ペルソナ4 落ち武者の神   作:三尺

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愛の形(2011/12/7)

 皆で食事をした夜に降った雪は長く続かず、翌日の地上には積もらなかった。いつもと変わらない、田舎の土とアスファルトが地面にはあるだけだ。転校した当初の悠は、都会にはない田舎の空気に感じ入ることもあった。しかし慣れてくるとそういう機会は少なくなった。そして今となっては空気の匂いを感じたいなどと思っても、天地の間を覆う霧によって妨げられている。

 

 あからさまな異常気象である霧は、どうすれば払えるのか。それは事件の真犯人を捜すのと同様に、特別捜査隊の領分ではない。堂島と足立、そして有里を始めとするシャドウワーカー本部、ついでに言うと警察の領分である。

 

 ただの高校生に戻った悠たちは普通に学校に通い、普通に授業を受けた。クラスの他の生徒たちは霧に怯えているのか、ガスマスクがどうとかの噂に花を咲かせていたが、悠は気にしないことにした。堂島たちが事態を解決すれば、噂は自然に収まるだろうから。しかし──

 

「鳴上さん。今日の放課後、ちょっと時間もらえます?」

 

 昼休みに悠はこんなことを言われた。言ってきたのは、特殊部隊の一員である。

 

 

 冬のこの時期は昼が短い。授業を終えるとすぐに夕闇が近づいてくる。一日中変わらぬ白い空気に赤色が滲む時間に、悠と尚紀は二人だけで対面した。場所は体育館の裏だ。告白や密談には向いた場所だ。

 

「俺、姉ちゃんを探しに行きたいんです。協力してくれませんか」

 

 そして前置きもないままで、藪から棒に言い出した。

 

「は……?」

 

 最近の悠は、予想しない方面から突然降って湧いた、不意打ちの一撃を食らってしまうことが多い。例えば有里からは菜々子が生き返ったとか。堂島からは生田目は殺人犯ではないとか。足立からは生田目は自分たちを救うつもりだったとか。そして今日は尚紀だ。理解が追いつかない先制攻撃をいきなり仕掛けられて、ボディーブローで息が止まるように思考が停止した状態になってから、後付けの説明がやって来る。

 

「姉ちゃんが落とされた場所、行ったことあるんですよね?」

 

「確かに行ったが……」

 

 訳が分からないが、聞かれたことには答えた。

 

「先月、小沢さんがどうやって生田目さんを助けたか、覚えてますか?」

 

「あれは山野アナのシャドウが……そういうことか!」

 

 ここで悠の理解が及んだ。尚紀は何をしようとしているのか、悠に何の協力を求めているのか。分かった気がした。

 

「はい。山野アナがいたんですから、姉ちゃんも今でもあっちにいるかもしれないんです。俺だったら見つけられると思うんです」

 

 尚紀がこの発想を得た契機は、昨日愛家で食事をした際に結実とした話だ。尚紀はペルソナが残っているが、結実は失った。では失ったのはなぜか。そこから尚紀は気付いたのだ。テレビの世界に『姉』がまだ存在している可能性に。

 

(そうか。小西先輩……と言うか、そのシャドウを見つけられれば……犯人について何か分かるかもしれない)

 

 悠を含む誘拐事件の被害者たちは、誘拐犯の情報を得られなかった。だから早紀も殺人犯の情報を必ず持っているとは限らない。だがもちろん試してみる価値は十分すぎるほどある。ただこの場合に悩ましいのは──

 

「……」

 

 悠はすぐには答えず、腕を組んで考え出した。戦いが特捜隊の手から離れたことを、昨日認めたばかりである。悔しさはもちろんあるが、仕方がないと自分を納得させた。それなのに、またしても事件の方から悠を引っ張り込んできたわけだ。

 

 だが安易に首を突っ込んでよいのかと、悠は自分自身に不安を覚えていた。一昨日足立に説明されるまで、誘拐事件の真相に何も気付けなかったくらいだから。物事を正しく認識して判断することに自信が持てなくなっていた。

 

「あの場所なら、叔父さんや有里さんも知ってるはずだぞ」

 

 霧が去らなくなった先月21日、悠はりせとクマをジュネスに連れてくるよう堂島に呼び出された。その理由は、テレビの中にいくつも生まれたダンジョンの位置情報を有里に伝える為だった。そういう用件だったことを、悠は後でりせから聞いた。

