その日の午後。
路地裏を、慌ただしい足音が一つ、また一つと通り過ぎていった。
呉服問屋の番頭は、先ほどの紙片を懐に入れたまま、近所の長屋へと急いでいた。
目指すは、帝大の先生と呼ばれる男の家である。
古びた引き戸を叩くと、間もなく中から声が返ってきた。
「……はいはい、今出ます」
現れたのは、四十前後の痩せた男であった。眼鏡の奥の目はやや眠たげで、手には分厚い洋書が握られている。
「先生、ちょっと見てほしいもんがありましてな」
「なんです? 急に」
番頭は紙片を差し出した。
男はそれを受け取り、何気なく目を落とす。
そして――動きが止まった。
「……は?」
短い声が漏れる。
もう一度、紙を見直す。
今度はゆっくりと、一字一字を追うように。
整ったギリシャ文字。
古典に近い文体。
そして、明らかに現代的な固有名詞。
男の顔から、眠気が消えた。
「……これ、どこで?」
「さっきの客が書かはったんどすわ。読めしまへんやろ? 先生やったらと思うて」
「これ、読める読めへんの問題やない、内容があかへん!」
男は紙を持ったまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……この宛先、イルメリヤの大使館や」
番頭は、言葉の意味を理解するまで数秒を要した。
「……は?」
「いや、は?、やあらへん。これ、そのままや。住所も部署も、全部揃っとる」
男は紙をひらひらと振る。
「どういうことどす?」
番頭の声が一段高くなる。
男は額に手を当て、深く息を吐いた。
「……その客、どんなんやった」
「若い娘どすわ。外套着たはって、えらい綺麗な……いや、それより、持ってきやはった布がまた――」
「どこ行かはった?」
男が遮る。
「え?」
「その娘、どこ行かはったんや?」
「さあ……帰らはってからは」
男は一瞬考え、そして即座に立ち上がった。
「探さなあかん」
「はあ!?」
「これ、そのままやと話が大きうなる。いや、もう大きうなっとるかもしれへん」
そう言って外に出る。
番頭は慌てて後を追った。
――そして、その頃。
東山、丸山公園。
冬の園内は、観光客や地元の人々もまばらで、どこか寂しげであった。
茶店の軒先。
縁台に腰掛け、娘が一人、団子を食べていた。
白い息が、ふわりと空に溶ける。
濃緋の外套は、脇に畳まれている。
代わりに現れたのは、どこか簡素な、しかし質の良い衣服。
娘――ユリア・テオドラは、串に刺さった団子を静かに口に運んだ。
甘味。
素朴な味わい。
「……良いものですわね」
小さく呟く。
冬の寒さも、彼女にとって遠いもののようであった。
数日後。
東京。
武田元首相のもとに、一通の書状が届いた。
丁寧な日本語で書かれた文面。
整った筆致。
内容は簡潔であった。
先日の件についての、謝意。
皇女捜索への協力に対する礼状。
そして最後に、こう結ばれていた。
『また宜しくお願い致します』
武田は、しばし無言でそれを読み返した。
やがて、肩を震わせる。
「……はは」
声が漏れた。
次の瞬間、大きく笑った。
「やはり、あの連中は面白いな」
一方、別の場所では。
さるやんごとなきお方が、静かに書状に目を通されていた。
微かに、口元が緩む。
そして――
ふと、ため息をつかれた。
それが何を意味するのか、周囲の者には分からなかった。
ただ一つ、確かなことがあるとすれば。
この国と、あの国の間には。
言葉にし難い、奇妙な縁が生まれつつあったということだけであった。