旧市街の石畳を抜けた先に、《ホテル・イルメリア》はあった。
派手さはないが、落ち着いた建物だった。
マリポリでも最も古いホテルの一つだという。
四階建ての石造りで、外壁は長い年月を経た薄灰色の石材。
正面玄関の真鍮の取手は丁寧に磨かれていた。
客室は五十ほど。一階には小さなレストランがあり、夕方になると暖色の灯りが通りへ漏れていた。
宿泊初日の夜。
マイラスとラッサンは、レストランの隅で夕食を取っていた。
魚の煮込みと黒パン。
温かい香草のスープ。
窓の外では、雪混じりの風が街灯を揺らしている。
「静かな街だな」
ラッサンがナイフを置いた。
「東京とは別世界だ」
マイラスも小さく頷く。
外を走る路面電車の音も、驚くほど静かだった。
街の音が、分厚い雪雲に吸われているように感じた。
給仕が、少し緊張した様子で近づいてきた。
「失礼いたします。ムーよりお越しのお客様でしょうか」
「そうですが?」
「軍の方がお見えです」
現れたのは小柄な女性士官だった。
アッシュグレーの詰襟の制服。
肩章は細いシングルライン。
制帽に金色の正十字。
給仕も支配人も、揃ってわずかに背筋を伸ばしていた。
若い女性士官は二人の前で立ち止まり、軽く一礼した。
「ドリア・テュオラ少尉です」
静かな声だった。
「明日からの視察案内を担当します」
ラッサンは一瞬、意外そうな顔をした。
「…貴官が?」
「はい」
彼女は短く答えた。
「座っても?」
「もちろん」
ドリアは礼を言って腰掛けた。
近くで見ると、余計に若く見えた。
技術学校の学生と言われれば、誰もが信じただろう。
「航空隊と艦隊、陸上部隊基地を予定しています」
彼女は手帳を開きながら続ける。
「ご希望があれば変更可能です」
「ずいぶん融通が利くんですね」
ラッサンが半ば冗談めかして言った。
ドリアは真顔で頷いた。
「可能な範囲で対応します」
マイラスは黙って彼女を見ていた。
若い女性士官。
それ自体は珍しくない。
ただ、ホテル側が妙に気を遣っている。
マイラスは、無意識にその横顔を観察していた。
視線に気付いたドリアが、マイラスを見た。
「何か?」
「…いえ」
マイラスは小さく首を振った。
何に引っかかっているのか、自分でもうまく言えなかった。
この国は、説明のつかないことが多すぎる。
今さら一つ増えたところで、おかしくはないのだ。
*
翌日、まず案内されたのは、アルマ級巡察艦《スパティオン》だった。
白灰色の船体は、直線を基調とした上部構造物を持っている。
ムー軍人の感覚では、軽武装の巡洋艦あるいは大型の哨戒艦のように見えた。
甲板に足を踏み入れた瞬間、その印象は変わった。
艦は静まり返っていた。
人の姿はまばらだが、艦全体が張り詰めた緊張感を帯びている。
艦長のアーリ・エギルソン大佐は、無駄のない所作で二人を迎えた。
「本日は、艦隊防空用ミサイル、《アルクス》の実弾射撃訓練を行います」
マイラスはその言葉に鋭く反応した。
「実弾射撃を、我々に見せるのですか?」
エギルソン大佐は、表情一つ変えずに答える。
「予定されていた訓練です」
隣にいたドリア・テュオラが補足した。
「見学には適しています」
二人はCIC(戦闘情報中枢)に案内された。
半球形の室内には、壁に沿ってコンソールが並べられ、中央には空中に立体的に投影された戦術表示が浮かんでいる。
海面、艦影、飛行目標、そして警戒空域。
それらが、色分けされた光の層となって重なっていた。
マイラスは、しばらく言葉が出なかった。
そこにあったレーダー画面は、彼らが知るものとは全く違う。
輝点を読み取るようなものではなく、海と空がカラー映像として表示されている。
CICに、落ち着いた命令が響いた。
「Στόχος εκπαιδεύσεως εντός βεληνεκούς.(訓練標的、射程内へ接近)」
「Επιβεβαίωση. Συνέχιση ιχνηλατήσεως. (確認。追尾継続)」
ラッサンは耳を澄ませた。
使われている用語は判らないが、ある程度の状況は想像できた。
「Εμπλοκή επιτρέπεται.(交戦許可)」
「Κλείδωμα πυρός.(射撃管制、捕捉)」
「Βλήμα Αρκούς, έτοιμο. (アルクス誘導弾、発射準備よし)」
命令は短く、声には落ち着きがあった。
無駄な復唱も、焦りの色も見られない。
中央の立体表示には、標的機を示す光点が浮かんでいた。
その周囲には、薄い円や線がいくつも重なり合っている。
迎撃可能範囲。
予測進路と時間。
それらが、リアルタイムで視覚化されていた。
「Πυρ.(発射)」
艦がわずかに震えた。
甲板から白い閃光が走り、アルクスSAMが空へと放たれた。
立体表示上では、青い軌跡が標的機に向かって伸びていた。
続いて、その進路がわずかに修正される。
「Καθοδήγηση ενεργή.(誘導作動)」
「Τερματική φάση.(終末誘導)」
数秒後。
表示上の光点が交差した。
「Επιτυχής προσβολή. Πεδίον θραυσμάτων εντός ορίων. Δευτερεύων στόχος ουδείς. (命中確認。破片散布範囲、規定内。二次目標なし)」
CIC内に歓声が上がることはなかった。
