ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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省みる人々(2011/11/6)

 テレビの中で戦った者たちが現実に帰還した時には、ジュネスの営業時間はとうに過ぎていた。だが現職の刑事が二人もいた為に、駆けつけてきた警備員には『誘拐事件が発生して犯人を逮捕した』と真実の一部を説明して場を凌いだ。全体の責任者的な立場にいる堂島が警察と病院に連絡を入れ、意識不明の四人を搬送する手配を整えた頃には、降り続いていた雨は上がった。

 

 日付が6日に変わってしばらくした頃、特別捜査隊の八人は稲羽市立病院に身を置いた。病室前の廊下にはベンチがいくつか並んでいて、女性陣はそこに腰かけている。

 

「マジかよ……。あんなちっちぇえ子から、シャドウが出たってのか……」

 

 人気のない深夜の病院で、菜々子救出作戦の顛末が説明された。話を聞いているのは、長瀬とあいの救出に向かった二人、陽介と完二だ。

 

「いや……俺らもみんな出たんだし、出て当たり前なんか?」

 

「そういうもんなのか? シャドウって年は関係ねえのか?」

 

 完二が疑問を呈すと、陽介が引き取ってクマに尋ねた。テレビの世界の法則やシャドウやペルソナに関して最も詳しいのは、あの世界の住人であるクマだ。

 

「辛いこととかいっぱいあると、子供でもシャドウは出るクマ。でもナナチャンはとってもいい子だから……出ないと思ってたクマ」

 

 着ぐるみを脱いだ少年は、碧眼に悲しみを湛えている。

 

 子供からシャドウが出ることはあり得る。例えば今から四年前の10月、当時は小学三年生だったとある少年は、ペルソナ覚醒こそそれから二年後だったが影時間の適性は当時から得たという実例がある。影時間とテレビの中は全く同じではないが、似た現象は起こり得るはずだ。

 

「辛いこと……か」

 

 悠は腕組みをして天を仰いだ。ここが室内で外でも雨が上がっているのが残念だった。駆け巡る様々な感情が頭を焦がしている。秋の冷たい雨に当たって、焼け付く心を鎮火したいくらいである。

 

 菜々子のシャドウの出現──

 

 もしシャドウワーカー稲羽支部に所属する者がここにいれば、先月の霧の日の戦いに思い至っただろう。現実に出るシャドウの『声』はペルソナの覚醒を促す。だが声だけ聞いて霧には触れなかった菜々子は、完全な覚醒には至らなかった。つまり一ヶ月間、中途半端な状態でいたわけだ。それがテレビの中でシャドウの出現を後押しした。そう解釈することはできる。

 

 更には菜々子の身内の中にいるペルソナ使いの存在も挙げられるだろう。堂島と悠だ。母親がいない菜々子にとって二人しかいない家族は、二人ともペルソナ使いだ。それが菜々子のペルソナ覚醒と、その前振りとしてシャドウの出現を促す要因として働いた。そういう解釈もできる。

 

 だが稲羽支部の話をまだ聞いていない特捜隊は、先月に堂島宅前で戦いがあったことを知らない。まして十年以上に渡って桐条グループが続けてきた、シャドウとペルソナに関する研究など知るはずもない。

 

「菜々子ちゃん……」

 

 分からないから、菜々子の苦しみを理解してやれなかった自分たちを責めてしまう。あの無邪気な笑顔の裏に、どれほどの辛さを隠していたのか。七歳で笑顔を仮面として身に付ける、その苦悩はどれほどのものだったのか──

 

「つかクマ! あんた菜々子ちゃんのシャドウ、どうしたの?」

 

 りせが声を上げた。菜々子のシャドウは出るには出たが、ペルソナにはならなかった。クマが『食べて』しまったのだ。

 

「分かんないクマ……」

 

 だがクマは表情をますます陰らせた。

 

「夢中だったから……気付いたら、もうナナチャンのシャドウはいなかったクマ」

 

