「鳴上、こっち!」
若者たちが多くの秘密を知った、転機の一週間が終わろうとしている11月12日。剛毅の絆で結ばれた三人は、各々体育館とグラウンドで汗を流した。土曜日はバスケ部とサッカー部はいずれも活動がある。そして今日のバスケ部は、ハーフコートで三対三の練習をしている。人数が少なくてもできて、試合に近い形式なので人気の練習方法だ。基礎ができていない選手にとっては、あまり意味がないが。
「よっ!」
春から相も変わらず、バスケ部は緩い練習を続けている。楽しければいいくらいの気持ちでいる部員が大半で、他校と試合をすることもない。身を入れてやっているのは、一条とそれに付き合う悠くらいである。それでいて二人は他の部員を叱りつけるでもない。
「なあ鳴上……部活終わったら、ちょっと時間いいか?」
ただ練習の最中に、一条はこんなことを言ってきた。
涼しい季節に汗を流した三人の少年は屋上に集まった。三人である。長瀬もサッカー部の練習を終えた後、一条に声をかけられてやって来た。なお、サッカー部のマネージャーはいない。
「今日はいい天気だな……予報だとしばらく晴れらしいし」
一条は屋上の床に大の字で寝転んで、空を見上げている。昨日は雨が降っていたが、真夜中になる前に上がって今は秋晴れが広がっている。天気予報によれば来週の半ばくらいまで、稲羽市民の頭上に青色は留まってくれるらしい。
「このままずっと晴れて、霧が出ねえでくれるといいんだけどな……」
「一条……」
寝転ぶ一条を挟む形で、悠と長瀬は床に腰を下ろしている。晴れとは言っても季節は晩秋である。腰に感じるコンクリートの床は冷たい。その冷たさが背中の奥にまで広がった頃、一条は起き上がった。
「でも、多分そうはいかねえんだろうな……」
一条は屋上のフェンスまで歩み、腕組みをして眼下のグラウンドを眺めた。そしてその向こうにある、生まれ故郷ではない町を眺める。特別捜査隊にとって霧は被害者を救助するリミットだった。しかしシャドウワーカー稲羽支部にとっては戦いの合図だ。次がいつ来るのかは、まだ分からない。だが何事もないままでは、きっといられない。それでいて一条はもう戦えない。
悠と長瀬も立ち上がり、友人の近くに歩み寄った。すると一条は振り返ってきた。
「堂島さんがさ、前に言ってたんだ。お前や菜々子ちゃんを守る為に戦うってさ」
10月の霧の日の出来事だ。ジュネスの駐車場に集合した際、他の皆が来る前に一条は堂島と話し合った。何の為に戦うのかと。堂島は一条から問われる形で、その場で答えを口にした。そしてその日はまさに娘を守る戦いだった。
「叔父さんらしいな」
「で、思ったんだけどさ? 俺は俺なりに家族を……妹を守ろうと思う」
一条がこう思ったのは、堂島宅前で戦った最中である。いつかきっと妹もシャドウに狙われる日が来るかもしれないから。妹を守る為に戦おうと。
「反抗期はもうやめたのか」
「んー……正直に言えば、全然ねえわけじゃねえよ。でも俺の家族つったら、やっぱ一条家しかねえんだ。生みの親はもう死んでるらしいしな……」
もし実の両親についてまだ希望があったなら、何かの繋がりを求めて、かつて過ごした孤児院を訪ねるくらいはしたかもしれない。しかし既にこの世にないことを、一条は堂島から聞いている。その事実が一条を過去から遠ざけていた。過去の繋がりが失われているのであれば、人はどうするか?