記録員が淡々と結果を入力し、表示上の航跡が履歴として保存されていく。
マイラスは、モニターに残った迎撃ラインを見つめていた。
これは、彼らが知っている艦隊防空とは根本的に違う。
空域の、計算され尽くした管理だった。
「…この艦だけで、艦隊の全てをカバーできるのですか?」
ドリアが答えた。
「単艦では不十分です。巡察艦、護衛艦、航空隊、そして沿岸監視網。これら全てで情報を共有しています」
その言葉に、ラッサンは冷たいものを感じた。
恐ろしいのはミサイルの性能だけではない。
恐ろしいのは、艦隊全体で情報を共有し、当たり前のように連動していることだった。
*
航空隊の視察で見たのは、幹線道路を滑走路に見立てた緊急発進訓練だった。
郊外に伸びる直線道路が封鎖され、簡易的な標識と誘導灯が整然と並べられている。
道路脇には、整備車両や燃料車、弾薬車がきちんと配置されていた。
「飛行場じゃないな…」
ラッサンは道路の先を見つめたまま呟いた。
「はい」
「飛行場が使用不能になった場合の訓練です」
ドリアは当然のことのように答えた。
ハウッカと呼ばれる軍用機が、間隔を空けて駐機している。
機体は小さく、見た目だけなら軽攻撃機にも見えなくはない。
「発進訓練、開始」
短い警報音が鳴り響く。
一番機のエンジンが唸りを上げて始動した。
低い振動が道路脇に積もった雪を震わせ、機体が走り出す。
ハウッカの滑走は驚くほど短かった。
ムーの常識では考えられないほどあっという間に、路面を蹴り上げるように浮上し、灰色の空へと吸い込まれていった。
続いて二番機。
そして三番機、四番機。
それぞれが十数秒の間隔で加速し、次々と空へ上がっていく。
道路の上には、薄い排気の跡だけが残った。
十五分後、四機は訓練を終えて戻ってきた。
一番機が道路に降り、短い制動で停止する。
停止と同時に、左右から整備車両が機体へと寄っていった。
それは専用に開発された整備車両だった。
車両の側面パネルが開き、伸びたアームが機体の後部へと接続される。
数名の整備員が手早くカウルを開いた。
機体後部からエンジンユニットが現れる。
「…まさか、本当に降ろすのか?」
ラッサンが声を漏らした。
マイラスはただ、その光景を無言で見つめている。
整備車両のアームが取り外されたエンジンを保持し、そのまま隣の台車へと移した。
別の車両から新品のエンジンユニットが運ばれてくる。
「固定は主固定四点です」
ドリアが説明を続ける。
「ボルト四本、補助ロック二箇所、燃料系、制御系、冷却系、そして自己診断端子。接続後、機体側が自動的に確認します」
マイラスは、整備員たちの手際よい作業手順を目で追った。
彼らが何かを修理している様子はなかった。
ただ、外して入れ替え、確認しているだけだ。
「現場では修理はしないのですか?」
「原則として道路滑走路では行いません。分解修理は、専門の整備施設で行います」
ドリアの言い方は、あくまで平坦だった。
発想は徹底していた。
壊れた部品を直すのではなく、機能そのものを丸ごと入れ替える。
数分後、整備員たちが一歩後ろに下がった。
エンジンの試運転が始まり、機体が低く震える。
計器の確認が終わると、作業員が静かに手を下ろした。
「再発進可能です」
ドリアが告げた。
この機体の恐ろしさは、単に性能だけではない。
帰投後、すぐに次の任務へ移行できる。
それが、普通の道路上で可能なことであった。
*
最後に案内されたのは、陸上部隊基地だった。
整備場には、装甲歩兵車や装甲車、戦闘車両がずらりと並んでいる。
復旧中の部隊らしく、どこも慌ただしい空気が漂っていた。
ドリアは戦闘車両の前で立ち止まり、説明を始めた。
「C62装甲擲弾車、他国で言うところの主力戦車です」
その時。
「あれ、姫っち何してんの?」
場の空気が凍った。
振り返ると、背の高い女性兵士がそこに立っていた。
隣の女性兵士は、顔色を変えている。
「エリン」
小さな声で制止する。
「今、それ駄目」
だが、もう遅かった。
整備兵たちは露骨に視線を逸らし、士官たちは平静を装っている。
マイラスとラッサンは、何が起きたのか分からず、互いに顔を見合わせた。
ドリアは、ほんのわずかに目を細めただけだった。
「案内です」
「だから姫っちが、なんで?」
「案内です」
その横で、エリンが不思議そうに首を傾げる。
「姫っち、また何かやらかして捕まったんでしょ?」
ドリアは無表情のまま答えた。
「視察案内は重要です」
「わかった、ケーキバイキングとかで釣られたんだ」
その間にも、周囲の空気はどんどん張り詰めていった。
ラッサンが小声で尋ねる。
「…何か、失礼な呼び方だったのか?」
「分かりません」
マイラスは、ドリアの横顔見た。
女性士官は、何事もなかったかのように資料を閉じている。
周りの反応は明らかに異様だった。
誰も訂正しない。
誰も説明しようとしない。
ただ、何事もないかのように振る舞っている。
「続けます」
ドリアは装甲擲弾車の砲尾を指した。
「ここが反動吸収機構です」
一人の整備兵が、緊張しながらも、丁寧な手つきでハッチを開けてみせた。
マイラスは違和感が拭いきれなかった。
ラッサンもまた、釈然としない顔をしていた。
この国では、街の様子も軍も、どこか変わっている。
そして、人間関係もまた、少し変わっているらしかった。