中央暦一六三九年十二月五日
イルメリア群島 北東海域
群島の外縁部―外海へ張り出す暗礁の上を、灰白色のヘリコプターが低空で進んでいた。
大柄で丸みを帯びたS-61。
シコルスキー・シーキングの改修型、通称「シルカト」。
汎用性が高く、本来の用途とは異なる任務に就くことも多い機体である。
S-61は一定間隔で“何か”を投下しながら、じりじりと速度を落として飛ぶ。
その後方―海面は赤黒く染まり、激しい飛沫が断続的に跳ね上がっていた。
「機長! どうにかして下さいよ、この匂い! 誰ですか、こんな作戦考えたのは!」
搭乗員がサイドドアから身を乗り出し、バケツの中身を海へ撒き散らしながら悲鳴を上げた。
機内にはビニールシートが敷き詰められている。汚れ対策だ。だが―
「……その“こんな作戦”を考えたのはな」
機長は、防毒マスクの奥で目だけを細めた。
「……うちの姫さまだ」
沈黙が一拍、機内を走った。
投下しているのは、水産加工所から出た魚のアラと、精肉工場から集められた廃棄物。
ひどい悪臭を放つそれは、襲来した水棲魔獣―サハギンと呼ばれる魚人の群れを、狙い通り確実に呼び寄せていた。
防毒マスク越しでも刺さる匂いに、機長は内心で続ける。
(……“匂い”で呼び寄せる、か。理屈は分かる。分かるが―)
「本部、本部。特務二番機。作戦第一段階、成功。弾切れをもって帰投する」
「本部了解。帰投後は、別命あるまでヘリポートで待機」
(……“匂いを落とすまで基地に入るな”ってことだろうな)
第一段階成功。
だが、素直に喜べない機長だった。
三時間前―領軍本部 作戦指揮室
漁船団からの急報を受け、イルメリア領は即座に沿岸防衛態勢へ移行した。
領都マリポリにある領軍本部のパネルには、水棲魔獣群の現在位置、自軍配置、哨戒線の状況が、リアルタイムで表示されている。
「水棲魔獣群A、Bが合流。総数、約三千。速力低下、十ノット」
「水棲魔獣群Cは小規模、約五百。針路・速力とも変化なし、二十ノット」
オペレーターの報告を受け、領軍副司令ペリトゥス・マグヌス准将は、わずかに表情を緩めた。
(予想より小規模……。ならば定石通り、接近前に数を削り、分断し、殲滅)
張り詰めた空気を裂くように、作戦指揮室のドアが開いた。
「姫様……いえ、総司令! どうなされました?」
入室してきたのは、野戦服姿の専制公――いや、この場では領軍総司令ユリア・テオドラだった。
小脇に抱えた本は、付箋だらけである。
「マグヌス、海棲魔獣の生態は、魚類のそれに近いと考えまして。作戦案を練って参りました」
ユリアが示した表紙には、朗らかな書体でこうある。
『海釣り入門』
指揮室の視線が、一斉に本へ吸い寄せられた。
「……姫様。いえ、総司令。確認しますが、今おっしゃったのは」
マグヌス軍務長官は、パネルから視線を外さぬまま、声だけを整えた。
「“撒き餌で寄せる”―ですか」
「はい」
ユリアは即答した。小脇の『海釣り入門』を軽く叩く。
「彼らは、隊列を組み、匂いに反応して集団行動を取ります。魚類や甲殻類に近い。ならば、最も確実な誘導は嗅覚刺激ですわ」
「……刺激の内容が、廃棄物なのは」
「廃棄物ではありません。“最も強い匂い”です。海は広いので、薄い餌では散ってしまいます。濃く、重く、長く残るものが必要です」
准将は目元を引きつらせた。
「それを、航空機で散布する」
「はい。ヘリなら低空で均等に撒けます。風向と潮流の読みは必要ですが、漁師がいますもの。彼らに協力して頂きます」
「……撒き餌で寄せた後は?」