 花の丘の吊り橋で、クマは着ぐるみの口を大きく広げて金の菜々子を飲み込んだ。だがテレビから外に出て着ぐるみを脱いだ時、中に入っていたのは熊田とも名乗っている少年だけだった。まるでテレビの外に出る『発想』のない存在は、現実ではいられないように。

 

「うーん……海老原のシャドウっぽい奴も消えちまったしな。本体が受け入れなけりゃあ、勝手に消えちまうのかな……」

 

 陽介は腕を組んで一つの仮説を口にした。だがそれが正しいのか誤っているのか、確かめる術はない。受け入れられることはおろか暴走する機会さえないままに、ただいなくなったシャドウ。これまで誰も経験したことのないケースである。菜々子のシャドウに一体何が起きたのか、本当のところを理解できる者はいなかった。

 

 理解できないまま、八人の話題は次へと移った。

 

「消えた? 海老原のシャドウが?」

 

「ん? ああ……あいつは俺らみたいになんなかったんだ」

 

 相棒に聞かれて、陽介は自分たちの戦いの顛末を語った。曰く、あいのシャドウらしきものは出て、堂島や一条と共に倒した。しかしあいは『あんたはあたし』とか、それに類することは言わなかった。そのせいなのか、シャドウは特捜隊のそれと違ってペルソナにならなかった。もちろん陽介はりせや尚紀と違って情報系の能力を持たないが、あいがペルソナ使いにならなかったことは、状況的に間違いないと思っていた。

 

「何つーかもう……訳分かんないよ。堂島さんたちがあたしらと同じってだけでも、ムチャクチャビックリだってのに……」

 

 千枝が疲れた顔で零すと、廊下に面した病室の扉が開いた。ちょうど引き合いに出された大人のペルソナ使い、堂島だ。唇を噛んだ苦い顔で出てきた。

 

「叔父さん、菜々子は……」

 

「……面会謝絶だ。当分の間、入院が必要だそうだ……」

 

 堂島は保護者として、菜々子の病状について医師から説明を受けていたのである。だがここで詳しいことを話しはしなかった。

 

「お前たちも疲れているだろう。今日はもう帰れ」

 

 それだけ言って、堂島は歩きだした。甥とその友人たちを置いて、廊下の向こうへ歩き去った。その背中は少しだけ小さく見えた。高校生たちは大人を引き留めず、目だけで追った。

 

「一番辛いのは堂島さんかな……」

 

「一人娘なんだもん。辛くないわけないよね……」

 

 千枝の呟きに、雪子が応じる。立ち去る父親の背中には種々様々な重荷がのしかかっているのが、若者たちの目にも見えた。

 

 被害者の救助そのものは成功した。だがとにかく訳の分からない事態の連続だった。そして肝心の菜々子は容体が決して思わしくはない。これまでの救助の実例と比較しても、異例ずくめの状態にあると言ってよい。多くの意味において、釈然としない思いが残ってしまった一日だった。

 

 

 一方その頃、菜々子とは別の棟にある病室には稲羽支部の面々が集まっていた。ベッドで眠っているのは長瀬だ。菜々子と違って面会謝絶ではないので、部屋の中には支部長を除く支部隊員が揃っている。

 

「長瀬君も海老原さんも、助かったのはそりゃあ何よりだけど……」

 

 普通の見舞い人はもちろん医師や看護師もいない、いわば世間から隔離された部屋の中で、副支部長は救出作戦の報告を受けていた。長瀬とあいは二人とも無事に救い出せて、容体もそこまで悪くはない。しかし単に『めでたしめでたし』というわけにはいかない。何がまずいかと言うと──

 

「俺のペルソナ、どうなっちまったんだ? 手応えとか存在感とか……そういうのが凄い薄いんだが」

 

 一条だ。自分の胸に左手を当てながら、尚紀に向けて訝しげに尋ねる。心臓に添えた手には力が込められておらず、そっと触れるようにしている。まるで力を込めたら、手の中に凝るものが壊れてしまうように。

 

「多分ですけど、ペルソナを長瀬さんと共有している……いや、分割してるんじゃないですかね?」

 

