれを意識するようになったのは、諸岡が死んだ7月だ。久保の自首によって恩師の仇は取れなくなったが、その後も考えてはいた。
(陽介……)
特別捜査隊で犯人を殺す権利があるのは陽介だ。しかし今日、自分は陽介を長瀬とあいの救助に向かわせた。それは能力の種類的な問題で、足立の要望に沿ったものだったはずだが、果たしてそれだけだったのだろうか? 風の魔法なら直斗も使えるし、何なら自分が向こうに行っても良かったはずだ。何しろ足立の強さは凄まじい限りだから、自分がいなくても菜々子は助けられた。実際、今日の戦いでは自分は大したことはしていない。
花の香りを飲み込んで広がる血の臭いが、鼻孔を痛く激しく突き刺してくる。陽介が早紀の仇を取る機会を奪ったのは自分だ。それは相棒を人殺しにさせない為ではなかったのか。親友をこの臭いに塗れさせてはならないと、殺しの業を背負わせてはならないと思ったからではないのか?
それでいながら今日の自分は何もできなかった。足立の背中を追うのがやっとで、何の役にも立っていない。菜々子を助けたのは足立で、生田目を倒したのも足立。そして全ての決着を付けたのも、十歳年上の大人の男だった。何もかもを肩代わりさせてしまった。自分が背負うべき業までも、足立に押し付けてしまった。
体は冷たくなり、頭は熱病のように痛む。脳の中心が痺れている。このまま意識を手放して朝まで眠って、目が覚めたら全て夢であったのなら、どんなに幸せだろうか──
「と、とにかく……急いでここを出ましょう! 菜々子ちゃんも心配です!」
しかし現実から逃げようとしても、そうはいかない。夢のような世界に身を置いていても、やはり夢ではないのだ。現実の方から追いかけてくる。耳元で直斗に叫ばれて、悠は少しだけ自分を取り戻した。
「あ、ああ……そうだ。りせ! クマ! 集まれ! すぐに戻る!」
急いで仲間を招集し、カエルの置物を取り出して掲げた。
特捜隊はカエルの置物を一つしか持っていない。置物そのものは商店街の駄菓子屋にいくつも売っているが、4月にマリーに薦められて買ったもの以外は、なぜか拠点に戻る効果を発揮しないのだ。かの貴重な便利アイテムを管理しているのは、リーダーの悠である。だから二手に別れたペルソナ使いたちのうち堂島が指揮していた方は、テレビの世界の出口まで歩かなければならなかった。
「ここですね」
七人のペルソナ使いと一人の常人は、ファッションショップからテレビ局の撮影スタジオまでやって来た。先頭を行くのは、事前にりせから場所を聞いていた尚紀だ。
「ああ、ここだ。ジュネスの家電売り場と繋がってて、俺らはいつもこっから出入りしてんだ」
シャドウワーカー稲羽支部にとっては初めての、特捜隊の拠点について陽介が説明した。気を失ったままのあいを肩に担いでいる。反対側には完二がいる。
「そこに積んであるテレビが出口か?」
次いで堂島が確認した。やはり気を失っている長瀬を、一条と二人で肩に担いでいる。
「そうっす。入った時みてえに画面に触りゃあ、外に出れるようになるっす」
完二が答えた。出口の三段積みテレビは、7月に悠が失踪して以降は出したままにしてある。テレビそのものはクマが出すが、使うのはクマがいなくてもできる。
「よし……まずは長瀬と海老原を外に出す。一条は救急車を呼んで、そのまま病院まで付き添ってやれ。小西、向こうの状況は分かるか?」
「待ってください。久慈川に通信してみます……」
ここから菜々子が囚われた宮殿めいた場所まではかなりの距離があるので、現場の様子は尚紀にも判然としない。しかし情報系ペルソナ使い同士であれば、互いの能力を介しての通話は可能なはずだった。尚紀は召喚器を用いず、目を閉じて集中力を高めてペルソナを召喚しようとしたが──
「ん?」
その必要はなかった。スタジオの床には白線の同心円が三つ描かれ、それに沿うように人の形がいくつも並べられている。事件や事故の現場で死体があった場所に引かれる白線めいたそれが、光を放ち始めたのだ。
「あ、パパさん!」
二手に別れたペルソナ使いたちのうち、もう一方が光の中から現れた。カエルの置物の効果によって、天国の最奥から瞬間移動してきたのだ。声を上げたのはクマだ。