ユリアは指揮卓の上に、指で小さな円を描いた。
「第二段階。大群の外周を回りながら、音と光で“気絶”させます。密集しているほど効果が出ますわ。散開する前に、です」
「音と光、とは……」
「殺す必要はありません。止めればよい。海は音が通ります。こちらの損耗も、漁場への影響も抑えられます」
理屈は通っている。通っているが。
「最終段階は……まさか」
ユリアは、少しだけ首を傾げた。
「火ですわ」
作戦指揮室に、微妙な沈黙が落ちた。
「……海で、火」
「ええ。水上でも消えにくい焼夷剤があります。帝国の備蓄と、配備艦の投射手段を確認しました。陶製容器で投下し、機関砲で破砕すれば広がります」
マグヌスは、思わず額を押さえた。
「姫様。ご説明は理解しました。ただ―」
「ただ?」
「その、“第一段階”の匂いを、誰が落とすのです」
ユリアはきょとんとした顔をしたあと、にこりと笑った。
「マグヌス。軍は任務を遂行してください。……清掃は、あとで考えましょう」
マグヌスは、机の引き出しを静かに開け、胃薬を探した。
再び―イルメリア群島 北東海域
作戦第二段階
作戦海域には、魚のアラと肉の廃棄物の匂いに惹かれて、相当数のサハギンが集結していた。
興奮した個体は、同種に噛みつき、共食いを始めている。理性より食欲が勝った証拠だ。
「初めて相手にする魔獣に、撒き餌とは……よくもまあ」
感心半分、呆れ半分。
だが作戦は、手順通りに次段階へ移る。
「本部、特務四番から八番。作戦を開始する」
四機のS-61が円を描くように大群外周を旋回し、合図を待つ。
「―全機、五秒後。順次投下開始!」
サイドドアから、長さ二十センチほどの円筒が次々と落とされた。
海面へ吸い込まれた瞬間、閃光と衝撃音が連続して走る。
投下物は、対人殺傷を目的としない音響・閃光の制圧弾だった。
水は音をよく通す。濁った海中で密集していたサハギンの多くが、衝撃に耐え切れず意識を失い、浮沈の区別もつかぬまま漂い始める。
一種の“漁”である。
ただし、狙うのは魚ではない。
「本部、特務四番から八番。作戦第二段階、成功!」
「本部了解。最終段階を開始!」
同海域
作戦最終段階
命令を受けて急行するのは、排水量七百トンに満たない近海警備艦、ピシス型。
数隻が到着すると、艦尾から次々と陶製の大壺を投下していった。
安全距離を取った警備艦が、二十五ミリ機関砲を斉射する。
命中した壺が砕け、内容物が海面に散った瞬間―
火が、海を走った。
炎は水上だけではなく、水際の下でも粘るように燃え広がり、漂うサハギンを包み込む。
群れは叫び、沈み、浮かび、そして静かになった。
仕上げは火攻め。
投入されたのは、ローマ帝国以来の秘匿兵器―通称「ギリシャの火」である。
原料や配合は最高機密で、外部の者が知るのは「水上でも消えにくい性質を持つ焼夷剤」という大枠だけだ。
かつて失伝したはずの技術は、帝国の残存国家であるイルメリア専制公国に受け継がれ、いま防衛線の要として使用されていた。
戦後
大群と別行動を取っていた小規模群は、領軍と民兵の手によって小銃や弓矢で容易に掃討された。
トーパ王国のベルンゲンにも一部は到達したが、数は少なく、あくまで“打ち漏らし”の範囲だったという。
こうして、後に「大規模サハギン漁」と揶揄されることになる本作戦は成功した。
やがて世界各地に伝わり、水棲魔獣討伐のひとつのスタンダードとなっていく。
―だが、それはまた別の話である。
領軍基地 ヘリポート
帰投したS-61の周囲には、異様な空気が漂っていた。
