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■北方ローマ皇国
北方ローマ皇国は、転移前にイルメリア専制公国が属していた国家である。
東ローマ帝国の後裔を自認していたが、長い年月の中で北欧の諸民族との混血が進み、一部の上流階級を除けば、外見的にも文化的にもローマやギリシャの面影はほとんど残されていない。
国制は皇国議会――元老院を基盤とした立憲君主国である。
パレオロゴス家が代々務める摂政皇を国家元首とし、政治の実務は元老院と内閣によって担われていた。
その皇都パレオラはヘルシンキに相当する場所に置かれ、領土はスカンディナヴィア半島を中心に、アイスランド、グリーンランド、バルト海の島々などから構成されていた。
北方ローマ皇国の起源は、十二世紀に遡る。
東ローマ帝国皇族パレオロゴス家の傍系は、ヴァリャーグ傭兵との結びつきを背景に、黒海とバルト海を結ぶ交易に深く関与していた。
彼らは当時ロシア西部にあったキエフ公国と協約を結び、フィンランド湾岸およびイルメリア諸島の防衛と交易管理を担う代償として、同地の統治権と徴税権を獲得した。
当初の支配は港湾や島嶼部に限られていたが、イルメリア諸島に築いたマリポリを拠点に、北方における東ローマ系勢力の橋頭堡として発展していった。
十三世紀以降、北方ローマは沿岸部を中心として徐々に勢力圏を拡大した。
だが、その支配は内陸部を深く征服するものではなかった。
港湾、海峡、河口といった交易と軍事の要衝を押さえる一方、内陸の在地勢力には一定の自治を認めた。
関税、外交、海防を中央が掌握することで、広大な領域に間接的な影響力を及ぼしたのである。
この過程でフィンランド湾岸にパレオラが建設され、政治の中心もマリポリから北方へと移された。
十五世紀、コンスタンティノープル陥落によって東ローマ帝国が滅亡すると、状況は大きく変化した。
帝国の遺民、官僚、技術者、軍人、聖職者などが、黒海沿岸や東欧各地から北方へ流入したのである。
一四七五年には、クリミアに残っていたテオドロ公国が滅亡。
唯一の残遺国家となった北方ローマは皇国を名乗り、元首は摂政皇の称号を用いるようになった。
その後、皇国は北欧の海と島々を基盤として発展していく。
海軍力と要塞網によって沿岸部を守り、交易路を掌握する。
周辺諸国に一定の利益を与え、全面的な征服よりも均衡と共存を重視する。
その統治は、ローマ帝国の威信、東ローマ以来の制度、北欧的な自治慣行、そして海洋国家としての実利が混ざり合ったものであった。
十九世紀に入ると、ヨーロッパ各地の政治変動の影響を受け、北方ローマ皇国も立憲君主制へ移行した。
二十世紀初頭には民主憲法が制定され、普通選挙、女性参政権、議院内閣制が確立されている。
第一次世界大戦において、北方ローマ皇国は強力な艦隊を背景に武装中立を維持した。
だが、第二次世界大戦期には状況が異なった。
ロシア革命によって成立した共産ロシアとの間で、いわゆる「冬戦争」が勃発し、皇国は直接侵攻を受けた。
侵攻そのものは撃退したものの、南カレリアでは激戦となり、最終的に同地を失陥した。
大戦後は英国、米国の仲介によってバルト海周辺諸国との間にバルト海条約を締結。
それでも領土的野心を隠さない共産ロシアへの警戒は続き、北方ローマは次第に西側陣営寄りの軍事、外交政策を取るようになった。
ロシアとの緊張は、その後も長く続いた。
二〇三二年には第二次冬戦争が勃発。
北方ローマは南カレリアとイングリアを奪還し、長年失われていた領土の一部を回復した。
こうした長い歴史の中で、北方ローマは一つの現実を学んでいた。
生き残るためには、力を誇示するよりも、力を見せない方がよい場合があるということである。
■技術と遺跡
北方ローマ皇国の高い技術力の背景には、イルメリア諸島で発見された外宇宙文明の遺跡――半壊した正体不明の探査母船の存在があった。
発見当初、その正体を理解できる者はいなかった。
人々はこれを「聖遺物」として扱い、その機能のごく一部を、金属製品の製造などに利用していた。
やがて、その重要性が認識されると、遺跡を覆い隠すように
学問と技術の進歩に伴い、その理解も徐々に進んでいった。
十五世紀には銃砲などの精密部品。