 聞かれた情報担当は端的に答えた。

 

「分割?」

 

 あいの影に痛めつけられて瀕死の状態に陥った長瀬に、一条のペルソナは入り込んだ。しかしペルソナが使用者を変えたというわけではない。元の使用者である一条にも残っている。

 

「ええ、二人で分け合っているような感じです。元々一条さんと長瀬さんはアルカナが一緒でしたし、ペルソナの神様同士も何か関係があるらしいですから、そんなことができたのかもしれないですね」

 

 詳細は分からないが、現場を見た尚紀の印象からすると、そんなところだった。そしてペルソナを複数人で共有して持つことは、過去に前例がある。特別課外活動部の時代、当時の現場リーダーとサブリーダーだった有里とアイギスはペルソナを共有していた。夫婦になった今でもそうである。ただし前例の二人は複数のペルソナを操るワイルドであったのだが、一条と長瀬はそうではない。一つのペルソナを二人で分け合う事態がもたらしたのは──

 

「失くしてはいないようですが、力はかなり落ちてる感じですね。残念ですけど……一条さんと長瀬さんは、もうシャドウとは戦えないと思います」

 

 戦力の大幅な低下であった。

 

「つまり二人揃って戦線離脱……か」

 

 一条は腕を組み、表情を陰らせた。ペルソナは消えていないので召喚は可能だし、テレビに出入りすることもできる。しかし対シャドウ戦の現場にはもう立てない。やれば足手まといになるだけだ。

 

「私はどうなっちゃったの?」

 

 結論が一つ出たところで、ペルソナに異変が起きたもう一人が尋ねた。

 

「小沢さんは……一条さんとは違いますね。完全に失くしちゃってるみたいです」

 

「生田目と山野アナのシャドウに持ってかれちゃったってこと?」

 

「ええ……生田目は長瀬さんと違って本当に死んでましたから。生き返らせるとなると……ペルソナの分割とか共有くらいじゃ済まなかったんでしょう。むしろ山野アナのシャドウがいたから、まだ良かったんだと思います。もし小沢さんだけでやってたら……」

 

 もし結実だけでやっていたら、命まで持っていかれた。尚紀はそう口には出さなかったが、そうなっていた可能性が高いと睨んでいた。尚紀は知らないが事実として二年前の11月、正確には『現在と繋がらない過去』の二年前には、己の命と引き換えに死人を生き返らせたペルソナ使いがいた。死者を蘇生させることは、それくらい大事だ。ペルソナを失うだけで済んだのは、むしろ安上がりなくらいである。生田目を助けることに、代価に見合うだけの価値があったのかは別として。

 

「一気に三人分戦力ダウンかよ……。大丈夫なのか、これ? これからの霧の日、どうすりゃいいんだよ」

 

 一条は不安げに零した。たった一晩の間に、稲羽支部は六人中三人が戦線から脱落してしまったわけである。しかしペルソナ使いたちの戦いはまだ終わらない。現実の霧は今後も出るはずだ。今日は出ていないが、近いうちにまたシャドウが出る。

 

「鳴上さんたちに入ってもらうしかないんじゃないですかね?」

 

「うーん……やっぱ、そうなるのかなあ?」

 

 尚紀の提案に、足立は頭を掻きながら応じた。最も現実的かつ容易な対策は、特捜隊を稲羽支部に取り込むことだ。実際、そうなるだろうと考えられる。シャドウワーカー本部、特に有里が特捜隊を知れば、何もせずにそっとしておくとは思えないから。人を巻き込むことに躊躇いのない有里なら、大量の『新人』を一括採用して稲羽支部に配備するはずだ。悠たちも勧誘を断りはしないだろう。足立は今後の事態の推移をそう予測した。

 

 だが副支部長が結論付けるのを遮るように、病室の引き戸が開かれた。

 

「駄目だ」

 

 病室に支部長がやって来た。右手にはスマートフォンが握られている。

 

「堂島さん」

 

「今、本部に連絡してきた」

 

