中央暦一六四〇年一月。
イルメリア専制公国、マリポリ。
トーパ王国北東部――世界の扉を巡る一連の戦闘から、数日後。
領都旧市街、北方正教会マリポリ聖堂。
堂内は薄暗く、蝋燭の火が静かに揺れていた。
振り香炉から立ち上る乳香の煙は、ゆるやかに天井へと昇り、やがて見えなくなる。
そのたびに、細かな鈴の音がかすかに鳴り、祈りの時を刻んでいた。
黒衣の参列者たちが、整然と立ち並ぶ。
前方には白い祭服の司祭と輔祭。
聖像の金地は、炎の揺らぎを受けて微かに光を返していた。
永眠者の安息を祈る奉神礼――パニヒダ。
それは、戦闘の後に必ず訪れる、静かな務めであった。
最前列に、ユリア・テオドラの姿があった。
身に纏うのは、旧帝国から受け継がれた、皇族の喪服。
装飾を排した暗い緋の衣は、華やかさを一切拒み、ただ沈黙と記憶のためにある装いだった。
光を吸う布地の陰影が、彼女の白い顔をいっそう際立たせていた。
ユリアは動かない。
ただ、正面のイコンへ向けて立ち、祈りの中に身を置いていた。
輔祭の声が、低く響く。
「主よ、汝の眠りし僕、アールネ・スネルマンに、安らぎの場、緑なす地、涼しきところを与えたまえ。そこには痛みも、悲しみも、嘆きもなく、ただ終わりなき命のみがある」
短い沈黙。
「彼に、永遠の記憶をなしたまえ」
「永遠の記憶」
「永遠の記憶」
「永遠の記憶」
詠隊が応じる。
それは死者を思い出せという意味ではない。
人が忘れぬことを願う言葉でもない。
――神の前に記憶されること。
それこそが、永遠に生きるということであった。
名が、ひとつ、またひとつと読み上げられていく。
「主よ、汝の眠りし僕、アーロ・パヤリに……」
「永遠の記憶」
「主よ、汝の眠りし僕、ルーカス・ノスタラスに……」
「永遠の記憶」
祈りは途切れない。
名を呼ばれるごとに、その者は再びここに在る。
そして神の記憶の中へと、静かに委ねられていった。
ユリアは、ただそのすべてを聞いていた。
目を閉じることもなく、涙を見せることもなく。
ただ、一つひとつの名を受け止める。
それが、彼女にとっての弔いであった。
聖堂の隅には、日本から派遣された試験小隊の面々もいた。
百田中尉、犬神軍曹、猿渡軍曹。
他の隊員たちも含め、彼らはやや居心地悪そうに直立していた。
正教の奉神礼に列するのは初めてである。
乳香の匂い。
理解できない言葉。
だが、意味だけは痛いほど分かった。
犬神は帽子を脇に抱えたまま、読み上げられる名を黙って聞いていた。
世界の扉で見た、イルメリア兵たちの戦いぶりが脳裏を過る。
走りながら重迫を撃つ鋼鉄の車両。
降りしきる雪の中で、押し返し、潰れ、そして倒れた兵たち。
猿渡は視線を伏せた。
あれほどの火力と機動を見せた軍が、こうして一人ずつ名を読まれている。
その当たり前の事実に、妙な衝撃を覚えた。
百田は、正面に立つユリアの背を見ていた。
暗い緋の喪服は、華やかな礼装の時よりも、かえって彼女を遠く見せた。
その細い肩に、古い帝国そのものが載っているように見えた。
詠唱は続く。
ユリアは、読み上げられたすべての名を記憶していた。
その中でただ一つ、最初に呼ばれた名だけが、祈りの後も彼女の内に留まり続けた。
聖堂の外では、マリポリの冬の海風が鳴っていた。
トーパ王国北東部。
世界の扉。
吹雪は止み、空は低く曇っていた。
雪原には、戦いの痕が黒く残る。
砕けた陣地。
押し潰された障害物。
そして、数えきれぬ死。
撤去作業は続いていた。
イルメリアの工兵車両が、魔物の残骸と土砂を押し分ける。
履帯が雪と泥を混ぜ、地面そのものを均していく。
トーパの兵たちは、その様子を見つめていた。
それは、彼らの知らぬ力だった。
だが同時に、いつか自分たちのものとなるかもしれぬ力でもあった。
夕刻。
世界の扉の前に、簡素な祭壇が据えられた。
イルメリアの従軍司祭が立つ。
その前に、トーパ王国の兵たちが集まった。
異教の地で、異教の者のために行われる祈り。
それは、形式の上では特別なものではない。
彼らは正教徒ではない。
だが、その死は無視されない。
ただ、祈りの言葉の中で、司祭は慎重に言葉を選ぶ。
「主よ、汝はすべての者の命の主にして審き主なり。
ここに眠る者たちを、汝の憐れみに委ねたてまつる」
名は、読まれない。
洗礼名を持たぬ者たち。
代わりに、彼らは“神の御前にある者”としてまとめて祈られる。
海から吹く風に紛れて、振り香炉の鈴の音が細く鳴る。
連祷と聖歌が、夕暮れの雪原へ溶けていく。
鈴の音は途切れがちに鳴り、聖歌は低く抑えられていた。
堂内とは違い、ここには壁も天井もない。
それでも、祈りの意味は同じであった。
トーパの兵たちは、その意味を完全には理解できなかった。
だが、死者のための祈りであることだけは分かった。
彼らは兜を脱ぎ、あるいは胸に手を当て、あるいはただ頭を垂れた。
中には、見よう見まねで胸の前に手をやる者もいる。
ある老兵は、ゆっくりと空中に十字を描いた。
正しい作法ではない。
だが、それを咎める者はいない。
祈りとは、形よりもまず、向けられるものであった。
風の中で、声が響く。
「永遠の記憶」
それは、彼らの理解を超えた言葉であった。
だがその響きだけは、確かに胸に残った。
後にノスグーラ戦役と呼ばれるこの戦いにおいて、トーパ王国軍の戦死者は二百三十七名、負傷者六百余。
イルメリアの戦死者は百二十八名、負傷者三百余であったと記録されている。