マリポリ港は、低い冬の光に包まれていた。
灰色の海は凪いでいる。
岸壁には、出港準備を終えた艦艇が静かに並んでいた。
旧日本海軍の艦艇――改装された『常磐』、『鳳翔』、『長鯨』、『鹿島』
近代化改修を受けた残存艦は、外観こそ以前の面影を残していたが、内部はもはや別物であった。
その艦列の外側に、やや距離を置いて、一隻の艦が停泊していた。
旗艦級大型フリゲート艦『ミュロフォロス』
どこか客船を思わせる滑らかな船体線。
だがその甲板には、隙なく配置された兵装と、低く抑えられた上部構造があった。
艦首には、小さく、しかし確かに刻まれた正十字。
携香女――
その艦、ミュロフォロスの名は、主の受難の後、香油を携えて墓へ向かった女たちに由来していた。
岸壁の一角では、日本から派遣された試験小隊が整列していた。
百田中尉、犬神軍曹、猿渡軍曹。
他の隊員たちも、簡素な装備のまま、出港を待っている。
そこに、ひとりの少女が歩み寄った。
濃緋の衣。
ユリア・テオドラであった。
護衛は付いている。
だが、いつものように、距離を置いていた。
百田が一歩進み、敬礼する。
「試験小隊、帰還の途に就きます」
ユリアは小さく頷いた。
「ええ。旅のご無事を」
声音は変わらない。
だが、どこか柔らかさがあった。
「あなた方の戦いは、記録に残りましょう」
わずかな間。
「……そして、記憶されましょう」
犬神が、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
ユリアの視線は、彼を見てはいない。
だが、その言葉は確かに届いていた。
猿渡が、少しだけ困ったように口を開いた。
「……あの、ああいうのは、その……慣れません」
彼が言いたいのは、おそらく奉神礼のことだろう。
ユリアは、わずかに首を傾けた。
「慣れる必要はありません」
そして、静かに続ける。
「ただ、忘れなければ、それでよろしいのです」
それだけ言うと、彼女はそれ以上何も付け加えなかった。
百田は、短く答える。
「はっ」
それ以上の言葉は、必要なかった。
タラップを上りながら、猿渡が小さく息を吐いた。
「……なんだありゃ」
犬神が横で答える。
「皇女様だ」
「いやそういう意味じゃなくてだな……」
猿渡は頭をかいた。
「なんつうか……叱責された方がまだ分かりやすい」
犬神は少しだけ笑った。
「叱責などせんよ」
そして、低く付け加える。
「ありゃ、全部覚えてる顔だ」
猿渡は振り返りかけて、やめた。
岸壁に立つ濃緋の姿は、もう小さくなっていた。
百田が後ろから一言。
「無駄口はいい。持ち場につけ」
「はっ」
短い応答。
それで十分だった。
出港。
艦列が、ゆっくりと動き出した。
常磐、鳳翔、長鯨、鹿島。
その前方を、ミュロフォロスが静かに位置取っていた。
正十字と日の丸が、冷たい風に翻っていた。
数日後。
黒い海の中に、それは現れた。
最初に見えたのは、壁だった。
かつての炭鉱島を取り巻いていた防波堤は、今や原形を留めていない。
海面からせり上がるそれは、石と鋼で積み上げられ、さらにその上に張り出した外壁が重ねられていた。
わずかに内側へ折れ、角を持ち、重なり合う壁面。
その造りは、近代工学というよりも、むしろ古い城塞に近い。
――旧帝国の城塞。
その呼び方が、最も近かった。
波が砕ける。
白い飛沫が、灰色の壁に叩きつけられる。
その上に、塔が立っている。
円塔と角塔。
監視塔でありながら、どこか聖堂の鐘楼にも似た影を持つ。
さらにその奥。
島の内部は、もはや炭鉱の面影を残していなかった。
かつてのコンクリートの集合住宅群は取り壊されるか、外壁ごと覆われている。