 堂島は特捜隊を帰らせてから一旦建物の外に出て、電話で有里に連絡を入れたのである。夜遅い時間だが、繋がりはした。そこで堂島は話した。4月の獣害事件は実は殺人であったこと。テレビの世界の存在と、そこでは常に霧とシャドウが出ること。長瀬とあい、そして娘が事件に巻き込まれたこと。甥を始めとして、八人ものペルソナ使いが新たに見つかったこと。そして被害者を救助し、容疑者を逮捕したこと。その全てを堂島は有里に話した。

 

 誘拐事件が発生した当初は緊急事態であった為、本部への連絡は後回しにされた。だがひと段落したので事後報告を行ったのだ。そして──

 

「本部は悠たちを加入させると言ってきたが……断った」

 

 堂島は上司である有里に逆らった。シャドウワーカーの隊規では人事権は本部の専権事項だ。堂島の立場では、採用と配備に関する本部の命令を拒否する権限はない。それを承知の上で、堂島は甥とその友人たちの特殊部隊への加入を拒んだ。

 

「今までは必要だからやむを得ないと思っていた……。だがやはり間違いだったんだ。警察の仕事を高校生に手伝わせるなんて、とんでもない」

 

 そう、とんでもない話なのである。堂島は尚紀が参加した6月から、高校生を巻き込むことに少なくない違和感を抱いていたが、結局は容認してしまっていた。その結果が、高校生の部下が死にかけて入院した今の状況だ。

 

「俺が間違っていた。すまなかったな、皆……」

 

 堂島は目を閉じて、部下の若者たちに謝った。長い時間をかけて、親子ほども年の離れた少年少女たちに頭の頂上を見せる。そこには少しばかり白いものが混じっていた。昨年までは一本もなかったものである。四十がらみの男の心に積もり積もった様々な重圧が、いつの間にやら心の外側にまで影響を及ぼしていたわけだ。

 

 だが頭を上げると、堂島の顔から弱気はなくなっていた。心労を振り切ったように、強い調子で未成年たちに命令する。

 

「今後の霧の日のパトロールは、俺と足立だけでやる。必要なら本部に応援を要請する。お前たちはもう戦わなくていい」

 

「でも……シャドウを探すには俺が必要じゃないんですか」

 

 ここで尚紀が口を挟んだ。力を失った結実と弱体化した一条と長瀬は仕方がない。悠たちを巻き込まないにしても、尚紀だけは必要なはずである。町全体が舞台である稲羽支部の戦いには、情報系ペルソナ使いは不可欠だ。

 

「それでも駄目だ」

 

 堂島は言ってから、部屋の中央に置かれたベッドに視線を送った。そこでは入院服を着た部下の一人が眠り続けている。眠っているだけである。夜が明けた頃にはきっと目を覚ます。しかし長瀬は下手をすれば、いや普通にやっても、二度と目を覚まさなかったかもしれないのだ。稲羽支部の責任者として、シャドウ対策に未成年を使うのはもう懲り懲りだった。

 

「お前に万一のことがあったら、俺はお前の親御さんに顔向けできん。お前の姉さんにもな……」

 

「ですけど……」

 

 尚紀はまだ言いかけたが、言葉が繋がらなかった。尚紀を死なせたら早紀に顔向けできない。こう言われると、咄嗟に反論するのは難しい。尚紀が言葉を探しあぐねている間に、堂島は視線をまた別の方へ向けた。

 

「足立」

 

「はい」

 

「お前には、とことん付き合ってもらうぞ」

 

「……分かってます」

 

 足立は目を伏せた。生田目を『射殺』した時、足立は堂島に咎められた。普通の警察であれば、確保の過程で被疑者を死亡させたとなれば、極めて重大な不始末である。もちろんこれは普通の事件ではないが、それでも足立がしたことは問題行動には違いない。しかしだからと言って、特殊部隊から足立を除名するなどの厳しい処分はできない。たとえ生田目があのまま死んでいたとしてもである。ペルソナ使いの大半が未成年である中にあって、数少ない大人なのだから。つまり事実上不問にする以外にないのだ。