「お前たち、無事だったか……菜々子!」
着ぐるみが抱えている少女を確認するや、堂島は肩に担いでいた長瀬から手を離した。焦ってはいるが、ゆっくりと。ここまで運ぶのを手伝ってもらった一条に、大柄な少年の体を預けた。そして娘のもとへ駆け寄った。
「はいクマ」
「菜々子……良かった! 本当に……」
堂島は菜々子をクマから受け取った。菜々子も依然として目を覚まさずにいる。だが息はしている。体温も下がってはいない。先ほどの長瀬は明らかに死の間際にあったが、菜々子はそこまで酷くはない。腕の中でそれを確かめた堂島は、張りつめていたものが急に緩んでくるのを感じた。
だがもちろん『良かった』だけでは、事は収まらない。
「相棒……そいつ、生田目か?」
陽介はやはり肩に担いでいたあいから手を離し、完二に預けた。悠は床に膝をついた姿勢でスタジオに戻って来ていて、特捜隊の女性陣と足立がそれを取り囲む形になっている。見知った者たちのもとへ、陽介は一歩近づいた。
「ああ……」
少女たちと若い刑事に囲まれているのは、悠だけではなかった。膝をついた相棒の傍らに一人の男が倒れている。床に引かれた白線の人型にちょうど合うように、仰向けに倒れている。緑色の作業着を着て、帽子をかぶった男だ。陽介にとっては見慣れないその顔は蒼白で、服は汚れている。と言うより、服は今も汚れを増やしている。赤く。
「やったのか」
言いながら、陽介は自分が奇妙に抑揚のない声を出しているのに気付いた。意図したものではない。自然に、無意識にそうなった。
「……」
感情のない機械のような、音声を合成して作ったような相棒の問いかけに、悠は答えなかった。ただ唇を噛んだ。
「悠……? お、お前……!」
ここで堂島も血塗れの男に気付いた。娘を再びクマに預け、甥の前まで駆け寄る。
「僕がやりました」
だが叔父が甥に何か言う前に、輪の中から手が上がった。学校で教師の質問に生徒が答えるように、警察の捜査会議で発言の許可を求めるように。足立は無造作に、何気なく挙手をしながら『殺人』を自己申告した。
「足立……お前、何てことを!」
堂島は足立の胸倉を掴んだ。昔からの所轄勤めと、元は本庁のキャリア組であるこの二人が相棒になってから、約七ヶ月だ。その間に堂島が足立を叱ったことは、二度や三度ではない。普段であれば、足立は肩をすくめて謝るところだが──
「誘拐何件かじゃ数年ぶち込むくらいですよ。真相を公表するわけにいかないんじゃ、しょうがないでしょう」
鬼刑事が若いお調子者の刑事を叱責する時は、いつも雷を落とすだけで手を上げたことはない。初めて物理的なものを示した堂島に対して、足立もまた初めての応じ方をした。冷静に、声を荒げず、淡々と言い返した。
「この……馬鹿野郎が!」
そんな常ならぬ相棒に、堂島は全力で苦虫を噛み潰しながら、投げ捨てるように手を離した。そして後ろを振り返る。
「小沢! 手当てを!」
「は、はい!」
支部長に呼ばれて、稲羽支部の回復担当が飛んでやって来た。彼氏の傍らで倒れている男の前まで来て、血の海に膝をついた。制服のスカートから覗く足が赤く汚れる。生ぬるい死の感触が背中に怖気を走らせる。
「キサガイヒメ!」
一声呼んでペルソナを召喚した。つい先ほどファッションショップ風の異界でクラスメイトを助けようとして、できなかった力を。そしてやはりと言うか、ここでもできない。
(駄目……効かない!)
長瀬は息を吹き返したが、助けたのは結実ではない。一条だ。仲間の二人の間で何が起きたのか、情報系の能力を持たない結実には詳細は分からないが、とにかく助けたのは自分ではなかった。そして今はあの時より悪い。生田目の傷は塞がらず、血は止まらない。体温が失われ、脈が薄れていくのを止めることはできない。どうすれば助けられるのか、想像もつかない。
「頼む……足立を人殺しにしないでくれ!」
堂島の苦悶が耳に入ってくる。しかし効果はない。絢爛たる振袖を着た女のペルソナが治癒の光を何度零しても、傷口は開いたままだ。生身の手を傷口に直接当てても、指の隙間から血は零れて止まらない。
(私の力は……何の為にあるの!?)
