ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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ピンクのワニ(2011/12/3)

 昨年初めまで港区を始めとした全国各地で、更には世界中で猛威を振るったいわゆる無気力症、シャドウワーカーが言うところの影人間は、決して不治の病ではなかった。『病気』の実態は影時間のシャドウに己のシャドウを抜き取られたことによるものだが、口もきけない患者が回復した事例は、それこそ無数にある。回復する契機はシャドウ事案における大きな作戦の遂行、具体的には特別課外活動部と呼ばれていたペルソナ使いたちが、月齢に応じて現れる巨大なシャドウを討伐することだった。

 

 ではなぜ、大型シャドウを倒すと影人間は回復するのか? 発症と回復の仕組みを直感的に考えれば、シャドウが倒されたことによって奪われた精神が取り戻されたとなる。つまりシャドウは襲った人間の心を『食う』のだが、『消化』はされないということになる。生物であれば、獲物を捕食して繁殖するのはごく自然な行動であるが、シャドウはそうした常識が通用しない。人を襲って血肉を食うように心を抜き取っておきながら、自らの養分とするわけではないのだ。

 

 では今年の稲羽市で起きている事案においてはどうだろうか。シャドウの生態や行動原理は、いかなるものであるのか。テレビの中の異世界で無数に蠢く影たちは、何を望んでいるのか。テレビに入った人間から現れる、同じ顔のシャドウの目的は何か。そしてシャドウの中でも他と異なる、ある特殊な個体の存在意義は何であろうか。

 

 

 白い闇の虚ろから生まれて、あらゆる情念や欲動を束ねて一つの『個』としたような謎の存在。いかなる原因があって生じたのか、窓を乗り越えて『向こう側』から現世に出てこれたのはなぜなのか、存在に関わる一切が未だ不明な者。科学はもちろん魔術をもってしても分析は難儀しそうな存在は、孤独をかこっていた。ペルソナを教えてくれた師と同居人は、仇敵を追って駆け出してしまった。師の友人たち、言い方を変えると弟弟子たちは、その後を追いかけて行ってしまった。

 

「……」

 

 悠と陽介が復讐を遂げんとしている頃、クマは一人で菜々子の病室に身を置いていた。なぜならクマは、生田目は真犯人ではないと実は知っているから──

 

「ナナチャン……」

 

 ではない。クマは生田目太郎本人に特に思うところがないのだ。たとえ菜々子の仇であろうとも。クマが執心するのは『契約』だ。おかしくなり続ける向こうの世界を、美しかった昔の姿に戻してもらうこと。そして菜々子が元気になったら一緒に遊ぶこと。悠と結んだ最初の方は、いつ果たされるのか見当もつかない。もっともクマは悠を急かしていないし、いつになっても構わない。そして菜々子と結んだ二つ目の方は、永遠に果たされないことが決定してしまった。

 

「ナナチャン……可哀想クマね」

 

 病室にいるのはクマ一人である。ベッドに横たわる菜々子は、もはや『一人』とは数えられない。呼吸と心臓は既に止まっている。枕元に置かれた小さなクマのぬいぐるみと同じで、人の形でしかなくなった。もうしばらく時を置けば、形さえも失われる。自然の法則、言うなれば原初の『契約』に従って土に還ることが決定づけられている。

 

「パパさんは助けに来てくれないし、センセイはハーレムヤローだし、クマは……」

 

 堂島はテレビの中で娘の為には戦わず、今日もまだ来ない。悠は他の少女に目移りしてばかりで、菜々子の気持ちに応えることは遂になかった。ではクマはどうなのだろうか。クマは頼りない身内の男二人と比べて、菜々子の為にどれだけ良いことをしたのだろうか?