 

 かくして特捜隊と稲羽支部の、これまでで最も長い夜は終わった。一定の成果と大きな謎、そして不安と不満を残したまま。

 

 

 

 

 重苦しい限りの夜が明けた6日の昼間、悠は一人で稲羽市立病院を訪れた。今日は日曜日なので学校はない。二日降り続いた雨は上がったが、厚い雲は今日も天に居座っている。この頃は日ごと気温が下がる季節だが、太陽が隠れているのがそれに拍車をかけている。

 

 菜々子の面会謝絶は続いていて、親族の悠でも顔を見ることはできない。しかし今日の目的は従妹ではない。同じ病院に入院している、あいと長瀬を見舞う為だ。特捜隊の仲間たちや結実や尚紀には声をかけず、一人で来た。昨晩はテレビの中での捜索と戦闘、更にその後のあれこれで皆疲れているだろうと思ったから。それに加えて、あまり人には聞かれたくない話をすることになるかもしれないから。

 

 そうして受付で目的の病室の番号を聞いて、その前まで来ると、中から人の声が聞こえてきた。

 

「あいちゃん、リンゴ食べる?」

 

「いいって。さっき食べたばっかなんだから」

 

 知らない男性の声と目的の人の声だ。どうやら家族が見舞いに来ているようである。悠は邪魔をするべきでないと思って、廊下にあるベンチに腰掛けて待った。

 

(菜々子……)

 

 海老原家の家庭事情には問題がない。むしろ父親の娘への構い方は、娘の方が困惑するくらいのようである。堂島が菜々子に対してするよりも、費やされる時間と言葉の量はずっと多い。扉越しに漏れ聞こえてくる家族の会話には、感情的な対立の影は見受けられない。

 

 影時間や稲羽の現実の霧の中で、人がペルソナに覚醒する確かな要因が何であるのかは、未だ明らかになっていない。ただ家庭環境の問題が一因であるとの仮説はあり、それを裏付ける実例はいくつもある。そしてあいにはそれがない。あいは4月にシャドウに襲われた際、ペルソナに目覚めなかったのは、そうなる『要因』があい自身になかったからなのかもしれない。もっともシャドウワーカーについてまだ何も聞いていない、悠には分からない話だ。

 

(俺、忙しいのを言い訳にして、結局菜々子に構ってなかったのかな……。叔父さんと一緒か……)

 

 ただあいと菜々子の家の事情を比較して、過去を省みるばかりである。

 

「それじゃ、また明日ね」

 

「うん……心配かけてごめんね?」

 

 待つこと数分で病室のドアが中から開けられ、恰幅の良い中年の男性が出てきた。あいの父親だ。しかし悠はあいの自宅を訪れたことはなく、あいの家族は先月の文化祭にも来ていなかったので、顔見知りではない。父親にとって、ベンチに座る知らない少年はただの背景に過ぎず、そのまま去っていった。

 

「海老原」

 

 家族が去った病室に、悠はノックをして入った。

 

「あら悠。来たのね」

 

 あいは入院服を着ていて、ベッドのヘッドボードに背をもたれさせて座っていた。一見すると、入院した彼女を彼氏が見舞いに来たような風情である。

 

「今朝あんたの叔父さんと一条が来たわよ」

 

「叔父さんたちが?」

 

 悠はベッドの脇に置かれたパイプ椅子に腰を下ろしながら、意外なことを聞いたような顔をした。だが堂島が見舞いに来るのは、別に不思議ではない。むしろ来て当然だろう。

 

「昨夜あったこと、他人に言いふらしたりしないでくれって頼まれたわ。でもあんたには言ってもいいって」

 

「そうか……済まないな」

 

「いいのよ。つか、言ったって誰も信じやしないわ。パパにも言ってないし」

 

