■イルメリア専制公国 領都マリポリ
中央暦一六三九年三月中旬
領主館
「姫さま、ユリア様!」
一向に起きてこない主に、侍女は部屋のドアを開けて中を確認した。
古風だが手入れの行き届いた室内。上質の木材でできた調度品。
落ち着いた緋色のカーテン。
それらを台無しにする、電源の入ったままのデスクトップPCとノートPC、散乱した資料。
床に散らばった紙に描かれた、用途不明の機械のラフスケッチ。
ひっくり返ったマイセンのカップ。
クルミ材の作業机に突っ伏した部屋の主は、白いナイトガウン姿で、ブルネットの髪には寝ぐせがついていた。
よくある光景であった。
「姫さま、いつもいつも……せめてベッドでお休みになってください」
だらしなく机に突っ伏す主を、侍女のタニヤが揺さぶった。
「……タニヤ、まだ夜ですよ……朝まで寝かせてくだ……」
それを無理やり着替えさせ、髪を整えても、少し油断すると、そのまま倒れ込んでしまいそうである。
「姫さま、今がその朝でございます。それと警備隊本部から『警戒レベル、IからII』との連絡です」
その一言で、ユリアの目がはっと開いた。
「タニヤ、常装を用意して。急ぎます」
雰囲気の変わった主を送り出したタニヤは思った。
(そうやって初めから起きてください……)
■日本国 東京
クワ・トイネ公国日本大使館
「……ですので、ロウリア王国との開戦後は、貴国との契約量の農産物輸出が困難になると思われます」
クワ・トイネとロウリアの国境に、ロウリア王国が兵力を集結させていた。
戦闘が近いと判断したクワ・トイネの大使は、日本側に事情を説明するため訪れていた。
外務官僚の田中は、その言葉を聞いて絶句した。
今の日本における外務省の役割は、他国との関係構築によって、国家の窮乏と孤立を防ぐことだった。
肥沃な穀倉地帯を持つクワ・トイネ公国から、日本に何より必要な食糧を確保できたのは幸運だった。
さらに幸運なことに、クワ・トイネの友好国であるクイラ王国では、日本が必要とする量を十分にまかなえる原油や鉱物資源が確認されていた。
開国以来、資源不足に悩まされてきた日本にとって、その慢性的な悩みが転移によって解決できたともいえる。
もっとも、本格的な採掘が始まるまでは、国内の乏しい備蓄をやりくりしている状況だったが、それでも以前に比べれば、生活に支障のない程度にはなってきていた。
そこに突然、食糧輸入途絶の可能性が知らされた。
もしクワ・トイネからの食糧輸入が途絶えたら、今の日本は一年と保たないだろう。
「なんとかなりませんか? 我が国は輸入が途絶えると、非常に困るのです」
田中はクワ・トイネの大使に確認した。
「我々としても心苦しいのですが、ロウリア王国は軍事大国です。国境付近でロウリア軍が集結中との報告が上がっています。戦闘が始まった場合、最悪はいくつかの都市を放棄しなければならない事態も想定されています。そのような状況では、輸出量を確保し続けることは非常に困難との本国の判断です」
「せめて貴国からの援軍があれば……」
大使は、藁にもすがる思いであった。
「我が国の憲法には、『武力の行使は、国民の生命、自由および幸福追求の権利が脅かされる場合において、自衛の措置としてのみ許容される』とあります。まだ具体的な被害がない現状では、『自衛の措置』としての判断はできないと思いますが……」
「では、申し訳ありませんが、食糧輸出は困難になる可能性が高いと思われます」
田中は続けた。
「最後までお聞きください。自衛の措置としての派兵は難しいと思いますが、国境付近の都市の開発支援を行うことは可能だと思います。そして、紛争の危険がある地域ですので、多少の護衛を付けることもできると思います」
千代田区霞が関。
外務省の駐車場に、直線を基調とした一台の車が停まった。
最近、日本政府が公用車として用い始めた「コモディ」と呼ばれるコンパクトカーである。