「何だかんだ言ってもさ……家は幸子が継ぐことになると思うんだ。で、俺は次期当主のお兄ちゃんとして……あいつを守ってやろうって思う」
現在と未来を見ることだ。失った過去や力を惜しむ気持ちはあっても、一条はそればかり見ているほど後ろ向きではない。
「シャドウはもう堂島さんたちに任せるしかねえけど、シャドウ以外にも世の中色々あるんだからさ……。鳴上なら分かるんじゃね?」
一条はもはや妹をシャドウから守ることはできない。だがシャドウではない現実の世界から、妹を守ることはできる。戦いを堂島に止められている悠のように──
「そうか……」
悠は視線を下げて自分の爪先を見つめた。一条と違って、悠にはまだ葛藤がある。堂島の制止に納得はしていないし、菜々子を守って戦いたい気持ちはある。その一方で自分にできるのかとの思いもある。現実の霧でペルソナを召喚できるのか。できたとしても足立のような覚悟を持ち得るのか。自分を大人として堂島に認めさせる何かを、自分の中に見つけられるのか──
「ああ、分かるよ」
だが今はその葛藤を押し殺して、新たな道を歩もうとする一条に同意した。そして顔を上げた瞬間、時間が止まった。
『我は汝、汝は我……』
眉目秀麗な一条の顔を視界に映した状態で、写真に切り取ったように世界が動きを止めた。絆を教える『我』の宣告である。剛毅のコミュニティが真実のものとして認められた。先日の月に続いて、一週間の間に二つの成果が上がったわけである。あいの時は『失恋』した状態で絆が極まり、何とはない悔しさが残ったままで終わった。そして今日も葛藤が残った状態で結論が出た。
力を失ってなお妹を守ると決意した一条と、力は残っているが『妹』の為に何をしてやれるのか、未だ曖昧なところが残る悠。立場に違いがあるのに、同じであるように『我』は宣告した。
「これやるよ」
時間の流れが元に戻ると、小さな本が目の前に差し出された。
「ん? ルールブックか?」
「バスケ始めた時に買った奴。めっちゃ読み込んだから、ちょっと汚くなってるけどな」
「どうして俺に?」
月の絆の証明はコンパクトミラーだった。しかしあの時と違って、一条がこれをくれる脈絡が悠には見えなかった。尋ね返してみると、一条は秀麗な顔をしかめた。
「お前、実はバスケの細かいルール知らねえだろ? 今日の三対三だってトラベリングしまくってなかったか?」
「知ってるぞ。ボール持って三歩以上歩くなってのだろ?」
「知っててやりまくってたのか!」
「やれやれ、練習が足りてねえな?」
長瀬が口を挟んできた。昔からの親友と今年からの友人の肩に両手を置いた。付き合いの深さが違う二人の友人に、同じだけの友情を感じているように。
「部活でも何でも、全力でやろうぜ。俺らができることっつったら、そんくらいだろ」
「へっ……偉そうに言いやがって!」
一条は笑った。まるで自分が言ってやりたかったことを先に言われて、悔しがるように笑った。剛毅の絆は部活で始まり、部活で極まった。そして『我』のお墨付きを貰っても部活は続く。青春そのもののように。そして──
「ところでお前……将来は妹と結婚するのか?」
長瀬の話は飛躍した。
「はあ? んなわけねえだろ!」
「絶対無理なもんなのか?」
「えーと……実子と養子だから結婚はできると思うけど、そういう問題じゃねえって。幸子はまだ二歳だぜ。あいつが年頃になったら、俺はもうオッサンだよ。鳴上と菜々子ちゃんより無理があるって」
血縁のない兄弟姉妹、例えば両親の連れ子同士であれば結婚はできる。だから一条が妹と結婚するのは法的には可能だ。しかし実際にそうなる見込みは低い。何と言っても、十五歳もの年齢差は大変なハードルだ。もちろん世間には、それ以上に年の離れた男女が婚約する例もある。例えば桐条グループの令嬢とその婚約者とか。しかしその二人は破約になったように、やはり無理はある。そしてそれ以上に、一条にはその気がない。なぜかと言うと──
「そんじゃやっぱり里中か」
長瀬は核心を突いた。当たり前のように。あっさりと。今日はいい天気だなと言うように、明白な事実のように一条の核心を突いた。高校生の青春に部活は付き物だが、恋も同じくらい付き物だ。
「な、なぜそれを……!」
だが一条は心底から驚いて後ずさりした。そして悠を見る。一条が千枝を好きなことを明かしたのは、悠にだけだ。
「俺は言ってないぞ」
「お前まさか……隠してるつもりだったのか? お前が里中好きなの、エビも知ってるぞ。あと花村とか」
「何……だと……」
一条は愕然とするが、長瀬が言っているのは本当だ。一条の気持ちに気付いている者は何人もいる。あいや陽介は知っているし、きっと他にもいる。何しろ一条は分かりやすいから。
「い、いい! いいんだ! 忘れろ! つか、忘れてくれ!」
そして今も分かりやすい。
(これって……そっとしておくべきじゃないよな?)