 

「クマは……何もしてやれなかったクマ……」

 

 クマは思う。菜々子と初めて会った夏の日、助ける為に戦った秋の日、そして共に春を迎えることができなくなった冬の今日。自分は菜々子の為に何もしてやれていない。父や『兄』と比べて、『許婚』は何も異なるところがない。ただひたすらに無力で、約束を果たせなかった罰を後悔として受けている。死んだ菜々子への哀れみと、生きた自分自身への恨みは等しかった。

 

 人間と人外の間には、乗り越えられない溝がある。溝の底には川が流れている──

 

「え……?」

 

 自分と菜々子の間にある断崖のような谷。死の国そのもののように、光の届かない底を流れる川をクマは幻視した。その実体は、クマ自身が流している液体だった。白い頬を何かが伝っているのに気付いて、クマは手を当てた。虚空から芽生えた青い目に、闇に潜む何かをこねて作った白い指を添わせる。

 

 美しい顔、光り輝く髪、しなやかな手足。悠からペルソナを与えられたクマは、テレビの外で生きていく為の人間の肉体を創造した。そしてまた新たなものが知らぬ間に生じていた。

 

「クマ……泣いてる?」

 

 涙だ。涙を流す者と言えば、それは──

 

「そうか……クマは、ピンクのワニだったんだクマ……」

 

 ある秋の夜の出来事だ。小雨が降る中で、クマは菜々子に物語を読んでもらった。大切な思い出の一つが蘇ると共に、多くのものが蘇った。一つの真実を見つけた時、それ自体が鍵となって秘密の箱を次々と開けたように、クマは連想的に気付いた。自分の正体、思いの源泉、そして自分の罪を。

 

「クマは小鳥を食べちゃったんだクマ……」

 

 深い深い森の奥、細い細い川の傍に住んでいた、奇妙な色のワニ。スモークのような霧に閉ざされた世界、白線の引かれたスタジオに住んでいた、奇妙な存在。誰とも分かり合えず、できることは何もなかった異形のもの。そしてそれと友達になった小鳥。

 

 だが小鳥はもういない。死んだのだ。殺したのはピンクのワニだ。

 

「ナナチャンを食べちゃったクマは、泣くしかできないクマね……。泣いて泣いて、湖になって……」

 

 童話は架空の話ではなく、真実だったのだ。童話の作者が死の間際に書き上げた物語は、現実以上の真実を語っていた。初めて聞いた時はただ悲しいだけだった人外は、真の意味を理解した。だが今となっては遅すぎる。

 

 しかし──

 

「ん……そうだ! そうクマ!」

 

 クマの脳裏に、否、無辺の虚無と繋がった精神に一筋の光が差した。クマは菜々子の為に何ができるのか、今からできることは何か。真実が満ちた物語は、その答えも教えてくれていた。それは──

 

「クマは、湖になるクマ。ナナチャンが笑って暮らす、湖になるクマ……」

 

 人間と人外の間にある壁は、人間同士の間で存在し得るどんな壁よりも高い。意地や思い込みでは、どうやっても越えられない。泣いても叫んでも現実はどうしようもない。越えるには何かの奇跡的な力が必要になる。例えば宇宙と等価の存在とか、神とかだ。クマはそのどちらでもないが、単に無力な人間でもない。人間には不可能でもクマには可能なことは、やはりあるのだ。

 

 自分が何者か知った生きた人外は、死んだ人間の手を取った。冷たいが、まだ硬くなってはいない。世界を創造した女神のように腐敗してはいない。間もなく来るはずの黄泉の兵士に、菜々子はまだ征服されていない。愛しい少女を守る為に何かをする、その最後の機会を少年は逃さなかった。祈りを捧げるように床に膝をつき、死者の手を両手で持つ。

 

「ピンク色のワニのことは、誰も思い出しませんでした。それでも湖は、今日もきらきらと輝いているのです……」

 

 クマは魔術の実践を始めた。呪文は物語からの引用である。言葉の上辺を単に繰り返すのではなく、深いところにある意味を噛みしめながら。心を込めて、全身全霊を傾けて詠唱する。その結果、自分が死んでも構わない。大好きな皆から忘れ去られ、誰にも思い出されなくなったとしても、悔いはない──

 

「我は彼、彼は我……」

 

 クマはペルソナ使いとしては、現実では召喚器があっても召喚できない。だが今日になって得た正しい認識が、一つの殻を破った。破れた殻の隙間から光が零れ出した。闇から生じた存在は、光と化した。

 

 ヘリコプターに乗ってポートアイランドから急行してきた堂島が病室に飛び込んできたのは、光が消えてから数秒後のことだった。

 

 

 

 