 そう言うあいは元気そうである。ベッドから出ようとはしないものの、顔色は良い。声は明瞭で言葉も歯切れが良い。心身の両面において、何の問題もないように見える。雪子を始めとする被害に遭った特捜隊の仲間たちは、いずれも救助してから何日も入院することになった。しかしあいにそういう様子はない。それはシャドウを受け入れなかったことで、心身にかかる負担が少なかったからかもしれない。

 

「昨夜何があったか、覚えてるんだな」

 

「何となく……ね。長瀬と一条と三人でご飯食べて、その後……変なトコに落とされたわ。そこで昔の……」

 

 そして記憶も比較的しっかり保っている。だがさすがに全ては覚えておらず、特にシャドウが暴走してからはかなり怪しい。しかしそれ以前の出来事は、意識の光が及ぶところに残っている。そして意識と無意識の狭間の辺りにあって、記憶としては曖昧だが、印象は強烈なものも残っていた。

 

「ねえ、長瀬って……あたしのことどう思ってるかな?」

 

 それは命懸けで守ってくれた、一人の少年の背中──

 

「え?」

 

 悠は昨日に堂島たちが遂行した救出作戦については、陽介から概要を聞いただけだ。あいと一緒に落とされた長瀬が、何をしたのかは知らない。だが今の一言で何となく想像がついた気がした。よくあるセリフであるから。しかも顔を赤らめながら言われては、誰にでも分かろうと言うものだ。

 

「好きになっちゃったみたい……なのか?」

 

 二人はこの種の相談は7月にもしている。七夕の日、あいは今と同じセリフを言っていた。ただし好きになったのは悠ではなく、一条だった。それでいて、あいが付き合ったのは一条ではなかった。それがボタンのかけ違えの始まりだった。あいにとっても、悠にとっても。

 

「誤解しないで。あんたを嫌いになったわけじゃないの。でも長瀬も……」

 

 彼氏彼女がいる身でありながら、他の人を好きになってしまう。それはよくあることだ。元の相手と仲違いしたなら当然だし、そうでなくてもあり得る。同時に複数の異性に好意を抱いてしまうのは、青春溢れる少年少女たちにとっては、それほど珍しいことではない。好きな人の数が五人や十人にもなればさすがに異常と言うべきだが、二人くらいなら普通にある。恋に恋してしまった若者にはよくある。デートもせず、関係が自然消滅してしまいそうな『恋人』ならばなおさらだ。

 

「酷い女だって思う?」

 

 しかし珍しくはないが、褒められることでもない。偽りのない本当の気持ちであっても、他人に認められるかは別問題だ。世間は浮気に寛容ではない。

 

「……いや」

 

 だが悠は視線を床に落として、首を横に振った。悠はあいの『浮気』を責める資格はないのだ。そもそも今日ここに来たのも、あいの状態次第ではあったが、別れ話をしようと思っていたからだ。なぜかと言うと──

 

「そうよね! てか、あんたも浮気してるもんね!」

 

 ギク、という音がした。悠の中から。

 

「知ってるわよ。あんた、小沢とも付き合ってんでしょ」

 

「あ、ああ……」

 

 そうなのである。悠と結実が交際していることは、一種の公然の秘密である。特捜隊の仲間たちは全員知っているし、他にも大勢。最初に知られた人々に噂を言いふらすタイプの人はいないが、どうしても伝わるものはある。同じ学校に在籍していれば、ある程度鋭い人なら大体分かる。だから悠が自ら真実を告白するまでもなく、あいの耳にはとうに入っていた。

 

 だがあいの攻勢は結実の件だけでは終わらなかった。

 

「他にもいるんじゃない? 青い帽子かぶった中学生みたいな子」

 

「なぜそれを……!?」

 

 思わず顔を上げてしまった。かの中学生みたいな詩人の少女との関係は、結実と違って世間に知られていない。知られていないはずだと、悠は思っていた。マリーを紹介したのは特捜隊だけだ。そしてそれ以前に、悠はマリーと恋仲なわけではない。

 

「田舎のネットワーク、舐めんじゃないわよ」

 

 だが知られた原因が何であるにせよ、こう来られると言い訳は無用である。悠は浮気を責められる男そのものとなって、椅子の上で項垂れた。

 