悠は状況に既視感を覚えた。直斗が普通のテレビに出演した翌日の9月13日だ。長瀬は中学時代に交際していた同級生がいたことを告白して、その上でただ忘れようとしていた。しかし悠が長瀬を諭して、ケジメをつけろと促したのだった。そして今日は一条がそういう状況になっている。コミュニティは極まったが、部活と同様に一条の人生はこれからも続くのだ。ここは9月に倣って一条を諭してやるべき。そう思ったが──
「そうやってお前は、ずっと本気にならずにいる気か!? お前の人生、それでいいのか!?」
悠が何か言う前に長瀬がヒートアップした。親友をそっとしておくことなど、熱血漢の長瀬は思いもしない。考えない分だけ行動が早い。
「お前に俺の人生のことなんか言われたくねえよ! 俺の勝手だろ! お前に関係ねえし!」
「あるに決まってんだろ! 俺はお前の何なんだよ! お前の人生に俺が関係ねえわけねえ!」
傍から聞いていると、何とも恥ずかしいセリフを堂々と言い放つ。
「くっそ! お前、彼女ができたら急に偉そうになったな!」
この後、親友たちの言い合いはしばらく続いた。そして結局のところ、一条は押し負けた。
「あ、あのさ……里中さん」
屋上から降りた一条は、一階の下駄箱前で千枝に呼びかけた。秋の日差しは大きく傾いて、二人の間の空気を薄暗く演出している。
「ん? 一条君……」
部活を終えた放課後の遅い時間であるにも関わらず、千枝はまだ学校に残っていた。そして下校しようとしたところを見つけられたのだ。間が悪いと言うか、良いと言うか。
「ちょ、ちょっと……時間くれる?」
「いいけど……どしたん?」
「よし、いいぞ! その調子だ!」
「上手くいくといいが……」
剛毅の絆で結ばれた三人組のうち、下駄箱の前にいるのは一条だけだ。悠と長瀬は階段の踊り場で身を潜めて、友人の恋の成り行きを見守っている。典型的な覗きの状態である。長瀬は大柄な体を折り曲げて拳を握っている。悠は握らないが応援はする。
「え、え……? あ、あたし? 雪子じゃないの?」
舞台は下駄箱前から体育館の裏へと移動した。そこはよくある場所である。この手のイベントにおいては、古典的によくある場所だ。友人たちに背中を押されて意を決した少年が、好きな少女に思いを打ち明ける。思ってもいなかった少女は驚き、戸惑う。
「き、気持ちは嬉しいけど……」
少女は赤面して、はにかんで、一瞬だけ気持ちが揺らぐ。しかし一瞬だけだ。顔からすぐに色は抜け、力も抜ける。哀れなるかな、一条の告白は夕暮れの光ほどには千枝の頬を染めはしない。
「ごめん……あたし、好きな人いるから……」
「そ、そっか……」
「も、もう行くね! それじゃ……」
少女は急いで立ち去り、少年は立ちすくむばかりで追わない。ただ肩を落として、長く伸びた自分の影を見つめる。よくあるワンシーンである。
「なあ鳴上……里中の好きな奴って、もしかして……」
「知らん」
そして物陰から覗き見をしている者たちがいるのも、実はそっちが、というのもよくある話である。
その日のうちに、一条の失恋慰めパーティーが開催された。場所は中華料理屋の愛家だ。ちょうど一週間前も一条と長瀬はあいとここで食事をしたが、それ以来である。
「うおおお!」
一条は肉丼の大盛りをやけ食いしていた。健啖家の千枝はこれを軽く平らげてしまうが、線が細い一条には、大盛りはかなり厳しい量だ。しかし食べる。胃が悲鳴を上げても構わず掻き込む。
「あー! もっと早く鳴上たちと合流してりゃ良かった!」
そして食べる合間に吠える。良家の子弟にあるまじき雄叫びで、油が染み込んだ米粒が飛び散る。
「俺も長瀬みたく、里中さんをカッコ良く助けたりしてりゃあなあ……」
千枝の覚醒は4月で一条は7月だ。だから長瀬があいを守ったように、一条が千枝のシャドウから千枝を守ることは、時期的な問題から無理だったわけだが。色々な意味において、一条は間が悪い。
「里中のシャドウってどんなんだったんだ?」
「それは言えないな」