 

 余談であるが、りせはその際に有里は足立をも凌ぐ実力者であることを知った。しかしりせはそれを悠に伝えていない。自分たちは一体何なのかと、悩まされたから──

 

 遠回しに誘いを辞退しようとする先輩に対して、後輩は表情を陰らせた。なぜ特殊部隊の上司に頼まないのか、その理由を話し始めた。

 

「人から出たシャドウって、エグいんですよね?」

 

「……」

 

「あまり他人に見られたくないんです」

 

 簡単に言うと姉への気遣いだ。

 

「それにもしかしたら、本部のサポート役の人に探させるって話になっちゃうかもしれませんし……」

 

 あり得ない話ではない。有里は本部の情報系ペルソナ使いを呼ぶ予定だと、一昨日足立は話していた。その人はもう稲羽に来ているのかいないのか、現場から締め出されている尚紀たちには分からない。だがどちらにせよ、堂島たちに話せば早紀のシャドウを探す役目を奪われてしまう恐れがあった。

 

 つまり弟は自分で姉を探したいのだ。血を分けた家族への思いを感じて、悠は考え直した。

 

(そっとしておいたらいけないな……)

 

 悠は事件から手を引いた途端、昔からの悪癖である臆病な面倒くさがりが蘇ってしまった。だが尚紀の気持ちには応えなければならないと思った。一度目を閉じて、何事もそっとしておきたがる本来の性格を抑え込んだ。

 

「分かった。だが陽介も連れていきたい」

 

 目を開くと共に、後輩の頼みに応じた。ただし条件を一つ出した。

 

「……」

 

「4月に一度行ったきりなんだ。俺だけでお前に伝えられるか分からない」

 

 早紀の遺体が上がった4月15日、悠と陽介は向こうのコニシ酒店でペルソナを得たが、その後は一度もあの場所に行っていない。好んで行きたい場所ではなかったから。何ヶ月も前の記憶だけを頼りに、異様な商店街の位置情報を尚紀に伝えられるか、悠は自信がなかった。そしてもし『尋ね人』が本当にいるのなら、相棒にも会わせてやりたかった。

 

「……分かりました」

 

 かなりの時間をかけて、尚紀は頷いた。実は尚紀にすれば、陽介は『エグい』姉の姿を最も見られたくない相手であるのだが、それでも頷いた。

 

 

『え……何だって!? 向こうで先輩のシャドウを探す!?』

 

「ああ、手を貸してくれないか。あの場所を小西に伝えたい」

 

『分かった! すぐに行く!』

 

 相棒は電話で呼び出すと、すぐにやって来た。愚者と魔術師、刑死者のアルカナに属する三人のペルソナ使いの少年たちは、霧に怯えて閑散とした町をさっさと通り抜けた。そして客足がいつまでも回復しないジュネスの店内を駆け抜け、テレビの中へと飛び込んだ。

 

 少年たちは異世界への出入りを禁じられているが、ジュネスの家電売り場に見張りがいるわけでもないのだ。今後に公安が出張ってきたら見張られるかもしれないが、今はいない。三人の高校生は誰にも邪魔されずにスタジオに降り立った。特捜隊と稲羽支部高校生組が情報交換をした先月7日以来、ちょうど一ヶ月ぶりである。

 

「酷い霧だな……」

 

 来た途端、悠は声を漏らした。テレビの外は霧に侵食されているが、中も晴れてはいない。外の霧は中から漏れていると考えられるが、十数日も漏れ続けていながら供給側は枯渇していない。むしろ需要が増えた分、増産体制に入っているかのようである。クマの眼鏡を通してさえ、黄色がかった揺らめきが視界に入る。

 

 だが霧に気を留めたのは悠だけだった。尚紀は早速自分の右手を二人の先輩に向けて差し出した。

 

「お願いします」

 

「ああ……」

 

 尚紀の手は悠と陽介のどちらか一人にだけ向けられている、というものではなかった。そんな曖昧さを残して伸ばされた手を、陽介が先に取った。

 

「……」

 

「……」

 

