■中央暦一六四〇年五月
旧アルタラス王国南部
春は、すでにアルタラスへ届いていた。
丘陵地には若草が広がり、冬の間は灰色だった街道脇にも、小さな花が咲き始めている。
それでも、吹き抜ける風からは火薬と血の匂いがした。
シルウトラス郊外の簡易滑走路に、守備隊の兵士が集まっていた。
数日前、イルメリアから魔信が届いた。
追加の援助を送るという知らせである。
彼らは冬の初めに、空飛ぶ船を見ていた。
それが何度も飛来していることが、まだ信じられなかった。
東の空から低く重い音が、微かに響いてきた。
最初にそれに気付いた兵士が、空を指差した。
「来るぞ!」
空の彼方に浮かんだ黒い影。
一機だけではない。
巨大な影が、編隊を組んで近づいてくる。
やがて、その姿がはっきりと見えた。
長大な主翼と八基の巨大なエンジンが特徴的な機体。
降着脚が大地を叩き、地面が震えた。
大型輸送機C-88ハイカラ六機が、砂塵を巻き上げながら次々と着陸する。
「神様…」
誰かが呟いた。
これほど巨大な飛行機械が降りてくる光景には、慣れそうもなかった。
一番機の下部コンテナが開いた。
内部照明に照らされた貨物室から、灰色の車両が姿を現す。
「鉄の馬車…?」
自走する鋼鉄の箱。
イルメリア軍団のスクタトス
それは、これまでのアルタラスには存在しなかったものだった。
さらに、車体上部に対空機関砲を備えたスクタトス
最後に、燃料と弾薬を積んだ補給車両群が降ろされた。
イルメリアから搬入された戦力は、その規模も質も、アルタラス側の想像を超えていた。
歩兵戦闘車二十四両、対空型が六両、補給車両六両。
さらに、それらを動かすための整備員と教官。
シルウトラス守備隊は、もはや敗残兵ではなかった。
兵士の一人が、恐る恐るスクタトスの装甲に触れた。
「これが…我らの側に立つのか」
物見櫓の上から、その光景を見下ろしていたルミエスは、ほっとため息をついた。
「…本当に、来てくれたのですね」
隣に立つ従騎士リルセイドは、険しい顔のまま答える。
「これで、ようやく取り戻せます」
元騎士団長ライアルは黙って平原を見つめていた。
彼は理解していた。
これが単なる善意ではないことを。
イルメリアが要求した代価は、海岸沿いのワイン園が幾つかと、港湾税の優遇。
彼だけは、その代価の意味を理解していた。
港湾税の優遇と、海沿いの借地権。
それは、海の支配権をイルメリアに明け渡すということである。
だが、国を取り戻さなければ、それを払う代価もないのだ。
数日後、旧アルタラス王国南部。
騎兵数騎と十数台の荷馬車、歩兵数十名の隊列があった。
パーパルディアの補給隊である。
補給隊を率いる将校は、不安げに周囲を見回していた。
「最近、襲撃が多すぎる」
「旧王国軍の残党でしょうか」
「残党ごときが、ここまで統制された攻撃をするものか」
将校が舌打ちした。
この数週間、駐屯地や補給部隊への襲撃が相次いでいた。
最近では、鉄の馬車が現れるという噂まで流れていた。
「馬鹿馬鹿しい、そのようなものが―」
―ドドドンッ
彼が言い終わらないうちに、先頭の騎兵が弾け飛んだ。
「なっ!?」
街道脇の林から機関砲弾が撃ち込まれる。
そして、低木を踏み潰しながら、カーキ色の車両が姿を現した。
スクタトス歩兵戦闘車である。
さらに、丘陵の陰から迫撃砲弾が降り注いだ。
―ドンッ
―ドンッ
爆炎が街道を覆った。
左右の稜線から、小銃が正確に撃ち込まれる。
丘陵を回り込もうとした兵は、機関銃の弾幕に薙ぎ倒された。
「囲まれている!?」
「伏せろッ!」
誰かが叫んだ。
補給隊を率いていた将校は、地面に伏せたまま空を見上げた。
何が起こっているのか、理解できなかった。
これまでの敵は、叫びながら斬り込んできた。
だが、今の敵は姿すら見せなかった。
アルタラス各地のパーパルディア軍は、占領地を放棄して後退を始めていた。
補給線は分断され、駐屯地は孤立した。
制空権すらも揺らぎ始めていた。
分散配置された一万の占領軍では、アルタラスの国土を押さえるには足りなかったのだ。
救援部隊は待ち伏せを受け、空の王者だったワイバーンも、対空車両に狩られていった。
五月中旬。
アルタラス残党軍は、ついに旧王都ル・ブリアスに迫った。
ルミエスは、平原の先に霞む城塞都市を見つめていた。
脳裏には、あの日の王都の姿が鮮やかに蘇っていた。
「…帰りましょう」
それは、王女としてではなく、祖国を失った少女の言葉だった。
アルタラス王国は原作ではアラビア風でしたが、ここではギリシャ風にしています。