異変
■日本国 東京
中央暦1638年
昭和22年1月上旬
大戦の爪痕も癒えぬ、昭和22年。
終戦までの日まで行われた空襲によって、日本各地は大きな被害を受けていた。
かつて帝都と呼ばれた東京も、終戦までに100回以上の空襲を受け、多くの被害を出していた。
特に昭和20年3月9日の大空襲は、死者約8万4000人に及んだとされている。
終戦からようやく二年が経った現在では、状況はやや落ち着き、各地の復興の目途も立ち始めていた。
首相官邸の執務室。
首相、武田茂は山積みになった書類を睨んでいた。
食料問題や復興予算の不足、連合軍との折衝、5月3日の憲法施行に向けての計画。
深夜まで頭を悩ませ、気分転換に茶でも飲もうかと湯呑を手にしたとき、机や家具が大きく揺れた。
(地震? 大きいぞ・・)
深夜のはずなのだが、大きな揺れと同時に、窓から眩い光が部屋中に溢れた。
(空襲!? まさか!?)
揺れと光はすぐに収まった。
部屋を飛び出した武田は慌ただしく電話機の元へに駆けて行った。
いまだバラックが建ち並ぶ今の東京は、たとえ小さな災害でも相当な被害を受けるだろう。
武田は各所に電話して担当者を叩き起こし、被害状況を集めるよう指示した。
翌朝
首相官邸や主要な省庁は、日本始まって以来とも思える大騒ぎとなっていた。
まず、海外との無線が通じなくなった。
加えて、一夜のうちに、日本各地に進駐していた連合軍が装備や人員を含め、軒並み消えていたのだった。
混乱を防ぐため久方ぶりの厳戒令が出され、状況が分からないまま数日が過ぎた。
異変の第二報は、南方からの引き揚げ者を乗せて帰国した復員船、氷川丸からもたらされた。
曰く、出港後、それまで周囲にあった島々や陸地が消失したとのことである。
各省庁は情報収集に努めたが、それ以上の情報は入らず、状況の整理もつかぬまま、さらに1週間が経った。
終戦後の食糧、資源の不足で、連合国からの支援を頼りとしていた日本は、このままでは、早晩力尽きるのは明白だった。
そこで、止む負えず、残存艦艇や航空機の中から動けるものを集め、秘密裏に付近を探索する案が採用された。
当時は連合軍の許可無く艦艇や航空機を動かすことは禁止されていたため、捜索を公にできなかったのだ。
海からの探索は、復員船となっていた第一号型海防艦30隻のうち10隻と、旧式ではあるが石炭焚きで燃料の心配がない巡洋艦八雲、空からは解体待ちの一式陸攻16機のうち8機を。
それぞれがなけなしの燃料を詰め込まれ、藁にもすがる思いで各方面に送り出された。
昭和22年当時には解体されていた艦艇が一部出てきますが、そこはファンタジーと割り切って下さい。
また、残存機のうち何割が未解体だったのか不明でしたので、終戦時の1割程度と勝手に想定しています。
なお、某怪獣映画と異なり、史実通り高雄は解体されています。
なお、生き残りの大型艦は旧式巡洋艦八雲のみ、その次に大きいのは3700トンの輸送艦宗谷です。