 同じ女を契機として力を得た二人のペルソナ使いは、握手の形で初めて互いに触れた。陽介は人生最悪の出来事を経験した場所を脳裏に思い浮かべ、それを生み出した人の弟へ伝えようとする。尚紀は目を閉じて、情報系の能力を持たない者の不器用な精神の流れを、目の細かい網で受け止めるイメージを描く。

 

「……分かりました」

 

 時間にして数十秒で、尚紀はテレビの中の商店街の位置情報を受け取った。悠は伝えられるか自信を持てなかったが、陽介は一度のやり取りで伝達に成功した。それは相棒の二人は、最後の訪問から過ぎた時間は同じでも、思い入れの強さが異なっているからかもしれない。

 

「じゃあ行くか」

 

 悠が最初に歩きだして、尚紀が続く。

 

「はい。姉ちゃん、何で死ななきゃいけなかったのか……。会って、調べに行きましょう」

 

「……」

 

 4月15日も三人の男がスタジオから現場へと向かった。ただし顔ぶれは変わっている。当時の情報担当はクマだったが、今日は尚紀だ。そして当時は捜査に最も熱心で三人の先頭を切っていた陽介は、前を行く二人の後ろから黙ってついて行った。

 

(先輩に……会いに行くのか……)

 

 陽介の表情は暗い。相棒から電話を貰って尚紀の案を聞いた時は、協力を即決した。しかしいざ行くとなると、躊躇う気持ちが湧いてきた。

 

 都会から田舎に引っ越して一年以上が過ぎた。初めの頃は『ジュネスの息子』として周囲に白い目で見られ、親友と呼べるほどの者もできなかった。そんな時に優しくしてくれた人。好きになるのに時間はかからなかったが、気持ちを伝えることは最後までできなかった人──

 

 死んだ想い人に再び会える。それは夢のような出来事だ。普通であれば喜び勇んで、何を措いてもとにかく行きそうなものだが、陽介はそういう気になれなかった。早紀こそが陽介の戦う理由であったのに。復讐の為に自分の人生を投げ打つ覚悟だったのに。その覚悟は現実でのペルソナ召喚を可能にするほどのものだったのに、今になって陽介は躊躇っていた。まるで時の狭間で過去に戻る選択肢を与えられた人のように、陽介は悩んでいた。

 

(いや、先輩じゃねえ……先輩のシャドウだ)

 

『早紀』に会って、自分は何を言えばいいのだろうか。何を言われるのだろうか? 会ってしまったら自分はどうなるのか? どう変わってしまうのか? 己のアイデンティティに関わるこれらの問いの答えを、陽介は何も思いつかなかった。分からないままでいながら、悠と尚紀の後について行かない訳にもいかなかった。

 

 

「うちの店にそっくりだ……」

 

 いつにも増して濃い霧の中を歩いているうちに、三人の少年は目的地に辿り着いた。赤と黒で直線的に分割された空らしきもので覆われた、稲羽市中央通り商店街を模した風景。その最も奥まった区画に、異様なコニシ酒店はあった。外観は店名が書かれた看板から、二つ置かれた自動販売機や積み置かれたビールケースに至るまで、現実の店と瓜二つである。ただ出入口だけが、異界の空と同じ赤と黒の模様だった。4月に来た時と比べて、霧が濃くなったこと以外は少しも変わっていない。

 

「しかし……有里さんたちは、とっくに調べたんじゃないのかな?」

 

 入る前に悠は一つの懸念を口にしたが、尚紀は立ち止まらない。

 

「そうでしょうけど、有里さんの情報系能力は俺や久慈川ほどじゃないって言ってたじゃないですか。あの人が気付かなかったことでも、俺だったら……」

 

 有里は情報系ペルソナ使いとしては本職よりも劣る。先月20日に常駐を告げてきたメールの中で、本人がそのように言っていた。ならば取りこぼしがある可能性は否定できないはずだ。悠はつい後ろ向きなことを言ってしまったが、気を取り直して先を行く後輩の後について歩いた。歩きながら思う。

 

(そう言えば、ここや山野アナのマンションにりせを連れていってないな……。何でこういう発想がなかったんだ、俺……)

 

 今さらながら、悠は己の考えの浅さを思い知った。もちろん警察でも探偵でもない、ただの高校生では仕方のないことではある。今日の探索を発案した尚紀も、先月に山野のシャドウを目撃しなければ、早紀のシャドウについても思い付かなかっただろう。