「そ、そうか……」

 

 実際のところ、あいがマリーを知ったのは、田舎町の噂話ではなく文化祭でのマーガレットの占いである。かの魔女はタロット占いで、悠が深い絆を結んでいる相手として永劫のカードを示し、ついでにマリーの姿をカードに浮かべてみせていた。ただしベルベットルームの住人の存在は、契約者かそれに類する者以外は記憶できない。だからあいは占い師については覚えていない。しかし占いの結果は覚えている。そしてマリーはあの部屋では見習いの身なので、あいもマリーの顔などは覚えていられる。特捜隊の他の者たちと同様に。

 

「俺が悪かった……」

 

 あいとは別れなければならないと、悠は先月の下旬から思っていた。だが色々あって言い出せずにいるうちに、二週間以上も過ぎてしまった。そうやって半端なままにしている間に、向こうから言われてしまったわけだ。

 

「分かればいいのよ」

 

 つまり振られたのは悠だ。多感な少年にとっては、なかなかにショッキングな事態である。プライドが傷つく。

 

「あ、そうだ。これ、あんたにあげるわ」

 

「ん?」

 

『失恋』に打ちのめされた悠は、言われて顔を再び上げた。すると目の前にあいの手が差し出されていた。小さな掌にはコンパクトミラーが載せられている。

 

「昨日、これ店に忘れてってさ。長瀬が届けに来たのよ。誘拐されたのは、そん時」

 

 愛家に忘れた鏡を届ける為、長瀬は店を一度出た。ちょうどそのタイミングで、あいは事件に遭遇したのだ。そして長瀬は生田目と揉み合ううちに、届け物を地面に落としてしまっていた。後から来た一条が拾って、今朝届けに来たのである。

 

「これ、いつも持ち歩いてたの。いつでもチェックできるように、いつでも可愛くいられるように……って」

 

 現在を映す普通の鏡を忘れた途端、皮肉にも霧の鏡に過去が映し出されたわけである。

 

「でもこれがあったから……あいつは危ない目に遭ったんだ……」

 

「……」

 

 暗い過去の頃からずっと求めていた、守ってくれる男。言うなれば、このコンパクトミラーはそれを見つけた契機であったわけだが、同時に男を危険にさらしたものでもある。

 

「もう持ってちゃいけないのかもしんない……だからさ、あんたにあげるわ」

 

 あいは自分のシャドウを受け入れなかった。つまり過去を切り捨てたのだ。今は可愛くなったからではなく、今だけを見てくれる男が現れたから。その為、『可愛くなければならない』と追い立てられる気持ちも薄れた。役目を終えた現実の鏡は、もう必要ない。

 

「分かった。貰うよ」

 

 あいは厄介払いのような気持ちでもって、因縁の道具を『元彼』に手渡した。そして悠は受け取った。その瞬間、時間が止まった。

 

『我は汝、汝は我……』

 

 晴れやかなあいの笑顔を視界に映した状態で、世界の一切が動きを止めた。絆を教える『我』の宣告である。月のコミュニティが真実のものとして認められた。

 

(あ……来たか。海老原とは、これで決まりってことか)

 

 停止した時間の中で絆が極まったと告げられるのは、初めてではない。一学期には、千枝と雪子を前にして宣告を聞いた。だから何が起きたのか、悠には分かる。七夕の日以来のあいとの『特別な関係』は解消され、異性の友人としての関係が決定づけられたのだ。絆を束ねるワイルドとして、そう直感した。

 

「あたしたち、友達……だよね?」

 

 その直感を裏付けるように、コミュニティの担い手ははっきりした言葉で、自分たちの間柄を言い表してきた。つまり、もう後戻りはできないということだ。今から改めて恋人になることは、なりたいと思ってもできない。

 

「ああ、友達だ」

 

『我』とあいの宣告を、悠は受け入れた。小さく微笑みながら。貰った絆の証明を握り、その感触を確かめる。苦いような、安心したような、だがやはり苦いような。月の絆の結論は、そんな複雑なものだった。まるで青春そのもののように苦い。大人になりきれない若者の証明のように、どこかに悔しさが残っていた。