 窓が開けられて霧が流れ込んだ薄暗い病室。夢と現実が曖昧になりそうな八十稲羽にあって、闇の中心のような空間。八人の人間と二つの影がそこにいた。朧な影を従えた悠は生田目の胸倉を掴んで吊るし上げ、凶器を携えた相棒へと差し出す。陽介は超常の凶器、即ちペルソナでもって憎き『犯人』を叩き切ろうとしている。

 

 他の者の反応は様々だ。完二は復讐を見届けようと、二人の先輩を鋭く見据える。直斗は帽子のつばを下ろしているが、止めようとはしない。

 

「だ、駄目だよ……こんなの、絶対間違ってる!」

 

 そして千枝と雪子、りせは慌てている。だがペルソナを出せないペルソナ使いは、普通の人間と変わらない。テレビの中ならともかく、現実では三人の少女は無力だ。普通でなくなった二人の少年を現実で止める術はない。止められるのは、同じように現実でも力を行使できる者だ。つまりクマ──

 

「馬鹿な真似はやめろ!」

 

 ではなくて、シャドウワーカーである。

 

「堂島さん!」

 

 稲羽支部の支部長が生田目の病室に飛び込んできた。殺人を止めようとした者はもちろん、止めようとしない者も実行しようとした者も、全員がそちらを振り向いた。

 

「そいつを離すんだ」

 

 堂島が歩みを進めると、高校生たちは左右に別れて道を開けた。普段はおろか仕事中でもめったに見せない域の怒気が漲っている。召喚器は手にしていないが、制服警官のペルソナが今にも飛び出してきそうな鬼の気迫である。ややもすると、堂島は『俺がやるから、そいつを離せ』と言っているように思えてしまう。

 

「悠! 離せと言っているだろう!」

 

 もし本当に叔父が自分の手で『犯人』を殺すと言うのなら、甥も譲ったかもしれない。だがそうではないので、悠は離さない。頭上に立ち現れた血に塗れた影が発する禍々しい邪気を浴びて、悠自身もまた悪鬼の気迫を漲らせている。気の弱い人間ならば、ひと睨みで卒倒させられるだろう。

 

「叔父さんは平気なのか! 菜々子が死んで、こいつが生きてるなんて!」

 

「馬鹿野郎!」

 

 瞬間、閃光が走った。銃弾のような速さで飛来した鉄の塊が、悠の頬を打ち抜いた。

 

「ぐ……!」

 

 飛んできたのは力士めいたペルソナが放つ張り手ではなく、生身の拳である。だが重く、硬かった。十分に握りこまれて腰が入った、まさに鉄拳だった。堂島が悠に手を上げたのはこれが三度目だが、本気で打ったのは初めてだ。

 

 悠は特別捜査隊では最強のリーダーだ。実力は足立には及ばないものの、堂島には勝る。だが鬼刑事の本気の拳は、まさに大人が子供を折檻するように、高校生の体を窓際まで吹き飛ばした。弾みで生田目の胸倉を掴んでいた手が外れ、『犯人』は床に落ちた。

 

「平気なわけがないだろう!」

 

 そう、平気なはずがない。悠が『妹』を失ったのなら、堂島は娘を失ったのだ。生田目に言ってやりたいことはあるし、本当の本心では八つ裂きにしてやりたいくらいだ。だが堂島は心のままに振舞うことを、己に許していない。警察官として、特殊部隊員として。社会に生きる大人であれば当然のこととして。

 

「だがな……それでも駄目なんだ。小沢は何の為に、そいつを助けたと思ってるんだ!」

 

 結実は己の力と引き換えにしてまで、生田目を助けた。それは足立を人殺しにしない為──

 

「!……」

 

 壁に衝突して床に腰をつけていた悠は、思わず息を飲んだ。堂島はなぜ生田目を守るのか、その理由を卒然と悟った。それは悠を人殺しにしない為。家族であれば当然のこととして。子供が間違ったことをしていれば、殴ってでも止める父親の愛。悟ってしまった瞬間、頭上の禍津神は姿を消した。凶悪な光は双眸から去り、頬に痛みを感じ始めた。ついでに血の味を感じた。苦い。

 

「でも……それでも!」

 

 共犯者が矛を収めても、陽介のスサノオはまだ消えていない。振り上げられた凶器の刃は、瞬き一つで『仇』を斬殺できる状態であり続けている。

 