 

 だが誰が最初に考えたかは、この際問題ではない。尚紀が先頭で悠が後に続き、最後に陽介がコニシ酒店に足を踏み入れた。

 

「……」

 

 初めて来た時は、ジュネスの陰口と小西家の一幕でもって迎えられたが、今日はそれがなかった。三人の男の沈黙を邪魔する存在はいない。十メートル以上の高みにある天井や、十年売り続けても有り余るくらいの商品が並べられた巨大な冷蔵ケース、林立する清酒の樽などを、尚紀は黙って眺めた。

 

(姉ちゃんの心を映した場所か……)

 

 実家の店だから、内装や商品の配置は本物と全く同じであることは、尚紀には一見して分かる。戯画的なまでに巨大化している点に関しても、尚紀にはその意味するところが何となく察せられる。まさしく姉にとって、小西家にとっての『現実』である。犯人に落とされたのが自分であっても、生み出された場所はここと似たものになったのではないか。そんな気がした。

 

「ん?」

 

 現実の店と同じ位置にあるレジカウンターに目を向けると、何かが置いてあるのに気付いた。歩み寄って見てみれば、切り裂かれた写真だった。断片の一つには早紀と陽介が写っている。背景はジュネスだ。

 

「ジュネスの写真……」

 

 4月に陽介が見つけたものである。陽介は持ち帰っておらず、ここにずっと置かれたままだったのだ。尚紀がそれに手を触れようとした瞬間、ペルソナの感覚に訴えてくるものがあった。写真を置いたままレジカウンターから振り返り、同行してくれた先輩たちに警告する。

 

「何か来ます!」

 

「シャドウか?」

 

 悠は身構えた。テレビの中ではどこにでもいる有象無象が襲ってきたのかと。それとも──

 

「これは……普通のシャドウと違います! まるで……」

 

 まるで──

 

 尚紀が最後まで口にする前に、『シャドウ』が現れた。かつて切り裂かれた写真を手に取った陽介に、早紀の『遺言』が語られたように。姉の秘密そのもののような写真を、弟が手に取ろうとしたその瞬間を狙ったように、ここに来た目的が現れた。イナバノシロウサギが四方に網を張って探すまでもなく、向こうからやって来た。

 

 積み上げられた酒樽の柱の陰からか、泳げそうな巨大な桶の中からか。もしくは冷蔵ケースの中からか。どこに隠れていたのか分からないが、とにかくテレビの中の酒屋の主は、文字通り飛んでやって来た。

 

「尚紀! 尚紀じゃないの!」

 

 狂ったように叫びながら。

 

「マ……マジ!?」

 

「本当にいたのか!」

 

 陽介は眼鏡の下の目を見開き、悠は口を大きく開いて驚愕した。虚空から突然生じたように姿を現したのは、生前の小西早紀そっくりの存在だ。服装は白の長袖シャツと、カーキ色のジーンズ。その上に赤と白のエプロンをしている。肩まで伸ばしたソバージュの髪に縁取られた顔の、その中心には黒い瞳があった。金色ではない。生きていた頃と同じ色である。

 

 金色に光らない存在。もしかするとこの『早紀』はシャドウではなく、八十神高校に通っていた本物の早紀なのではないかと思ってしまいかねないが──

 

(アルカナ刑死者、ヤガミヒメ……)

 

 五感以外の感覚で認識できる尚紀は、現れた『早紀』が何者なのかを瞬時に見破った。先月に金の瞳を隠した菜々子が現れた時、りせは正体をすぐに見抜いたように。情報系ペルソナは嘘を吐かない。これはシュークリームを取り合った人ではないと、尚紀には分かる。だが──

 

(いや、違う。この人は……)

 

 分かっていながら、また思い直す。そうして一人で葛藤している間に、『早紀』は右手を振りかざしてきた。

 

「尚紀ぃぃ!」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 反射神経に優れた陽介が動いた。弟を引き裂こうとする『姉』にしがみついて、強引に押し留めた。陽介は生身の体は細い。叔父にもやし呼ばわりされた悠とケンカして、引き分ける程度の体格だ。だが陽介のペルソナであるスサノオは、速度だけでなく膂力もかなりある。その力の恩恵を受けている陽介は、『早紀』を止めることができた。

