合流し、濁流へ   作:終夏祭日

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錠前

 天気は晴天、五月下旬なのに最高気温は二十五度を超えていて、湿度は七十パーセントと少し。

 頬に伝う汗を手の甲で拭い、あまりの熱さで顔をしかめた。 エアコンのリモコンを探したが、そもそも部屋にエアコンがない事を思い出してため息を吐く。

 

 今、僕は人の部屋にお邪魔しているのだが、彼女は僕をリビングに通したらすぐにシャワーを浴びに行ってしまった。

 廊下から聞こえる水音がその証左。 勝手に冷蔵庫を漁ろうかと思ったが、流石に彼女はそこまで金があるわけじゃないし、そもそも行儀が悪い。

 出てくるまで暇をつぶそうと思い本棚を覗いてみたが、中にあるのは十年近く前——二〇四二年度の参考書ばかりだった。

 それに、大学の赤い問題集がいくつか並んでいただけ。 あとは科学雑誌ばかりで、興味の惹かれるものはあまりない。

 電子書籍で買ってるのか、それとも彼女は本に興味がないのか。

 

 ならば仕方ない。 水切りラックのコップを一つ拝借し、冷えた水出しコーヒーを頂くことにする。

 台所をざっと見まわしてスティックシュガーを探してみたが、一本たりとも無かった。 僕に無糖は苦すぎるが、彼女の好みだとしたらそれは仕方ない事だろう。

 テーブルの近くに座り込むと、卓上に転がっているビール缶が目に付いた。 大方、昨日飲んで酔っ払って寝て、朝起きても捨てずに放置していたのだろう。

 手に持ってみると、若干のアルコールの残り香がある。

 駄目な泣き上戸の大人め。

 ゴミだからと捨てようとしたのだが、ふと少し前の出来事を思い出した。

 あれは確かバイト帰りの夜だ。

 

 


 

 

「うわっ、もう十一時になる……」

 

 点々とした街灯の光では力不足か、道路は夜闇と繋がったように真っ黒だ。

 青少年の健全な育成の——かの長ったらしい名前の条例で外出が禁じられる時間が迫る上、バイト帰りでへとへとなのもあって一刻も家に帰りたかった。

 ため息を吐いてもすぐに町に溶け込んで消えていき、夜の涼しさが頬を撫でる。

 今日の住宅街は静かだ、少なくとも近辺に馬鹿騒ぎをしている人はいないようだ。

 どうやら今日の住宅街は静かで、酒で馬鹿騒ぎをしている人はいないようだ。

 平日火曜日の深夜に騒ぐような人はいないらしく、少しスッキリした気持ちで——

 

「はぁぁぁ……ひっう、あぅ……もういやだよぅ……」

 

 いや、一人いた。

 しかも目の前の共用通路にだ。

 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにし、インターホンの近くにしゃがみ込んでいるようだ。 片手にビール缶を握っているので、恐らく酔っぱらいなのだろうと推測できる。

 丁度、僕の住んでいるマンションの隣の物件で少し気まずいし、あまり関わりたくないものだ……。

 さっさと目の前を通り抜けてしまおう。

 

「ひっぐ……うぇ、おうち帰りたぁ……」

 

 缶に口を付けたが、中は空っぽだったらしくてグッと握りしめたらまた鼻をすすりながら泣き始める。

 果たして彼女はいつからここで泣いているのだろうか。

 思わず足を止めてしまったが、話しかける必要があるか分からずにいる。

 十二分に人生が壊れたというのに、これ以上人生を壊す必要があるのだろうか?

 だが、その葛藤はすぐに飲み込めてしまった。

 僕の好奇心が、建てていた計画を全て崩してしまう。 まるでそれは猫がコップを落とすのと同じように。

 一歩二歩と近寄って、ハンカチを差し出した。

 

「ひっく、ひっく……ぇあ? なにぃ……」

 

「別に」

 

 素っ気ない返事を返してみたが、彼女は覚束ない手でハンカチを受け取ってくれた。

 涙を拭いて、流石に理性が踏みとどまっているのか鼻水は腕で擦った。

 

「鼻水もちゃんと拭いて」

 