「黙ってろ!」

 

「……!」

 

 病室の空気が震えた。窓から流れ込む白い闇ごと吹き払うような、肌が痺れる大音声だ。陽介だけでなく、全員が一瞬身を震わせる。先月にシャドウを蹂躙した足立とは違う意味での、まさしく『大人の本気』である。一喝された高校生たちは、本当に黙ってしまった。

 

「それにな……こいつにはまだ聞きたいことが山ほどあるんだ。死ぬだの殺すだのは、その後だ!」

 

 床にへたり込む生田目を、堂島は見下ろした。甘さや優しさが完全に皆無な、峻烈極まる鬼刑事の目である。いっそここでひと思いに殺されていた方が、生田目としては良かったのかもしれない。そう思えた。

 

「……くそっ!」

 

 遂に陽介も振り上げた拳を解いた。腕を組んで奥歯を噛みしめる。それと同時にスサノオは姿を消した。陽介にすれば、もちろん無念である。想い人の仇、親友の『妹』の仇を、自分のペルソナで今すぐ殺してやりたい。だがこうなっては、こうまで言われては、憎悪を飲み込むしかなかった。

 

 そうして堂島が場を制圧したところで──

 

「堂島さん、鳴上君!」

 

 病室にもう一人が駆け込んできた。

 

「ここにいましたか……すぐに戻ってあげてください!」

 

 大人のペルソナ使いの一人、有里だ。

 

 有里は稲羽の出身ではないし、常駐を始めてまだ二週間ほどだ。町そのものにも事件の被害に遭った菜々子とも、稲羽にいるペルソナ使いたちの中で最も縁が薄い。もっともマーガレットによれば事態の元凶でもあるのだが、それを知っているのは当人くらいだ。言うなれば、有里は最も遠い所から来た異邦人なのである。そんな『部外者』が突然やって来たと思ったら、とんでもないことを言い出した。

 

「菜々子ちゃんが息を吹き返しました!」

 

「え……?」

 

「い、今、何て……」

 

「菜々子が……?」

 

 耳を疑うとは、こういうことを言うのだろう。少年少女ばかりか、堂島まで開いた口が塞がらずにいる。何を言われたのか分からない。これは夢か幻聴か。願望が形になって、あり得ない出来事が起きたように見せているだけなのではないか。思考が停止してしまう。

 

「とにかく病室へ! 彼は僕が引き受けます!」

 

「は、はい!」

 

 裁きの絆の担い手でもある先輩に促されて、悠は壁際の床から立ち上がった。生田目を置いて大急ぎで走り去った。もちろん堂島と特捜隊の仲間たちも続く。人が十人も集まっていた病室は俄かに人数が減って、影時間に似た霧を届けてくる風がより自由に吹き抜ける。

 

「全く……」

 

 後輩を見送った有里は、開け放たれたままの病室の窓を閉めた。そして『犯人』に向き直る。

 

「生田目さん、そろそろ本当のことを教えてくれませんか」

 

「き、君は……警察か?」

 

 有里が病院に来たのは、菜々子が危篤に陥ったと美鶴から連絡を受けた為だ。堂島や足立、悠から聞いてはいない。その為に来るのが遅れたが、かえって最善のタイミングで現れることになった。

 

「いいえ。でも貴方の事件に関しては、警察にも命令できる立場にあります。向こうの世界のことも知っています」

 

 有里がテレビの世界を知ってから日は浅いが、それはこの際関係ない。生田目の前に膝をつき、視線を真っ直ぐ合わせる。たった今殺されかけた男から信頼を奪い取ろうとするように。

 

「つまり貴方の話を本当に理解できる……ということです」

 

「ぼ、僕の言うことを……信じようって言うのか?」

 

「貴方以上に不思議な経験をしている人間は、この世に結構いるんです」

 

 世界は神秘に満ちている。有里が過去に経験してきた神秘は、生田目の上を行っている。異常な経験の質と量において、悠さえ今の時点では有里には及ばない。事実に裏付けられた経験者の自信が、生田目を落ち着かせた。

 

「今すぐとは言いませんけど、話してくれませんか? そうでないと、道を踏み外してしまう人が出そうですから」

 

「そ、そうか……」

 

 