弱くなり続ける生田目の鼓動を、ぬめる手で感じながら結実は思う。きっと一生忘れられないあの夏の夜、霧の中で唐突に目覚めた力。何の為にあるのか、ずっと分からないままの力。死んだ父は死んだままで、瀕死の仲間は他の仲間が助けて、彼氏を助ける機会もない。あってもなくても変わらない、何の意味も見出せない力。それは一体何だろうか?
「……ヤツフサ!」
嘆く結実のすぐ傍で、八つの宝珠を周囲に浮かせた白い犬のペルソナが召喚された。悠だ。マーガレットに頼まれて生み出したペルソナの一つで、尚紀との間に築かれた刑死者のコミュニティの恩恵を受けている。『殺すつもりだった』相手に治癒の光を零す。叔父の頼みに応えるように。応えられずにいる彼女を支えるように。葛藤を押し殺して、回復ができるペルソナを呼び出した。しかし効果はない。
(駄目か……! 俺にもできないのか!)
複数のペルソナを操るワイルドは、攻撃から回復まで何でもできる。だがやはり限度はある。もし悠に死者の蘇生が可能だったら、諸岡は今でも生きているはずなのだから。万能型と真の万能は違う。
やがて多くの者が周囲に集まってきた。しかし何人いても同じだ。超能力を持つ者がこれだけいても、本物の死の前では何もできない。たった一発の銃弾が流した血を贖える者は、誰一人としていない。
そうして時間だけが虚しく過ぎた、その果てに──
「今……」
尚紀が声を上げた。ただ一語だけ声を漏らした。
今、死んだ──
大勢の者たちが見つめる中で、犯人は死んだ。床に引かれた人型の白線そのものになった。もう間もなく、まさしく『事件現場』の床に死体は飲み込まれて、外のテレビアンテナか電柱に吊るされるだろう。春以来の怪死の再現が、沈黙の裡に約束された。
「……」
尚紀は一声漏らしただけで、何も考えられなかった。実は尚紀は、生田目については考えないようにしていたのだ。もし菜々子の救助に向かって生田目と戦う組に入っていたならば、少しは考えたかもしれない。だが長瀬とあいを救助する組に回った為、そちらに集中するようにしていた。目を背けていたのだ。ペルソナに目覚めた6月以来、そもそも存在しないものとして考えていた『姉の仇』が、突然現れたことから。
何の脈絡もなく、向こうからやって来た『犯人』について、認識が追いつかなかった。獣害事件に犯人などいないという、楽な考えから抜けられなかった。そうして真実に置き去りにされている間に、真実は再び消え去ってしまった。
「先輩……」
陽介は目を閉じて唇を噛んだ。悔しいのだ。早紀の仇を取るつもりでいたのに、取れなかった。必ず取ると尚紀にも約束したのに、果たせなかった。犯人の息の根を止めたのが自分ではなく、相棒でもないのが悔しかった。警察の手に負えるはずのない事件は、最後の最後で警察に持っていかれてしまった。私的な復讐ではなく、公的な仕事として犯人が抹殺されたことが悔しかった。
「俺は……」
悠は拳を固く握った。自分が情けなかった。死のリアリティを、殺しの重さを何も知らなかった自分が。諸岡が死んだ日に遊び気分は捨てた。だが自分はまだ甘かった。分かったつもりでいても、分かっていなかった。本物の殺人を目の当たりにしたら、何もかも頭から飛んでしまった。力でも覚悟でも、足立にはまるで敵わない。
血と死によってスタジオは静寂に覆われた。誰もが口を噤み、俯いた。しかし──
「え……何か来るよ!」
りせが声を上げた。尚紀が何も考えられずにいる中で、りせが最初に気付いた。五感を超えた領域にあるペルソナの感覚において、何者かが接近してくるのを感じた。
「何これ……何の匂い?」
気配だけでなく、ある匂いも感じた。床を赤く染める血の錆ではなく、やがてそれに取って代わる死体の腐敗でもない。人に恐怖や後悔ではなく、安心感を与える匂いだ。優しく、甘い。
「へ? このニオイ……食べられちゃった人クマ?」
りせに続いて、多少ながらも探知能力のあるクマも気付いた。確かに何かが近づいてくる。そしてクマはその『ニオイ』に覚えがあった。最後に感じたのは、悠たちと初めて会った4月14日だ。まだ眼鏡もペルソナも持っておらず、霧の迷い人になりかけた三人の人間を、ここは危ないからと迎えに行ったのだ。行った先は、最近この世界にいくつも作られているおかしな空間の、その最初の場所だ。そこで『食べられた』存在、もしくは『食べた』存在が近づいてきている。即ち被害者であり、加害者でもある者──