新たに建てられた建物は、厚い壁と狭い窓を持ち、互いに接続されるように配置されていた。
白でも灰でもない、わずかに黄を帯びた石色。
その上に、赤褐色の屋根。
長崎沖に浮かぶ島は、いつの間にか、
北方ローマ様式の城塞都市へと変貌していた。
艦列が減速する。
ミュロフォロスは外側に位置を取り、港内へは入らない。
その存在自体が、外への意思表示であった。
先に、常磐、鳳翔、長鯨、鹿島が順に接岸する。
岸壁には、すでに整列した兵と作業員の姿があった。
軍と民が混じる島。
補給、整備、警戒。
すべてが一体として機能している。
ここはもはや、単なる租借地ではなかった。
前哨地。
あるいは、橋頭堡。
百田はタラップの上で足を止めた。
目の前の光景に、わずかに息を呑む。
「……城だな、こりゃ」
犬神が低く応じる。
「島ごと城だ」
猿渡は、苦笑とも呆れともつかぬ声を漏らした。
「いや、日本だよな、ここ」
誰も答えなかった。
ただ、視線の先、塔の上には、正十字の旗が掲げられていた。
この島は、かつて端島と呼ばれていた。
日本本土における炭鉱の多くが閉山したのは、ロデニウス大陸からの輸入が原因である。
クイラ王国産の褐色炭。
安価で、性質が良く、大量に供給される。
それが、日本の炭鉱産業を一気に過去のものとした。
炭鉱から人が去り、廃墟が残る。
空白となった島。
そこに目を付けたのが、イルメリアであった。
武田政権との間で結ばれた租借契約。
二十五年。
その期限は、いまだ有効である。
端島の租借に際し、イルメリアが提示した条件は、日本側を驚かせた。
提示された金額は、廃坑となった炭鉱島の評価額を遥かに超えていた。
当時の日本政府関係者の一人は、後にこう回想している。
――「桁を見間違えたかと思った」
無理もない。
日本にとって端島は、すでに過去の遺物であった。
クイラ王国から輸入される褐色炭は、安価で安定し、品質も良い。
その影響は大きく、日本国内の炭鉱は意味を失い、次々と閉山した。
端島もまた例外ではなかった。
一方で、イルメリアにとっての端島は、全く異なる意味を持っていた。
彼らと敵対するパーパルディア皇国は、イルメリアからは遠い。
海を越え、文明を越え、直接の干渉が難しい位置にある強国。
その皇国を、北東から睨むことのできる地点。
それが、端島であった。
ゆえに、金額は問題ではなかった。
距離を縮めるための拠点。
その価値は、貨幣で測れるものではない。
契約は即日でまとまった。
日本にとっては処分。
イルメリアにとっては前進。
ただ、それだけの話である。
現在の日本政府は、この島の返還を繰り返し求めていた。
左派政権が進める、パーパルディア皇国との融和。
その障害となる存在として。
だが、イルメリアは応じなかった。
理由はシンプルである。
――正式な契約に基づく租借地である。
それ以上でも、それ以下でもない。
ゆえに、交渉の余地は存在しなかった。
波が、防壁に打ち付ける。
風が、旗を鳴らす。
石と鋼で築かれた城塞は、沈黙したまま、そこに在り続けていた。
この島は後に返還後、観光地として整備されることになる。
名称は――
テラ・イルメリア。
かつての防壁は保存され、城塞風の街並みは補修され、港には記念艦が係留された。
訪れた者は、そこで奇妙な感覚を覚えるという。
ここは日本の島である。
だが同時に、確かにイルメリアの気配が残っている。
石の壁。
風に鳴る旗。
そして、名も知らぬ者たちの記憶。
それらは、完全には消えなかった。
そこでは、風の強い日になると、時折、鐘の音が聞こえるという。
あるいは、誰もいない路地の奥から、ふと乳香の香りが漂うことがあるとも語られている。