ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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ペテン師(2011/11/22)

 霧が町を覆って二日目の放課後、悠は商店街を一人で歩いていた。うっかりすると人や物にぶつかってしまいそうな濃い霧は、まだ晴れない。しかし悠は手や肩を何かに当てることなく、真っ直ぐ歩く。たとえバイクに乗っても事故は起こさない自信がある。クマに貰った眼鏡をしているから。

 

 テレビの中と外の霧はどちらも同じ眼鏡で見通せる。特捜隊は7月以降、不測の事態に備えて普段から眼鏡を持ち歩くようにしていた。そして昨日から町がこの有様なので、外を歩く時は顔にかけるようにしている。神秘のレンズ越しに寂れた田舎町を眺めながら、悠は考える。

 

(人間と謎の生き物……か)

 

 眼鏡をくれた神秘の存在は、昨日『菜々子をください』と言い出した。しかし悠は許しを与えなかった。なぜか? 菜々子は将来自分が貰うつもりだから、ではもちろんない。

 

(陽介の言う通りだが……)

 

 クマが何者なのかは未だ謎だが、人間でないことは確かである。文字通りの意味での『謎の生き物』に、可愛い従妹はやれんと言うのは簡単だ。しかし悠は時期が早いのと頼む相手が違うと窘めただけで、完全な拒否はしなかった。なぜなら──

 

「……」

 

 目的の場所に辿り着いた悠は一度足を止めた。青い装飾扉は4月から相も変わらず、周囲から浮き上がる派手さで佇んでいる。眼鏡以上の神秘に包まれたこの部屋の、見習いの少女に悠は恋している。先月の終わりに自分自身に認めたその事実が、人外の少年を問答無用で突き放すことをさせずにいた。

 

(クマもそうだが……君は何者なんだろうな?)

 

 クマとは4月に、マリーとは5月に『契約』している。前者は捜査と戦いの日々を経て大きく進展したが、後者は未だ一歩も進んでいない。だがいつまでも先延ばしにはできない。弟子はあそこまで言ったのだ。ならば師も前に進まねばならない。

 

(あれから半年か……)

 

 悠は今になって実感していた。一体何という困難極まる約束をしてしまったのだろうかと。後悔はしていないが、解決の道がまるで見えない問題を前にして、正直に言えば途方に暮れていた。何の成算も見出せないままで、悠はベルベットルームの扉を久しぶりに開いた。

 

 

(ん……?)

 

 青いリムジンに乗車した途端、悠は違和感を覚えた。

 

「あ、来た」

 

「やあ……」

 

 ベルベットルームはいつも通りの高級感に満ち溢れ、窓の外には白い霧が漂っている。時間の概念がなさそうな車の中に、目的の人はいた。いつものように向かって左側の席に座っている。部屋の主は正面にいる。しかし右側の席は空っぽだった。銀色にも見える色の薄い金髪の魔女はいない。違和感の正体はそれだ。

 

「マーガレットはただ今、席を外しております。御用がおありなら、また時をお改めください」

 

 悠の疑問に答えるようにイゴールが説明してきた。初めて会った時は悪魔かと思った老人は、意外なくらいに気が利く。

 

「そうですか」

 

 しかしせっかく説明してもらって何であるが、今日はマーガレットに用はない。テレビの中でも外でも戦えない今の状況ではペルソナ全書を使う意味はないし、特定のペルソナを創造するよう頼まれる『お願い』も全て終えている。今まで一度もなかった魔女の不在を気にすることなく、悠は本題に入った。

 

「マリー、外に出ないか」

 

「今日、霧が出てる……」

 

 しかしマリーは悠を斜めに見るだけで誘いに応じない。マリーは雨の日の外出を禁じられているが、霧の日も同じだ。と言うより、霧の日こそ出てはいけない。現実の霧にはシャドウが潜んでいることを、この部屋の住人たちは初めから知っていたのだ。だから霧を呼ぶ雨も忌避する。今となっては、悠にもそれくらいは想像がつく。

 

「シャドウはいないよ」

 

 分かった上で、少年は少女を誘う。なぜなら──

 

「いても俺が守る」

 

 こういうつもりでいるから。現実では召喚もできないくせにどうやって守るのだと聞かれると、困るところではある。しかし守りたい意志は力の有無とは関係ない。昨日クマが決意を表明したように。

 

「……」

 