「太郎さん!」
やがて匂いに続いて、甲高い叫び声も届けられてきた。それで誰もが気付いた。一つの影が、もしくは『一人』の影がスタジオに飛び込んできた。
「!?」
それはまさしく『影』と言うべき姿だった。眼鏡をかけていると見えない白い霧とは対照的な、黒い霧か靄そのもののように、輪郭が奇妙に曖昧なのだ。よくよく見れば、黒いローブを着て黒いフードをかぶっている人の姿のようだった。隠者のアルカナに属するシャドウに、これとよく似たものがいる。
「ああ……あああ! 太郎さん! 太郎さん! うわああぁぁ!」
だが空中を浮遊するこの影は、テレビのそこかしこでうろついている有象無象のシャドウではない。その証拠に影は喋っている。言葉を持たない怪物にはできないことだ。ただし影の声はヒステリックな限りで、何を言おうとしているのかは不明瞭だ。分かるのは、悲鳴の間に挟まれた男の名前だけである。
「太郎……?」
その名前の持ち主に、影は取りすがった。血の海に降り立って、仰向けに倒れた生田目の死体の上に黒で包まれた身を投げ出す。愛しい男の死を嘆く、哀れな女のように。人生で最も辛い出来事を目の当たりにして、心底から悲しむように。それは仕事や遊びの過程で死人が出たことを、いわば不始末を嘆くこととは違う。その人が死んだこと、それ自体を嘆いている。
生田目太郎の死を嘆く者。それは一人しかいない。
「まさか……山野アナのシャドウ!?」
影の正体に、りせが最初に気付いた。山野の生前、同じ番組に一度か二度出演したことがあるのと、比較的冷静でいた為に気付くことができた。
「ま……マジか!?」
「山野アナ……? 嘘! まだこの世界にいたの!?」
名前が告げられるや、ペルソナ使いたちの間で驚きの声がいくつも上がった。さもあろう。まさか事件の最初の被害者が、もしくは加害者が、今になって現れるとは。しかも『犯人』の正体が明らかになり、捕まり、抹殺されたこの時に。これで動揺するなと言う方が無理だ。
「山野真由美……? な……何で!?」
そして動揺は若者たちだけでなく、『犯人』を殺した刑事も襲っていた。今日は共に戦った少年に責められても、相棒に叱られても、まるで動じずにいられた。しかしさすがにこれは予想外すぎた。思わずなぜと口走って、表情も驚愕で塗り潰された。もっとも周囲の大半が同じような状態に陥っていた為に、特に目立ちはしないが。
「貴女……」
やがて影は再び喋った。フードで隠された顔を上げ、目の前にいる少女へ向ける。
「え……?」
嘆く影の前にいるのは隠者のペルソナ使いだ。
「助けて……」
影は言いながらフードに手をかけた。紅葉が風に揺れて落ちるように、顔を隠す帳は払われた。衣擦れの音は、未だ収まらない周囲の喧騒に隠れた。
「太郎さんを……助けてあげて」
「ほ、本当に山野真由美さん……?」
「ま、まさか……ゆ、幽霊!?」
出てきた顔は、まさしく死んだローカル局のアナウンサーのそれだった。清楚な印象があり、髪は短い。目の色は黒だ。生前と死後の両方で、何度もテレビに映った顔である。ペルソナ使いたちから再び驚きの声が上がり、名前が何度も呼ばれる。しかし『助けて』と頼まれた当の人は、相手を生前の名で呼ばなかった。
「ウムギヒメ……?」
日本神話で語られる女神の名を、結実は呟いた。結実は神話や宗教に特別詳しいわけではない。神典は読んだこともなく、自分のペルソナの神話上の謂れも知らない。それでいながら、『なぜか』神の名を口にした。すると──
「え……キサガイヒメ!?」
隠者のペルソナが表に出てきた。使用者が召喚器を用いず召喚する意図さえないままに、ペルソナの方から飛び出してきた。ファッションショップのダンジョンでエビスが一条から勝手に出てきたように。背筋を柱のように真っ直ぐ伸ばしている。
『我は彼、彼は我……』
そしてキサガイヒメは喋った。エビスが長瀬に向けてそうしたように、『山野』に向けて言葉を発した。ただし言葉の内容は、エビスのそれとは違っていた。
結実は山野と面識はない。十年来の親友である一条と長瀬と違って、個人的には何の接点もない。しかし表からは見えない、裏側の繋がりというものはある。例えばペルソナの神話的な関係だ。それはエビスとコトシロヌシほど深いものではないが、繋がりはあるにはあるのだ。同じ使命を持つという繋がりが。