長瀬の質問に悠は答えなかった。他人のシャドウについて、あれこれ言うことはできない。本人の名誉の為に。仮に本人の許可があっても、シャドウの言動は口にすること自体が嫌なものだ。言われる方も耳に心地よい話ではないし、言う方も精神的な負担が大きい。だから悠は仲間のシャドウがどんなものだったか、堂島にも伝えていないし、特捜隊の中でも後から入った者たちに先の分を話していない。
「まあ……誰のもそうだが、かなりエグい代物だった」
話せるとしても、せいぜいこのくらいが限度だ。一条を失恋の痛手から立ち直らせる手助けとしては、悠はこの程度のことしか言えない。
「エグくたっていいよ……。どんなのでも受け入れたさ……」
(どうだろう? いや、でも……長瀬は海老原と付き合うようになったんだよな)
一条の嘆きは強がりかもしれない。自分のシャドウを受け入れるのは大変なことだが、他人のシャドウを受け入れるのも容易ではない。特に惚れたの腫れたの言う相手の隠された側面を、『それも貴女だ』とか言って受け入れるのは相当な克己心、と言うか男らしさを要する。しかし長瀬はあいのシャドウを見た上で、あいの好意を受け入れた。強固な意志、不屈の精神を象徴する剛毅のアルカナに相応しい、男らしさを見せたのだ。ならば一条も長瀬と同じことができるかもしれない。悠はそんな風に思った。
体育館の裏で聞かれた時はとぼけたが、千枝が好きな人は誰なのか、悠には分かっている。自惚れと言われるかもしれないが、残念ながら確信がある。その『好きな人』は千枝の好意から身をかわしたのだ。霧の中でも爛々と光る、あの金の瞳に怖気づいたのだ。それでいながら、未だに千枝の心を離していない。不条理にも。
(もしかして……俺って一条と里中に凄く悪いことをしているんじゃないか?)
もちろん傍から見れば、悠は悪くない。この問題の当事者は一条と千枝の二人である。千枝が悠から一条に乗り換えることができないからと言って、それは悠の罪ではない。もしも有里がこの話を聞けば、『悠が悪い』と言うだろうが。しかし一条は有里と違ってコミュニティと呼ばれるものについて、本質はおろか存在さえ知らない。だから千枝の気持ちが誰に向けられているのか、実は一条は気付いているのだとしても、一条は悠を恨むようなことはしない。と言うより、恨むことは『できない』。悠も悪いことをしているような気がしつつも、どうすることもできない。不条理にも。
「合コンするぞ!」
「俺はいい」
「俺もいい」
そして一条のこの提案にも乗ることはできない。悠も長瀬も、自由に合コンなどできる身ではないのだ。
「このリア充どもが!」
「小西を誘えよ。あいつは自由だろ?」
「陽介と完二も誘ってやってくれ」
悠が一条の為にできることと言えば、自由の身にある友人を差し出すことくらいである。
生田目が逮捕された為に、特捜隊は普通のテレビと深夜のそれに注意する必要はなくなった。そしてテレビへの出入りを禁止されたので、鍛錬の為に戦うこともなくなった。つまり捜査に心と時間を取られなくなったのだ。その為、悠は以前と比べてコミュニティに割く時間が増えた。
それは有里に忠告されたからではなく、人付き合いそのものに充実を見出している為。少なくとも本人はそう思っている。
その動機が何であれ、戦いが曲がり角を迎えてからも、悠は日々を無為に過ごすことはなかった。12日に剛毅の絆が極まった後、昼間は特捜隊の仲間たちと過ごし、夜は勉強かアルバイトをしていた。そして今日、17日は──
「すんません、急に来たいとか言って……ここが都合いいかと思ったんで」
完二が堂島宅にやって来た。完二との間に皇帝のコミュニティが築かれたのは、特捜隊に加入した直後の6月9日だ。コミュニティはトラブルに巻き込まれるのが常だが、完二も色々あった。具体的に言うと町を巡回する警察官に難癖を付けられたり、ぬいぐるみが好きな少年と知り合いになったりだ。
「俺、『俺らしく』、アンド『俺を分かってもらおう』と思うんすよ!」
それらの諸々を経て完二が得た結論はこれだった。人を寄せ付けない強面は、もうやめようとの決意だ。そんな後輩の成長を喜ぶように、悠は頷いた。
「りせにも分からせてやるといい。お前は凄い奴だってな」
