東方の光
中央暦一六三八年、春。
イルメリア艦隊は、初めて日本の港に入った。
白く塗られた艦体は、まだ煤けた港湾の風景の中で、ひどく異質に見えた。
整然と並ぶ艦影。
静まり返った甲板。
そして、どこか儀礼めいた気配。
歓迎の式典は、簡素ながらも丁寧に行われた。
だがその一方で、街のあちこちには戦争の痕が残っている。
瓦礫の山。
仮設の建物。
痩せた人々。
それでも、港には人が集まっていた。
白い軍艦を見るために。
そして、そこに立つ異国の人々を見るために。
ユリア・テオドラは、その様子をしばらく艦上から眺めていた。
風はまだ冷たい。
春とはいえ、北の国に比べれば穏やかなものではあったが、肌に触れる空気には、どこか乾いた気配があった。
「……静かな国」
誰にともなく呟く。
返事はない。
当然であった。
彼女は、一人だった。
護衛も、随員もいない。
――いつものことであるが。
艦隊司令部が気付いたときには、すでに遅かった。
彼らの皇女殿下は、姿を消していた。
東京。
瓦礫の残る街の中に、ひときわ異質な建物があった。
煉瓦と石で造られたその建物は、日本の街並みの中では明らかに浮いていた。
小さなドーム。
十字架。
そして、静かな佇まい。
正教会。
ユリアは、扉の前で足を止めた。
しばし、見上げる。
(……ルーシの様式ですわね)
派手ではない。
荘厳というほどでもない。
だが、確かにそこにあるもの。
ユリアは静かに扉を開け、中へ入った。
内部は、外の喧騒とは切り離されたように静かであった。
柔らかな光。
燭台の炎。
香の残り香。
そして、壁に並ぶイコン。
ユリアは、一つ一つを見ていた。
構図。
色彩。
線。
見慣れたもの。
だが、どこか違う。
足が止まった。
一枚のイコンの前で。
聖人の姿。
伝統的な構図。
だが――
光の扱いが、僅かに異なる。
陰影が柔らかい。
視線の奥行きが、わずかに深い。
「……これは」
小さく呟く。
近くにいた司祭が、振り返った。
「日本の画家が描いたものです」
静かな声であった。
「ロシアで学び、こちらで描き続けた方でした」
ユリアは、しばらくそのイコンを見つめていた。
長い時間だった。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……形は守られておりますのね」
確認のように言う。
「ですが――」
一拍。
「この光は……この地のもの、ですのね」
司祭は答えなかった。
ただ、わずかに頷いた。
ユリアは、再びイコンを見た。
その目は、先ほどよりわずかに柔らいでいた。
「……良いものですわ」
それだけ言った。
その頃、港では小さな騒ぎになっていた。
「姫様が見当たらんだと!?」
「艦内、港湾、すべて確認済みです!」
「またか……」
慌ただしく動き回る近衛と士官たち。
数刻後。
「……おられました」
疲れ切った声で報告が上がる。
「どこだ」
「……教会です」
沈黙。
「……ああ」
誰かが、諦めたように息を吐いた。
夕刻。
ユリアは、何事もなかったかのように戻ってきた。
「……どちらへ行かれていたのですか」
抑えた声音。
「少し……見に」
簡潔な答え。
「……何をでありますか」
ユリアは、少しだけ考えた。
「オリエントの……光を」
それだけを言った。
東方の光。
それが誰の言葉であったのか、記録には残っていない。
ただ、その日以降。
ユリアのイコンに対する眼差しが、わずかに変わったと、側近たちは後に語っている。
幕間です。
ここに入れるのが良いかと思い、遡って挿入しました。