 

 そして結論が出たのを見計らうように、病室の扉がノックされた。

 

「おい、エビ……入るぞ」

 

「どうぞ」

 

 入院患者の許可の下、引き戸が開かれてもう一人の患者が姿を現した。長瀬だ。やはり入院服を着ている。しかし松葉杖をついたり、看護師に支えられたりはしていない。自分の足でしっかりと立って、歩いてやって来た。

 

「お、鳴上……来てたのか」

 

「お前、元気そうだな?」

 

「ああ、全然問題ねえ。今日にでも退院してえくらいなんだがよ」

 

「大人しくしてなさいよ。あんた、死にかけたんでしょ?」

 

 かく言うあいも、体調そのものは今日にでも退院できそうなものだ。ただ医師と父親に引き留められているので、もう一日は経過を見ることになっている。

 

「あたしを庇ってさ……。馬鹿でしょ、あんた」

 

「お、俺は馬鹿じゃないぞ! 断じて!」

 

 長瀬は試験の成績は良くないし、人情の機微にも鋭い方ではない。では愚かなのかと言えば、そうかもしれない。命を懸けて女を守る男が愚かであるならば。

 

「俺は邪魔みたいだな」

 

 悠はパイプ椅子から腰を上げた。今日は長瀬の見舞いもするつもりでいたのだが、元気そうな顔を見られたので、もう十分だ。何よりこういうシチュエーションでは、関係ない男がいていいものではない。悠は成績は上昇傾向にあり、数々のコミュニティの経験によって観察力も身に付けている。鈍感でも朴念仁でもない少年は、空気を読んで退散することにした。

 

「また今度な」

 

「お、おう……ま、またな!」

 

 気を遣われたことが分かったのか、長瀬はどもった。

 

 悠は廊下に出ると後ろ手に引き戸を閉めた。そして急ぎ足で病室から離れた。ここの病院の壁はどうも薄いようで、中の会話が外に漏れることがある。若い男女が二人の病室は、これからきっと甘い雰囲気が漂うはずだ。それが部屋の外まで漏れてきて香りに当たって頭が痺れないうちに、悠は急いで立ち去った。貰ったコンパクトミラーは手に持ったままだ。

 

 

 病院の建物から出ると、悠は天を仰いだ。夜明け前から変わらず雲に覆われている。太陽はまだ出ていない。光の少ない空を見上げて、自分を省みた。

 

(マリー……)

 

 浮気相手の一人として引き合いに出された少女を思い出す。マリーとは『特別な関係』を築いてはいない。だがあいの突っ込みは的外れではない。今からちょうど一週間前、悠はマリーに恋していることを自覚したのだ。

 

(君が子供の頃って、どんなだったのかな?)

 

 自覚したその日に聞かれたことだ。マリーに菜々子のような時期はあったのか問われ、何も答えられなかった。今になって、それが悔やまれる。

 

(海老原は……)

 

 月の絆の証明が、握った手の中で重く感じる。昨晩テレビの中に現れたあいのシャドウがどんなものだったのか、詳細を聞いていない悠には分からない。だが今とは全く違ったらしい、子供の頃の姿で現れたのではないかと思った。実際、本人もそう言いかけていた。だがあいはシャドウを拒絶し、過去を脱ぎ捨てた。

 

 過去を自ら捨てた者の絆を手に、失った過去を取り戻そうとする者を、悠は思う。その一方で、もう一人の女も頭をよぎる。

 

(小沢は……どうすればいいのかな?)

 

 未だ大人になりきれない少年の心は、移ろうことをやめない。超能力を得ても女を知っても、それだけでは大人になれない。シャドウを蹂躙して犯人を『射殺』した足立の凄まじさを、本気になった大人の恐ろしさを見せつけられた今はなおさらだ。

 

 いくら省みても結論は得られない。浮気に一つ決着をつけるのが、今の悠には精一杯だ。

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