「誰だよ、ヘリポートで待機って……。格納庫に入れてくれよ、寒いんだよ!」
搭乗員がマスク越しに叫ぶと、管制塔のスピーカーが無慈悲に応じた。
『特務二番機、指示は同じ。別命あるまで待機』
「別命って何だよ! “自力で匂いを消せ”以外にあるのかよ!」
副操縦士がヘルメットを脱ぎかけて、慌ててやめた。脱いだ瞬間に泣く未来が見える。
機長は、黙ってヘリの側面を見上げた。
灰白色の塗装が、どこか湿って見える。気のせいではない。たぶん匂いの分子だ。たぶん。
「おい……みんな」
「はい、機長」
「俺は今、人生で初めて、“機体に罪はない”って言葉を信じてる」
「その言葉、慰めになってません」
後席の搭乗員が、すり切れた声で言った。
「……機長。ほんとに姫さまが考えたんですか? これ」
「そうらしい」
「『海釣り入門』を参考にしたらしいけど、それに書いてたんですか?」
「書いてないそうだ」
「じゃあ、なんで―」
機長は一拍置いて答えた。
「“禁止漁具・漁法”のページに付箋がびっしり貼ってあったそうだ」
沈黙。
全員が、同じ想像をした。
「……姫さま、ルールを守るために本を読むんじゃないんだな」
「ルールの“縁”を探すためだ」
「縁、っていうか……崖ですよ」
整備員が遠巻きに近づき、ホースを手にしたまま立ち尽くしている。
水をかけるべきか、かけたところで意味があるのか、判断できない顔だ。
「機長、これ洗って落ちますか?」
「落ちるさ」
「ほんとですか?」
「落ちる……はずだ」
機長の言い切らない“はず”に、全員が不吉な気配を感じた。
管制塔から、またスピーカー。
『特務二番機。追って通達。なお、基地内への立ち入りは―』
「はいはい、分かってますよ!」
副操縦士が叫ぶ。
「“匂いが落ちるまで入るな”でしょ! もう暗唱できますよ!」
そして小声で続けた。
「……これ、落ちなかったら俺ら、ここで野営?」
「野営だな」
「この匂いと?」
「この匂いと」
搭乗員が天を仰いだ。
「機長。あの……今日の作戦名、何て言うんですか?」
「“網を使わない大量漁獲作戦”」
「軍が言いますか、それを!」
全員が笑った。笑うしかなかった。
そのとき、整備員が意を決したようにホースの先を向ける。
「……とりあえず水かけます。神と皇帝に誓って、俺は悪くない」
「かけろ」
機長は言った。
「ただし―機体じゃない。先に、俺たちにだ」
「了解!」
次の瞬間、冷水が容赦なく降りかかった。
「冷たっ!!」
「うわっ、くっさ!! 濡れたら増幅した!!」
「機長! 逆効果です! 逆効果です!」
機長はマスクの奥で、静かに呟いた。
(……作戦は成功した。
だが、戦いは終わっていない)
敵は、匂いだった。
冷水を浴びせられた搭乗員たちは、機体の陰で身を寄せ合い、濡れた制服を絞りながら震えていた。
匂いは落ちない。むしろ、湿り気と一緒にまとわりつき、存在感を増している気さえする。
「……俺たち、戦争に勝ったのかな」
「勝ったよ。海は守った」
「じゃあ何で俺の人生は負けてるんだ!」
副操縦士が天を仰いだ瞬間だった。
ヘリポートの端、照明の届くあたりから、小さな足音が近づいてきた。
警衛が慌てて敬礼し、次いで後ろへ下がった。
誰も近づきたくない匂いの結界が、そこにはあった。
野戦服姿の女性が、腕いっぱいに毛布を抱えて現れた。
領軍総司令―ユリア・テオドラ。
「姫さ―総司令、ここは……」
機長が一歩前へ出て敬礼しかけ、途中でためらった。
敬礼をしても、匂いは薄まらない。
ユリアは、どこか申し訳なさそうに微笑んだ。