 マリーはまだ答えない。やぶにらみの視線を悠から外し、自分の爪先を見つめる。こうなると腕尽くで引きずり出す以外に方法はなさそうだが──

 

「行ってきなさい」

 

 少年が荒っぽい手に訴える前に、意外なところから助け舟が来た。この部屋の主だ。

 

「何よ、鼻……」

 

 マーガレットは時々マリーを宥めたり叱ったりしてきたが、イゴールが口出しするのは珍しい。と言うより、今まで一度もなかったかもしれない。

 

「霧が晴れるのを待っていたら、契約は期限切れになってしまうかもしれませんよ」

 

 そして初の容喙は含まれている意味が多すぎた。

 

「え……?」

 

 悠は引っかかりを覚えた。期限──

 

 鼻の長い怪人は血走った目の向ける先を、マリーから悠へと変更した。そしてじろりと見据えてくる。まるでこの部屋の客人、即ち契約者を値踏みするように。

 

「鳴上様、この部屋では全く無意味なことは起こりません。そして貴方が結んできた数々の絆は、貴方の目が届くところのみならず貴方のあずかり知らぬところでも縦横に絡まり、運命を紡いでいるのです」

 

 イゴールは期限云々については説明しようとしない。かえって話を訳の分からない方向へ進めてしまう。

 

「マーガレットがいないこの時に、貴方はここを訪れなさり、そしてマリーを外へと誘う。まるで運命が織りなすあやの隙間を突くように……実に興味深いことです」

 

「……」

 

 イゴールの言葉を表面的に解釈すると、危険な外に連れ出すのは小姑のいない今がチャンスだということになる。もっとも含蓄のありすぎる怪人の言葉を、浅い意味に受け取るのは危険極まりない。マリーと『契約』した直後に受けた倫理の補習で諸岡が言っていたように、底の浅い解釈は捏造よりたちが悪い。

 

「行こう」

 

 だが亡き恩師の教えを思うことなく、或いは思ってもなお、悠はマリーを誘った。

 

「ん……」

 

 そしてマリーは応じた。重い腰を上げて二人で外に出た。

 

 

「きゃっ……!」

 

 外に出た途端、マリーは小さな悲鳴を上げた。反体制的なファッションに身を包んだこの少女は、癇癪を起こすことはよくあるが、こういう声を上げるのは初めてだった。もちろん少女を脅かす何かが商店街にあるわけではない。あるのは昨日からずっと地上に居座り続けている、白い霧だけだ。

 

 だがその唯一のものをマリーは恐れているのだ。両腕を抱えて寒がるように体を震わせる。

 

「……」

 

 連れ出すべきではなかったかと、悠は一瞬思った。だがそれは『そっとしておく』ことに他ならない。去年までは自分の行動原理であった処世術は、夏の日に捨てた。たとえ何をそっとしておこうと、マリーだけはそうしてはならないと思い直す。

 

「どこか行きたい所はあるか?」

 

 ただ行き先の希望は聞いた。これまで一緒に外出する時は相手に任せてきた。そして今日もそれに倣った。

 

「……これ」

 

 するとマリーは青いカバンを漁り、櫛を取り出した。『契約』した日と恋を自覚した日に見せられた、古い竹櫛だ。名前さえ自分のものでないマリーの唯一のものだ。

 

「これのこと……知ってる人のとこ」

 

 櫛を差し出すマリーの表情は険しい。まるで早くしろと急かすように。

 

「櫛を知ってる人か……」

 

 悠は考えた。これは現代人が髪を梳く為に使うようなものでないのは、形状からして分かる。相当な年季が入っているようなので、その辺で売っているものでもないだろう。こうした骨董品を取り扱っていそうな人や店なら、悠はいくつか思い付く。例えば完二の実家や、模造刀やらを作っている商店街の工房とかだが──

 

(いや、駄目だろう)

 

 思い付いた途端、悠は自分で駄目出しをした。そもそもベルベットルームの住人の持ち物が、しかも存在の手掛かりになりそうなものが、普通の人間の手に負えるとは思えない。諸岡が生きているなら有益な話を聞けるかもしれないが、故人にものは尋ねられない。ならば聞くべきなのは普通でない人だ。

 

「そうだ! 有里さんに聞いてみるか?」

 

 脳裏に閃きが走った。知り合いの中から、『普通でない人』との条件を入れたら真っ先に思い浮かんだなどと言えば、きっと本人は苦笑するだろうが。

 