話によると、先日りせが巽屋の前を通りがかって、完二の作品の数々を見たらしい。最初の反応は『キモい』で、やがて『あんた実は凄い人?』に変わったとのことだった。それをもう一歩進めて、からかうニュアンスを払拭して本当に感心させるのも、完二にとっては難しい仕事ではあるまい。しかし──
「あいつは別にいいんすよ」
そうなのである。りせに関しては、完二は特に気にしていない。馬鹿にされれば怒るし傷つきもするが、心底認めさせようとは思っていない。
「あの……実は、もう一つ聞いてもらいてえことがありやして……」
これまでの皇帝のコミュニティはいつも外で、家に来たのは初めてだ。それは換言すると、完二は他言を憚る話をしたいのだ。つまりもう一つの話こそが本題だ。
「こないだ合コンってのに行ってきたんすよ。一条先輩に誘われて」
(あれ、マジだったのか)
愛家でやけ食いをした時、一条は合コンを企画したが悠と長瀬は断った。身代わりに差し出した一人が完二だったのだ。特捜隊と稲羽支部の合流は、こんなところにも影響を及ぼしたわけだ。
「あんま興味はなかったっすけど、先輩のお誘いですし? 花村先輩と尚紀も一緒だってんで、まあ付き合いで。うちの吹奏楽部か何かの女と、その知り合いとかと」
「結果は?」
完二は厳つい外見に反して性格は真面目だ。ノリのいい一条と陽介、そしてクールな尚紀と組めば、バリエーション豊かな四人組として案外受けがいいかもしれない。どんなタイプの女が来ても対応できる、全方位型合コングループだ。
「何つーか……居心地悪かったっす。あ、だからって、ぶち壊したりはしませんでしたよ? 一条先輩と花村先輩はヤケクソ……じゃねっす、楽しげでしたし。尚紀は相手の一人と仲良さげでしたから」
他の三人はともかく完二に成果はなかった。だが問題はそこにあるのではない。
「別に……女は嫌いじゃねえです。怖くもねえです。ホントっすよ?」
「分かってるよ」
完二は女全般を恐れてはいない。以前はともかく今は恐れていない。その証拠に完二は千枝や雪子、りせなどには普通に接している。恐れているのは特定の女だ。
「でも初対面の女と話したりすんのは……やっぱ苦手っす。俺、おかしいっすか?」
(これって……)
一条の時もそうだったが、青春に恋は付き物である。なお、一条が誰を好きなのかはかなり大勢の人が知っているが、完二が誰を好きなのかはもっと広く知られている。特捜隊では周知の事実だし、稲羽支部でも気付いている人はきっといる。知らないのは直斗くらいではなかろうか。剛毅の絆が結論付けられた時のように、これはそっとしておいてはいけないと、悠は感じた。ただし今日は長瀬がいないので、悩める後輩を一人で後押ししてやらねばならない。
「おかしくないさ。俺たちくらいの年なら、女に照れるのは当たり前だ」
まず側面から攻めた。
「て、照れてるわけじゃねっすよ!」
「……そうだな。お前は女全般に照れてるんじゃない。直斗にだろう」
回りくどいやり方は完二には向かない。悠は方針を素早く変更して、ストレートに言い放った。先日一条を追い詰めた長瀬に倣うように。
「な、直斗が何だっつーんすか! 何でここであいつが出てくんすか!」
完二はりせに思うところはない。千枝や雪子にもない。思うところのある唯一の人の名前を出されて、初心な少年はゆでだこになった。だが悠は構わず話を進める。
「直斗は意外と可愛いもの……と言うか、小物好きだぞ」
「そ、そうなんすか……?」
探偵と言えば七つ道具が定番である。直斗は子供の頃から、そういうものを手作りするのが好きだった。直斗との間に築かれた運命のコミュニティでは、探偵バッジなどの小道具が活用されている。
悠は少女探偵との交流において、直斗に『好き』とかそれに類することを言っていないし、今後も言うつもりはない。幸いなことに直斗から言ってきそうな気配もない。それは直斗自身が女としての自分に全く自信を持っていない、もしくはそもそも自分が女であることを、未だ認めていないことと関係している。シャドウを受け入れた今でも、結局男装をやめようとしないことにそれが表れている。
もし悠が『異性として直斗が好きだ』とでも言えば、直斗も認識を改めるだろう。しかし悠はそう言うことはできない。直斗が嫌いなわけではもちろんない。だが悠が置かれている状況では、直斗と特別な関係になるわけにはいかないのだ。もしも結実やマリーがいなければまた別だが、そんな仮定に意味はない。