「皆さま、お役目ご苦労様でした」
そして、抱えていた毛布を差し出した。
「寒いでしょう。……これを」
搭乗員たちは、反射で一斉に後ずさった。
「い、いえ! その、総司令! お気遣いはありがたいんですが!」
「受け取ったら毛布まで終わります!」
整備員が叫び、口を押さえた。言い方が悪い。だが、真実だった。
ユリアは小さく目を丸くし、すぐに理解したらしい。
毛布を抱え直し、少し離れた場所にそっと置いた。
「……なるほど。匂い移りを懸念しているのですね。合理的ですわ」
「合理的って言葉が、今ほど憎い日はありません……」
誰かが小声で漏らし、全員が同意した。
ユリアは一歩、また一歩と近づこうとして、周囲の搭乗員が慌てて制した。
「総司令! ここから先は……!」
「大丈夫ですわ。防毒面がありますもの」
その一言で、搭乗員たちの目が泳いだ。
「……総司令、そのマスク、飾りです。匂いは貫通します」
「貫通、します」
機長が重々しく補足すると、ユリアは少し眉を下げた。
「……そう。では、ここまでにしておきますわ」
彼女は立ち止まり、毛布の山を見下ろしてから、搭乗員たちへ視線を戻した。
「皆さま。作戦は、皆さまの勇気と技量で成功しました。イルメリアを守れたのは、確かな功績です」
声は静かで、軍司令としてではなく、領主としての響きが混じっていた。
「……ただ」
ユリアは、ほんの少し言いにくそうに続ける。
「その……匂いの件は、予想より強かでしたわね」
搭乗員たちは言葉を失った。
“強か”という単語が、あまりにも上品だったからだ。
機長が、ようやく咳払いをして言う。
「総司令。次回からは、事前に“匂いの耐性訓練”を―」
「ええ。必要だと思います」
即答だった。
「それと、皆さまが凍えるのは本意ではありません。湯と、着替えと、簡易の仮設テントを手配します」
随員が「えっ」という顔をし、慌ててメモを取る。
マグヌス准将が聞いたら、たぶん泣く。
ユリアは毛布を指さした。
「毛布は……距離を置いておきました。風下に置けば、たぶん―」
「たぶん!?」
副操縦士が反射で叫び、すぐに直立不動になった。
「……失礼しました!」
ユリアは気にした様子もなく、首を傾げる。
「大丈夫ですわ。実験ですもの」
全員の背筋が凍った。匂いのせいではない。
「実験……?」
「ええ。次に同様の脅威が来たとき、より効率的に―」
「総司令」
機長が遮った。
「その“次”は……なるべく遠い未来にしていただけますと、乗員一同、士気が保てます」
ユリアは少し考え、真面目に頷いた。
「分かりましたわ。では、次は―」
その瞬間、全員が息を呑んだ。
「―まず、消臭の研究から始めましょう」
搭乗員たちは、誰からともなく深く頷いた。
今日、最も戦略的で、人道的な決定だった。
ユリアは毛布の山の横で、小さく頭を下げた。
「皆さま。ほんとうに、お疲れさま。……温かくして下さい」
そう言って踵を返し、去っていった。
背中が小さくなると、誰かがぽつりと呟いた。
「……姫さま、いい人なんだよな」
「いい人だ」
「いい人なんだけど……」
機長が、海風の匂いを吸い込むようにゆっくり息を吐いた。
「……作戦が、悪い」
全員が、静かに笑った。笑うしかなかった。
※爆発を用いる漁法(爆発漁法)は、現実世界では生態系破壊などの問題が大きく、多くの国・地域で禁止されています。
本作中では「魔獣討伐」という非常事態に限った扱いとし、同様の行為を現実で推奨するものではありません。
※史実では「ギリシャの火」の詳細な製法・調合法は失伝しています。