 特捜隊七人と堂島は、病院の廊下と階段を揃って駆け抜けた。その間、誰も何も考える余裕はなかった。霧も殺人未遂も頭から飛んで、ただ自分の足に速く、もっと速くと命じるばかりだった。それでいて全員がほぼ同時に、初めにいた病室に戻ってきた。悠と陽介は出た時には雷や風のように走ったものだが、戻った時には常人の速さだった。

 

 元来た道を引き返した少年少女と刑事を迎えたのは、もう一人の刑事と医師だった。

 

「堂島さん! みんな!」

 

「足立! 菜々子は!?」

 

「生きてます……何が何だか分かんないっすけど、マジです!」

 

 病室のベッドにはワニの友達、もとい菜々子が依然として横たわっている。目は閉ざされている。戻ってきた家族を迎える為に、ベッドから身を起こすようなことはさすがにない。だが生きているのだ。

 

「ほ、本当に……? 一体どうして……」

 

 悠は半ば呆然として、横たわる菜々子の姿を見つめる。次いで視線を巡らせ、心電図モニターを見た。世界そのものの訃報の鐘だった機械は、確かなリズムを刻んでいる。まるで時間を戻したように。戻した長さは数分か数時間か数日か、はたまた数ヶ月か。菜々子と出会ってからの三つの季節、春と夏と秋の間にいくつも積み重ねてしまった罪がいつの間にかなかったことにされて、冬に下るべき死の罰を免れたように。

 

「何があったのか……私にも分かりません。ですが菜々子ちゃんは必死に生きようとしています」

 

 機械の傍らに立つ若い医師が説明した。もっとも何も説明していないに等しい。何の功徳があって罪が滅ぼされたのか。誰が代わりに罰を受けたのか。確かに本物だったはずの死を、死の演技をしていたに過ぎなかったようにしてしまったのは、一体何であるのか。誰が舞台の幕を下ろしたのか、医師は語らない。

 

 しかしこの際、原因は誰も気にしない。

 

「う、嘘じゃないんだよな……? 信じていいんだよな!?」

 

 陽介は顔をくしゃくしゃにして、喉から絞り出すように声を出した。そして問いに答えたのは医師ではなかった。

 

「う……んん……」

 

 ベッドの上の菜々子が身じろぎした。死の淵から生還した少女は、専門家や医療機器よりも明確に自分が生きていることを証明してきた。

 

「菜々子!」

 

 堂島がベッドの左側に、悠は右側にすがりついた。どこからか湧いてきた闇に侵食され、悪と不幸のはびこる八十稲羽にあって、不意に灯った小さな正義。小さな瞳が最初に映したのは父親だった。

 

「あ、おとうさん……」

 

「菜々子……!」

 

「きてくれたんだ……うれしい……」

 

 人生の意味であり生きる希望そのものの手を、堂島は両手で取った。温かかった。生きた血が流れていることを証明する体温が、確かな現実としてそこにあった。

 

「ああ……ああ! もう大丈夫だ。遅くなって、済まなかったなあ……」

 

 間が悪く遠い異郷へ出かけていた堂島は、菜々子の死に目に遭えなかった。済まなかったとはもちろんその意味もあるのだが、それだけではない。妻を亡くしてからずっと、影を操る異能を身に付けてしまった今年からは更に、娘から遠ざかってしまった。過ちに満ちた日々の全てを、父親は詫びた。

 

「おにいちゃん……」

 

 次いで菜々子は顔を反対側に向けた。そこには闇を掌握する異能を身に付けた兄がいる。

 

「ここにいるよ!」

 

「そっか……よかった……」

 

 菜々子は微笑み、頷いた。大好きな兄の身に何が起きたのか、何をしようとしていたのか、まるで妹は全てを知っているかのように。命を懸けた万感の思いを込めて頷いた。少なくとも、悠にはそう見えた。

 

「ああ……良かった!」

 

 殺すつもりがあったことと、実際に殺すことは別である。7月の悠は久保を殺すつもりだったが、機会を得られなかった為に殺せなかった。そして殺す力があることも、本当にやることとは別である。今日の悠は諸岡の時と比べて崖へ向けて一歩進んだわけだが、それでも完全に落ちはしなかった。身を躍らせたところで、堂島に殴り飛ばされたから。そして襟首を掴まれて引きずり出されて戻ってきたら、菜々子が待っていた。これが良いことでなくて何であろうか。