八十神と呼ばれる兄弟神に殺された国作りの神を、蘇生させた二柱の女神。その名を持つ二つの神秘の存在は、互いに向けて手を伸ばした。金糸で刺繍した豪華な振袖と、飾り気一つない闇に溶けるローブが触れ合った。
「あっ……!」
そして光と闇が交錯した。テレビに落とされた被害者のシャドウが大型化するように、赤と黒の閃光を放ちながら、本来は異なる存在が融合した。同じ使命、同じアルカナ。そして同じ人を助けようとした思い。表からは見えない裏の繋がりに乗って、結実のペルソナと山野のシャドウは生田目の死体の上で一つになった。
「サシクニワカヒメ……」
キサガイヒメとウムギヒメはどちらもいなくなった。代わって新たなペルソナが立ち現れ、新たな名でもって呼ばれた。留袖を着た女のビジョンだ。背は高い。振袖を着たペルソナと違って、佇まいに直線的な印象はない。しかし押しても引いても微動もしなさそうな、不思議と芯の通った雰囲気がある。留袖は黒地で装飾はほとんどなく、仮面は赤と黒で左右に分かれている。
そんないかにも大人めいた新たな隠者は空中で膝を曲げ、腰を屈めた。そして生田目の死体に手をかざす。弾丸が貫通して、命が零れ落ちた穴に掌が向けられている。ペルソナはその穴に入り込んだ。
「え……ええ!?」
入り込んだのだ。新たなペルソナは現れた途端に姿を消した。周囲を取り囲む者たちはおろか、使用者であるはずの結実にさえ見えない場所へと消えた。すると──
「う……うぐ……!」
「!?」
死体がうめき声を上げた。死体を表す白線の上に倒れて、まさに死体そのものになっていたものが身じろぎした。よく見れば、数秒前には確かにあった腹部の穴がなくなっている。服にさえ銃痕はない。まるでビデオを巻き戻したように、時間を戻したように。本当に死んでいたのではなく、死んだ演技をしていたに過ぎなかったようにしてしまった。確かに消えたはずの命が、再び灯った。
「へ……?」
「な、何なの……?」
生田目は倒れたままで、目はきつく閉じられている。意識は戻っていない。しかし下ろされた瞼の周りには、力が入れられて皺が寄っている。つまり顔は動いている。息もしている。生きている。
「……」
あまりのことに、テレビのスタジオに沈黙が降りた。生田目の荒い呼吸が小さく、だが奇妙に鮮やかに響く。
シャドウワーカーの前身、特別課外活動部が戦っていた時代には、これと似た出来事が起きている。時期は二年前の今頃だ。しかし当時を知る者はここにいない。ただ時と場所を変えて再現された奇跡を称えるように、聖句が唱えられた。
「声高く『ラザロよ、出で来れ』と呼ばはり給へば、死にしもの布にて足と手とを巻かれたるまま出で来る、顔も手拭にて包まれたり。主、『これを解きて往かしめよ』と言ひ給ふ……」
ヨハネによる福音書を引用したのはクマだ。しかしこの謎の人外が聖句を口にする時は、いつも周囲に理解されないままに流される。それは今日も同じだった。クマの師も弟子が何を言っているのかは分からない。ただ傍にいる人に声をかけた。
「小沢……一体……何をしたんだ?」
「わ、私じゃないよ! ペルソナが勝手に……」
しかし奇跡の当事者であるはずの結実も、何が起きたのかは分からなかった。
「な、尚紀君……何が起きたの?」
「ペルソナとシャドウが融合して……? 生田目の中に入って……生き返らせた?」
奇跡と言うか異常事態と言うか、とにかく訳の分からない現象が目の前で起きた。普通の思考や感覚では理解が及ばない事態に対して、推測なりとも可能なのは、やはり情報系ペルソナ使いである。足立に聞かれた尚紀は一応説明らしきものをした。言葉はまるで足りていないが。
「な、何でもいい! とにかく病院だ! すぐにここを出る!」
混乱しきった場を、堂島が締めに入った。生き返った男の脇に膝を付いて腕を取り、肩に担ぎ上げた。娘は着ぐるみに預けたままなので、手は空いていた。
「そ、そうだ! 皆、行こう!」
悠も自分を取り戻して、弾かれたように『事件現場』から立ち上がった。叔父の反対側に回って生田目の腕を肩に担ぎ、運ぶのを手伝った。そして大急ぎで出口の三段積みテレビへ向かった。