 

 逆に言うと、ペルソナの力がなければ止められなかった。つまりジュネスのエプロンを着たこの女は、やはり人間ではないのだ。

 

「あんた、こんなとこで何してんのよ!」

 

「落ち着いてください!」

 

 次いで悠が大声を上げた。しかし『早紀』は悠には見向きもしない。自分にしがみついている陽介にさえ構わない。狂的な光を放つ黒い瞳は『弟』にのみ向けられている。

 

「あんたって昔っから、ホンットウザいよね! こんなとこまでしゃしゃり出て来て、何遊んでんのよ!」

 

 この世にはシャドウでなくても狂った人間はいるように、金色でないシャドウというものもいる。例えばピンクのワニのように。だが──

 

「姉ちゃん、待って!」

 

 それでも弟は『姉』を姉と呼んだ。

 

「……」

 

 するとシャドウは大人しくなった。まるで古い魔術によくある、金縛りの呪いでもかけられたように。『自分』を好きだった男に腰の周りに腕を回された状態のまま、動きを止めた。白い靴は床についていない。

 

「花村さん、姉ちゃんを放してください」

 

「あ、ああ……」

 

 言われて陽介は『早紀』を解放した。陽介は生前の早紀とアルバイト中に手が触れ合ったことくらいならあるが、想い人の体にこんなふうに触れたのは初めてだった。しかし何かの感慨を抱いたり感触を覚えたりする前に、陽介は手を離すことになった。そして離してなお、靴は宙に浮いたままである。

 

「姉ちゃん……探したよ」

 

 二人の先輩を脇に置いて、弟は改めて話しかけた。

 

「私はあんたの姉ちゃんじゃないわよ」

 

 だが空中に浮くシャドウはつれない。テレビの中に放り込まれた被害者は、自分のシャドウを否定するのが常だ。尚紀はもちろん、悠と陽介も現場はおろか映像でも見ていないが、早紀もその例に漏れないのだ。

 

「あんた、何しに来たの」

 

 貴女なんか私じゃない。4月にそう言われた『早紀』は早紀ではなくなった。『早紀』はそう言っているわけだ。弟ではない赤の他人を、シャドウは冷たく突き放す。

 

「姉ちゃんに会いに来たんだ」

 

 だが尚紀は相手を姉と呼ぶことをやめない。犯人について教えてくれ、とも言わない。

 

「会ってどうするの。あんた、早紀が死んで清々したんじゃないの?」

 

「……そうかもね」

 

「小西!?」

 

「お前、何言ってんだよ!」

 

 弟の言いように、他人の二人は慌てた。敵意に満ちた相手と交渉する場合、挑発的な物言いに敢えて同意するというのは、やり方の一つではある。しかし身内が死んで良かったとは、いくらなんでも言いすぎである。だが尚紀は止まらない。憎々しげな『姉』から目を逸らさず、手を伸ばして先輩たちを制して話を続ける。

 

「俺、刑事さんに聞かれたことがあるんだ。犯人が憎いかって。それで俺……いいえって答えたんだ」

 

 これは特殊部隊に加入して最初の霧の日、つまりデビュー戦を控えた7月8日の話だ。聞いてきたのは足立である。そして尚紀がこう答えたのには理由がある。もっともな理由が。

 

「その頃は、姉ちゃんは霧の日に町中で出るシャドウに殺されたんだって思ってた。俺も襲われて……その刑事さんに助けられたから、そうに違いないって思ってたんだ。それじゃ犯人なんて憎みようがないって思った。だって相手は人間じゃない。言葉も喋れない化物だ。そんなのに襲われるなんて、雷に撃たれて死ぬみたいなもんだ。天災と一緒で、誰を恨むこともできない……」

 

 現実のシャドウによる獣害事件と、テレビを用いた殺人事件。当時の尚紀に両者の区別はついていなかった。区別のしようがなかったのだ。そして獣害事件の犯人など憎みようがない。と言うより、犯人などそもそもいない。動物や細菌を恨んだところで、仕方がないのだ。

 

「でもそうじゃないんだ。ペルソナに目覚める前……刑事さんに聞かれる前から、何度も聞かれたんだ。マスコミとか近所の人とか、学校の奴らとか……。言葉で聞いてこなくても、目で聞いてくる奴もたくさんいた」