「誰、それ?」

 

「俺と同じ力を持ってる人だよ」

 

 普通でないと言うか、尋常な人間でないことは確かだ。有里が過去にどんな戦いをしてきたのか、悠は詳しいことを聞いていない。だがペルソナ使いの中でも特殊なワイルドで、かつてはコミュニティを束ね、ベルベットルームにも通っていたという男である。あの部屋の住人について相談するには、これ以上の適任はいないはずだ。

 

「君と同じ……? え……?」

 

「天城屋旅館にいるはずだから、行ってみよう」

 

 戸惑うマリーを連れて悠は歩き出した。有里の連絡先と稲羽での宿泊先は、二週間ほど前に聞いている。いつ訪ねてきてもいいと言われているので、好意に甘えることにした。

 

 

 

 

 ワイルドの後輩から『普通でない』と評された当の先輩は、自分の居場所に違和感を覚えていた。虚無の砂漠に置かれた扉の一つを通り抜けたら、思わぬ所に出たのだ。

 

「ここは……まさか?」

 

 これまでの扉を開けた先は、有里自身が経験した過去の情景が映画のように映し出されていた。だが今日のそれは単に視聴するのではなく、体験式のアトラクションだった。ただし遊園地のジェットコースターやお化け屋敷では、もちろんない。一言で言うと古代の闘技場めいた場所だった。足元の床には時計の文字盤のような装飾が施されている。

 

 有里はアイギスから、自分が『いなくなった』頃の戦いを一通り聞いている。その話の中に、こういう場所があったような気がしていた。

 

「ここはコロッセオ・プルガトリオよ」

 

 説明してきたのは、ベルベットルームを留守にしていた魔女だ。闘技場を取り囲む観客席に座っていて、分厚い百科事典を膝に乗せている。

 

「煉獄……か?」

 

 聞いたことがあるような場所であるが、その呼び名までは有里は聞いていない。もしかしたら妻も知らないかもしれない。だが名前の意味なら知っている。カトリックの教義において、天国と地獄の中間にある世界のことだ。イタリアの有名な詩人も叙事詩の中で歌っている。しかし問題なのは、もちろん場所の名前や宗教的な由来などではない。マーガレットは何の為に『煉獄』に有里を呼んだのかだ。

 

「貴方は近いうちに大きな試練を迎えるかもしれないわ。でも貴方、もう長いことまともに戦っていないでしょう?」

 

「まあな」

 

 特別課外活動部の戦いが終わったのは昨年の1月末だ。その後の有里は、これと言った戦いをしていない。昨年2月以降は敵がそもそもいなくなったし、今年も稲羽のシャドウは弱すぎて有里の相手にはならなかったから。

 

「だからここで肩慣らしをしておくといいわ」

 

「貴女と戦えと?」

 

 有里は緊張した。いつかマーガレットと戦うことになるかもしれないと、以前から思ってはいた。だがここで来るのか──

 

「いいえ、この子たちよ」

 

 言うが早いか、魔女は持っていた百科事典、もといペルソナ全書を開いた。力の管理者の商売道具である。そこのあるページから光が放たれ、同時に足元の時計も光り始めた。まるで悪魔を召喚する魔法陣のようである。

 

「さあ、見せてみて。最強の名をほしいままにする貴方の力を」

 

「そんなんじゃないさ……」

 

『当代』最強のペルソナ使いは、大きなため息を吐いた。確かにそこいらのシャドウやペルソナ使いに負けはしない。だが有里は真の意味で自分が最強とは思っていない。もっと強い者が過去にはいたから。例えば世界の終わりを宣告した死神とか、今は行方知れずの力の管理者とか。そして近い将来、自分を超える力の持ち主が新たに現れる。間もなく父親になる予定の男は、そう思っている。

 

 だが今それを言ったところで始まらない。面倒なことこの上ないが、戦わざるを得ない。魔法陣から生えてきた悪魔、もといペルソナを見据える。

 

「何だ、こいつ?」

 

 現れたのは人型のペルソナらしきものだった。顔は仮面と言うより拘束具のようなもので覆われていて、目を一つだけ出している。足は一本しかなく、手には金槌を持っている。マーガレットは全書を開いて呼び出したのでペルソナなのであろうが、有里は見覚えがなかった。

 

 初見の存在だが、取り敢えず拳銃を懐から抜いて小手調べとばかりに撃ってみた。しかし──

 