 そっと彼女の手からハンカチを取り、そっと鼻水もふき取る。

 ちゃんと顔を見ると、やつれているが非常に整った端整な顔立ちをしている。

 目のクマは濃いがツリ目で二重の綺麗な瞳をしているし、フェイスラインは綺麗な曲線だった。

 

「そぇ……んー、んねぇ、それ、汚れるよ……」

 

「安物だから大丈夫」

 

「んぁ……ひゃぁい……」

 

 自分の藍色のハンカチはすっかり鼻水と涙で汚れきってしまった。

 そっと汚れた面を折り畳むが、正直洗濯機に放り込むのは若干気が憚られる。

 あとで一回水につけてから洗っておこう。

 

「あー……流石に、酔い……覚めてきちゃった……かも。 あ、あはは……」

 

「それで、家は」

 

「え? ここ……あっ!? そうだカードキー無くしたんだったわ!!」

 

 酔いが覚め切った様子で憔悴し始める。

 近くに落ちていた小さい鞄をひっくり返す勢いで探し始めたが、しばらくして動きが止まる。

 

カランカラン

 

「カードキーはないのにお酒はある……!! 少年よ、ここは出会いの盃を」

 

「……僕、未成年なんだけど」

 

「んなぁ、それは駄目だぁ……うーん、よし、少年よ~……良かったら一晩泊めてくんない? あ、出来たらシャワーと朝食付けてくれたら神なんだけど」

 

「まだ酔ってるなら強硬手段を……」

 

「やいのやいの物騒な~。 お姉さんはこう見えても実は結構腕が立つよ?」

 

 一瞬見せられた獰猛な視線に一瞬怯んでしまい、その隙にお姉さんに肩を組まれる。

 アルコールの匂いが頭をクラクラさせてくる。

 ああ、本当にこれは関わらない方が良い面倒事だった。

 もっと好奇心に自制という物を掛けるべきで——

 

「ね、少年だけが頼りなんだよ~」

 

 頼り? 僕だけが?

 心拍が早まり、様々な記憶と感情が濁流のように押し寄せる。

 口角が少し上がってしまい、単純な自分が見え透いてしまう。

 思わず肯定するところだったが、かぶりを振る。

 

「だ、駄目です。 親切にはしましたが、見ず知らずの他人を家になんか」

 

「えー? ……じゃあこうしよう。 私は葛籠 霞、何の変哲もないここ葱津(そうつ)区の住民。 ということで怪しい人物じゃないんだなぁこれが」

 

 共用通路で酔っぱらって泣いてた人が怪しくないだって?

 どういう冗談のセンスなのだろうか? 壊滅的というか最悪というか、もっと磨いた方が良いとしか言えない。

 思わず吐いた溜息はn回目、そろそろ家に帰りたかった気持ちを思い出してきた。

 

「自己紹介で信頼を得ようって魂胆です?」

 

「いやいやそんなつもりは……まぁ、ほんのちょっとしかなくて」

 

「……」

 

「ホントのホントに一泊だけだってー! ね? ちゃんと明日管理会社に連絡して家に戻ったら、ちゃんとお礼するからさ~? ね、ほら、折角助けたお姉さんが凍えて夜を過ごすだなんて罪悪感感じちゃうでしょ?」

 

 非難の眼差しを向けているのにも関わらず、若干へらへらとした感じで続けられる。

 思わず眉間に皺を寄せ、溜息を吐いてしまう。

 

「もう分かったから……一泊だけならいいですよ……」

 

「やったー!」

 

 散らばっていた小物を全てまとめて鞄に詰め、既に人の家に乗り込む準備が出来ている様子だった。

 なんなんだこの人はと思いつつも、どことなく放っておけない気がして仕方がない。

 自分はここまで世話焼きな人間ではないはずだというのに。

 

「あ、そうそう、少年の名前は?」

 

「え、あ、僕の名前?」

 

 咄嗟に自分の名前が発声できず、一瞬喉が詰まった。

 自分の名前なんて一つしかないというのに。

 

「た……鷹之巣 依寄」

 

「じゃあ依寄君な、よしよし早速だけど君の家はどーこだ!」

 

「すぐ隣です」

 

「んなっ、拍子抜けしちゃったなぁ……って、んん!? お隣さん!?」

 

 確かによくよく考えてみたら、このお姉さんのお隣だ。

 つまるところ、今後もこの人と関わることになるかもしれない、ということであって……。

 ああ! なんたることだ!