イルメリアから数十台が提供されたコモディは、全長三メートル未満と小型ながら、あらゆる面で国産車はおろか、欧米の高価な自動車をも凌駕していた。
車から降りた田中はロデニウス大陸課に駆け込み、先ほどクワ・トイネの大使から得た情報を伝えた。
「田中君、ご苦労だった。君の報告は急ぎ上げさせてもらう。もっとも、同様の情報が内閣経由で伝えられているがね」
ロデニウス大陸課の課長は、田中にそう伝えた。
イルメリアからの第一報を受けた政府は、すでに動いていた。
そして、その日の午後に開かれた緊急会議で、開発支援の名のもと、クワ・トイネ公国への戦力派遣が決定された。
世界を二分した戦争を色濃く覚えているこの国は、国家存亡の危機に対して敏感だった。
■ロウリア・クワ・トイネ国境付近
中央暦一六三九年四月十一日午前
クワ・トイネ公国外務部から、国境から兵を引くよう何度も魔信で連絡が繰り返されたが、ロウリア側はすべてこれを無視した。
すでに開戦は秒読み段階であった。
ロウリア王国東方討伐軍 本陣
「明朝、ギムに侵攻する」
ロウリア軍の将、パンドールは、ギム侵攻の先遣隊三万の指揮権を与えられていた。
歩兵二万、重装歩兵五千、騎兵二千、特技兵――攻城部隊、投射機兵などの特殊兵科――千五百、遊撃兵千、魔獣使い二百五十、魔導師百、そして竜騎兵百五十である。
パンドールは満面の笑みを浮かべ、麾下の部隊を見つめていた。
竜騎兵――ワイバーンは、一部隊わずか十騎で歩兵一万を翻弄する空の覇者である。
それが百五十騎。
竜騎兵は高価な兵種である。ロウリア王国の国力では、本来なら全軍で二百騎を揃えるのが限界であった。
だが、今回のクワ・トイネ侵攻に参加する竜騎兵は五百騎。
噂では、第三文明圏フィルアデス大陸の列強、パーパルディア皇国から軍事支援があったとされている。
いずれにしても、対クワ・トイネとしては過剰ともいえる竜騎兵百五十騎に、パンドールは満足していた。
「将軍、ギムでの戦利品はいかがしましょうか?」
副将のアデムがパンドールに話しかけた。
アデムは残虐な騎士であった。
ロウリアが周辺国に侵攻した際、アデムが占領地で行った非道は、語るに耐えないと言われていた。
「アデム副将、貴官に任せる」
「承知いたしました」
アデムはパンドールに一礼すると、後ろに控えていた部下に命じた。
「全軍に通達! ギムでの略奪を許可する。好きにしろ。女は嬲ってもいいが、その後はすべて処分せよ。一人も生きて町を出すな」
「はっ!!」
すぐさま天幕を出ようとする部下を、アデムは呼び止めた。
「やはり、嬲ってもいいが、百人ばかり生かして解放しろ。恐怖を伝染させろ。……それと、敵騎士団の家族がギムにいた場合は、なるべく残虐に処分しろ」
恐怖の命令。
人の皮を被った悪魔。
そう思いながらも、部下は天幕を飛び出し、命令を忠実に伝えて回った。
アデムに指示を出したパンドールは、ふと思い出したように彼に尋ねた。
「それと、アデム副将。ギム周辺に出した斥候が戻らないとの話を耳に挟んだのだが、何か聞いているか?」
「さて……大方、周辺の村で略奪に夢中になっているのではありませんか?」
クワ・トイネ侵攻の総兵力五十万、先遣隊三万。
近代以前の軍では、軍の統制は五千人程度が限界だったと言われている。
いかに魔信という通信手段があっても、中世レベルのシステムで全軍を統制するには難があった
「イルメリア専制公国」の国号を「北方ローマ専制公国」に変更することについて、皆さんはどう思われますか?改称した場合も「イルメリア」の名称は地名などで継続使用します。
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現行 今のまま。
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改称 第九話で北方ローマ専制公国に改称