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■北のローマ
北方ローマ皇国は、転移前にイルメリア公領が属していた国家である。
その起源は、十二世紀にまで遡る。
東ローマ帝国皇族の一系が、動乱を避ける形で北方へ逃れ、フィンランド南部とイルメリア諸島を拠点として生き延びたことが、この国家の始まりであった。
それは計画された建国ではなく、ただの退避であり、偶然であった。
だが、コンスタンティノープルが陥落し、他の系譜が次々と歴史から姿を消す中で、北欧に残ったこの一族だけが、生き残ってしまった。
後世において、彼らは「正統」と呼ばれるようになる。
それは選ばれたからではなく、最後まで残っていたからに過ぎない。
皇国の国制は議会制を基盤とする立憲君主国であり、皇帝は象徴的存在である。
この体制は理念の産物ではなく、厳寒の地と限られた領土という環境において、内紛が即滅亡に直結するという現実から生まれた必然であった。
国土はスカンディナヴィア半島全域と周辺諸島から成り、皇都パレオラは、かつてのヘルシンキに相当する場所に置かれていた。
なお、皇国は東ローマ帝国の後裔を自認しているが、長い年月の中で現地ノルド人との混血が進み、外見的にも文化的にも、古代ローマやギリシャの面影はほとんど残されていない。
■技術と遺跡
北方ローマ皇国が高い技術力を有する背景には、偶然発見された外宇宙文明の遺跡――正体不明の調査船が存在する。
発見当初、この遺跡は「聖なる工房」として扱われ、金属インゴットの生成など、用途不明のまま利用されていた。
学問と技術の進展に合わせて、遺跡の理解は徐々に進み、十五世紀には銃砲部品、十九世紀には蒸気機関部品、二十世紀には電子機器や高出力機関の開発に寄与するようになる。
皇国の技術的優位性は、創造ではなく、精密な模倣と改良の積み重ねによって形成されたものであった。
この遺跡の存在は、皇国にとって最大の秘密である。
遺跡の管理は国軍上層部と皇統、そして正教会上層部による限定的な共管体制の下に置かれている。
信仰は、奇跡を語るためではなく、沈黙を守るために機能していた。
国家、軍、宗教は理想によって結ばれているのではない。
秘密が漏れれば、国家が滅びるという一点において、利害が一致しているに過ぎない。
■歴史
北方ローマ皇国の歴史は、東ローマ帝国の滅亡史と切り離して語ることはできない。
十二世紀、東ローマ帝国皇族の一人が、当時キエフ公国の影響下にあったフィンランド南部とイルメリア諸島を購入したことが、皇国の起点とされている。
それは新国家建設というより、あくまで一族の退避先の確保であり、帝国の周縁に過ぎなかった。
だが十五世紀、コンスタンティノープル陥落によって東ローマ帝国が滅亡すると状況は一変する。
帝国の遺民、官僚、技術者、軍人、聖職者が、黒海沿岸や東欧各地から北へと流入し、スカンディナヴィア沿岸に集結した。
この時点で、北方ローマは「建国」されたのではない。
ただ、滅び残ったものが寄り集まり、結果として国家の形を取ったに過ぎなかった。
十八世紀に入ると、拡張政策を強めるロシア帝国がバルト海へと進出し始める。
これに対抗するため、北方ローマはイルメリア諸島の要塞化を進め、その防衛を担う忠臣に自治権を与えた。
これが、後にイルメリア公領と呼ばれる専制公領の始まりである。
こうして、イルメリア公領は「盾」としての役割を担うようになる。
北欧の寒冷な地理条件と島嶼構造は、外敵の侵入を阻むのに最適であり、一方で、内通や裏切りを許さない、練度の高い組織となっていった。
第一次世界大戦において、北方ローマ皇国は強力な艦隊を背景に中立を維持した。
だが、第二次世界大戦では状況が異なる。
共産体制へと転じたロシアとの間で、いわゆる「冬戦争」が勃発し、皇国は直接侵攻を受けた。
撃退には成功したものの、バルト海南部の一部島嶼を失い、南東部カレリア地方は戦禍によって荒廃した。
この戦争は、北方ローマに教訓を残した。
生き残るには、力を誇示するよりも、力を見せない方が良い場合があるという現実である。
■バルト海条約について
第二次戦後、北方ローマ皇国は周辺諸国と共に「バルト海条約」を締結する。
この条約は一九六〇年、共産ロシアの呼びかけによって提唱され、バルト海およびその周辺地域の平和と安全を名目として成立した。
参加国は、共産ロシア、北方ローマ皇国、ポーランド人民共和国、デンマーク王国、その他バルト海沿岸諸国である。
主な内容
・バルト海および周辺地域における武力行使の禁止
・バルト海沿岸諸国に対する軍備制限
具体的には、
・排水量三千トン以上の戦闘艦艇の保有禁止
・一万トン以上の補助艦艇の保有禁止
・主力戦車および戦闘車両の新規調達禁止
・軍用航空機の新規調達禁止
・口径一二〇ミリ以上の火砲の保有禁止
・射程一〇キロ以上の誘導兵器の保有禁止
などが定められた。
各国は、この条約が共産ロシアの主導による勢力固定を狙ったものであることを、薄々感じ取っていた。
だが、批准を拒めば、それ自体が軍事行動の口実を与えかねない。
結果として、バルト海周辺諸国は条約の枠内で防衛力を整備する、という消極的な選択を取る。
ただし、二つの国家を除いて。
■条約の裏側
共産ロシアは、条約の適用外となる内陸部および衛星国において、新兵器の開発と運用を進めた。
条約は「バルト海周辺」を制限するものであり、射程の外での開発までは縛れなかったからである。
一方、北方ローマ皇国もまた、独自の抜け道を見出していた。
バルト海条約に批准していない自治領――イルメリア公領に、先端産業、軍需工廠、研究施設を段階的に移転し、拠点化を進めたのである。
名目上、それらは民生産業、あるいは基礎研究施設であった。
実際には、共産ロシアを想定した最新装備が、公然と配備されていた。
共産ロシアはこれに対して抗議を行ったが、強硬には出られなかった。
自らもまた、衛星国の部隊を条約の外縁に駐留させていたからである。
こうしてバルト海は、表向きは非武装地帯として扱われながら、
その縁辺では、静かな軍拡競争が続いていくことになる。
北方ローマ皇国は、常に一歩引いた位置に立ち続けた。
前に出れば狙われ、退けば沈む。
その中間で踏みとどまることだけが、生存の条件だった。