 だが先程言ったことをすぐに変えるのは、なんとなく好きじゃない。

 仕方なく僕は玄関ドアを開ける。

 

「ふふふ~、にしても依寄君か……いーよーりー、君……ね」

 

「な、なんですか」

 

「んーん? 別に。 いい名前だね」

 

「……別に」

 

 玄関ドアを閉じた。

 

 


 

 バタン。

 廊下の方から扉の音が聞こえた。

 

「ん~、依寄ー。 あ、そういえば缶捨て忘れてたっけ」

 

 手に持っていたビール缶を見て、パタパタと寄ってくる。

 後ろからぎゅーっと抱きしめられると、ふんわりとした匂いがした。

 お姉さんの風呂上がりの体温で暑苦しくぼんやりと、どこか浮かされたような気持ちになってしまう。

 

「お、お姉さんっ……暑いって……」

 

「でもさー、依寄の体がひんやりしてて気持ちいいのが悪いと思わないか〜? ほれほれ〜」

 

 頬と頬が触れ合う。

 すりすりしようとしたらしいが、汗でくっついてしまったのですぐにやめてしまった。

 背中に当たる柔らかい感覚が背徳感を演出し、ほんのり甘いシャンプーとリンスの香りがムードを築く。

 少し前に知り合った女の人と、まるで親しい男女みたいに過ごしているだなんて、あらゆる状況が二転三転する僕に僕自身が酷く嫌悪してしまいそうだ。

 

「はぁ……暑いなら飲み物でも飲みません?」

 

「それが私に魅力的に映ると思った〜?」

 

「ええ、まぁ……っ、あっ、ちょっと、お姉さんっ」

 

 僕の体を抱きしめていた手の片方が動く。

 つつーっと体の輪郭をなぞる指先は、決して言い訳ができない範囲へと行くことはない。

 

「……なーんて。 あは、本気にした?」

 

 パッと指先が離れ、そして彼女の腕の中には私はいなくなった。

 背中の感覚は軽くなり、振り向くとニヤニヤとしたお姉さんが立って見下ろしている。

 夕暮れの光が彼女を橙に染め上げていた。

 やつれた茶髪の先は、湿気でくるりとしている。

 

「少年ってば、ホント純朴だね~」

 

「……てっきり襲われるのかと」

 

「ぷっ、流石に"それ"は犯罪だよ?」

 

 おかしそうに笑いながら、彼女は冷蔵庫から水出しコーヒーを出した。

 カップに並々注ぎ、ごくごくと飲むその喉に視線が釘付けになる。

 

「……ぷはー。 ほんとに可愛いなぁ。 ほらほら、私ってばただほーんの少しからかっただけじゃんね。 ねぇ、依寄くん?」

 

 全くもって調子狂う。

 思春期の男子を何だと思っているんだ。

 

「んー、まぁ、この前のお礼だと思っといて~」

 

 彼女の傷んだ髪も、今は濡れていて毛先が夕焼けに染まっていた。

 このまま夜が更けても、都会の夜は明るすぎてビルの不健康さに染まってしまう。

 思いっきり溜息を吐いて立ち上がった。

 

「なら、髪の毛乾かしてあげますからそれで貸し直します」

 

「あ、あれ~!? これで貸し借り無しでせいせいした~とかじゃないの!?」

 

「……今は無しです」

 

「んん~……まっ、いいか。 あは、いないと駄目かもっ」

 

 今、一瞬顔に出そうになった感情を寸で飲み込む。

 肩を掴んでぐるっと廊下側に向かせ、背中を押して進ませる。

 

「わーわーわー、ごめんごめん~」

 

「ふん……ほら、行きますよ」

 

 


 

 ドライヤーで濡れた髪を乾かしていると、段々と傷んだ髪になっていく。

 濡れてる方が綺麗だし、一生プールにでも入ってれば———それはそれで塩素で色が少し抜けていってしまうか。

 それに、都会のプールなんて殆どみんな汚いし、ちょっとそれは嫌だ。

 

「あっ、そうだ。 ねえねえ依寄君」

 

「ん? なんですか、このおんぼろドライヤーで聞こえにくいんですけど」

 

 鏡に映るお姉さんは、腑抜けた顔でされるがままだった。

 一緒に後ろ側にいるのは自分で、暗い面持ちだった。

 手に髪がくっついたりして、少々やりずらい。

 しかも大分髪の毛が長いので、これは時間が掛かる。 ……というか、どこから乾かせばいいんだ?