「何?」

 

 有里は射撃にはそこそこ自信がある。だが初弾は外した。と言うか、かわされた。一本足の妖怪めいたペルソナは意外にも動きが素早く、軽快なステップで銃弾をかわした。いや、素早いどころではない。ステップを更に一つ二つ踏んだと思ったら、姿が消えた。目にも止まらぬ速度で有里の周囲を旋回し始めた。

 

「む……!」

 

 これはなかなか難しい相手だ。有里は回避が不可能な、空間ごと薙ぎ払うような大技も使える。しかしその手の技は消耗が激しいので、いきなりやるのは良くない。先ほどマーガレットは『この子たち』と言ったから。つまり何体ものペルソナと戦わされる。さてどうしたものか──

 

 対処方法を考えていると、観客席からアドバイスが送られてきた。

 

「新たな力を使ってみたらどうかしら?」

 

 有里はかつての戦いでペルソナを限界まで鍛え抜いたので、これ以上強くはなれない。だが自分が担い手になったコミュニティの恩恵によって、新たな力を最近になって得た。それを戦いに応用してみろと、マーガレットは助言しているのだ。

 

「……なるほど」

 

 無数のシャドウを葬り去った百戦錬磨の男も、新たな力の新たな用法については魔女の助言に素直に従った。目を閉じて、ペルソナの感覚を周囲に張り巡らせてみた。

 

「そこだ」

 

 視覚を塞いだ状態のままで、右手の側に向けて銃を撃ち放った。重い銃声とほぼ同時に、着弾の音が耳に届けられてきた。

 

「お見事。もう使いこなしてみせたわね」

 

 今の有里は召喚しないまま、オルフェウスに探知能力を使わせたのである。現実の町やテレビの中のダンジョン全体を探査しようとすると、それだけに集中せねばならない。しかし自分の周囲半径数メートル程度なら、戦いながらでもできる。猛スピードで走り回る妖怪のペルソナの動きを、探知でもって見切ったのだ。

 

「では続けて行くわね」

 

 一番手は銃撃一発でノックアウトされた。だが案の定、肩慣らしの相手はまだまだいた。

 

 

 二番手と三番手は骸骨の闘牛士と炎をまとった虎で、いずれも有里は知らない存在だった。しかし四番手からは知っているものが続いた。甲冑をまとった猫、黒い雪だるま、三本足のカラス。七番手はまた知らないもので、宝珠の上で踊る白い犬だ。しかし知っているかどうかは関係なかった。各々特殊な能力を持っているものの、有里から見ればどれも大したものではなかったから。だが──

 

「うおっ!」

 

 胸に向かって飛来してきた銃弾を、有里は左腕で受けた。ただし敵が撃ち放ったものではない。

 

(僕のガネーシャは反射なんかできなかったぞ!)

 

 八番手は象の頭に人の体のペルソナで、有里も知っているものだった。だが知っているかどうかは、やはり関係なかった。使えない『はず』の物理的な攻撃を反射する壁を絶妙なタイミングで張ってきて、銃弾を跳ね返したのだ。急所に当たるのは免れたし、オルフェウスの耐性によって大きな傷にもなっていない。しかしもう銃その他の攻撃では攻められない。

 

(解析の能力も欲しいところだな……)

 

 未知の敵と戦う場合、相手の能力や耐性を調べる能力の有無は戦局を大きく左右する。正確な情報は時に地力の差をも覆すのだ。しかし有里は探知はできるものの、解析はできない。こういう場合はどうするべきか?

 

 象のペルソナは一声鳴いて、竜巻を放ってきた。対する有里はペルソナを変更する。

 

「メサイア」

 

 そして電撃を放つ。北欧神話の主神が得たという真理を表す、雷の秘術である。シャドウやペルソナの能力や耐性に明確な法則性はない。しかしある程度の傾向はある。例えば火を得意とするものは氷に弱く、風を得意とするものは雷に弱いとかだ。そうしたいささか安易な判断によって、有里は攻撃の手段を選択した。

 

 ──

 

 安易だろうが回り道をしていようが、選択が正しい時は正しい。象のペルソナは自然の落雷さながらの巨大な一撃によって、黒い煙となって消滅した。

 

「ふふ……貴方に弱点を突かれては、ひとたまりもないわね?」

 

