翌朝、マイラスとラッサンは、高台に建つ領主館に招かれた。
雪雲の下には、灰色の海峡が広がっていた。
石造りの館は、宮殿というより古い修道院に近かった。
重厚な外壁に深緋色の旗。
尖塔と丸屋根を組み合わせたその姿は、歴史の重みを感じさせた。
二人は案内されるまま、長い回廊を進んだ。
廊下に人の気配はほとんどなく、聞こえるのは自分たちの足音だけだった。
古い石造建築に特有の、沈んだ空気が漂っている。
ラッサンは、気づかないうちに背筋を伸ばしていた。
やがて、重い扉が開かれた。
天井の高い広間は、深緋色の絨毯で覆われている。
壁には金糸の幕が張られ、微かに香の残り香が漂っていた。
その中央に立っていた人物を見て、二人は息を呑んだ。
「…!」
そこにいたのは昨日の女性士官。
だが、服装はまるで違っていた。
深緋色の長衣に、胸元から裾へ流れる幾何学な金糸の刺繍。
時代を経た金具が、鈍い光を放っている。
袖口と裾には正十字の意匠が丁寧に織り込まれている。
厚い絹の重ね布がわずかな動きに合わせて揺れ、光沢のある帯が腰を締めていた。
胸元には、細い鎖に吊られたエンコルピオン(聖遺物容器)。
十字架型の装飾はエナメルと金で飾られ、中央に瑠璃が嵌め込まれている。
マイラスは言葉を失っていた。
隣のラッサンも、珍しく口を閉ざしている。
ムーにも王宮はある。
議事堂も、海軍省も、歴史ある大学もある。
磨き上げられた木材と真鍮、官僚の落ち着いた背広姿や、海軍士官の典雅な礼装。
典雅で洗練された、近代帝国の美がある。
だが、この空間は、それらと空気が異なっていた。
古い儀礼や王朝文化が積み重なってきたような趣きがあるのだ。
しかも、この国は自分たちより技術的に進んでいる。
近代化した国家なら、もっと合理的で、明朗な雰囲気になるはずだった。
マイラスは、広間の天井を見上げた。
その様式はムーとも、パーパルディアとも異なっていた。
ふと、噂話を思い出した。
イルメリアは、ムーと同じく、転移国家であると。
荒唐無稽な話だと思っていたが、今は違う。
それ以外に、説明がつかなかった。
この国は、この世界の文明ではない。
もっと別の、遥かに長い時間を生きた文明が、そのままここへ現れたように思えた。
二人は数秒遅れて姿勢を正した。
昨日、誰に案内されていたのか、ようやく理解したのだ。
「イルメリア専制女公、ユリア・テオドラです」
静かな声だった。
「お二人を歓迎します」
ラッサンは完全に固まっていた。
立憲君主制国家であるムーにおいて、国王や王族は国の象徴である。
軍艦内や基地を歩き回って、外国の武官に兵器の解説を行ったりはしない。
「まさか…本当に」
ラッサンが呟く。
ユリアは小さく首を傾げた。
「気付いておられませんでしたか?」
「気付くも何も…」
思わず漏れたラッサンの言葉に、周囲の近習が視線を伏せた。
ユリア本人だけは、楽しそうに微笑んでいた。
*
面会そのものは、驚くほど実務的だった。
トーパ防衛戦の状況。グラ・バルカス帝国の戦力分析。
ムーの現状。工業生産力。北方航路。
ユリアは淡々と質問を重ねていった。
昨日の案内役の時と変わらない。
感情を挟まず、必要な情報だけを積み重ねる。
マイラスは途中で気づいた。
昨日の視察は、単なる親善ではなかったのだ。
イルメリアという国家そのものを見せていたのだ。
同時に、こちらを見ていた。
何に驚き、何を理解し、どこで沈黙するかを。
視察されていたのは、自分たちでもあったのだ。
面会の最後、ユリアは近習へ小さく頷いた。
運ばれてきたのは、深緋色の化粧箱だった。
「これを、ムーの国王陛下へ」
化粧箱には、銀白色の中折れ式の拳銃が収められていた。
鈍い銀色の総チタン製で、見ただけでその精密さが分かった。
「護身用です」
ユリアが言う。
「儀礼用にも適しています」
さらに別の箱が差し出された。
「こちらは、あなた方に」