 

「いや~、その……千円でいいからお金貸してくれたり~……」

 

「はぁ? そんなの……」

 

「あ、いや、全然冗談でぇ……」

 

 目を逸らしながら、半笑い。

 この場合考えられるのは、誤魔化してるだけで貸してほしい場合だ。

 しばし無言で、ドライヤーの音だけがしていた。

 

「……きっちり返してくれるんですよね?」

 

「っ!! も、もっちろん!! この普遍的天才の霞お姉ちゃんが倍……あ、いや、いってんごー……うーん……いってんにーごー……」

 

「別に倍とか、そんなんじゃなくていい……まったく……」

 

 手元は動かしながら、悪態を付くのは口だけにする。

 全く何なんだ本当に。

 ……なんでこんなに親し気にしてるのかだとか、そんなものをもう考えるのはもうやめだ。

 必要としてくれている、これだけでいいだろう。

 

「乾かすのむずいっしょ~?」

 

「……まぁ、少し」

 

「お姉さんが有料級情報を提示しちゃおう。 長い髪の毛は根元からやった方が早いよ、ほらやってみて」

 

 恐る恐る根本の方に風を通す。

 

「そう、それで……髪を指の間を通して」

 

「指にくっついて、やりずらっ……」

 

「あっはは! わかる~……」

 

 持ち上げた髪で見えた根元に風を当てる。

 ドライヤーを左右に軽く振りつつ、全面を少しずつ乾かしていくと、段々とサラリとしてくる。

 こうやって長い髪が維持されていくのだと勉強になると同時に、ぼさぼさになるのは彼女の手入れ不足なのだろうとも思った。

 例えば、乾かし足りないとか。

 このお姉さんの事だから全然あり得るし、自然乾燥でいいやと投げ出しそうだ。

 ……なら、どうしてジッとしてくれているのか不思議なところだが。

 

「……まぁ、手入れしづらいし、早いところ切りたいんだけどね!」

 

「ならどうしてですか? 」

 

「なんで、かぁ……うーん、難しいね。 強いて言えば、『切りたくない』だけかな。 高校卒業してからずっとそのまま。 おかしいよね、お姉さんに恋心なんてないのに」

 

 大体が乾き始め、あとは後ろの長いところだけだ。

 根元に近い方から熱を当て、風で舞わせ、段々とサラリとしていく。

 

「依寄はお姉さんみたくはなるなよっ! なーんて。 ……あは、ほんと、ならないでよ。 酒もギャンブルも、煙草も。 全部良い物なんかじゃない。 あーあ、私どうしちゃったんだろ、酔ってもないのにこんなにべらべらとさ」

 

「僕はお姉さんのそういうところ好きですよ」

 

「あははっ、好きだと~? こんの生意気小僧め~、そんなこと言われても……そんなこと言われても、ほんとに何も出せないよ?」

 

 鏡に映った彼女は、どこか罪悪感に押しつぶされそうで、瞳には空虚しか映っていなかった。

 冗談を言っただけみたいな口調だったが、それでも口元は泣き出しそうなぐらいに震えている。

 彼女の目元はまだ乾いているが、毛先は湿ったまま。

 ドライヤーの電源を切り、そっと壁に掛けた。

 騒音が消えたというのに、彼女は動かなかった。

 

「別に、貴方が差しだす物を欲してるわけじゃないですよ」

 

「なら……なら、何が欲しいの?」

 

 少し持ち直したのか、それでも相変わらず遠い目の彼女は振り返った。

 鏡越しじゃない見つめ合い。

 私はため息を吐いた。

 

「今は貴方の時間だけでいいです。 ほら、乾かし終わりましたよ」

 

「へ? って、ホントだ! すごい! さらっさらだ!!」

 

 ハッとなった彼女は自身の髪に指を通し、さらさらの髪を実感していた。

 危なかった……変なことを言った気がするがなんとか逸らせた。

 さてと、あとでお金を渡したら家に帰って、今日の宿題でも終わらせるとしよう。

 ……そういえば、なんで家に招待されただっけ。




今話の担当_んぎょ
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