 

 世界の裏側に身を落とす前、尚紀は周囲の好奇心にさらされた。それは少年を酷く苦しめた。

 

「その時の俺は……憎いって答えた。だって、殺人事件の遺族ならそう言うのが当然だから」

 

 当時の尚紀は何もかもを見失っていた。何をすればいいのか分からず、何を思えばいいのかも分からない。期待されている言葉を、何も考えずに口にしているだけだった。憎いのか悲しいのか、それも分からなかった。何の脈絡もない突然の姉の死に、実感を持てなかったのだ。

 

「そんな時、シュークリームを冷蔵庫で見つけたんだ」

 

「ああ、あれ……」

 

「あれで俺……分かったんだ。姉ちゃんはいなくなったんだって」

 

 尚紀の悲劇は、初めて早紀の死に実感を持ったあの日に始まったのだ。だが悪いことに、シャドウの声を聞いたのがその時だった。しかも当時の稲羽支部が最も必要としていた情報系の能力に目覚めた。

 

「特別な力を手に入れて……俺、舞い上がったんだ……」

 

 あの日、尚紀は『特別』になったのだ。遅刻や早退がカウントされないとか、皆が遠巻きに眺めるとかとは違う。学校や世間で特別扱いされるという意味ではなく、誰か一人の特別な人という意味でもなく。霧の災いに襲われた町を守る為に、決して欠かせない人材になった。世にも稀な超能力者になって、君の代わりはいないと言われて、舞い上がってしまったのだ。

 

 それと同時に、姉の死は獣害事件であるという解答が与えられた。それで尚紀は事件への気持ちに区切りをつけたのだ。家族の死に実感を持って、辛さを感じるはずだったちょうどその時、目を背ける口実を得てしまった。そちらへ走って当然なくらい魅力的で、しかも道理まである絶好の口実を。

 

「……」

 

 尚紀の告白が始まってから悠と陽介はずっと黙っていて、身じろぎもせずに聞いていた。だがこの時、悠は視線を床に落とし、陽介は腕組みをした。しかし沈黙を続ける他人に構うことなく、シャドウとペルソナ使いの話は続く。

 

「じゃあ今はどうなの。犯人が憎い?」

 

 口実はもう失った。目を背けることはできない。だから今の尚紀は、こう聞かれなければならない。

 

「はいかいいえの二択なら……『はい』だよ」

 

「何で?」

 

「俺は姉ちゃんが可哀想だと思っている。それを『犯人が憎い』って、呼ぶこともあるだろうから」

 

 人は感情のある生き物だ。事実や道理だけでは生きていけない。だが人の感情というものは、どうすれば実体と表現が一致するのだろうか。言葉によって語られた感情は、一体何によって保証されるのだろうか。ましてたった二つの選択肢から選ばれた答えが、全ての感情を言い表しているなどと、どうして言えるだろうか。

 

 犯人が言葉で語った犯行動機は、指紋や凶器などの物的証拠と違って即自的なものではない。被害者遺族が語る言葉も同様だ。記号表現と記号内容は同じではない。

 

「じゃあ二択じゃないなら?」

 

「二択じゃないなら、『どうでもいい』だよ。犯人とか凶器とか……そんなのはどうでもいいんだ。俺はただ……姉ちゃんが可哀想なんだ」

 

 殺人事件の遺族が犯人を憎むことは、犯人その人を憎むこととは限らない。遺族の言葉にならない感情に敢えて付けた名前が、憎悪であるに過ぎなければ。犯人が不明ならなおさらである。だからたとえ犯人が逮捕されて死刑になったとしても、気持ちが晴れない遺族は数多い。つまり犯人など『どうでもいい』のだ。尚紀にとって犯人はどうでもよく、ただ早紀を案じているだけだ。

 

 早紀はなぜ死んだのか? 尚紀がこの問いを発する時、犯人や凶器を聞いているのではない。復讐を望む陽介とはその点が異なる。

 

「そうね……早紀は可哀想だったわね」

 

 シャドウは表情を変えた。ウザい家族を睨みつけるでもなく、挑発するでもなく。悲しむような、申し訳なく思うような、そんな顔を見せた。

 

