北方の森は、冬になると距離感を狂わせる。
雪に覆われた地面は起伏を失い、木々は壁となって視界を奪う。
イルメリアの小隊が遅滞線を構築したのは、そうした場所だった。
魔物の群れは、予想よりも早く現れた。
その数は多く、密度は異常。
観測された時点で、すでに隊列の修正は間に合わなかった。
銃声が続き、雪が黒く染まる。
弾は確実に当たっていたが、敵が減っている実感はなかった。
倒れた個体の隙間を埋めるように、後続が押し寄せた。
小隊は後退を開始。
だが、雪と倒木に足を取られ、隊形は伸び、裂け始めた。
遅滞線はすでに意味を失い、戦術は破綻した。
「中隊長、負傷!」
誰かが叫んだ。
その瞬間。
銃声はなかった。
爆発もなかった。
魔物の咆哮が消えたわけでもなかった。
ただ、その先頭が、一斉に倒れた。
次の瞬間、さらに同じことが繰り返された。
まるで、見えない刃が、群れを横から薙ぐかのように。
誰もが状況を理解できなかった。
だが、魔物の動きだけが崩れた。
突進が鈍り、密集が崩れ、進行が止まった。
「弓だ」
「弓…まさか!?」
確かに、森の奥、視界の外から、矢が来ていた。
射手の姿は見えない。
射線も分からない。
だが、矢は確実に急所を捉え、鎧を貫き、動きを止めた。
矢の雨は淡々と降り続けた。
間隔は一定ではない。
だが、止まることもない。
ただ、当たるべき場所に、当たる。
まるで雨だった。
突進が止まった瞬間、側面から、さらに矢。
数分で、辺りは魔物の死体と血で埋まった。
わずかに残った魔物の群れは、逃走した。
理性ではない。
本能的な判断だった。
戦闘終了後、
小隊は死傷者の確認を行った。
重傷者は七名。
そのうち三名は自力での後退が不可能と判断された。
やがて、森の縁に人影が現れた。
トーパ猟兵。
トーパ王国の精兵達である。
彼らは隊列を組まず、互いを声で確認することもない。
それぞれが森の一部と化していた。
彼らが手にした弓は、通称イルメリア弓。
イルメリアがトーパ王国の要請で開発した複合弓。
金属と複合繊維の電磁反発弓であった。
トーパの精兵たちは、状況を一瞥し、すぐに行動に移った。
死者を数え、負傷者を確認。
言葉少なに役割を分担した。
ほどなく、森の奥からトナカイが引く橇が現れた。
雪を切る音は小さく、近づくまで気づかれなかった。
重傷兵が橇に移され、毛布が整えられた。
橇が止まったのは、わずかに森が開けた場所だった。
針葉樹の枝に積もった雪が、風もないのに落ちる。
イルメリアの分隊長は、担架代わりの橇から目を離せずにいた。
負傷兵は毛布に包まれ、呼吸は安定しているようだった。
生きている―それだけで、今は十分だった。
トナカイの手綱を引いていた男が、橇の横に立っていた。
背は高くない。
弓の弦は緩められていた。
装備は簡素で、迷彩というより、冬の森そのものの色だった。
そして、先ほどまで魔物の群れを止めていたとは思えないほど、静かだった。
「…助力に感謝する」
分隊長が言った。
男は一拍置いて、短く頷いた。
「遅れた。群れが分かれていた」
それだけ言うと、橇の固定具を確認し、負傷兵の額に手を当てた。
その仕草は手慣れたものだった。
「彼は?」
「肺は…貫通はしていない」
「動かさない方がいい」
即断だった。
疑問形ですらない。
分隊長は、そこで初めて相手の顔を見た。
年齢は分からない。若くも見え、老いても見えた。
ただ、その目は静かだった。
「あなた方は…トーパ王国の?」
男は答える代わりに、わずかに口角を上げた。
「…音が多かった」
分隊長は戸惑った。
非難ではない。事実の提示だった。
「…だから、間に合った」
「間に合ったのは、森があったからだ」
男はそう言い、背後の木々に目をやった。
「開けた場所では、我々は役に立たない」
「それでも―」
分隊長は言いかけて、言葉を選び直した。
「今日は、救われた」
男は否定しなかった。
ただ、橇の縄を締め直す。
無言で頷くと、男は手綱を引いた。
トナカイが静かに歩き出した。
橇が動き出す直前、分隊長は問いかけた。
「名を、聞いても?」
男は一瞬だけ振り返った。
「シーム・ヘイハ」
それだけだった。
姓とも称号とも分からない。
続きはなかった。
分隊長は復唱しなかった。
ただ、小さく頷いた。
彼はそれ以上何も言わず、
橇の前に戻り、手綱を引いた。
トナカイが歩き出した。
雪を切る音が、森の奥へと吸い込まれていった。
彼らトーパ王国の猟兵は、精兵として知られていた。
外地に派遣されるイルメリア軍の傍には、必ず彼らの姿があったと言われている。
「シーム・ヘイハ」とある人物がモデルです。基になった名前の母音変化形です。
トーパ王国の王都「ベルンゲン」は、中世ノルウェー語よりも、古ノルド語+近世ドイツ語の影響がある地名との分析結果でしたので、このようにしました。
このような分析に興味がある方はお知らせください。手法をお伝えします。