永遠の都(前)
中央暦一六四十年。
冬の名残が薄く残る京都。
戦災による被害が比較的少なかったこの街は、焦土と化した帝都とは対照的に、かつての日本の面影を色濃く残していた。
もっとも、完全に無傷というわけではない。市街地の一部には焼け跡が残り、資材不足の影響も各所に見られた。だがそれでも、石畳の小路や木造の町家、寺社の甍が連なる景観は、訪れる者に不思議な安らぎを与えていた。
その京都に、異国の客が増えていた。
イルメリアからの旅行者、そしてロデニウス大陸の富裕層である。
彼らの目的は様々であったが、多くは「失われなかったもの」を見るためであった。
焼けずに残った都。
連綿と続く手仕事。
そして、未だ息づく文化。
それは、彼らにとっても他人事ではなかった。
イルメリアもまた、異世界への転移によって、本国との連続性を断たれた国家である。
残されたものと、失われたもの。
その境界に立つという意味で、京都はどこか似ていた。
京都駅周辺は、そうした需要に応えるかのように急速に変化していった。
和風の屋根を持ちながら、どこか異国めいた曲線を帯びたホテル。
石造と木造が奇妙に調和した百貨店。
その屋上には、建設途中の白い塔が聳え立っていた。
復興の象徴として建てられたその塔は、近代的な構造でありながら、頂部にはなぜか丸みを帯びたドームが据えられている。
それは日本の建築ではなかった。
どこか、遠い海の向こうの都を思わせる形であった。
――ビザンチン。
そんな言葉を口にする者も、わずかにはいた。
だが多くの京都人にとって、それはただの「妙な意匠」でしかなかった。
市電は今日も、静かに街を走っていた。
木造の車体はそのままに、内部には見慣れぬ装置が取り付けられている。暖房、そして冷却装置。
戦後間もない日本にあっては明らかに過剰な設備であったが、乗客たちはそれをありがたく享受していた。
技術は、気付かぬうちに入り込み、生活を変えていく。
それがどこの国のものであるかなど、多くの人間にとっては些細なことだった。
室町通りに面した、とある呉服問屋に、その客は現れた。
異国の、少女と言っても差し支えのない娘。
白い肌のその娘は、目立つ装飾のない外套を纏っていた。
ただ、その色だけは――一度見れば忘れられない。
深い赤。
濃緋と呼ぶに相応しい色であった。
番頭は、無意識のうちに手を止めていた。
ただの客ではない――そんな気配があった。
「…少し、よろしいかしら」
流暢な、だがどこか古風な日本語であった。
番頭は顔を上げ、軽く会釈をする。
「はい、どのようなご用件で」
娘は小脇に抱えた包みを、ためらいなく卓の上に置いた。
紐を解く手つきは、妙に無造作だが、乱暴ではなかった。
慣れている――というより、それが特別な行為ではないかのようであった。
布が一重、また一重とほどけていく。
そして最後に、内側のそれが現れた。
沈んだ赤。
外套の色と同じ系統でありながら、明らかに別のもの。
光を吸うような重い絹。
滑らかでありながら、どこか硬質な気配を帯びた質感。
娘はそれを、畳むでもなく、整えるでもなく、
ただ両手で持ち上げ、軽く広げた。
布は空気を含み、ゆるやかに落ちる。
その瞬間、形が現れた。
直線的な裁断。
肩から裾へと落ちる、ほとんど装飾のない長い線。
だが要所にだけ、抑えられた刺繍が走る。
幾何学。
十字。
円。
規則正しく、しかし見たこともない文様。
西洋の衣服とも、日本の装束とも違う。
だが、どちらにも似ていた。
それは衣服というより、
形を与えられた秩序のように見えた。
「…これは」
番頭は、思わず息を止めていた。
「お嬢さん、これは……どちらのもんどす?」
娘は首を傾げた。
「家のものですわ」
「家...て...」
「..古い、家ですの」
番頭は、そっと布の端を持った。
しばらく黙って眺め、それから低く言う。
「これ、誰のためのもんどす?」
問いかけというより、確認に近い口調であった。
娘は少し考えてから、当たり前のように答えた。
「…わたくしのためですわ」
少女はそう言った。
番頭は布を手に取り、しばらく黙って眺めた。
織り方は理解できる。
染色も、おそらく再現可能だろう。
だが――
布から視線を上げたとき、少女は何も続けなかった。
言葉を待つでも、促すでもなく、ただ静かに立っている。
そこで番頭は、ふと悟った。
――ああ、この人は、多くを話す方ではない。
多くを語らぬのは、値踏みしているからではないのかもしれない。
むしろ、こういう客は職人仕事に余計な口を挟まない。
その代わり、出来たものはきちんと見る。
番頭は、そういう種類の気配を、うっすらと感じていた。
今では珍しくなったが、昔は良家の子女が家の着物を持ってきて、あとは任せるとばかりに置いていくこともあったという。
目の前の少女は、どこかそういう種類の客を思わせた。
問いを重ねれば答えは返るかもしれない。
だが、それはこの場のやり方ではない。
ならば、こちらが読み取るしかない。
「…少し、お時間頂けしまへんやろか?」
「構いませんわ」
少女は頷いた。
それ以上は何も付け加えない。
番頭もまた、それ以上は聞かなかった。
そして、手にしていた革表紙の手帳を無造作に破ると、少女はさらさらと何かを書き付けた。
差し出された紙には、見慣れぬ文字が並んでいた。
明らかに、欧米の文字ではない。
曲線と直線が織りなす、整った筆致。
「連絡先ですわ」
少女は簡潔に言った。
何の疑いもなく。
番頭は紙を受け取りながら、ふと、これは、自分の手には余る話だと感じた。
――これは、帝大の先生に見てもらうしかないな。
そう思った。