 

「ん……」

 

 家族が生きていることを見届けて、菜々子は再び目を閉じた。もちろん崖や死に落ちるのではなく、普通の眠りに落ちた。

 

「菜々子ちゃん……!」

 

「良かった……ホント良かった!」

 

 やがて他の者たちも各々感極まった。目を覆い、鼻をすする。たった数分前には悲劇に悲劇が上乗せされるところだったのに、一転して奇跡が起きたのだ。涙腺を保ってはいられない。

 

「はは……すげえぜ」

 

「こんなこと、あるんですね……」

 

「も、もう私どうしようって……うう……」

 

 今日は絶望のどん底まで落ちて、更に底が抜けたところで引き上げられた。上がったと思ったら、一気に天の高みまで見えそうになった。感情の振り幅は間違いなく人生最大のものだった。安堵と同時に疲労感も押し寄せてくる。

 

「峠を越したと言うべきか、昨日以前より状態は安定しているくらいです。順調にいけば、年内にも退院できるかもしれません」

 

「そうか……ありがとうございます」

 

「あ、ありがとうございます!」

 

 堂島は膝を起こして立ち上がり、医師に深く頭を下げた。高校生たちもそれに倣う。八つの頭が並んで、一斉に医師に向けられる。

 

「私は何もしていません。菜々子ちゃんを褒めてあげてください」

 

「はあ……つか君たち、もう夜遅いよ? 今日は帰んなさい」

 

 最後に足立が場を締めて、若者たちに帰るよう促した。すっかり疲れた顔をしている。

 

 

「あ、雪……」

 

 高校生たちが病院の建物から外に出ると、黒い闇を侵食する白の中で、また別の白いものが舞っているのに気付いた。一年の中で最も寒い季節が来たことを、何よりも明確に示す天の贈り物だ。今日は落ちて上がって激動を繰り返した少年たちを宥めるように、小さな白い粒がいくつも降ってきている。

 

「あ、ほんとだ……。生で雪見るなんて結構久々かも。でもこの霧だと、雪も綺麗に見えないな。さっさと晴れてよね」

 

「積もる頃には霧、晴れてるといいね」

 

 晴れてるといい──

 

 りせと雪子の口振りは当事者のものではないが、それが当然だ。戦いは少年たちの手から離れ、刑事や特殊部隊の手に移ったのだから。

 

 連続誘拐殺人事件は終わり、生田目は逮捕された。凶器その他の真相を知っている者は警察にもいる。まともな裁判は無理でも、犯人はただで釈放されることはない。よって少年たちが自ら手を汚す必要などない。そして異界から現実に忍び寄って来た霧への対処は、元より特捜隊の領分ではない。当たり前と言えば当たり前な、落ち着くべきところに落ち着いたのだ。

 

「花村、積もったらスキーとか企画してよ」

 

「ん、そうだな……この辺、滑れるトコあるよな」

 

 普通の高校生に戻った彼らが気にすべきものは、試験や進路である。そして遊びだ。

 

「あ、そうだ! 先輩、今日コタツ買えなかったじゃん? 明日また買いに行こ!」

 

 事態の当事者でなくなり、戦いの日々から解放された。そんな気楽さを込めて、少年たちは早速明日の約束をした。

 

「それじゃ、また明日な……」

 

 やがて三々五々、皆はその場を後にした。雪子が去り、りせが去り、千枝が去った。完二と直斗も去った。冬の証が降り注ぐ道路に最後まで残ったのは、共犯者の二人だ。

 

「あれ……そう言えば、クマ吉どうした?」

 

 二人である。クマはいない。生田目の部屋に行った時から、クマは師と同居人についてこなかった。

 

「もう帰ってんのかな……」

 

「後で連絡くれよ」

 

「ああ。じゃあ、またな……」

 

「また……な」

 

 立ち去る陽介を悠は見送った。親友の背が遠くなってから天を仰ぐと、滲んだ街灯の灯り越しに見る雪は奇妙に不吉なもののように思えた。

 