「私が殺しちゃったから」

 

「!……」

 

 尚紀と異なる陽介は、再び身じろぎした。組んだ腕に力が入り、指が上着の袖と肉にめり込んだ。

 

 早紀はテレビに放り込まれ、そこで自分のシャドウに殺された。コニシ酒店の長女で、八十神高校の三年生で、ジュネスでアルバイトをしていた小西早紀を殺したのは、早紀自身のシャドウである。つまり陽介の想い人を奪ったのは、眼前にいる鏡像──

 

「だからね、犯人は私なのよ」

 

 テレビの外にいる犯人は、早紀を窓から落としただけだ。実際に殺したのは、テレビの中にいる犯人。即ち『早紀』──

 

「違うよ」

 

 だがシャドウの言い分を、尚紀は認めない。本体がシャドウを認めないのとは違う意味で、尚紀はシャドウを認めない。

 

「何が違うの?」

 

「あんたは小西早紀だよ」

 

 厳密に言うならば、尚紀の言葉は正しくない。シャドウと本体は不可分だが、完全な意味において同一人物とまでは言い切れない。それを分かった上で、尚紀はこう言う。それはある種の不条理だ。言い方を変えると、愛。陽介にはないが、尚紀にはあるもの──

 

「ウザくて、我がままで、ずっと俺を子供だって思ってる……俺の姉ちゃんだ」

 

 尚紀は両手を広げた。自分を殺せる力のある相手を前にして、武装解除するように。あらゆる宿命と現実を受け入れて。本体が自分の影を受け入れるように、姉の影を受け入れた。

 

「そうよ……そしてあんたは小西尚紀」

 

 降参したような弟に向けて、姉は微笑んだ。実家の店も家族も、ジュネスも近所の人も、何もかもがなくなればいい。かつてそう言った、悪意に満ちたシャドウが笑ったのだ。生前の頃そのままの、誰にでも優しい笑顔を見せた。

 

「馬鹿で、生意気で、どうしようもなくウザい……私の弟」

 

 ペルソナ使いとシャドウは、互いが互いを姉と弟として認めた。たとえ客観的な真実ではなかろうとも、確かなものとして言挙げした。すると二人の間に、一つの存在がふと湧いて出た。唐突に。

 

「!?……シロウサギ?」

 

 燕尾服を着た白い兎のペルソナ、尚紀のイナバノシロウサギだ。使用者が呼んだわけでもないのに、勝手に表に出てきた。先月に一条のエビスと結実のキサガイヒメが勝手に現れたように、今日もペルソナが自ら動いた。道理を超えた魔術的な宣言に応じるように、姉弟の和解を祝福するように。元より自分ととても近しい者に、更に一歩近づこうとするように。

 

『我は彼、彼は我……』

 

 そして喋った。密やかな牙の生えた口から、意味のある言葉を発した。

 

「ふふ……貴方は私ってことね」

 

 喋る兎に向けて、早紀は手を伸ばした。ペルソナも動物の手を伸ばし、シャドウの手と触れ合う。その瞬間、光と闇が交錯した。

 

「え……!? 先輩のシャドウが……尚紀のペルソナと!?」

 

 己の影を受け入れることで、シャドウはペルソナに変わる。それはつまり、シャドウとペルソナは同じものであるということ。そして4月15日にはこの場所で、陽介のシャドウが他の有象無象と融合して大型化した。その後も場所を変えて何度も同じことが起きた。つまりシャドウやペルソナはそれ自体が一つの個でありながら、枠を超えて他者と一体化することが可能なのだ。4月の早紀は陽介のシャドウと融合しなかったが、今日はした。

 

「そうか! 小沢の時と同じ……!」

 

 シャドウ同士は融合できるし、ペルソナ同士が融合して進化、変容することもある。そしてシャドウとペルソナが融合することもできる。桐条グループがシャドウ研究を始めた時代から現在に至るまで、前例はいくつもある。それがここでも再現された。

 

「スセリビメ……」

 

 イナバノシロウサギとヤガミヒメは、どちらもいなくなった。代わって立ち現れた、新たな存在の名を尚紀は口にした。それは真っ白な経帷子を着た女の姿で、薄布で顔を隠している。布からはみ出たソバージュの髪は、肩まで届く長さだった。

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