 観客席のマーガレットは小さく微笑んだ。組んだ足の上にペルソナ全書を置き、表紙に肘を乗せている。有里の戦いぶりを、まさに悠然と観戦している。

 

「じゃあ次が最後よ」

 

 魔女の本は九つ目のページが開かれ、魔法陣が光った。

 

「トランぺッターか」

 

 最後の相手は貫頭衣をまとった髑髏の顔の天使だった。鳥のそれに似た白い翼を背に生やしていて、手にはラッパを持っている。有里も昔使った覚えがある、審判のアルカナに属するペルソナだ。ただしマーガレットのペルソナ全書はエリザベスのそれとは別物であるのか、能力や耐性は知っているものと全く同じではないようだ。反射されるのを警戒して、いきなりの先制攻撃は控えた。まずは油断なく見据えていると──

 

「む……?」

 

 有里は怪訝な顔をした。この天使は聖書でも言及されている存在で、この世の終わりに天から現れ、様々な災厄を地上に下すのだ。自らが由来する神話に倣うように、音楽家の天使は楽器を吹き鳴らした。終末を告げる音響は、有里の頭上に七色の光の玉を呼び出した。見たことのない術である。

 

「弱化魔法か?」

 

 光が弾けてから、有里は自分が何をされたか気付いた。これは補助魔法と呼ばれる系統の力だ。膂力、魔力、耐久力、敏捷性の全てが低下した。この種の魔法は有里も使えるし、かつての仲間にも得意とする男がいた。だが一発で全ての能力を低下させる術は初めて見た。

 

 ──

 

 ラッパの甲高い音がまたも響き渡って、再び光の玉が上空から降ってきた。ただし今度は色が紫色だ。あらゆる存在を等しく薙ぎ払う万能の光である。まともに受ければどうなるか。

 

「オルフェウス!」

 

 しかし戦場でいつまでも驚いてばかりはいないし、やられっ放しでもない。すかさず最強のペルソナを召喚して、ラッパと竪琴のアンサンブルを演じた。ただし二つの楽器の音量と言うか演奏の技量と言うか、それは全くバランスが取れていなかった。もし普通の演奏会であれば、観客から不評をもらうだろう。

 

 

「さすがね……少しくらい力を落とされても関係ないのね」

 

 キリスト教の死の天使はギリシャ神話の吟遊詩人に滅ぼされた。両者は同じ種類の力を放ったのだが、威力は全く異なっていた。ラッパは竪琴に圧倒され、飲み込まれて粉砕されたのだ。補助魔法など焼け石に水である。テレビの中の天国で足立は生田目を圧倒していたが、有里とペルソナたちはそれ以上に差がある。

 

 では粉砕されたのは誰のペルソナなのかと言うと──

 

「こいつら、鳴上君のペルソナか?」

 

「ええ。彼にお願いして作ってもらったものよ。私も少しは手入れしたけれど」

 

 最初の妖怪は速度に、八番目の象は反射攻撃を仕掛けるタイミングが優れていた。マーガレットが『手入れ』したのは、そういったポイントである。しかし結局のところ、それは小細工に過ぎない。適切な戦術は時に実力の差をも覆すが、それにも限度がある。

 

「やはり彼はまだ貴方に及ばないわ。素養は同じでも年季が違う……」

 

 つまり悠は有里より弱いのだ。11月の今はまだ。そして今後、先輩に近づく為の経験を積む機会が、どれだけあるだろうか?

 

「先輩として指導してあげてくれないかしら?」

 

「機会があれば」

 

 

 

 

 自分の指導を先輩が頼まれているなど知る由もない後輩は、霧が晴れない地上を歩いて天城屋旅館まで辿り着いた。先月の終わりに宿泊した際は二度と泊まらないと思ったものだが、再び来てしまった。だが建物に入る前に、駐車場で一度足を止めた。車は一台しか置かれておらず、他に人もいない。

 

(確かここで……)

 

 自分の秘密を自覚した夜を思い出す。あの時、マリーはここでリストの詩を読んでいた。好きなものと嫌いなものの。そして怯えていた。何に怯えていたのかと言えば、記憶がないことそれ自体か、思い出せないことか。はたまた天上の月か──

 

「おや、鳴上君?」

 

 過去の思い出に浸っていると、声をかけられた。有里だ。一台だけの車の陰から、人の気配がなかったはずの場所から突然現れた先輩に、後輩は声をかけられた。

 

「有里さん……ちょうど良かった」

 

