■イルメリア専制公国
領都マリポリ 領主館
翌朝、神聖ミリシアル帝国の使節団は、マリポリの高台に建つ領主館へ招かれた。
十二月の朝は遅かった。午前九時を過ぎて、ようやく東の空が明るくなり始めたものの、雪雲に遮られた日差しは弱く、灰色の海峡を照らすにはいかにも頼りなかった。夜のうちに降った雪は屋根や庭木の上に残り、石畳には凍りついた箇所も見える。港から吹き上げる風は冷たく頬を刺した。
領主館は豪奢な宮殿というより、古い城館と修道院を一つにしたような建物であった。厚い石壁に深緋色の旗が垂れ、低い塔と円蓋が冬空の下に並んでいる。後世に増築された部分こそあったが、全体には長い年月を経た建築に特有の落ち着きがあり、昨日目にした港湾設備とは、まるで別の時代に属するもののように見えた。
使節団は外套を預けると、案内役に従って回廊を進んだ。壁には、独特の技法で聖人や歴史上の人物を描いた絵画が掛けられ、その下には木製の長椅子が置かれている。一見すると何世紀も前から変わっていないような廊下であったが、注意して見れば、壁面には細い情報端末が目立たぬように埋め込まれていた。
技官ゴルメスは、昨日から何度も見てきたこの取り合わせに、もはや驚きこそしなかったものの、いまだ慣れることはできなかった。
やがて、一行の前で両開きの重い扉が開かれ、その先に天井の高い広間があった。
床には深緋色の絨毯が敷かれ、白い円柱の上には金色の装飾が施されている。壁には幾何学文様と植物文様を組み合わせた幕が垂れ、冬の弱い日差しを受けた金糸が鈍く光っていた。周囲には香の残り香が微かに漂い、宮廷とも神殿ともつかない静かな重みがあった。
広間の奥には、すでにイルメリア側の者たちが待っていた。長衣をまとった政務官、外務を担当する官僚、濃紺の礼装に身を包んだ近衛士官。その中央に立つ若い女性を見て、シワルフは足を止めることこそなかったが、わずかに目を細めた。
イルメリアの元首、専制公。
宝飾を誇示するような装いではなかったが、衣装そのものに古い権威があった。
事前資料で知っていたはずであったが、「専制公」という称号から受ける老練な印象と、実際に目の前にいる人物との間には、やはり隔たりがあった。
使節団が所定の位置まで進むと、ユリアは静かに一礼した。
「遠路はるばるようこそ。イルメリア専制公、ユリア・テオドラです。神聖ミリシアル帝国の皆様を歓迎します」
シワルフも丁重に礼を返した。
「神聖ミリシアル帝国、西部担当外交部長シワルフでございます。このたびは我々一行をお迎えくださり、厚く御礼申し上げます」
ユリアは彼らに順に視線を向け、それぞれに軽く頭を下げた。
「長い航海でお疲れでしょう。席にお掛けください」
一行が用意された席へ移ると、ユリア自身も中央の椅子に腰を下ろした。
そこでゴルメスは、広間の印象とは裏腹に、会談の準備にはほとんど無駄がないことに気付いた。各人の前には紙の資料と薄い板状の情報端末が並べて置かれており、必要な資料はどちらでも閲覧できるようになっている。神聖ミリシアル側がどちらを好むか分からないため、最初から両方を用意したのだろう。
シワルフはそれ気付いていたが、まずは本来の目的から話を始めた。
「今回の訪問について、改めて申し上げます。我が神聖ミリシアル帝国は、先進十一か国会議に先立ち、五国連盟諸国との正式な外交関係を整えたいと考えております。とりわけ貴国とは、これまで直接意見を交わす機会がほとんどありませんでしたので、まず相互の理解を深めることが重要であると判断いたしました」
ユリアは軽くうなずいた。
「承知しています。我が国も、神聖ミリシアル帝国との友好関係を望んでいます。外交使節の相互派遣についても、異存はありません」
返答は簡潔であったが、素っ気ないという印象はなかった。必要なことだけを述べる人物なのだろうと、シワルフはすぐに理解した。
航路や港湾利用、今後の外交窓口についてひと通り話を進めたところで、シワルフは昨日の印象に触れた。
「マリポリに入港しまして、我々もいささか驚かされました。我が国にも自動制御システムはございますが、貴国では、それらが特別な設備ではなく、日常の道具として広く使われているように見受けられます」
ユリアは、なぜそれが驚きになるのかを考えるように少し首を傾けた。
「人が行う必要のない作業は機械に任せています。その方が安全ですし、費用も抑えられます」
いかにも実務的な答えであったため、シワルフはわずかに笑みを浮かべた。
「なるほど。技術を誇示するためではなく、必要だから使っているということですな」
「はい。その方が合理的です」
そこでゴルメスが、昨日から気になっていたことを尋ねる許可を求めた。
「専制公殿下、技術について一点、伺ってもよろしいでしょうか。昨日から街を見ておりますと、貴国では古い建築物と、我々から見ても高度な設備が、ほとんど同じ場所に存在しております。聖堂や城館に限らず、一般の住宅街もかなり古い街並みを残しているようですが、意識して保存されているのでしょうか?」
ユリアはすぐには答えず、質問の意味を確かめるようにゴルメスを見た。
「建物が古いことが、不思議なのですか?」