だから悠にすれば、直斗との関係は今のままでも特に問題はない。しかし完二を今のままにするのは、何となく気が引けていた。つい先日、悠は一条の幸せを奪ったばかりだから。一条と同じ道を完二にまで歩ませるのは本意ではない。この際だから、後輩たちの為にクピドを演じてみる気になった。
「あいつに何か作ってやったらどうだ?」
「お、俺は……」
「俺を分かってもらおう、だろ? 分かってもらうには、自分から攻めていかないと駄目だぞ」
マリーと駄菓子屋の店主によれば、『今も昔も、男から攻めていかねばならない』だそうである。そして都合が良いことに、近頃直斗の周囲に不審者が出没している。
(今度直斗と下校する時に完二も誘ってみるか。不審者が出たら、俺は逃げればいい……)
と、悠はどこぞの『先輩』のようなことを考えた。しかし彼が二年前に巡らせていた陰謀は常に失敗していたように、悠のそれも成功を見ない。
「いや! 先輩だったら仕方ねえです!」
完二は首を横に振った。勢いをつけて『先輩のお誘い』を辞退する。
「そうじゃなくて……」
悠は気付いていないが、実は完二は知っているのだ。直斗は悠と放課後の時間を度々一緒に過ごしていることを。そして完二の知識は他にも色々ある。例えば悠は結実と付き合っていることとか。それらの情報を総合すると、完二の頭の中では一つの結論が導かれる。即ち『直斗は悠に片思いしている』だ。
「てめえを好きな男より、てめえが好きな男の方がいいんす!」
「逆だろ。と言うかお前、今……」
語るに落ちたというものである。しかし口が滑ろうがどうしようが、完二は止まらない。ポケットから何かを取り出して、強引に悠に押し付けた。
「そ、それより! こ、これ! 先輩に受け取ってほしいっす!」
殴るような勢いで胸元に差し出されたそれはストラップだった。何とも可愛らしい。
「坊主にやったマスコットの、余ったので作った奴っすけど……先輩にあげるっす!」
コミュニティの担い手から貰う物品。それは絆の証明だ。言い方を変えると、後戻りができなくなったことの証明だ。
「な、直斗にあげたりしねえでくださいよ! どこで買ったとかって聞かれたら、沖奈の駅前とかテキトーに答えてください! お、俺が作ったとか……ゼッテー言わないでくださいね!」
完二は必死でまくしたてる。突っ込みどころがいくつあっても、悠に何か言わせる隙を与えない。そうこうしている間に時間が止まった。
『我は汝、汝は我……』
話の途中で絆を教える『我』の宣告が始まった。まるで悠に余計なことを言わせまいとするように、完二と『我』が結託しているように。強引に、問答無用で絆の真実が認められてしまった。
「い、いっすね! そんじゃあ……今日はここで、『ぬいぐる鍋つかみ』作成教室を開催するぜ!」
かくして完二と直斗を結びつける、悠のクピド作戦は失敗した。代わりに皇帝のコミュニティが極まってしまった。
(何か……おかしいな)
そう、何かがおかしいのだ。一条もそうだが、完二も悠のせいで失恋したようなものだ。それでいて絆は極まってしまう。それは自分の恋を諦めてしまうほど、悠が魅力的であるからか。それとも──
(有里さん……?)
悠は自分の腹に手を当てた。体の奥の方で何か嫌な感触のものが動いた。そんな気がした。そして十日前に言われたことを、唐突に思い出した。
コミュに不条理を感じることがあるかもしれない──
愚者の先輩がくれた忠告は、ありがた迷惑だったかもしれない。言われなければきっと思いもしなかった。だが言われてしまった為に、ある疑いが芽生えた。まさに真実を何もかも明らかにすることが、正しいとは限らない。最低限、時と場合と人を選ばなければならない。酷い真実を理解した上で利用する、そうした腹黒さを悠は身に付けていないし、そんな素養もない。不条理だろうが何だろうが、とにかく前に進まなければならないと、己に言い聞かせるほどの切迫した事情もない。
愚者の後輩は胃の辺りに何かが凝るのを感じた。ただその不快感は4月に道化師が感じた凄まじい吐き気と違って、手で抑えられる程度だ。今はまだ──