 しかし唐突な出現に、悠は気を留めなかった。悠は有里がどこから出てきたのか、『見えない』のだ。砂漠に通じる銀の扉が車の後ろに存在するのが見えるのは、マーガレットと『契約』している者だけである。

 

「僕に何か用かい?」

 

「ええ、この子のことで……」

 

 悠はマリーを紹介しようと、商店街から連れ立って歩いてきた少女の側を振り向いた。だが──

 

「ひっ……!」

 

 ベルベットルームから出た時に続いて、マリーは声を漏らした。何かとても恐ろしいものを見たように。霧に潜むシャドウが見えない恐怖なら、世界の果てから帰ってきた男はあからさま過ぎる恐怖なのだ。マリーにとっては。

 

「やだ……」

 

 マリーは悠の陰に隠れた。少年の半歩後ろに身をひそめ、袖を掴む。まるで知らない『お客さん』が家に来た時の菜々子のように。文化祭の日、郷土資料展でミナヅキの姿を見た時のように。これでは紹介などできない。

 

(この子は確か……)

 

 だが紹介されるまでもなく、有里はマリーを知っている。

 

「マリー? ちょ、ちょっと……」

 

(そうか、この子なのか)

 

 有里は直感した。コミュニティと呼ばれる絆を束ねていた先輩は、観察力には自信がある。特に恋愛に関することなら、僅かな表情の動きや声色の変化だけでも分かる。まして今の悠の表情や口ごもるところを見れば、有里ならずとも分かる。

 

「で、何の用なんだい?」

 

「す、済みません……。マリー、櫛を見せてやって」

 

「……はい!」

 

 マリーは依然として有里を見ようとしない。ただ大急ぎでカバンを漁り、櫛を取り出して悠に手渡した。そして体全体を悠の陰に隠した。

 

「えっと……これ、なんですが」

 

「櫛? 竹櫛だね……」

 

 悠を経由して、有里はマリーの櫛を手に取った。形状や質感を確かめ、じっと見つめる。

 

「何か分かりませんか?」

 

「ひどく古いものだ。百年や二百年じゃない。桐条の研究所に持っていけば、年代や産地を割り出せるかもしれない……いや、無理かな?」

 

 言いながら、有里は思い直した。年代測定法その他の科学的な調査が及ばない存在というものは、確かにこの世にある。当の桐条グループが、過去にそういうものをいくつも生み出していたくらいだから。ならばここで考えるべきなのは──

 

「君、これは誰かから貰ったの?」

 

「……」

 

「マリー」

 

 有里の質問にマリーは答えない。悠が促しても答えない。ひたすら隠れるばかりだ。愛想が悪いを通り越してしまった少女に代わって、少年は反問した。

 

「貰いものだと、何かあるんですか?」

 

「ああ、櫛は不吉な贈り物なんだ。別れを告げるものと言われていて、その由来は日本神話にあるんだけど……」

 

 科学が通用しない物事は魔術的に考えなければならない。有里は仕事柄、そちら方面にも詳しい。櫛が何を象徴するもので、神話においてはどのように使われたのか、少年少女に説明しようとしたが──

 

「やめて……!」

 

 秘密を解き明かしてもらうことを、秘密の持ち主が拒否した。マリーは有里の説明から目を背け、耳を塞いだ。そして走り去った。唯一の自分の持ち物を預けたまま、旅館の出口へ向けて駆けた。

 

「あ、マリー!」

 

 いつもながらに永劫のコミュニティはこんなのばかりである。悠は方々へ走らされる。そっとしておくことなど思いもせず、少女を追おうとした。

 

「待て」

 

 だが意外なほどに強い口調の制止によって、悠は立ち止まった。振り返れば、有里は小さく微笑んでいた。マリーの秘密である櫛は手に持ったままである。

 

「あの子が君の特別なんだね」

 

 そして秘密を暴いた。ただしマリーのではなく、悠の秘密だ。あっさりと。簡単に。寸鉄人を刺すように。

 

「い、いえ……」

 

「隠すな」

 

 有里は口調を更に強くした。つい先ほどマーガレットから頼まれたが、思いがけず降って湧いたこの機会に、後輩を指導する気になったのだ。まさに先輩らしく上から目線で諭す。

 

「他に恋人がいるのなら、その子には謝れ。袋叩きにされようが構うな」

 

 意図して作った命令口調でもって、初心な少年を焚き付ける。

 

