中央暦一六三九年十二月十五日
イルメリア専制公国
その日の朝、領都マリポリは氷に閉ざされ、静寂に包まれていた。気温は氷点下二十度。夜明けとともに風は止み、街路の石畳は音を失ったかのように白く凍りついていた。呼気は瞬時に白く結晶し、うっかり露出した金属に素手で触れでもすると、皮膚は裂けたかのうように痛んだ。
その静寂を、聖堂の鐘が打ち破った。
祈りの鐘や時報ではない。
連続して鳴り続ける、非常事態を告げる警鐘であった。
世界の扉への襲撃と同時に、海側からも水棲の魔物の襲来が確認されたのである。
群島の北の海域で操業していた漁船団から、夜明け直前、流氷の向こうに異様な影を見たと報告があったのだ。
かつて敵国との最前線にあったこの国は、非常時の動きが迅速である。領議会は即時休会。緊急時に行われる政務官会議の指示によって、学校と工場は閉鎖。
非番兵は各自の部隊へ、民兵は定められた持ち場へ散った。市民は地下聖堂や耐寒施設へ誘導される。混乱の声は少なかった。この国において、非常事態とは恐慌ではなく、手順であった。
マリポリ南部、ノトス区――ヴァシリア港の南半分を占める軍港を中心に、人々は凍てつく空気のなか慌ただしく動いていた。
警備艦と海防艦は、出港ラッパを省き、汽笛を短く鳴らして離岸していった。半数は群島外縁部へ、残りはトーパ王国を支援するため、ベルンゲンの港外へ向けて。
飛行場では、大型輸送機 C-88 ハイカラが全機、暖機運転のまま待機していた。周囲は除雪されてはいるものの、冷え込みは厳しく、除雪する傍から、すぐに凍て付いていった。
ハイカラ――コウノトリは、まだ飛べなかった。
世界の扉へ投入する陸兵の編成が、完了していなかったのである。
加えて、その日のトーパ王国の北東部は、航空機が飛べる天候ではなかった。
世界の扉
「距離三〇〇まで引き付けて……撃て!」
激しい吹雪の中、号令と同時に、城壁上から一斉射が放たれた。トーパ王国兵のアリサカ・ライフル百丁。前列の魔物は雪煙とともに次々と倒れる。装填の合間、分隊ごとの軽機関銃が火力を補う。6.5mm弾は威力不足と評されることもあるが、人型の敵に対しては十分な威力を示していた。
イルメリア兵はフェドロフM1916系統のVKT自動小銃と、分隊支援用グレネードランチャーで火力を補完する。城壁要所には遠隔操作式銃架(RWS)とセントリーガンが配され、氷点下でも正確に敵の密集部を削る。
本来なら野砲や機関砲を並べたいところであったが、世界の扉は中世城塞の構造をそのまま流用しており、大砲の設置を想定していなかった。改修計画はあったが、予算と優先順位、そして「この規模の侵攻は想定外」という判断が重くのしかかっていた。
午後になっても太陽は低く、光はあるが暖かさはない。
敵は損耗を意に介さず、城壁へ押し寄せる。
小柄で貧相なゴブリン、小山のようなオーガやトロール――倒しても列は途切れない。
城壁の上、冷気が肌を刺す。息が白く立ち、鼻先で凍る。兵士たちは銃を握り、雪煙を踏みしめる。前列の魔物が倒れるたび、砲声や銃声が耳に鋭く響いた。
銃身は冷え、可動部には霜が噛んでいた。兵士たちは手袋越しに感覚を失いつつも、射撃を止めない。兵士たちは止まらない。
声を荒げることも、泣くこともなく。
ただ、黙々と時間を稼いていた。
日が傾いた頃、視界は急激に悪化した。粉雪が舞い、敵味方の境界は曖昧になる。
守備隊は既に限界に近かった。
「中隊長……これでは、キリがありません」
「承知している」
中隊長ライッコラは短く答え、続けた。
「一時間前、トルメスを出た援軍がいる。当初予定通り、分隊単位で遅滞戦闘を行い、後方陣地へ下がる」
城塞都市トルメスから五十キロ。この寒波と地形を考えれば、後方の準備が整うのは翌朝以降。
今夜は、耐えるしかなかった。
夜が訪れた。
夜は敵にも味方にも厳しかった。気温は氷点下三十度を下回る。火は焚けず、光は最小限。それでも銃声は途切れない。
守備隊は、勝利を求めず、ただ淡々と時間を稼いでいた。
未明。
撤退は夜明けを待たず始まった。城壁の守備隊は疲弊し、氷結した石床に薬莢と血痕が層をなしていた。負傷兵は既に兵員輸送車スクタトスで後送されていた。
最小限の号令で、手順通り分隊ごと後退する兵達。
もっとも、吹きすさぶ風は、声を張り上げることすら許さなかった。
トーパ王国の年嵩の下士官が、ライッコラを呼び止めて言った。
「我々は、ここに留まる」
「ここは王国が守ると誓った城壁だからな」
下士官の言葉に、迷いはなかった。
「……そうか、頼む」
ライッコラは、短くそう返した。
それで十分だった。
残留を決めた壮年過ぎのトーパ兵達は、城壁を去る者を笑顔で送り出した。
夜明け前、敵の咆哮が再び近づいていた。貧相なゴブリンを従えたオーガやトロールが、氷雪を砕き、城壁に迫っていた。
「距離二〇〇」
「撃て、撃ちまくれ!」
トーパの兵達は、昨日を上回る攻勢を前にしても、怖気づく様子すらなかった。
敵を迎える、後先を考えない猛烈な射撃。
継続を捨てたその火箭に、多くの敵が斃れて行った。
「撃て、弾薬が尽きるまで撃ち続けろ!」
遠くから、銃声とともに歌声が響いていた。
それは、老兵の夕べの歌。
どこか哀愁を帯びた、トーパ王国の軍歌だった。
やげて歌声は尽き、最後の銃声が止んだ。
老兵達は、戻らなかった。
(父と、子と、聖神の名による、アミン……)
ライッコラは振り返ると、十字を描き、心の内で祈った。
ここのところハイペースを維持しておりますが、魔王編の終わりとともにネタが尽きます。
週1回など、定期的な投稿ができればよいのですが、できません。
鳥頭なので、思い浮かんだ文章を忘れてしまうのです。