十九世紀には蒸気機関をはじめとする高性能機械。
二十世紀以降は電子技術、高性能機関、高精度製造技術などへ、その成果が応用されるようになった。
特に、探査母船に残されていた大型高精度製造装置は、後世の大型三次元プリンターに相当する能力を有していた。
その生産能力と整備能力、そして探査母船から得られた技術は、北方ローマ皇国の工業力と技術的優位を支える重要な基盤となっていた。
やがてアルセナリの周辺には工場や研究施設が集まり、その一帯は工業都市ペラとして発展した。
ただし、北方ローマが異星文明の技術を完全に理解していたわけではない。
二〇四五年の時点においてさえ、探査母船に使用されている技術の解析は半分程度に留まっていた。
利用できる機能についても、高度な設備や専門知識を必要とし、容易に大量生産できるものではなかった。
装置そのものを複製することもできず、その能力には限界があった。
それでも聖遺物の存在は、北方ローマに大きな技術的優位をもたらした。
電子技術、水素関連技術、高性能機関、高精度製造などの分野では世界でも特に高い水準に達し、周辺諸国より半世紀ほど先行しているとも言われていた。
もっとも、この技術的優位は、そのまま圧倒的な軍事力を意味するものではなかった。
北方ローマは聖遺物の力によって周辺諸国を征服する道を選ばず、技術、交易、外交、海軍力を組み合わせることで均衡を維持する国家として発展したのである。
■イルメリア専制公国
北方ローマ皇国の皇都パレオラの南、バルト海上にはイルメリア諸島があった。
古くは、東ローマ帝国皇族パレオロゴス家の傍系が、キエフ公国との協約によって得た北方拠点の一つである。
彼らはこの地にマリポリを築き、黒海とバルト海を結ぶ交易路の橋頭堡とした。
後に北方ローマの政治的中心がパレオラへ移された後も、イルメリアは皇国発祥の地として特別な意味を持ち続けた。
これが、後のイルメリア専制公国である。
十五世紀、帝国遺民が北へ流入し、北方ローマ皇国が国家としての形を整えていく中で、専制公の称号が皇室からの信頼が厚かったテオドロス家に与えられた。
以後、イルメリア諸島は代々テオドロス専制公家によって統治されることとなった。
イルメリアは、単なる地方領ではない。
皇都パレオラの沖合に位置するイルメリア諸島は、海上から皇都へ接近する敵に対する最後の防衛線でもあった。
そのため専制公家の権威も、強大な政治的発言権を持つ大貴族としてではなく、皇都防衛を担う守護者として形成されていった。
十六世紀以降、北方ローマは北方七年戦争、三十年戦争、北方戦争などを通じて周辺諸国と対峙した。
その中でイルメリア専制公国は、海軍力と要塞網の中核として整備されていく。
十八世紀に入ると、拡張政策を強めるロシア帝国がバルト海へ進出した。
これに対抗するため、北方ローマはイルメリア諸島の要塞化をさらに進めた。
軍港が拡張され、造船所が増設され、島々には城塞と沿岸防衛網が築かれた。
それと並行して都市化も進み、中世以来の工房やギルドも次第に近代的な企業へと姿を変えていった。
また十八世紀末には、ヴェネツィア共和国から逃れてきた市民や貴族を多数受け入れた。
亡命者の中には商人、船乗り、職人、技術者なども多く、彼らの多くはイルメリアを中心として定住した。
造船、海運、商業、工芸などの分野で彼らの知識と伝統は受け継がれ、イルメリアの発展にも大きな影響を与えた。
ヴェネツィア系市民は、その後も独自の文化や伝統を保ちながら北方ローマ社会に溶け込み、皇国の海洋文化を形作る一翼を担うこととなる。
十九世紀に入ると、皇国は立憲君主制へ移行した。
だが、イルメリア専制公家の地位は失われなかった。
それは古い封建貴族の特権としてではなく、皇都防衛を担う自治国の統治者として残されたのである。
二十世紀に入り、ロシア革命によって共産ロシアの脅威が現実のものとなると、兵器廠や先進技術に関わる施設もイルメリアに移された。
これによってイルメリアは、単なる古都ではなくなった。
軍港、工廠、航空基地を備えた、皇国防衛の最重要拠点へと発展したのである。
二〇四五年当時、イルメリアの人口は約百五十万人。
イルメリア専制公は、皇国の過去を受け継ぐ者であり、同時に皇都の最後の盾であった。