「あの子は……」

 

「ベルベットルームの見習いだろう」

 

 後輩が言い訳しようとしても、素早く遮る。今は亡き峻烈な教師が、未熟な生徒の尻を引っぱたくように。

 

「ご存じだったんですか」

 

「あの部屋で一度会った」

 

 有里がマリーに会ったのは、今年稲羽に初めて来た4月29日だ。スナックを出た後で立ち寄ったベルベットルームで、マーガレットから紹介されている。話はしなかったが、有里はあの日の出来事は覚えていた。そしてあの部屋の住人であることが、マリーが悠の『特別』なのだと有里に確信を与えていた。

 

(立場としては、あの子はエリザベスに近いかな)

 

 それは意思や嗜好の問題ではない、宿命的な領域における結びつきというものだ。有里にとっては、アイギスとエリザベスがそれに該当する。そして悠の仲間の少女たちに、そういう繋がりのある者はいない。悠の交友関係をある程度知っている有里は、それが分かる。強いて言うなら菜々子であろうが、年齢差の問題で無理がある。ならばベルベットルームの住人だ。だが有里と『契約』しているマーガレットは、悠に大きな興味を抱いていない。よって該当するのはマリーのみ。他人はともかく、有里にはそれが分かる。

 

「人間じゃないからって、それが何だ。うちの家内よりハードルは低いさ」

 

「貴方の奥さんも……?」

 

 有里は再び笑った。同じ宿命を持つ者としての共感を込めた、会心の笑顔である。かつての仲間たちにも、こんな表情はめったに見せなかった。そんな珍しいものを見せながら、預かっていた櫛を返した。

 

「ほら、もう行け。見失うぞ」

 

「……はい!」

 

 悠は『不吉な贈り物』を受け取った。先輩の言いつけを受け入れるように櫛を受け取り、マリーを追って駆け出した。

 

 

 見習いの少女は見失うほど遠くへ行ってはいなかった。旅館を出てすぐの所で待っていた。

 

「もう帰る……」

 

 だが表情は暗く、声に張りはない。有里の姿はもう見えなくなったが、元気を取り戻してはいない。

 

「まだ始めたばかりじゃないか」

 

 そう。互いが何者なのか互いに探そうとの『契約』を結んだのは半年も前なのに、まだ始めたばかりなのだ。結局のところ事件や他人にかこつけて、悠はマリーをそっとしておいてしまったと言える。本人にそのつもりがなくても、結果的に。だがそれ故にこそ、少年は少女を帰さない。

 

「どこか……」

 

 どこかまた行きたい所はないか、と悠は聞こうとした。だが途中で口を噤んだ。マリーに希望を聞いても帰ると言われるだけだ。ここは自分が行きたい場所へ相手を誘うべきだ。そう思った。

 

「何……?」

 

 そして自分が行きたい場所は、すぐに思い付いた。

 

「あそこへ行こう」

 

「あっ……」

 

 悠はマリーの手を取った。男の方から手を取って、強引に連れ出した。出会ってから初めて、悠はマリーの体に触れた。

 

 

「ここ……前も来た」

 

 天城屋旅館を出た二人は、町の外れにある高台までやって来た。ここはマリーとの最初の思い出の場所である。『契約』する前の4月27日、春雨を潜り抜けてここまで来た。晴れていれば小さな市街地ばかりか山や川も含めた地域全体が、ここから見渡せる。経済の中心であるジュネスさえも、ささやかなアクセントにしかならない。この場所にマリーと一緒に来るのはその日以来だ。

 

「懐かしい感じはしないか?」

 

 悠は問いに二重の意味を込めた。春の思い出と、もう一つ。八十稲羽の土地そのものに懐かしさを感じていたと、その日の帰りにマリーは言っていた。

 

「何も見えないよ……」

 

 ただあの日のマリーはこうも言った。雨が違い、霧も違うと。その霧に遮られて今日の高台から景色は見えない。ただ土地を覆い尽くして一向に立ち去らない、白い災いが見えるばかりだ。ならばとばかりに、悠はクマの眼鏡を顔から外してマリーに差し出した。

 

「これをかけて」

 

「いらない……」

 

 しかしマリーは受け取らない。腕を組んで顔を俯かせ、特捜隊の仲間の証を自分の顔にかけることを拒絶する。懐かしい景色を見ることを拒むように。悠の『仲間』になることを断るように。

 