「古いことそのものではありません。我が国でも歴史的な建築は保存します。ただ、新しい設備を導入する場合、都市の方を造り替えることが多いのです。昨日拝見した限り、こちらではむしろ、新しい設備を古い街に合わせているように思えました」
そこでようやく、ユリアは質問の意図を理解したらしい。
「使える建物を壊す必要がありません。歴史的な価値があるなら、なおさらです。新しい設備が必要なら、既存のものに合わせます。不都合が大きければ、その部分を変えます」
「つまり、伝統を守ることを何より優先しているというより、使えるものを残しながら必要な部分だけ更新している、と考えればよいのでしょうか」
「それで構いません。ただ、古いものは嫌いではありません」
最後の一言だけ、ユリアの声が少し柔らかくなった。
ゴルメスは、昨日から抱いていた違和感の正体をようやく理解しかけていた。
この国は、過去を守るために未来を拒んでいるのではない。古いものに価値があれば残し、必要なところに新しいものを加える。その判断に大仰な理念はなく、驚くほど実務的であった。
シワルフも同じ印象を抱いたらしく、広間を見回しながら言った。
「昨日、ゴルメスが貴国を評して、古い国でありながら非常に新しい国でもある、と申しておりました。今のお話を伺うと、その意味が少し分かった気がいたします」
ユリアはゴルメスへ視線を向けた。
「そのように見えますか」
「正直に申し上げれば、かなり。我々は技術が進歩に合わせ、都市や生活様式が変わることに慣れております。ですが、この国では何百年も前からある街並みと最新の設備が、同じ時代に並んでいる。それが非常に興味深いのです」
ユリアは少し考えた後、静かに答えた。
「どちらも、今あるものですから」
ゴルメスはそれを聞いて、小さくうなずいた。この女性にとっては、それ以上の説明を必要とする問題ではないらしい。
会談がしばらく進んだところで、今度はシワルフが少しばかり好奇心を含んだ表情を見せた。
「ところで、専制公殿下。我々の艦について、港務局の方々が随分と熱心に観察されていたようですが、何か珍しい点でもございましたかな?」
その質問に、ユリアはわずかに目を伏せた。すぐに答えなかったのは、言い方を選んでいたかららしい。
「特徴的な艦型だと思いました」
外交的には無難な答えであったが、シワルフは引き下がらなかった。
「特徴的、ですか。差し支えなければ、どのように見えたのか聞かせていただけますかな」
ユリアは今度こそ少し困った顔をした。
「創作に出てくる宇宙戦艦に、少し似ていると思いました」
パーシャは表情を変えなかったが、ゴルメスは思わず隣のザマスへ目を向けた。
シワルフは少し間を置いてから、慎重に言葉を返した。
「宇宙を航行する艦、でございますか」
「はい。形だけですが」
ユリアには相手をからかう意図などないらしく、淡々と答えている。
シワルフは苦笑ともつかぬ表情を浮かべた。
「我が国のゴールド級は、もちろん洋上艦として運用しております。そのような感想を受けたのは、これが初めてでございます」
「失礼でしたか」
「いえ、少々意外だっただけでございます」
そこで話が終わるかと思われたが、ゴルメスは別のところに関心を向けていた。
「殿下は、宇宙艦についても知識をお持ちなのですか」
ユリアの視線が、ゆっくりとゴルメスへ向いた。
「知識としては知っています」
「では、実物については?」
問いを重ねた瞬間、シワルフがわずかにゴルメスへ視線を送った。
ユリアも少し間を置いたが、不快そうな様子は見せなかった。
「実物があれば、ぜひ見てみたいものです」
柔らかな口調ではあったが、ゴルメスはすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました。技術屋の悪い癖が出ました」
「構いません」
ユリアは話を本来の議題へ戻した。
その後の会談は、先進十一か国会議の日程、外交使節の相互派遣、貿易、技術交流など、実務的な問題を中心に進んだ。ユリア自身は細かな制度や数字について長々と説明することはなく、必要な場合には隣に控えた政務官へ発言を譲ったが、判断を求められた時には迷わず結論を示し、可否を曖昧にすることもなかった。
会談が進むにつれ、シワルフは目の前の専制公とこの国がよく似ていることに気付いた。服装も、広間も、儀礼も古いが、その中で行われる政治は簡潔で実務的である。
何百年も前からある建物の横を無人車両が走り、古い城館の内部で高度な情報端末が使われる。一見すれば矛盾しているようでいて、この国の中では何も矛盾していなかった。
会談が終わる頃には、まだ午後三時を少し過ぎたばかりだというのに、窓の外はすでに夕方の色へ変わっていた。灰色の海峡の向こうでは最後の明るさ失われ、街路や家々の窓に灯る光が、暗くなり始めた街並みに浮かび上がっていた。
「イルメリア専制公国」の国号を「北方ローマ専制公国」に変更することについて、皆さんはどう思われますか?改称した場合も「イルメリア」の名称は地名などで継続使用します。
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現行 今のまま。
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改称 第九話で北方ローマ専制公国に改称