 ある朝目が覚めたら、窓の向こうに一面の銀世界が広がっていたとする。それはとても美しい情景だ。しかし今晩の雪にそんなロマンチックな思いは抱けない。秋までは綺麗で眩しくて、かけがえのなかった風景。その全てをたった一晩で覆い隠して見えなくする、暗黒の雪。異世界から流れてきた霧そのものが結晶化して、世界や人間が侵食されている。そんな暗示を、悠は額に落ちる冷たい雪から感じた。

 

 それでいながら絆が極まっている皆は優しい。殺人未遂をしたにしては不自然なくらいに。もう二週間も晴れずにいる霧と同じくらい不自然に。

 

(俺は……間違っていたのか)

 

 悠はようやく冷静になれた気がした。つい先ほどは、憎悪に任せて生田目を殺そうとした。あの時はそうしなければならないと、それ以外の道はないと思えた。妹の仇、恩師の仇、そして親友の想い人の仇を取る。その結果、少年院に入ることになろうと、超法規的な罰を受けることになろうと構わないつもりでいた。だがやはり間違っていたのだと、今になって思えた。

 

(叔父さん……)

 

 鉄拳が突き刺さった頬が痛む。冬の寒気に触れても止まらない痛みが、叔父との間に生じた溝そのものだった。

 

 菜々子は助かった。それは世界の滅亡が回避されたように喜ばしい。などと言えば誇大妄想的であるが、悠や堂島にすればそれくらいのことだ。では『滅び』を防いだその代償として、悠は何を支払わねばならないのか──

 

 

 一方、見舞い客が去った後の病院の一室では、二人の男が密談をしていた。菜々子の病室ではない、他の部屋だ。人目を憚って隠れて話す二人は、有里と医師である。堂島と足立はいない。

 

「原因は何だと思われます?」

 

 有里が聞いているのは、菜々子が『生き返った』原因である。入院患者の家族やその友人たちと違って、有里は菜々子と縁が薄い。少女が助かったことそれ自体は、もちろん良かったと思っている。だが思うだけでは済まさない。有里は異邦人、つまりは部外者である分、情に流されずにいるのだ。

 

「心肺停止からの生還はごく稀ですが、あり得ないことではありません。ですがシャドウやペルソナが関係しているとすると……もう少しあり得そうなことがあります」

 

 そしてそれは、港区の辰巳記念病院から来た医師も同様である。冷静にカルテを見つめる。

 

「一昨年の11月ですか」

 

「やはり貴方もそう思いますか」

 

 医師はカルテから顔を上げて有里を見た。眼鏡の位置を直し、改まった視線を送る。医師の眼鏡は霧を見通すことのできない、どこでも売られている普通のものだ。だが普通でない事態を、この眼鏡越しに見たことがある。

 

「吉野千鳥さん……あの出来事と似ている気がします」

 

 ポートアイランドにかつていた三人組のペルソナ使い、ストレガの紅一点だ。この医師はその担当医で、二年前にある奇跡を目撃している。死後二ヶ月以上も経過した遺体が蘇るという、まるで救世主が降臨して神の御業が行使されたかのような奇跡を。

 

 そして有里は過去に起きたもう一つの奇跡にも考えを巡らせる。

 

(アイギスとメティスの例もある……)

 

 臨月を迎えた妻と、その妹だ。実はアイギスは過去に一度『死んで』いる。もっとも当時のアイギスは死という概念自体が適用できるのかどうか、その段階から疑問符がつく存在ではあったが、とにかくそういう事態になった。生き返らせたのは妹だ。

 

(そうすると菜々子ちゃんは……いや、まだ分からない。堂島さんや鳴上君には言うべきじゃないな)

 

 有里は稲羽に住むペルソナ使いの誰よりも、不可思議な経験を積んでいる。その視点から考えると、菜々子の蘇生の要因にある程度の推測は立つ。だがそれを生き返った人の身内に伝えるのはやめておいた。確証はないし、仮に証拠なりを得られたとしても、それはそれでより難しい問題に直面しかねない。有里は妻の妹の為には何もしていないが、それと同じようなもので。

 

 

 八十稲羽に厳しい冬がやって来た。その最初の夜は菜々子の死で始まり、蘇生で終わった。大きな安堵を全員に、小さくない疑問を一部に残して。そして否定できない溝を残したままで、夜は更けていった。

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