「あんな人に会わせるなんて酷い……」

 

 拒むばかりか、恨み言を口にする。

 

「何が酷いんだ」

 

「怖い……」

 

 そして本音を漏らす。

 

「有里さんが怖いのか?」

 

 その通りである。マリーは有里が恐ろしいのだ。高台に初めて来た二日後、有里はベルベットルームを訪れた。その時からマーガレットが言うところの『運命の外にいる男』を、マリーは恐れていた。死んだはずの人間であり、運命を狂わせる者であり、使命や宿命も変えてしまう者。即ち神の配剤を凌駕し得る者。

 

「あの人だけじゃない。怖い人は他にもいる……そんな人ばっかり、あの部屋に来る……」

 

 そして悪いことに、マリーが怖いのは有里だけではない。足立もそうだし、皆月たちも。ベルベットルームを訪れる人々、やがて訪れるかもしれない人々。影を操り闇を掌握しようとする者たちは、恐ろしい力の持ち主ばかりだ。何も持たない無力なマリーとは対照的に。

 

「俺もか? 君は俺が怖いのか?」

 

「そう……霧も、シャドウも。君に似た人たちも……君も。記憶も、全部怖い……」

 

 怯えるマリーを目の前に置きながら、悠は自分がある分岐点に立っていることを自覚した。言い方を変えると、崖が目の前にあるように感じた。タロットの寓意画に描かれる愚者を飲み込もうと待ち構えている谷底だ。時間にして数秒、呼吸を一度か二度する程度の僅かな間だけ、悠は立ち止まった。

 

「……」

 

 少年を後押しするものは何であろうか。昨日聞いたクマの決意表明か、今日聞いた有里の煽り文句か。霧の災いから守るとの誓いか。現実ではペルソナの召喚もできない無力感か。はたまた何かの同情や、漠然とした後悔。もしくは愛。或いは宿命。

 

「……俺が君を守るよ」

 

 何が自分の足を少女の目の前まで進めさせるのか。眼鏡を持ったままの自分の右手を少女の肩に触れさせるのは、果たして何者であるのか。自分の左手に動くよう命じて、少女の背中に回させるのは、何という名の存在であるのか。悠はそれらを何も意識しなかった。ただマリーを抱きしめた。

 

「やだ……離して」

 

 体温を感じた。晩秋の冷たい風にさらされて霧に触れ続けた少女は、まだ温かさを保っている。

 

「君が怖いもの全てから……俺が守る」

 

 かくして悠はマリーを捕まえた。男の方から踏み込んで、女を腕の中に閉じ込めたのだ。人生で初めてのことだった。

 

「……堕天使」

 

「ん?」

 

「鎖に繋がれたの。翼をもがれて、偏見に蝕まれて……絶望の中で、息絶えるの」

 

 詩だ。これまでいくつも読んで聞いて、歌ったもの。『契約』を果たす鍵になるもの。重く苦しく、リアリティに満ちていて、死を暗示する呪いの言葉。春から何度も投げつけられた真実。抱きしめてくる悠の心臓をナイフで刺すように、マリーは腕の中で朗読を始めた。

 

「……」

 

「彼女の名を知っている?」

 

「……」

 

「知らないよね……みんな忘れちゃうの」

 

「いいや」

 

 鎮魂歌は咆哮となり、偽善の仮面を引き剥がすだろう──

 

 卑怯を討ち、虚構を引き裂く彼女の名を、君は知っているかい──

 

「君の名はマリーだ」

 

「違う……」

 

 そう、違うのだ。マリーという名はマーガレットが与えたものだ。そこにどんな意味を込めているにせよ、何かの秘密が隠されているにせよ、借り物の名前だ。青い帽子や青いカバンと同様に、人から与えられたものである。だが──

 

「違わない。それが君の名前だ」

 

 愚者の少年は言挙げした。失った名前ではなく、今ある名前こそが真実であると。『我』が絆の発生や完了を宣告するように、有無を言わせず。相手の意思とは関係なく、議論もせず、ただ真実であると断言した。

 

 もう引き返すことはできない。二度とは戻れない崖の底へと、悠は身を躍らせたのだ。自分を省みることを始めた賢者は、再び愚かな道へと踏み込んだ。

 

「もう記憶なんか思い出さなくていい」

 

「ぺてんし……」

 

 悠はこの時、マリーが何者か探すのをやめた。即ち『契約』を破棄したのだ。

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