渡されたのは、先程と同一のモデルの鋼鉄製の拳銃。
「視察の記念です」
ユリアは真顔で言った。
冗談なのか本気なのか、判別しづらかった。
さらに、分厚い冊子が数冊。
イルメリア製の工業製品カタログ、兵器と航空機のカタログ、工作機械の一覧。
完全に営業である。
国家元首が、自国製品の説明と販促を行っているのだ。
しかも、どこか慣れた様子で。
マイラスは頭痛を覚えた。
*
数日後、帰国する二人を乗せるカオス旅客機が、マリポリ空港の滑走路に姿を現した。
機体は灰色の空を背景に、雪の残る誘導路で静かに待機していた。
機体に近づいたマイラスは、違和感を覚えた。
「…音が違う?」
エンジン音が滑らかだった。
以前よりも振動が少ないのだ。
ラッサンも眉をひそめた。
「整備したのか?」
すると、同行していたイルメリア側の整備士が当然のように頷いた。
「不調だったエンジンを換装しました」
「換装?」
「はい。東京飛行場で技術解析を行い、工廠で新規製造後、ハイカラ輸送機で東京まで輸送しました」
整備士は、日常業務を説明するような口調だった。
マイラスが思わず聞き返す。
「新しく作ったのか?」
「はい」
整備士は躊躇せず言った。
「原型機の寸法、接続規格、制御系統に合わせた特注品です。既存の形式に適合するよう調整しています」
ラッサンが絶句した。
「…数日で?」
「接続規格が整理されていたので、比較的容易でした」
整備士は続ける。
「元のエンジンを工学測定とX線で三次元解析し、内部構造を再構築しています。応力分布と熱変位を補正後、最適化した部品を大型積層設備で製造しました」
まるでネジでも交換したかのようにさらりと言う。
「あと、出力も多少向上しています」
ラッサンは額を押さえた。
「さらっと恐ろしいことを言うな…」
整備士は、不思議そうな顔をした。
「問題がありましたか?」
マイラスは黙ったまま、旅客機のエンジンを見上げた。
わずか数日で異国の旅客機を解析し、規格を理解し、互換性を持った高性能エンジンを新造する。
これは単なる技術力の話ではなかった。
相手は、自分たちの工業規格そのものを理解したのだ。
寸法、接続、材料、制御系統、整備思想。
必要とあれば、イルメリアはムーの産業体系にそのまま入り込める。
この国は、自分たちの技術を誇示しているわけではない。
便利だから。合理的だから。効率がいいから。
ただ、それだけの理由でやっている。
だからこそ怖い。
彼らが悪意でなく、善意でこちらの産業に入り込み始めたら、それを拒めるのか?
マイラスには、この国の底知れなさを感じた。
その横で、整備士は機体を見上げながら満足そうに言った。
「燃費も改善しています。巡航時の振動も減るはずです」
ラッサンが乾いた笑いを漏らす。
「ほら見ろ。全然悪気がない」
整備士は少し困った顔をした。
「改善点がいくつかありましたので」
それが、イルメリア側にとっては自然な返答なのだろう。
*
灰色の空の下、カオス旅客機のエンジンが唸った。
その音は、来た時よりも滑らかに聞こえた。
マイラスは、滑走路の向こうを見た。
雪と石造りの街。
灰白色の軍艦と、道路から飛び立つ戦闘機。
真意が判らない元首。
技術も思想も、自分たちとは違う。
彼らは自分たちが持っているものを、特別視してはいない。
それが、一番怖ろしかった。
ユリアがムー国王に贈ったのは、総チタン製の拳銃。
グリップにはムーの国章があしらわれています。
Verkvarna, A.C. Mod.1898 Ti
38口径 中折式回転拳銃(特別仕様)
旧1898年式中折式回転拳銃を原型に再設計した特別仕様の拳銃。
要人の護身用として、儀礼性と実用性の両立を図っている。
信頼性を重視したダブルアクションオンリー方式を採用し、中折式自動排莢機構により迅速な再装填が可能。
グリップには象牙調の素材を使用し、金細工が施されている。